「メタ合理性」(見田宗介)の視界。- 「未来構想のキーワード」を道具箱に集める。 / by Jun Nakajima

これまでの歴史に見られないほどの、時代の激しい変遷のなかで、「未来」は、「予測するもの」としておかれがちである。

人工知能(AI)、IoT、VR、ベーシックインカムなど、この変遷を駆動するキーワードには事欠かない。

それはそれで大切なことであるし、ぼくも「定点観測」で、いろいろな事象をおっている。

予測は難しくても、数々の叡智たちをまねて、「今のなかに未来を視る」ことを心がける。

しかし、それと同時に大切なことは、「未来(の社会)を構想すること」である。

歴史や社会は、予測の対象という客観的な対象として現象するものでありながら、われわれが主体的に創っていく(少なくとも主体的に影響を与える)ものでもある。

 

ただし、構想する対象としての「未来」の感覚のされ方も、変遷してきた。

社会学者・見田宗介は、2006年にヒットした映画『ALWAYSー三丁目の夕日』に触れて、次のように書いている。
 

一九五八年という、高度経済成長始動期の東京を舞台としている…この映画のほとんどキャッチコピーのように流布した標語は、
「人びとが未来を信じていた時代」
というものであった。「未来を信じる」ということが、過去形で語られている。一九五八年と、二〇〇六年という五〇年くらいの間に、日本人の「心のあり方」に、見えにくいけれども巨大な転回があった。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店


映画のキャッチコピーのように「すばらしい未来」を信じていた時代から、「不確実性の未来」に(意識的にも無意識的にも)不安を覚える時代に突入していると、ぼくは感じている。

この「不安」を駆動力として、未来を「予測」し、「生き延びるため」の準備をととのえたい欲求が発動される。

「構想」は、それとは違うベクトルで、未来を肯定性のなかにおく。

だから、人間の歴史で類を見ない変化のなかにおかれながら、「キャッチコピー」はこのように転回される。

「人びとが未来を構想する時代」。

 

「未来の社会学」を展開する社会学者・見田宗介が、この今の時代に要請される(べき)理由のひとつは、ここにある。

そして、ぼくたちは、「未来構想のキーワード」を見田宗介の理論と文章から取り出すことができる。

そのようなキーワードのひとつとして挙げておきたいのが、「メタ合理性」ということである。

見田宗介は、この言葉自体を主題化しているわけではないが、「近代のあとの時代」を考察するなかで、このことを書いている。
 

*合理性の二つの水準。合理性の限界を知る合理性。

合理性から非合理性へ、という仕方で前近代に戻るのではなく、合理性の限界を知る合理性=メタ合理性へ。具体的に内容をいえば、生の全域、社会の全域を支配する原則としての「合理化」ではなく、たとえば自由と自由との間を調整し、人間と自然との共生を豊饒に味わい深いものとして生成し持続するための叡智のようなものとして、合理性それ自体の限界を知る<方法としての合理性>として、<自由な社会>の道具箱の中にそれは生きつづけるだろう。

見田宗介「近代の矛盾の「解凍」」『定本 見田宗介著作集 VI』岩波書店
 

「近代社会の原理」は、「合理化」ということである。
合理化は、社会の組織などの全域、また生の全領域を、生産主義的に「手段化」していく力である。

見田宗介は、一九五八年から二〇〇六年の間のおよそ「五十年」に見られた「心のあり方」の変化を、「日本人の意識調査」(NHK放送文化研究所)にみている。

調査項目の「信じているもの」に関する、1973年と2003年調査の比較において、「奇跡」「易や占い」「お守りやお札の力」「あの世、来世」を信じるものが増大している(例えば、「あの世、来世」は、5%から15%へ増大)。

社会学者マックス・ウェーバー(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)が、かつて、近代社会の原理である「合理化」は「脱魔術化、魔術からの解放」であることを指摘していたことに言及し、見田宗介は「合理化=脱魔術化」という方向の変曲点の経過を、ここに読み取っている。

しかし、だから変曲点からの方向性として前近代に戻るのではなく、いわば「メタ合理性=合理性の限界を知る合理性」という方向性を、見田宗介は提示している。

「メタ合理性」。

ぼくたちは、このキーワードを、未来を構想するための「道具箱」に入れておくことができる。

 

追伸:
映画『ALWAYSー三丁目の夕日』は、香港のDVD店でも、手に入ります。
日本の外(アジア)でも、それなりによく観られた映画でしょうか。
経済成長を遂げてきているアジアの国々では、違った観方(過去形ではなく現在形での観方)がされていると、ぼくは思います。