「未来」を考える拠り所。- 加藤典洋著『人類が永遠に続くのではないとしたら』と向き合って。 / by Jun Nakajima

文芸評論家の加藤典洋が、日本の
「3・11の原発事故」をきっかけ
に、「私の中で変わった何か」に
言葉を与えた著書、
『人類が永遠に続くのではないと
したら』(新潮社、2014年)。

実はまだ、この文章を書きながらも、
この著書と真剣に向き合っている。
400頁におよぶ書籍の折り返し地点
が見えてきたくらいのところに、
ぼくはいる。

向き合っている途中だけれど、
いくつか書いておきたい。

(1)『現代社会の理論』への応答

加藤典洋の『人類が永遠に続くので
はないとしたら』(新潮社)は、
大分前に手に入れていたけれど、
ずっと読めずにいた書籍である。

読めなかった理由のひとつは、
この書で展開される「執念の考察」
(橋爪大三郎)と真剣に向き合わうこと
を、ぼくに要請したからである。
ぼくの側に、その準備ができていなかった。

そもそも、この書籍を手にとったのは
この著書が、社会学者の見田宗介の
名著『現代社会の理論』への応答と
展開を主軸とする論考であったからで
ある。

タイトル『人類が永遠に続くのではない
としたら』が、見田宗介への応答を
告げるものである。

ちなみに、20年ほど前に書いたぼくの
修士論文も、見田宗介の『現代社会の
理論』に刺激を受け、「人類が永遠に
続くのではないこと」を引き受ける形で、
経済社会の発展(また途上国の開発)の
問題を論じた。

見田宗介は、現代社会がそのシステムの
魅力性と共に、「外部の臨界」で、
環境・資源、貧困などの「外部問題」に
直面していることを指摘する。
地球は「有限性」の中におかれている。
この乗り越えの未来社会構想を、
「光の巨大」と「闇の巨大」を、ともに
見はるかす一貫した理論のうちにおさめた
ことに、見田の著書の意義はある。

「光の巨大」と「闇の巨大」の理論の分裂
は、加藤典洋が「近代二分論」と呼ぶ状況
である。
「ゆたかな社会」を高らかに喧伝する
「(光の)近代論」と、
「成長の限界」を
説く「(闇の)近代論」が、まじわること
なく、分裂してきた状況がある。

闇の巨大を説く近代論(『成長の限界』
や『沈黙の春』など)は、環境問題や
資源枯渇の問題などを眼前にみせる。
「心のやさしい」学生などは、
自分の生き方に「罪的な気持ち」を
抱いてしまう。
指摘の「正しさ」と共に、この近代論
が説く何かに、ぼくは、感覚として
「居心地の悪さ」を感じてきた。

見田宗介は、「全体理論」として、
「光」と「闇」を統合する視点を提示
している。

加藤典洋は、3・11後の状況の中で、
1996年に発刊された『現代社会の理論』
の「重要さ」を指摘すると共に、深く、
そして一歩先に進めていく視点と共に、
彼の著書で展開している。

この箇所だけでも、加藤の書籍から学ぶ
べきところだらけだ。

 

(2)「リスク」の視点

加藤典洋は、見田の理論の「革新さ」を
見抜き、どこまでも深い読解を展開していく。

しかし、加藤が不満に思うただひとつの
ことは、見田の理論では「地球の有限性」
が「外部問題」としてしか捉えられていな
いことである。

加藤は、3・11後の、原発の「保険の
打ち切り」(*保険会社が事故を起こした
原発の運転作業や収集作業の「リスク」を
引き受けられない事態)を見聞きするうち
に、産業資本システムの「有限性」が、
システムの「内部」からも起きている、
という視点をとりいれている。

加藤は、ベック著『リスク社会』の深い
独自の読解を手掛かりに、この「システム
内部からの瓦解」を、見田の理論につなげ
ていく。
(加藤典洋によるベックの読解の鮮烈さ
に、ぼくは深く感銘を受けた。)

ベックの理論は、加藤の言葉を借りれば
「(富の)生産からリスク(の生産)へ」
という視点である。
そして、リスクがバランスを失い、回収
不能なリスクをつくりだしてきてしまって
いる。
つまり、リスクが生産を上回るものになっ
てしまっている。

加藤は、3・11後の原発の保険打ち切り
に、そのことを見た。
この状況は、システムはその「内部」に
システムの「臨界」をつくりだしてきたと
いうことである。

後期近代(現代)は、資本制システムの
「外部」にも「内部」にも包囲されている。
地球の「有限性」に直面している。

見田はこの「有限性」を直視し、
「有限な生と世界を肯定する力を
もつような思想」をうちたてる方向性
へと論を進める。
加藤はこれを引き受け、この書の後半
部分を書いている。
(*これからじっくり読みます。)

 

(3)「未来」を考える拠り所。

ここで、ひとつ取り上げたいのは、
このような「未来」を考える拠り所で
ある。

加藤典洋は、後期近代(現代)を超えて
いく「脱近代論」の二つの方向性を、
地球という「船」が沈んでいくことに
かけて、次のように言っている。

 

…脱近代論の論とはいえ、船が沈まない
ようにしようという論と、これからは
沈みかかった船の上で未来永劫生きて
いくんだという論とでは、当然、大いに
違うだろう。

加藤典洋『人類が永遠に続くのではない
としたら』(新潮社)

 

この二つの違いに対応させる形で、
加藤は
・「リスク近代」という考え方
・「有限性の近代」という考え方
と呼んで、次のように書いている。


「リスク近代」の考え方は、どうすれば
地球という船を沈めないですむだろうか
と、問う。これに対し、「有限性の近代」
の考え方は、どうすれば沈みかねない船
の上で、人はパン(必要)だけでなく、
幸福(歓喜と欲望)をめざす生を送る
ことができるだろうか、ともう一つその
先のことを、問う。

加藤典洋『人類が永遠に続くのではない
としたら』(新潮社)

 

加藤典洋は、「リスク近代」から、
加藤が呼ぶ「有限性の近代」へと論を
すすめていく。
後者は、有限性の中に「無限」をまなざす
考え方である。

「有限性の近代」は、人間とは何か、
などを自問しながら、論じられる。
人は、パン(必要)だけでは「生きる」
ことができない。
「有限性の近代」をひきうけるには、
人間や社会を根底的にとらえなおしていく
ことが大切になってくる。

この捉え直しは、「近代の中」だけでは
なく、近代前、あるいは人類史のような
地点にもさかのぼる捉え直しである。

加藤典洋の視界も、そこまで広がり、
深くきりこんでいる。
見田宗介が拠り所のひとつとする
バタイユの視界も、広く深い。
また、『サピエンス全史』で著名と
なったYuval Noah Harariの視界も
人類史に広がっている。
Yuval Harari著『Homo Deus』は、
ある意味で、「有限性の近代」を
ひきうけていく論考である。

「未来」を考える拠り所は「今」にある
と言われる。
それは、一面では正しいけれど、
「今」だけでは見えないこともある。
(「今」の中に、過去も含まれるという
「言い方」もあるけれど。)
「今」を相対化しつつ、人間や社会
そして自然を今一度、根底的に捉え直す
ときに、ぼくたちはき
ている。

人や家族、組織や社会などについて展開
する理論や議論において、
ぼくはしばしば「違和感」を感じる。
「居心地の悪さ」を感じることがある。

これら「違和感」「居心地の悪さ」は
それら理論・議論が前提としている人や
社会の「あり方」のすれ違いからきて
いたりする。
それは、「リスク近代」を説く者と、
「有限性の近代」をめざす者との対話が
すれちがうであろう状況と、似ている。

「未来」を考える拠り所として、
根底的な思考に降りていくこと。
人間とは、社会とは、近代とは、無限とは。
根底的な思考を、後期近代(現代)は、
要請してやまない。
「沈みかかった船の上で、これから未来
永劫生きていこう」と誓う中で。


ぼくは、見田宗介のいう「有限な生と世界
を肯定する力をもつような思想」をつくり、
そしてその肯定性に生きていくことを、
自身の生涯をかけて引き受けていきたい。