「植物の名」の多いこと。- 日本語と日本人の「植物」への関心と可能性。 / by Jun Nakajima

言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。


 日本語にはおびただしい数の木の名・草の名がある。大槻文彦氏の編集した『言海』を開いて、これは植物の名ばかりではないかと言ったという外国人の話がある。…

金田一春彦『美しい日本語』(角川文庫)


海外の友人が、日本人の植物への関心の高さについて語っていたのを、ぼくは思い起こす。思えば、ぼく自身も、海外で日本から来た人を案内するときに、植物の名前を尋ねられたことがあった。


言語のなかで言葉が多くあらわれるのは、ひとつには、実際の生活において密接なつながりを有しているものごとである。使われる言葉から、人の生活や社会が見えてくることになるが、たしかに、日本は植物(木や草や花など)とのむすびつきがより強いように、実感として感じる。

もちろん、金田一春彦が書くように、日本語に植物の名が多いことの背景には、まず、日本に植物の種類が豊富であることが挙げられる。

さらには、ひとつの対象であっても、古来の言葉や方言などが加わって、植物の名は『言海』の辞書を埋め尽くす、とまではいかなくても、外国人が「これは植物の名ばかりではないか」と発言するほどの存在感をつくってしまうのである。


ぼくはこの文章に眼をとおしながら、そこに「可能性」を見る。

日本語にはおびただしい数の木の名・草の名があっても、それがそのままに「世界」にひろがってゆくものではない。

けれども、おびただしい数の木の名・草の名をもつ「生きかた」、自然との関係のありかたに、自然と人間社会との関係性をいくぶんなりとも変容させてゆく「可能性」を感じるのである。

そのような生きかたやありかたの底流にながれる、人と植物たちとの具体的な関係性に、である。


この「可能性」は、おなじように、ぼくのなかにも、ひらいていきたいものである。

抽象的思考を好むぼくは、ついつい、具体性から離陸してしまう。だから、「名前」をきっかけに(「名前」の功罪ということもあるので、それがすべてではないけれど)、この「世界」のいろいろなものごとを、楽しみたいと思う。

そのような具体的な関係のありように、「世界」は、ぼく(たち)のまえに、異なった姿であらわれるのである。