「じぶんの変容」ということは「これからの<生きかた>」を生きてゆくうえで、中心的なテーマであると、ぼくは考えています。
「固い」テーマだと思われる方もおられるだろうし、そんなことを考えるよりももっとすぐに「役立つ」テーマが大切だと考える方もおられると、ぼくは想像します。
けれど、「生きる。解き放つ。」という方向に生きてゆくためには、つまり自由で、ほんとうに歓びに充ちた生を生きてゆくためには、やはり「じぶん」というもの(あるいはこの「じぶん」という現象)に深いところで向き合い、それを変容させてゆくことがきわめて中心的で大切なことだと、ぼくは思います。
なかには、意識的に「じぶん」に向き合うことなしに、じぶんの生をきりひらき、ほんとうに歓びに充ちた生を生きていく方々もいらっしゃるかもしれません。けれども多かれ少なかれ、ひとは「じぶん」というものをのりこえてゆこうとしたり、「じぶん」を変えたいと思ったり、あるいは「じぶん」から逃げようとしたりするものでもあります。
少なくともぼくにとっては、「じぶん」という現象は中心的なテーマでありつづけてきました。エゴイズムはもとより、仕事のさまざまな局面での「じぶん」、「変わりたいけど変われない」といったことから、深い歓びを感じるときの「じぶん」という経験にいたるまで、さまざまな諸相において考えずにはいられないテーマでした。
そのようなテーマである「じぶん」という現象は、たとえば自己や自我などといろいろな言い方と定義がされますが、ぼくはいったん「じぶん」というようにことばを選びました。
さらに、日本の外(ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港)で暮らしながら、日本文化に内奥を規定された「じぶん」が、異文化の光をいやがおうにも受けながら、その一面性を浮き彫りにされてもきました。「異文化」は、方法論としてとりあげるのであれば、「じぶん」の変容にとって、ほかに類をみないほどの契機(チャンス)を与えてくれる。20年近くを海外で暮らしながら、ぼくは深く実感しています。なお、「異文化」との出逢いは、それ自体が歓びであるような経験であること、そのことを付け加えておきたいと思います。
ところで、ぼくじしんの「じぶん」をめぐる冒険は、日々出会うひとたちとのかかわりあいに加えて、たくさんの先賢や知者たちの知見にかたちづくられ、彩られてきました。さまざまな知見は何かを教えてくれるだけでなく、ぼくと<おなじ問い>を共有しているという現れかたをすることで、ぼくのこころに寄り添い、深く励ましてくれる存在でもあります。それらの豊饒な知見をひもとくかたちで、サイトを展開させたいと思っています(すでにブログでもさまざまな知見に触れていますが、これからも共有していきたいと思います)。
最後に、「じぶんの変容」のテーマをあつかうということは、決して「じぶん」だけに光をあてることではないことを付け加えておきたいと思います。「じぶん」に光をあてることのむずかしさ、またその興味深い側面は、「じぶん」のなかの「他者」の存在ということにあります。そしてまた、「じぶん」を解き放つことで、いっそう、自由で、歓びに充ちた「他者との関係性」へと向かうものでもあります。他者とつながることが大切であると言われますが、重要なのは「どのような仕方」でつながるのかということだと思います。