三木成夫「生命とリズム」のことばから。- 人間の原形と地球・宇宙のリズムの共振。 / by Jun Nakajima

「三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしにひとつの事件だった」と、かつて、思想家の吉本隆明(1924-2012)が深く影響を受けることとなった、解剖学者の三木成夫(1925-1987)の研究と著作。

三木成夫が「人間の生命」について書いた文章は、とても美しい(もちろん、きわめて論理的でもある)。

「人間生命の誕生」(『生命とリズム』河出文庫に所収)では、「人間の生命形態」について、植物と動物との比較において追求されている。

三木成夫の拠って立つ「ゲーテ形態学」における方法論に基礎をおきながら、つまり、人間の<すがたかたち>(人間の原形)を知るために、人間と植物と動物の三者に共通する「生過程の原形」を求めたうえで、その原形の「人間における変容(Metamorphose)」を追求する方法で、人間生命にせまってゆく。


なお、三木成夫は、「自然を眺める人間の眼」には、<かたち(すがたかたち)>に向かうものと、<しくみ(しかけしくみ)>に向かうものの二種があるとしながら、これらは「左右の眼の使い分け」によって、ひとつのものが生きたもの/死んだものとなるとし、前者を<こころの眼>、また後者を<あたまの眼>と呼んでいる。

そして、ここで「人間生命」と三木が言う時、それは人間のもつ独自の<すがたかたち>のことである。この<すがたかたち>の学問体系がゲーテ形態学によって確立され、ゲーテは人間独自の<すがたかたち>を「人間の原形」と呼んで、この解明に生涯を賭したのだという(ゲーテは、文学者というだけでなく、科学者でもある。三木も、自然科学者でありながら「文学的」であるとぼくは思うが、真の知性たちは追い求めるもののために「境界を越境する」)。


さて、三木成夫は、「生過程」を、「「成長」と「生殖」の位相交替のはてしなく続く、ひとつの波形として描き出すことができる」としている。

成長と生殖の営み、つまり「食と性」は、もちろん、植物と動物とでは異なる。

三木の「まなざし」の興味深さは、動かないままに「合成能力」によって生を営む植物の視点から、その能力を「欠いた」ものとして動物の営みを記述している。動物は、合成能力がないから「動く」ことで草木の実りを求め、また合成能力の代償として「運動と感覚」の機能が身についたのだと説明している。

この「植物」にかんすることばがとても美しく、ぼくには感じられる。


 植物はしたがって、完全に無感覚・無運動の、言ってみれば覚醒のない熟睡の生涯を永遠に繰り返してゆく生きものということになるのであるが、…しからばいかにして歳月の移り変わりを知ることになるのであろうか?それはこの植物を形成するひとつひとつの細胞原形質に「遠い彼方」と共振する性能が備わっているから、と説明するよりほかないであろう。巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない。
 …細胞原形質には、遠くを見る目玉のない代わりに、そうした「遠受容」の性能が備わっていたことになる。これを生物の持つ「観得」の性能と呼ぶ。植物はこのおかげで、自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる。

三木成夫『生命とリズム』河出文庫


ぼくたちの「眼」は、物事を分節しながら「世界」を認識してゆくから、植物は植物、地球は地球、太陽は太陽、宇宙は宇宙、といった具合に、対象を別々に理解している。個人主義的な社会のなかではさらに物事を「個体」として看取していくから、対象は「別々」である。

そのような「世界」認識を、生命が持つ「観得」の性能は連関するものとしてとらえる。植物は、「自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる」のだ。


ここのところ、NASA「InSight」による見事な火星着陸に触発されて、ブログを書いている。火星や月や星空のことなどを書いているのだけれど、それは「宇宙」というカテゴリーのもとに、じぶんの、あるいはじぶんをとりまく生命たちと「別々」のこととして考えているのではないことを、三木成夫のことばをガイドに、いまこうして、もうひとつのブログを書いている。

宇宙や太陽系の形成と発展という視点からみれば、その形成と発展のなかに、現在のかたちとしくみの「地球」とその生命体たちが存在しているのであるから、地球とその生命体たちが宇宙のリズムと共振していることはなにも不思議なことではない。

三木の研究とことばは、それとはちょうど逆の仕方で、つまり植物と動物と人間という生命体たちを起点としながら、それらの生過程のなかに宇宙とそのリズムをとりこんだ視点で説明してくれている。

真木悠介(社会学者の見田宗介)の描く「現代人間の五層構造」(生命・人間・文明・近代・現代)の要諦は、現代の人間はそれらを「かけあがってきた」のではなく、どんな現代の人間においても、これらの五層が<共時的に生きつづけている>ということである。

この五層における人間のいちばん基底にある「生命」としての層が、宇宙/太陽系のリズムとともに、いまも生きつづけている。


植物につづいて「動物」はどうであろうかと、三木成夫は文章を展開させてゆく。


…その原形質もまた宇宙のリズムに乗って自らの食と性を営んでゆくのであるが、ここではさらに、その時々の原形質の欠乏を満たす糧を、それがたとい五感の及ばぬ遥か彼方のものであっても、それを的確に観得し、それに向かって運動を起こす。つまり成長繁茂・開花結実という生過程にのみ結ばれた植物の「観得」の性能は、動物ではさらに餌と異性に向かう個体運動(locomotion)にまで結ばれることになる。かれらが日月星辰のリズムに乗って、ある時は大空を渡り、ある時は急流を遡り、それぞれ彼方の見えぬ「食と性」の目標に向かってあたかも生磁気に牽きよせられるがごとくに進んでいくーいわゆる“鳥の渡り”とか“魚の産卵”に見られる動物の「本能」とは、まさにこの「遠観得」の性能に依存するものであることがここで判明した。

三木成夫『生命とリズム』河出文庫


動物の「観得」はここにとどまらず、感覚・運動の回路を通じて「外界」を形成し、人間にいたっては無限の「世界」にまで拡大されるとしながら、三木は、人びとは植物原形質が観得した「遠のおもかげ」を見出すことができるのであると説明している(論理の展開の詳細は本書をご参照ください)。


これからの時代と生きかたをきりひらいてゆくうえで、三木成夫が追い求めたものと彼のことばは、とてもたくさんの教えを与えてくれているように、ぼくは思う。