グローバル化による価値観の変動。- たとえば、「社会的流動性」による人々の格付け。 / by Jun Nakajima

「グローバル化」や「グローバリゼーション」という言葉は、時を経るにつれて、そのものとしてはあまり使われなくなってきているようなところがあるように見える。

それは、もちろん、それらが「なくなった」ということではなく、そのような事象がその表層において完徹し、また人びとにとって「自明のこと」となり、改めて言及するほどのものではないと思われているからである。

だから、グローバル化をすでに自明のこととして、そこで起きていることが語られる。


とはいえ、「グローバル化」や「グローバリゼーション」は、どこから、どのように語るかによっても、いろいろに光を放つから、議論は結構むずかしかったりする。

また、「グローバリゼーション」に対して「反グローバリゼーション」という二元論的思考によって議論を絡めとってしまうことで、出口のない議論が展開されてしまうこともある。

そんなわけだから、そんな事象をここで簡潔にまとめて、なんらかの解決策を提示しようとも思わない。


ただメモとして、あるいは思考や生きることを紡ぐ際に「引き受けておく」こととして、思想家である内田樹の提起しているポイントを書いておきたいと、ぼくは思う。

内田樹は、グローバル世界に「社会的流動性」(また機動性の高い/低い)という視点を投じながら、社会の「差別性」に光をあてている。


…グローバル化した世界は、一見すると、社会的流動性が極限まで高まった社会のように思われますけれど、実際にはそうではありません。「社会的流動性が高い人々」が世界中の権力・財貨・情報・文化資本を独占し、「社会的流動性の低い人々」は「グローバル化の時代に適応できない滅び行く種族である」とみなされ、どれほど愚弄されようと、収奪されようと「それは自然過程だからやむを得ない」と人々が信じてしまった社会、つまり「社会的流動性」という新しい指標による差別が固定化した社会なのです。

内田樹『内田樹による内田樹』文春文庫


何かしらのことがよいと標榜されるとき、そこには排除されているもの、捨てられているもの、無視されているものがある。

「語られないもの」をまなざすこと、を、ぼくは経済学者アマルティア・センから学んだのだけれど、それと同じように、高らかに語られること(グローバル時代の「社会的流動性」)の背後にあるものに、内田樹をまなざし、書いている。

内田樹のいう「新しい指標による差別」を、内田樹の言葉でもう少し見ておこう。


「私はどこでも生きていける。だから、自分の祖国が地上から消えても、自分の祖国の言語や宗教や食文化や生活習慣が失われても、別に困らない」と言い切れる人間が「最強」に格付けされ、その反対に、農林水産業に従事したり、伝統的な技術や芸能を継承したり、共同体の次世代の担い手を育てたりする仕事をする人は、身動きができないがゆえに「最弱」と評価される。それがグローバル化がもたらした決定的な価値観の変動です。

内田樹『内田樹による内田樹』文春文庫


機動性を軸にして急速な階層化がすすんでいる社会を内田樹は見ている。

「どこでも生きていける」ようになりたいという気持ちを持ったことがある者として、しかし、最強格付けの方向には走らなかった者として(いろいろな意味でできなかっただけだけれど)、ぼくは、ここで語られることを、じぶんの経験に落としながら、考える。


世界をただ均一化してゆくものとしてのグローバリゼーションは、やはり乗り越えられるべきものである。

でも、それは反グローバリゼーションに傾くのではなく、またグローバリゼーションそのものを否定することでもない。

ぼくにとって「英語」は、世界のなかで機動性を高めることのためだけにあるわけではない。

英語それ自体の面白さがあり、じぶんという人間自体を相対化するものであり、そうすることで日本や日本語を(つまりじぶんを)知ってゆくことでもある。

「機動性」は高まるけれど、それよりも、英語を「共通のことば」として、世界のいろいろな人たちと話すことができること、そのつながりを、ぼくは楽しむものである。


「問題」は、このような「共通のことば」が「標準化」し、世界を均一化してゆくことである。

このことを、ぼくは社会学者の見田宗介から学んだ。


 近代をこえるということは、文化と文化との間であれ、個人と個人との間であれ、人間と他の存在の形たちとの間であれ、各々に特異なものを決して還元し漂白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の<ことば>を見いだすことができるかという課題に絞られてゆくように思う。

見田宗介「差異の銀河へ」(1986年5月30日)『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫


グローバル化ということを「近代」ということの最終形として見るのであれば、これはグローバル化を含めた文脈として読むことができるのであり、現在ある形での「グローバリゼーション」を越えることの方向性が書かれている。

共通の<ことば>、それは、いわば「共生の作法」である。