「用心」と「注意」の違いからー加藤典洋の視点

🤳 by Jun Nakajima

「用心」と「注意」の違いからー加藤典洋の視点


 加藤典洋(批評家、1948-2019)が山林の道を車で上がっていったときに、あっと、驚くことがあった。「火の用心」という古い看板を目にしたところ、その近くにあった新しい看板には「火気注意」と書いてあったからだ。

 「火の用心」と「火気注意」。用心と注意。心を用いること、意識して注意を向けること。おなじようでいて、やはり大きく違う。

 それは「提灯で照らすこと」と「懐中電灯で照らすこと」のように違うのだと、加藤典洋は書く。

 このエピソードは、鶴見俊輔(思想家、1922-2015)の著書『文章心得帖』(ちくま学芸文庫)の「解説」で取り上げられている。この『文章心得帖』がどんな本であるのか、という解説をひろげてゆくなかで、「用心と注意の違い」のエピソードに触れ、『文章心得帖』の心髄に加藤は迫ってゆく。

 「提灯は、四方八方を照らす。懐中電灯は、前方だけを照らす。用心というのは、ほかのことにも心を向けながらあることに気をつけることで、もう少しいうと、心を色んなものに用いる仕方で、あることと対する。…」
(加藤典洋「解説 火の用心ー文章の心得について」、鶴見俊輔『文章心得帖』(ちくま学芸文庫)所収)

 前方へ向けられ、一つのものが「あるか/ないか」というように白黒で見がちな「注意」とは異なり、四方八方を照らす提灯としての「用心」は、白黒を含む、灰色の領域をも視野に、ほのかな光を注いでゆく。

 『文章心得帖』という本は、「文章を書くことへの夜道を、提灯を下げて歩いている」のだと、加藤は書いている。

 「文章を書くこと」という一つのものに懐中電灯を当ててゆくというより、文章を書いていない時間を含む「文章を書くこと」のいわば四方八方へと光を届けている。

 提灯を下げて歩いてゆくこの本に、加藤典洋は「救われた」のだという。

 現代は懐中電灯を手に持って、一つのものに意識を向けて、白黒で判断し、明確に述べてゆくことが求められることの多い時代である。意識して注意し、懐中電灯をきっちりと当てて、語ったり書いたりする。それが必要なときもあるし、大切なときもある。懐中電灯は捨てられるものではないし、むしろ懐中電灯の精度を上げて、有効に活用したいと思う。

 けれども、そこでは灰色の領域が置き去られてしまいがちだ。白黒は「わかりやすい」一方で、灰色にひろがっている世界を斬り落としてしまう。白黒は世界を分断してしまう。白黒は思考や議論のとりかかりとしては有効だけれど、この二分法は使い方によっては「危険」なものでもある。

 ジョン・カバットジンは、マインドフルネスがメンタルヘルスやビジネスに応用されてゆくきっかけをつくってきたひとである。

 マインドフルネスとは「持続的かつ特定の方法で注意を払うことで培われる意識・認識(awareness)」のことと、彼は書く(Jon Kabat-Zinn “Mindfulness for Beginners” Sounds True、註:日本語訳はブログ著者)。

 ここで「注意を払うこと」(paying attention to)と彼が書くとき、それは加藤典洋が触れている「用心」なのだろうか「注意」なのかということを、僕は考える。

 また、(司馬遼太郎の描く)坂本竜馬が、いわば「walking meditation(歩行瞑想)」を日々実践していたのだということについて、僕は別のところで書いた(Blog:坂本竜馬とマインドフルネスー「Walking meditation(歩行瞑想)」)。座ってする座禅よりも、いつか「岩石」が落ちてくるのではないかと想定しながら、ひとあし、ひとあし歩む「瞑想」を、坂本竜馬は好んでいた。竜馬はこの歩行瞑想の仕方によって、「隙のない歩き方」を自然と見つけていったのではないかというのが、司馬遼太郎の書くところだ。

 はたして、竜馬の歩行瞑想的な歩き方においては、用心なのか注意なのかということを、僕は考える。 

 そこには、両方が意識され、実践されていたのではないか、というのが、僕の見立てである。用心し、注意する。注意し、用心する。懐中電灯を当てることもあれば、提灯でぼんやりと照らす。

 坂本竜馬は空想された「岩石」に注意を払いながらも、提灯を持って歩くように四方八方へと心の灯を照らす。そこにこそ、竜馬特有の「隙のない歩き方」がつくりだされる。

 それにしても、僕が小さいころはまったく意識していなかったのだけれど、意識と行動を導いてゆく「火の用心」という言葉の深さを、今の僕は感じる。文字通り、用心ということは<心を用いること>なのだ。「注意」という用語の「意」にも「心」が込められているけれど、漢字の示すとおり、心が小さくなっている。

 日々、じぶんは<心を用いること>ができているだろうか。心が小さくなってしまっていないだろうか。そんなことを思う。

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坂本竜馬とマインドフルネスー「Walking meditation(歩行瞑想)」