『Sapiens』『Homo Deus』の著者、歴史学者Yuval Noah Harari(ユバル・ノア・ハラリ)は、新著『21 Lessons for the 21st Century』(Spiegel & Garu, 2018)の冒頭を、「人類(humanity)の未来」に関する議論には理論的には誰もが参加できること、しかし明確なビジョンを維持することは極めてむずかしいこと、また議論が行われていることに気づくことさえしなかったり、しなければいけないことがたくさんあるなかで調査することが「贅沢」となっていることなどを指摘することから、書き始めている。
確かに、人は日々、他にしなければならないことでいっぱいであったりする。
ユバルが冒頭でくりかえしていうように、「全体像・大局について考えること(thinking about the big picture)」は、相対的に贅沢なものとなっているようだ。
そしてそのことは、「近代」を駆動してきた<分業制>の行きついた地点であるかのようにも、ぼくはかんがえる。
近代・現代は、人それぞれがある特定の仕事や作業に特化することによって、つまりシステムの合理化と効率化によって、その全体の社会を発展させてゆくところに、その発展の力を発揮してきたのである。
この視点で見たとき、「全体像・大局について考えること(thinking about the big picture)」は、余分なことであるだろうし、それよりも、ある特定の仕事や作業(だけ)に特化することが奨励されるであろう。
けれども、「食べてゆくのに困らない」時代(分配の問題は依然として大きな問題・課題として残る時代)が到来し、また、環境・資源収奪的なこれまでの発展の「仕方」の問題に直面するなかで、さらには個人という視点において「個人主義」が徹底されてゆくなかで、情報通信技術やバイオテクノロジーなどの新しい時代の鐘が「不確実性」の音色をならすとともに、そこに<全体像>への希求と議論が生まれてくる。
ぼく個人のことでいえば、<全体像>を好きで求めてきたし、それがとても大切なことであると思う。
「そんな大きなテーマを…」という眼差しで見られることがあっても、この点においては、ぼくは誰がなんと言おうと、テーマとして追い続けてきた。
見田宗介やアマルティア・センやユバル・ノア・ハラリなどの知性たちに寄り添っていることも、そのことと関係しているようにも思う。
修士論文で経済学者アマルティア・センの思想を追いながら、ぼくは専門としていた発展途上国の「開発学」と「開発協力」の土台そのものを問うようにして、「開発・発展とは何か」という<全体像>の地平に、いつしか躍り出ていた。
専門性の高いテーマを嫌っているわけではなく、専門性の高いテーマを追っていると、どうしても<全体像>の視点が入ってきて、いろいろと疑問に思ってしまうのである。
そのような疑問は、ぼくの周りにひろがる「社会」だけでなく、ぼくの「生き方」にも、透徹された眼を向けてゆくのだ。
そのときから15年以上が経過し、その間に、ますます<全体像>が大切になってきている。
ユバルは、冒頭で取り上げた箇所につづいて、つぎのように書いている。
…不幸なことに、歴史は割引(discounts)をしないのだ。もし人類の未来が、あなたが子供たちに食事をさせたり服を着させたりすることに忙しすぎて、あなたのいない間に決められたとしたら、あなたと彼(女)らはその帰結から免除されることはない。これは不公平だが、しかし、誰が歴史は公平だと言ったのか?
Yuval Noah Harari『21 Lessons for the 21st Century』(Spiegel & Garu, 2018) ※日本語訳はブログ著者
人類の未来に関する議論までも「分業制」にするのは(誰かに託すのは)、もう、やめにするときである。