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Jun Nakajima - 中島純

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 「異文化」の経験。

 「これからの<生きかた>を生きる」ために、「じぶんの変容」ということを中心点として、「時空間の軸」のうちの「空間軸」(Y軸)をひいて、「グローバル化社会/異文化」とします。他方で、X軸は「時間軸」で、「人生100年時代」とします。

 このように設定したのは、現在と未来の「現実」は、すでにその方向へ歩み、痕跡をきざんでいるからです。どんなにローカライゼーションを提唱しようとも社会の総体は「グローバル化」されており、また、じぶんがじっさいにどうあるかは別として、「人生100年時代」の可能性にぼくたちの生は照らされています。

 これらの事象が「よい」とか「わるい」とか判断するのではなく、すでにその方向に歩んでいるわけでもあるから、これらの事象を積極的に肯定的にとらえて、豊饒に生きてゆくための契機(チャンス)としたい。ぼくはそのように思います。

 「異文化」、そのことをここではかなり広い意味(自然/人間/社会、非物質的/物質的/制度的、などの全体)で考えていますが、はじめに書いておきたいのは、「異文化との出逢い」はそれ自体が<歓び>であるような経験であるということです。「異文化」を方法として何か他の「ために」活用する以前に、より根柢的に、「異文化」と出逢うことそれ自体が<歓び>として感受される。ぼくはそう思います。

 「異文化」をめぐることばたち、とりわけ本のタイトルでとりあげられるようなことばたちは、異文化の「理解」であったり、「適応」であったり、「ギャップ」であったり、「壁」であったりします。じっさいに生活をしたり、仕事をしたり、コミュニケーションをとったりする場においては、「異文化」は切実な問題として立ち上がることを理解したうえで、しかし、根柢的には、やはり「異文化との出逢い」は<歓び>であると、ぼくは思います。あるいは、<歓び>であるような「異文化」とのふれあいが<異文化との出逢い>なのだと、ことばを正置すべきかもしれません。

 そのことを確認したうえで、でも、「異文化」というものが、理解しなければいけない対象となったり、適応しなければいけないものとなったり、ギャップを埋めたり壁をのりこえたりしなければいけないものとなることがあるのだということ。そのような「生きられる問い」があるのだということです。異文化理解や適応などの方法を求めてやまない「生きられる問い」は、ひきつづき問われ、意見や議論が交わされ、じぶんの生におとしこんでゆくことで、(おそらく)終わることのない歩みをすすめていかなければならないものです。「働きかた」という領域ひとつとってみても、「異文化」の問いと探究と実践はとても奥深いものです。15年以上ちかく海外で働いてきて、ぼくの心身はそのように感じます。

 さらには、そのことと並行するかたちで、「異文化」の経験を通して、「異文化」をほんとうに理解してゆくことを通して、そして「異文化」をいわば<鏡>とすることで、じぶんを見つめなおし、「じぶん」というものを変えてゆく契機(チャンス)とすることができます。じぶんが立つ文化から離れれば離れるほどに、<異文化の鏡>は「じぶん」をいっそう鮮烈に照らすものとなります。そして、「じぶん」をいっそう根柢的に照らしだすことによって、「じぶんの変容」にちからを与えてくれる存在ともなってくれます。

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