香港で、台風のあとに「自然」のことをすこし書く。- 「人間と自然」の「と」について。 / by Jun Nakajima

「自然」は、人間にとって、大別すると(ざっくりと分けると)、ふたつの現れ方をする。

ひとつは、この度(9月16日)の香港の「台風」などのような「自然災害」や乗り越えられるべき障害として対峙する現れ方であり、もうひとつは、ビーチやハイキングや森林浴などのように歓びの源泉となるような現れ方である。

「台風」は自然そのものの論理のなかで「悪気なしに」生まれてくるものであるけれど、人間にとっては、脅威であり、敵である。

今回台風の影響で住まいに隣接する道路が閉鎖され、その説明の張り紙に「Due to the typhoon attack…」と書かれているのを見て、つまり台風の「攻撃」という表現に「人間と自然」、より厳密には「人間・対・自然」という図式が前提されているのを、ぼくは感じたのであった(※でもさらに興味深いことは、中国語表記ではattackではなく「影響」となっていること)。


真木悠介は、「人間・対・自然」という図式(および「個人・対・社会」という図式)について、つぎのような明晰な文章を書いている。

…<人間・対・自然>という図式も、けっして自然一般を超越する先験的な妥当性をもつものではなく、この図式の妥当する地平それじたいの存立が、ひとつの自然史内在的な過程に他ならない。
 すなわち…自然に外在する「人間」があらかじめて先在していて、彼らが他在としての「自然」とかかわりをもつのではない。人間は…本源的に<自然・内・存在>であるという仕方で、いわば二重に内存在である。
 けれども…物質性の<自然>の胎内から、一個の不遜な自己目的性としての人間=精神が析出し、残余の<自然>を対象化する主体として屹立するときにはじめて、人間としての人間の歴史ははじまり、したがってまた、広義の経済的諸カテゴリー〔生産・所有・等々〕は存立しうる。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年 → 復刻版:朝日新聞社、2014年)

つまり、「人間・対・自然」などという図式・考え方が最初からあったのではなく、「一個の不遜な自己目的性としての人間=精神が析出し、残余の<自然>を対象化する主体として屹立するときにはじめて」、それは認識され、その後の人間の歴史のなかで自明のこととなってゆく。

この「文明」は、自然を対象化し、利用し、開発し、支配することで、成り立っている。

だから、この文明、またその文明のもとにつくられる社会システムがおびやかされる状況等において、人間は「自然」を敵視する。

それは、いわば「外部」からやってくる、自然の脅威であり、「人間・対・自然」の構図がより鮮明にうかびあがる。

そのようななかで、「(人間がつくってきた)現代の社会システム・対・自然」の対面が、自然災害においては顕著に意識される。

この対面において、今回の台風による影響・被害から、復旧され、立ち直ってゆく様子を見ながら、ぼくは、この現代の社会システム、つまり資本制システムの圧倒的な力を見てきたようにも、ぼくは思う。


「人間と自然」(あるいは「人間・対・自然」)という書き方(また捉え方)そのものが、「当たり前のこと」ではなく、この文明とそこに構築されてきた社会システム、またそこに生きる人間の生き方(生活の仕方)と双対的にあることを、少しばかり書いてきた。

だからといって、なにかがすぐに変わるわけでもないし、「得」があるわけでもない。

けれども、自然災害のもとで、やはり感じたりかんがえたりすることがあるし、それは人間や社会をふりかえる際にもよいきっかけである。

さらには、「自然との関係性」を見直し、変えざるを得ない時代のなかで、そのひとつのとっかかりであるとぼくは思いながら、その入口のところだけをすこしだけ書いた。