<聴覚>と論理性。- ひきつづき、養老孟司先生の「興味深い話」でたちどまる。 / by Jun Nakajima

生ききること、よりよく生きること、生きる「世界」の奥行きがひろがってゆくこと。そのために、<五感をとりもどす>こと。

そのことのについて、<触覚>をたよりに、片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法のひとつ、片づけで「残すモノを選ぶ基準」として、<触ったときに、ときめくか>という方法(基準)をとることにもふれながら、別のブログで書いた(ブログ「「触ること・触覚」についてのメモ。<五感をとりもどす>こと。- 「KonMari Method」から、養老孟司、真木悠介まで。」)。

そのブログでは、ちょうど読んでいた、養老孟司・久石譲の『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)での対談にもふれたが、ひきつづき、養老孟司先生の「興味深い話」に耳を傾けるために、たちどまりたい。

興味深い話とは、「聴覚と論理性」という話である。<聴覚>というものは、つまり<耳>は、論理的である、という話である。

論理の時代ではないと言われるけれども、ぼくは「論理」はさまざまな場面でひきつづき(あるいは、ある意味ではこれまで以上に)大切であると思っているので、この「興味深い話」でたちどまっておきたい。


養老孟司は、「聴覚と論理性」について、つぎのように語っている。


 …たとえば諄々と理屈を説いて聞かせる時は、証明が順繰りになりますね。それが論理ですから。論理というのは耳そのものです。目は耳とまったく違う性質を持っていまして、こちらは一目でわかる。だから、「百聞は一見に如かず」というんです。百聞の方は筋道立ててきちんと言う。対して目の方は「そんなの一目見たらわかるだろ?」と。
 …聴覚系が本来持っている性質が論理性です。目はそういう論理性を持っていません。だって、あるものがみんな目に入ってしまいますからね。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)

「百聞は一見に如かず」という諺がつかわれる文脈は、「見てわかること」が大切であることを語るようなところである。けれども、物事を理解するために、物事の「因果関係」(つながりかた)が重要であることへと、養老孟司は注意を向けている。

実際に、耳の聴こえない人は、因果関係の把握がむずかしいのだという。「疑問形」がわからないというのだ。

生まれつき耳が聴こえない子どもに「疑問文」を教えるためには、文章を「穴あけ問題」にして、<ブランクを埋める>ようにしてゆく。文章の「穴あき」は見えるから、それによって、「疑問」ということを教えてゆくようだ。

<疑問文というのは論理の基本>と、養老孟司は語る。

なお、対談相手である、作曲家の久石譲は、音楽は情動的なものだと思われているが、むしろ「音楽は論理性がたかいものなんだ」という考えをもっていると語ることについても、養老孟司は、音楽は論理的であると応答している。耳は、時間のなかを単線的に動いてゆくからである。

ほんとうに「興味深い話」である。(「音楽は論理的である」ということは、音楽のなかに組み込まれている「定量音符」という「標準化された時間」とも関連させてゆくことで、さらに興味深くなっていきそうだ。)


「興味深いけれど、だから?」と思うひともいるかもしれない。

ひとつ言えることは、聴くこと、<聴覚>ということを、生活のなかでもっと生かしていくことはできるだろうと思う(「世界をきく」。それだけで「世界」の奥行きが変わる。真木悠介はそう書いている。ぼくもそう思う)。

「オーディオブックや音声インタビューを聴く」ということをぼくが好きで、かつ有効利用してきたことには、聴くということの論理性があるのかもしれないと思ったりする。

そしてまた、<疑問文というのは論理の基本>と語られているように、「疑問文」を生かして論理をきたえる方法もいろいろにかんがえることができそうだ。

「方法」はいろいろにやってくる。まずは、「世界をきく」に、<穴をうがつ>のだ。