日本人にとっての「働く」こと。- 理解され難い、「働く」を支える発想。再び、山本七平の視点。
伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。
伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。
このような形の師弟関係は、日本において「働く」ことのなかにも見られ、語られたりしてきた。現代においては、そのような関係性は見られなくなったり、有効ではないというように語られている。師弟関係ではなく、メンターやコーチなどという形態がすすめられたりする。これらに焦点をあててゆくだけでも興味深いことだけれども、ここではそこには入っていくことはしない。
けれども、伝統的な師弟関係が「働く」ことのなかにおりこまれてゆく仕方が、どのような日本文化(の特質)に支えられているのかについて、もうひとつべつの議論を重ねておきたい。
内田樹の「便所掃除がなぜ修業なのか」(『日本辺境論』新潮新書に所収)を読みながら伝統的な師弟関係の本質をかんがえ、ぼくがそこに重ねていたのは、山本七平(1921-1991)の『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)における、日本的な特質のことである。
山本七平は徳川時代の武士であり禅僧であった鈴木正三の思想に日本の資本主義に通じる精神を見ているが、「禅とエコノミック・アニマルは同じ発想から出ている」と書いている。1960年代、日本人は国際社会で「エコノミック・アニマル」と呼ばれるほどであったけれど、それと「禅」が同じ発想から出ているというのだ。
ここで言われる「同じ発想」がなんであるか、どのようなものであるか、おわかりだろうか。少し考えてみてほしい。
キーワードは、冒頭に挙げた「修業」に近いことばである「修行」である。
「禅」に興味をもつ外国の人に「禅」について質問されたとき、山本七平は、鈴木正三にふれながら、つぎのように応えたのだという。
…日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏業の外成作業有べからず。」と同じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業即仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。みなが、それによって、貪、瞋(しん)、痴の三毒から解放されて成仏するためにやっている…。
山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)
山本七平のこの応答を聴いた人たちはたいへんに驚いたのだという。まさか、禅とエコノミック・アニマルが同じ発想から出ているなど、思ってもみないからである。
なお、エコノミック・アニマルにかかわる「利潤の追求」ということを支える考え方として、「利潤の追求は許されないが、結果としての利潤は肯定される」という鈴木正三の考え方が日本の底流に根強く残っていることを指摘している(1970年代の日本であるけれど、文化の根はそんなに変わるものではない)。
なお、山本七平は、近代・現代社会における「脱宗教体制」のことは織り込み済みである。今では資本主義の極致のように見えるアメリカについて、ピューリタンの面影はないというのが皮相な見方なら、日本にはすでに禅の面影が見られないのも皮相な見方であると明示している。
ちなみに、橋爪大三郎・大澤真幸は著書『アメリカ』(河出新書、2018年)で、アメリカの本質に光をあてるときに、まず押さえるべきは「キリスト教」だと語っている。キリスト教がなかったらアメリカは存在しない、と。いろいろと経験と学びを深めてゆくなかで、(「宗教」を学ぶことになるべく距離をおいてきた)ぼくも、そのことがようやくわかりはじめた。
ところで、農業も、仕事も、働くことも、それら「世俗の行為を修行とすることで宗教的行為となりうる」といった考え方が、日本人に大きい影響を与えてきたことを、山本七平は強調している。この考え方を反転させてゆくと、修行としての世俗の行為が高みに上がることで宗教否定的であり、また日本人は「無宗教」であるという見方になる(もちろん、だからといって<宗教性>をもたないということではない)。
なるほど、と思う。このような日本の社会では、「働かない」ということは仏行を行なっていないことであるから非難されるのだと、上述の議論からひきだされる興味深い状況例も、山本七平は挙げている(日本社会で「ブラブラしている」は、このようにして、非難的な言葉である)。
こんなふうにして、最初の「トイレ掃除」にもどると、その行為も、ひたすらに<修行的>なのだろう。
山本七平の著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』。今だからこそ、読まれるべき本であると、ぼくは思う。くりかえしになるけれど、海外で働く日本の人たちに、この本を勧めたい。山本七平自身が書いているように、「視点の提供」として。
機能集団と共同体の「二重構造」としての日本の会社。- 『日本資本主義の精神』(山本七平)の視点のひとつ。
山本七平(1921-1991)による鮮烈な「視点の提供」である、著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)。日本の外(海外)で働きながら、異文化のはざまで「働く」ということを見つめつづけてきたぼくの実感と思考から照らしたとき、この本は刺激的であり、指摘はきわめてするどく、そして40年を経過した「いま」でも(また「いま」だからこそ)有益な視点を提供してくれている。
山本七平(1921-1991)による鮮烈な「視点の提供」である、著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)。日本の外(海外)で働きながら、異文化のはざまで「働く」ということを見つめつづけてきたぼくの実感と思考から照らしたとき、この本は刺激的であり、指摘はきわめてするどく、そして40年を経過した「いま」でも(また「いま」だからこそ)有益な視点を提供してくれている。
「いま」だからこそ、ということの理由は、「日本に発展をもたらした要因はそのまま日本を破綻させる要因」であると山本七平が見ていたように、「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展の仕方は、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」というところへつながってしまう可能性があるのであり、この「何だかわからないが、こうなってしまった」と感じられてしまう現象を、たとえば、海外の日系企業の人事マネジメントにぼくは見ることがあったからである。
海外における日系企業の人事マネジメントは、異文化間の差異が顕著にあらわれるところである。山本七平が取り上げているように、「契約」にかんする考え方と実践は、40年まえも、そして今も異文化間の差異が見られるところだ。
「差異」自体は仕方がないことであるし、よりよいマネジメントへの源泉とすることもできるものである。問題は、日本の仕方を自明(「あたりまえ」)のものとしながら、この差異から発生することがらを「正しくない」「悪い」ものとして考えてしまうことである。「うちは日本の会社だから…」という見方もひとつだけれど、「ここは日本ではない…」という見方もできるのであり、なによりも、視野を大きくすれば、海外の日系企業は、その場所から切り離された存在ではなく、その場所の「社会構造ー精神構造」のなかで活動するのであるから、少なくともマネジメントの「方法」については、オープンであるべきと、ぼくは考える。
ただし、オープンになることのためには、そこの文化や相手を知ることのほかに、じぶん(たち)の日本的特質を「あたりまえ」のものとしてではなく、<あたりまえのものではない>ものとして明確に自覚してゆくことが肝要である。山本七平が、「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であることと語っているように、無自覚は「呪縛」のうちに人を放りこむのであり、オープンになることを阻害してしまうのである。
もちろん、自覚することに完全性を求めるのではないし、また一気に自覚するものでもない。「自覚してゆく」ということ自体が、成長・成熟の旅だということもできるからである。
『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』の第一章「日本の伝統と日本の資本主義」では、「日本の会社は、機能集団と共同体の二重構造」であることが書かれている。
日本の中小企業で見られた「神棚」や、それに代表されるようなある種の宗教性というべきものを「企業神」と山本七平は呼んでいる(ちなみに、山本七平は長年にわたり出版社を独自に経営してきた中小企業の社長でもある)。そのような「企業神」は世界的な日本の大企業でも見られることにふれながら、日本の会社が「機能集団と共同体の二重構造」になっていることを指摘している。。ここで「企業神」は、利潤追求の機能集団としての会社の中心にではなく、会社共同体の中心に置かれることになる。
こうして、山本七平はつぎのように書く。
…日本の資本主義は、おそらく「企業神倫理と日本資本主義の精神」という形で解明されるべきもので、その基本は前記の二重構造にあるだろう。これが、日本の社会構造により支えられ、さらに、各人の精神構造は、その社会構造に対応して機能している。これを無視すれば、企業は存立しえない。
この対応を簡単に記せば、機能集団が同時に共同体であり、機能集団における「功」が共同体における序列へ転化するという形である。
そして、全体的に見れば、機能集団は共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化することを意味しているのであろう。…山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)
このつぎに、山本七平は「血縁社会と地縁社会」という枠組み(日本は血縁社会ではなく「擬制の血縁社会」と位置づける枠組み)を活用して、さらに日本的特質へとわけいってゆく。
また、上記二重構造の「共同体」ということにおいて、アメリカやヨーロッパの共同体を見渡しながら、その違いを「機能集団と共同体の分化」に見ている。たとえば、イギリスの村共同体を述べながら、人びとはその共同体から社会(会社)に出稼ぎにいっている(つまり、機能集団と共同体が分化している)のに対し、日本の場合は、機能集団が共同体に転化している(いわば「団地共同体」から会社に出稼ぎにいく、というのではない)のだと指摘している。
このことを、ぼくが今いる「香港」の事情にあてはめるのであれば、機能集団と共同体が分化していて、そこでいう「共同体」は「家族共同体」ということになろうか。もちろん、現実はいっそう、曖昧さを残していることは言うまでもない。
いずれにしても、ここ香港で『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』を読みながら感じるのは、上述「二重構造」を基礎とした分析枠組みは、状況を把握するのに有効なツール(視点)のひとつであるということである。
<日本資本主義の精神>への自覚。- 山本七平による鮮烈な「視点の提供」。
著書『「空気」の研究』でよく知られる山本七平(1921-1991)。2000年代に「空気を読めない(KY)」が言葉として流行になったけれども、日本社会における、この「空気」という存在を解き明かそうとしたのが、この『「空気」の研究』(1983年)である。すでに「古典」であり、近年、たとえば大澤真幸(社会学者)が、この著書に再度光をあてている。
ところで、彼の他の著書に、『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)という著書がある(現在は、PHP文庫で読むことができる)。
「まえがき」の冒頭で書かれているように、「日本資本主義精神」という標題は学術書のような誤解を与えてしまうかもしれない(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が連想されてしまう)。けれども、この本は、経営雑誌に掲載された「日本的経営を忘れてはいないか」という一文(のちに英訳されて外国人の友人から説明会の依頼がくる)、それから「日本の伝統とキリスト教」という連続講演(日本の伝統がもつ独特の宗教性が日本資本主義の倫理の基礎である)が契機となっている。
ひとつめの契機で山本七平が感じたのは、日本的経営などにおいて見られる「日本的特質を日本人自身が自覚していない」という問題である。日本の経済成長は「何だかわからないが、こうなってしまった」ものである。日本的特質は外部に説明する必要は必ずしもないけれど、「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは、「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であること、山本七平はここに最も大きな問題を見ているのだ。
…日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは、「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」という破滅をも、もたらしうる…。
山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫、1995年)
「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であること、という把握、それからそこに発展だけでなく破滅への経路を見る山本七平の視点はきわめて鋭い。
…いま必要なことは、この「呪縛」の対象を分析し、再評価し、再把握して、自らそれを統御することである。
もちろん、それを外部に説明する必要はないが、要請されればそれができるように、各人が明確な自己を把握して、自らを統御することは必要である。それは国家に要請されるだけでなく、企業にも、個人にも要請される。
本書は、それを行うための一提案であり、いわば視点の提供である。山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫、1995年)
ぼくは、この本を、海外で働く日本の人たちに読むことを勧めたい。
今から40年まえの1979年に出された本だけれども、山本七平が書いている「問題」は、40年を経た「今」も、その本質はもとより、現象面においても(あまり)変わっていない(ことがある)。山本七平が「いま必要なことは…」と書くときの「いま」は、40年を経た「いま」でもあると、ぼくは思う。
日本の会社の「共同体」の構造(と精神構造)、雇用契約をふくむ契約のかんがえかた、解雇にたいするかんがえかた、「話し合い」の優位性など、現象面をふくめて、今でも「問題」として生起する問題群が、社会構造と精神構造をともに見晴るかす仕方で、明晰に語られている。
この本を読みながらぼくが実感したのは、まさにこれらの「問題」と構造が今も変わっていないことの驚きであった。
なお、「解決法」が説かれているわけではない。けれども、「自己がそれによって行動している基準」を自覚することなく(少なくとも自覚しようとすることなく)、現象面を解決しようとする仕方は、付け焼き刃になりかねない。あるいは、「何だかわからないが、こうなってしまった」という事態が起きてしまうかもしれない。その意味で、一歩踏みこんだ「解決のヒント」を得ているのだと言うことはできる。
なお、副題にある「なぜ、一生懸命働くのか」についても、興味深い視点を提供してくれている。マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理のなかで、「ベルーフ」としての仕事、つまり「神から呼びかけられている」ものとして捉えられる職業に<資本主義の精神>を見たけれども、山本七平は、日本の伝統がもつ宗教性に<日本資本主義の精神>の基礎を見出している。
そんなわけで、海外で働く日本の人たちに、この本を勧めたい。山本七平自身が書いているように「視点の提供」として。
「平成」の半分ほどを海外ですごしてきて。- 「日本」との<距離>のなかで。
「昭和の終わり」の記憶を、ぼくはかすかに自分のなかに残している。中学生だったぼくは、その日、体育館に集められ(ここは記憶が定かではないのだけれど、もしかしたら、体育館に集まっているときに)、天皇崩御が伝えられた。それから「平成」がはじまった。
「昭和の終わり」の記憶を、ぼくはかすかに自分のなかに残している。中学生だったぼくは、その日、体育館に集められ(ここは記憶が定かではないのだけれど、もしかしたら、体育館に集まっているときに)、天皇崩御が伝えられた。それから「平成」がはじまった。
そののち、ぼくは平成の時代の半分ほどを、日本の外(海外)で過ごすことになった。海外で暮らすようになって、ときおり、今が「平成」の何年なのかわからなくなったものだ。だからといって、「平成の時代」から無縁であったわけではない。海外に出てからも、さまざまな回路をつうじて、ぼくはやはり「平成」を生きたのだとも言える。
海外で暮らすようになって、ぼくは、物理的に「日本」と距離をとることになった。物理的に距離をとりながら、精神的にも「距離」をおくことができたのだけれど、他方で、ある種の距離をおくことが、むしろ、ぼくを「日本」や「日本人」という対象に近づけることにもなったのだと、振りかえりながらぼくは思う。
日本や日本人という対象に近づくということは、いわば、ぼくの心身に刻印された「日本なるもの」へ近づくということでもある。物理的な「日本」から距離をおくときに、内面の「日本なるもの」がより鮮明になってくる。これまで「あたりまえ」だと思っていたことが<あたりまえではないもの>として現れてくるのである。
そのプロセスにおいては、心身に刻印されている「あたりまえ」がある意味で「正しい」ものだとして感じられたり、考えられたりすることもあるのだけれど、「何か」をきっかけに、あるいはオープンマインドによって、その「正しさ」の窓に穴がうがたれてゆくことがある。あたりまえに「~すべきである」だと思っていたことが、「~することもできる」というような選択肢のひとつになる。
たとえばそんなふうにして、より客観的に「日本なるもの」を視ることができるのである。
「元号」のこともそうだけれども、「天皇制」にしてもそうである。
以前は正面から見ようとしてこなかったことがらを、正面から見てみようと思ったりする。ある程度の「距離感」が、ぼくにそんな気持ちをおこさせるのである。これまでにいろいろな国に住んだり、旅したりするなかで、それぞれの土地における共同体として暮らしていく「感覚」のようなものをほんの少しは感覚してきて、「比較」するための拠点がぼくの内面にできたということもある。さらには、異文化の人たちに尋ねられることもあるから、自分なりの説明ができるようにしておこう、という気持ちもある。
そんなふうにいろいろな状況や条件がかさなり、自分の気持ちがあって、これまで見てこなかったことがらに分けいってみたくなったのだ。
そんなときに、その思想と感覚を信頼する内田樹の著書『街場の天皇論』を読みはじめて、教えられ、また考えさせられた。ぼくの静かな「対話相手」にもなってくれた。
2016年の天皇の「おことば」に触れながら、内田樹はつぎのように語っている。
日本国憲法下における立憲民主制と天皇制の併存という制度が将来的にどういうかたちのものになるのか、1947年時点では想像もつかなかった。その制度が今こうしてはっきりとした輪郭を持ち、日本の社会的な安定の土台になるに至ったのには、皇室のご努力が与って大きかったと私は思います。天皇制がどうあるべきかについての踏み込んだ議論をわれわれ国民は怠ってきたわけですから。
しかし、国民が議論を怠っている間も、陛下は天皇制がどういうものであるべきかについて熟考されてきた。「おことば」にある「即位以来、私は国事行為を行うとともに、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」というのは、陛下の偽らざる実感だと思います。そして、その模索の結論が「象徴的行為を果たすのが象徴天皇である」という新しい天皇制解釈でした。…内田樹『街場の天皇論』(東洋経済新報社、2017年)
「象徴的行為」と言われるのは鎮魂慰霊の旅で、これが最重要の仕事だと言外に宣明したのだと、内田樹は語っている。そのうえで、高齢によりその最重要の務めが十分に果たせないことが退位の理由だということである。
この他にも、さまざまなポイントと論点が提示されている。
もうひとつだけふれておくと、「立憲民主制と天皇制の併存・両立」ということについて、昔はこの二つが「両立しない」と思っていた内田樹は、今は「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が政体として安定しており、暮らしやすいのだ」と考えているという。一枚岩よりは、中心が二つある「楕円的」な仕組みの方が生命力も復元力も強く、天皇制はその焦点のひとつだというのだ。
興味深い指摘であるし、いろいろな他の国などを経験してみると、感覚としてわかるような気もする。
こんなふうにして得た「視点」で、海外のメディアがどのように報じているのかを、ここ香港でニュース記事を読んだりしながら、平成から令和への「とき」をすごしている。
「現代日本人の意識」について。- 深層の意識に生き続ける「伝統的な日本」。
海外に住んでいると、やはり「現代日本人の意識」のようなことを考えてしまう。
海外に住んでいると、やはり「現代日本人の意識」のようなことを考えてしまう。
さまざまな「異文化」との接触のなかで、異文化を理解し、それらを「鏡」としながら、じぶんを含めた「現代日本人の意識」のようなことを考える。あまり偏見的に見方を固定したくないし、最終的には文化を超えて「個人」ごとに異なるのだとも思いながら、それでも「現代日本人」に焦点をあててゆく。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)も、自身の心理療法の経験などから「現代日本人の意識」を論じることはきわめて困難であることを語っている。ただし、その困難さを確認したうえで「ある程度の一般論」を述べている。
…ある程度の一般論を述べるなら、日本人の意識は表層的には欧米化しているとは言えるのだが、少し深くなると、まだまだ日本の古来からの伝統的なものを保持していることになる。
ここに「表層的」と述べたことは、本人が通常生活において意識していることである。しかし、人間はあんがい自分で意識せずにいろいろ行動をしているし、非日常的な場面においては、通常の意識とまったく異なる意識がはたらくものである。それらの意識を深い層の意識と考える。
あるいは、意識的には自分は民主的に生きていて、そんな点でアメリカ人と変わらないと思っているが、アメリカ人から見ると、それは彼らの考えとは異質の「日本的民主主義」だったりする。つまり、日本人はアメリカ人と同じと思っていても、それの動因となる深層の意識のはたらきが異なるので、まったく異なる様相になってくる。河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)
2000年頃に書かれた文章だけれども、20年近く経った今も、この様相は変わっていないように、ぼくは思う。
つまり、ざっくりとした「現代日本人の意識」を語ると、表層意識はだいぶ「欧米化」されているが、深層意識には「伝統的な日本」が生き続けている、ということができる。
このことを、たとえば、海外における日系企業の「人事」に、コンサルタントとして密接にかかわってきたなかで、ぼくは身にしみて感じてきた。たずさわる人たちが海外・グローバルにおける人事ということを意識し、仕組みも日本とは異なる「欧米的」なものであったとしても、運用の過程でいつしか「伝統的な日本」がさまざまな仕方でまぎれこんでくる。
こんなことが続くと、海外の方々の眼には「日本人」が不可解な存在としてあらわれてしまう。日本人のあいだであれば深層意識の動因は(納得するしないは別として)了解できることであっても、海外の人たちにとっては「わからない」から、ときに「誤解」の幅がひろがり、深化してしまう。
事態は、これが「深層の意識」でのはたらきであるため、なかなか厄介である。表層の意識では「海外」のやり方(あるいは、異文化に限らず「人として」のアプローチ)にしたがってやっているつもりだから、「深層の意識」をメタ認知することが容易ではない。
欧米がよくて、伝統的な日本がわるいということではない。「表層の意識」だけでなく、「深層の意識」が異なった仕方ではたらくことから、いろいろな事態や誤解などが起こるのであり、まずはそのことを「理解する」ことが大切である。そして理解のうえで、じぶんの深層にうめこまれている「伝統的な日本」(のあり方ややり方)をあぶりだし、認知してゆく。
「現代日本人の意識」を論じるのは、たしかにむずかしい。でも、「ある程度の一般論」という見方において、ぼくの経験をさし挟んだとき、河合隼雄先生が述べていることが、ぼくにはよくわかる。
2002年からずっと海外に住んできても、ぼくの「深層の意識」には、まだ明確に対自化できていない「伝統的な日本」がいろいろな仕方で生き続けているのを感じることも、ぼくの「経験」のひとつである。
「植物の名」の多いこと。- 日本語と日本人の「植物」への関心と可能性。
言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。
言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。
日本語にはおびただしい数の木の名・草の名がある。大槻文彦氏の編集した『言海』を開いて、これは植物の名ばかりではないかと言ったという外国人の話がある。…
金田一春彦『美しい日本語』(角川文庫)
海外の友人が、日本人の植物への関心の高さについて語っていたのを、ぼくは思い起こす。思えば、ぼく自身も、海外で日本から来た人を案内するときに、植物の名前を尋ねられたことがあった。
言語のなかで言葉が多くあらわれるのは、ひとつには、実際の生活において密接なつながりを有しているものごとである。使われる言葉から、人の生活や社会が見えてくることになるが、たしかに、日本は植物(木や草や花など)とのむすびつきがより強いように、実感として感じる。
もちろん、金田一春彦が書くように、日本語に植物の名が多いことの背景には、まず、日本に植物の種類が豊富であることが挙げられる。
さらには、ひとつの対象であっても、古来の言葉や方言などが加わって、植物の名は『言海』の辞書を埋め尽くす、とまではいかなくても、外国人が「これは植物の名ばかりではないか」と発言するほどの存在感をつくってしまうのである。
ぼくはこの文章に眼をとおしながら、そこに「可能性」を見る。
日本語にはおびただしい数の木の名・草の名があっても、それがそのままに「世界」にひろがってゆくものではない。
けれども、おびただしい数の木の名・草の名をもつ「生きかた」、自然との関係のありかたに、自然と人間社会との関係性をいくぶんなりとも変容させてゆく「可能性」を感じるのである。
そのような生きかたやありかたの底流にながれる、人と植物たちとの具体的な関係性に、である。
この「可能性」は、おなじように、ぼくのなかにも、ひらいていきたいものである。
抽象的思考を好むぼくは、ついつい、具体性から離陸してしまう。だから、「名前」をきっかけに(「名前」の功罪ということもあるので、それがすべてではないけれど)、この「世界」のいろいろなものごとを、楽しみたいと思う。
そのような具体的な関係のありように、「世界」は、ぼく(たち)のまえに、異なった姿であらわれるのである。
「競争」ということ。日本的な「競争」のこと。- <境界線>に生き、考える河合隼雄に教えられて。
ここ数年来、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が書いたもの、語ったものを、ぼくはよく読むようになった。
ここ数年来、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が書いたもの、語ったものを、ぼくはよく読むようになった。
20年以上まえ、大学生のころにも数冊を読んだのだけれども、そのころはたぶん、ぼくの経験の基盤がうすく、また表層で読んでしまっていたところがあったのだろう。
あのときと比べ、ぼくの経験と思考が少しは深まったことを、いま読みながら思うのである。
また、どこの「視点」から読みとっていくのかということも、いくぶん、ぼくのなかではっきりしたこともあって、じぶんの生にひきつけて読むことができているのだということも、ぼくは思う。
河合隼雄はアメリカで心理学を学び、スイスでさらに研究をすすめたことから、「西洋」発出のものを「日本」の文化や文脈でどのように適用してゆくのかについて試行錯誤し、考えてきた。
だから、書かれているものや語られたもののなかには、日本とアメリカ、東洋と西洋などの「境界」で考えられたものが多く見られる。(いまでは言葉としてあまり聞かれなくなったが)「国際化」などについて言及しているところも多い。
このような<境界線>で考えること。このことは、ぼくのライフワークでもあり、ほんとうに多くのことを教えられるのである。
そのようなトピックのひとつに、日本人にとっての「競争」ということが挙げられている。
「競争」のよしあしを、ああだこうだと論じるよりも手前のところで、「競争」というものが日本人にとってどのようなものであるのかを、たとえばアメリカを念頭においたりして、考えている。
精神科医の中井久夫との会話に触発されるかたちで、河合隼雄は、この「競争」ということにふれている。
私はもともと「競争」は必要と考えている。自分の個性を伸ばし、やりたいことをやろうとすると、何らかの競争が生じてくるし、それによって自分が鍛えられる。ところが、中井さんが指摘しているのは、日本人は、自分のやりたいことをやる、というのではなく、「集団から落ちこぼれない」ように頑張る、極端に言えば、一番になっておけば、まさか落ちこぼれることはあるまい、という「競争」をしている。つまり、競争の基盤が自分自身にあるのではなく、全体のなかにある。「自分はこれで行く」というのではなく、全体のなかで何番か、を問題にする。
河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
日本的な「競争」にかんする、とても教えられるところの多い考え方である。
日本の多くの子どもたちは「落ちこぼれないための競争をさせられている」ことからキレそうになっているのではないか、とも、河合隼雄は指摘している。
ぼくも「競争」は必要であると考えているが、「競争」ということの、どうもネガティブな意味合いの一端は、言葉にしてみると、中井久夫と河合隼雄が指摘するところであると、ぼくも思う。異文化との<境界線>で考えながら、そう思うのである(だからといって、他の文化圏で「競争」がうまくいっているというわけではかならずしもないところが、「近代・現代」という時代性ともからみながら、むずかしいところである。なお、「近代・現代」のあとの時代の<競争>ということを、考えることができる)。
20年ほどまえに書かれた文章であるけれども、このような状況の核心は、いまでもひろく見られるものではないだろうか。
香港で、「納豆」を食べながら。- 香港で日常化する「納豆」。
2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
海外にいながら、日本と「海外」の<あいだ>のようなところで、いろいろと経験し、いろいろと考え、いろいろと感じてきた。
そんななかで「納豆」を媒体としながら、考えることもあったりする。「納豆」とは、あの、食べ物の「納豆」である。
ここ香港で暮らしながら、ぼくは結構な頻度で「納豆」を食べている。その頻度は、今では日本に住んでいたときと変わらないくらいである。
香港に住みはじめてから11年半ほど経過したが、そのあいだに、納豆はますます容易に手にいれることができるようになってきた。
香港に来た最初の頃は、たとえば、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるSOGOの地下、あるいは日本人が多く住むTaikoo Shing(太古城)にあるAPITAに行って、納豆を含め日本食材を購入していた。それが、最近では、香港系のスーパーマーケットでも、まるでこれまでずっとそこにあったかのように、納豆が並んでいる。
納豆を購入する人が日本人だけにかぎらず、マーケットが拡大してきたのだろう。このようなマーケットの拡大のお陰もあって、納豆が容易に手に入るようになり、ぼくはいつでも好きなときに納豆を食べることができるのだ。
ニュージーランドにいたときはどうだっただろうかと、ぼくは思い返す。ニュージーランドのオークランドで、ぼくは日本食レストランで働いていて、果たしてレストランで納豆を供していたかどうか。さすがに、1996年のことで、ぼくの記憶は定かではない。でも、普段食べることはなかったことを、ぼくは覚えている。日本食食材のお店も、当時は小さなお店があっただけである。
2002年から2003年にかけて西アフリカのシエラレオネにいたときは、さすがに納豆はなかった。シエラレオネにいる日本人は一桁であったし、日本食材というものは、海外で造られたキッコーマンの醤油のようなものを除いてはなかったと思う。アフリカと日本との「距離」をさすがに感じたことを覚えている。
でも、2003年の半ばに東ティモールに移ったときは、驚かずにはいられなかった。当時、まだ日本の自衛隊が東ティモールに展開していたことの影響もあっただろうけれど、日本食レストランがあり、また、日本食食材(製造場所は海外も含む)も、品数は相当に限られながらも、手に入れることができたからだ。そして、その限られた日本食食材のなかに「納豆」があったのだ。
華人の人たちによって経営されているスーパーマーケットに「納豆」があったのだけれど、でも、さすがに購入はしなかった。その納豆は「冷凍」されていて、いつからそこにあるかわからないようなものであったからだ(多分、賞味期限も切れていたのだと思う)。しかし、なにはともあれ、東ティモールで納豆を手に入れることができる。そのことはやはり驚きであり、また日本との「近さ」のようなものを、ぼくは感じたのであった。
そして2007年にここ香港に移り、日本食食材の充実さにぼくは圧倒され、それ以降、ますます充実してゆく日本食食材を享受してきたことになる。
海外に住みながら、<ふるさと>の感覚を感じるときはどんなときだろうと、ぼくは考えたことがあった。ぼくが住んできた場所で、日本からもっとも遠いシエラレオネの地で、より正面からぼくは考えはじめたのだと思う。
そのときに思ったのは、<ことば>(ぼくの場合は「日本語」)であり、また<食べ物>(ぼくの場合は「日本食」)であり、そして、<親しい人たちの存在>ということであった。
もちろん、地球を「ふるさと」とする感覚においては、どの場所をも<ふるさと>とする感覚をもつことは不可能ではない。でも、そのこととは異なる次元において、どんなときに、どんなものに<ふるさと>を感じるのだろうかと、ぼくはこのじぶんの身体の経験を通じて、正面から考え、ことばと食べ物と親しい人たちを<ふるさと>として感じたのであった。
でも、時代は急速に変わってきた。グローバル化の進展と情報通信技術の発展で、ぼくたちは、世界のどこにいても、たとえば日本語で会話し、親しい人たちとつながることができる。場所によっては、日本食も(お金はかかるかもしれないけど)容易に手に入れることができる。だからなのか、日本からだいぶ足が遠のいてしまっている。
香港で納豆をかき混ぜながら、ぼくはそんなことを考える。「納豆」に、<ふるさと>をどこか感じながら。
「日本だけ」と言われることを体験・経験のなかに確認しながら。 - 異国での<書き換え>。
日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります
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日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります。
「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」と言われてきたことは、かならずしも「日本だけ…」ということではないということをです。
「日本だけだよ、…」につづく言葉は、よいこともあれば、あまり好ましくないこともあります。
でも、実際の体験や経験のなかで、その風景のなかで、そのように語られていた言葉やイメージが次第にくずれてゆくことになります。
1回や2回ほど目にしたということ以上に、「日常」を生きてゆくなかで、「日本だけだよ、…」の語法が機能しなくなってゆくのです。
もう20年以上前のことになるけれど、ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口からでる水が「飲める」ということに、ぼくは小さな、でも意表をつかれたおどろきを感じたものでした(今はどうなっているかはわかりませんので、飲まれる際にはご確認を。なお、ぼくはそれでも蛇口からの水は沸騰させて飲みましたが)。
オークランドで、ぼくは同年代の人たち(多くはオークランドの大学に通っているニュージーランドの人たち)と一軒家をシェアしていて、ニュージーランドの人たちの暮らしかたを目の当たりにしながら生活をしていました。だから、フラットメートが蛇口からの水が飲んでいるのを見て、蛇口から水を飲めるのは世界で「日本だけ/くらい」と思っていたから、びっくりしたのでした。
飲むことにほかに、食べることでもそのようなことはあります。たとえば、よく言われる「麺をすする」食べ方。「麺をすする」食べ方は、日本人だけ/日本人くらいだと思っていると、ここ香港のレストラン・食堂で、となりの席の人が麺をすするように食べているのを見て、「あれ、違うぞ」と、ぼくはじぶんの認識をよびだして、そこに注をつけたり、あるいは書き換えをしなければならなくなるのです。そんなふうに「書き換え」をしたあとに、韓国のテレビドラマのなかで、麺をすするシーンがあるのを見たりもしました。
さらに、飲むことや食べることに加え、住むこととなると、ぼくはどこかで、住環境が「狭い」のは日本だけだと思っていたのでしたが、香港に住んでみて、日本だけじゃないぞ、と身体で実感することになりました。日本の細やかな技術や製品(たとえば収納用品など)が、香港のような場所に活躍の場をもっているわけです。
もちろん、「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」という言い方は、語っているものごとを誇張し強調するための便宜的な言い方かもしれません。ほんとうに「日本だけ」とは思っておらず、ただ圧倒的な少数としての意味合いで「だけ」や「くらい」を使っているということです。
それでも、そのような言い方をふだんからしていると、それがあたかも「現実」のように感じられたり、考えられたりしてしまうように、ぼくは思います。ぼくも生まれてから20年くらいのあいだに、いろいろな言葉や思考を吸収して、思い込みや偏った見方をそれとなしに、じぶんのなかに構築してきてしまったのだと思います。
さらに、これまでの巨大な知性たちが語り、知性たちの延長線上に「日本辺境論」として内田樹先生がえがく、日本・日本人の思考・行動様式も思い起こされます。
私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…内田樹『日本辺境論』新潮新書
「日本とは…」という日本文化論の<決定版>をもたず、常に同一の主題に繰り返し回帰する。日常のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。そのようなあり様が、「日本だけ」や「日本くらい」という語法とも、どこか結びついているように、ぼくには見えます。
いずれにしろ、ぼくは、じぶんの体験・経験のなかで、じぶんのなかの何かをこわしながら、じぶんのなかに何かをつくってきているのだということを、現在進行形の時制で感じています。
香港の、ふつうの「電車の風景」のなかで。- 「何時何分」と「次の電車」とのあいだ。
「電車」の風景(あるいは、「電車のない」風景)がある。
「電車」の風景(あるいは、「電車のない」風景)がある。
「あたりまえ」のことだけれど、住むところによって、「電車」のある風景があり、「電車」のない風景がある。
ニュージーランドには電車が通っているけれど南北すべてに通じているわけではないし、西アフリカのシエラレオネには(昔はあったようだが)電車は走っていない。
東ティモールにも電車はない(ぼくがいたころの東ティモールには車道に「信号機」さえなかった)。
ニュージーランドでも、シエラレオネでも、東ティモールでも、そのほとんどは、自動車(ニュージーランドではバスも)による移動であった。
ここ香港には、香港MTR(港鉄)がそのネットワークを拡張しながら、香港の人びとの活動のけっして欠かせない部分となっている。
ネットワークといえば、今年(2018年)の9月には「広深港高速鉄道」(広州から深セン、香港に至る高速鉄道)が新たに開通している。
MTRがどれほど香港の日常に入り込んでいるかは、10月のある日の午前、香港の4つの鉄道車線においてシステム不具合のため「マニュアル運行」となり大混乱となったことからも、うかがうことができる。
こんな具合に、いろいろなところに住んでいると、電車のある(電車のない)風景があって、そこの場所にいるときには「ふつうのこと」のように見えるのだけれど、その場所からはなれたり、あるいはその風景のなかで「心象世界」をすきとおらせてゆくと、ときに不思議なことに思えてくるのである。
そんなふうにして「香港MTR」のことをかんがえていたら、電車が到着する「時間の表示」も、たとえば東京のそれとは異なるのだと、「あたりまえのこと」だけれども、改めて「見えて」くるのであった。
東京では、プラットフォームの電光掲示板には「何時何分」の電車ということがわかるようになっている。
日々の移動は、この「何時何分」にかけられていて、生活や活動がこの「何時何分」によって動いてゆく。
こんなことを考えていると、今年の5月にBBCのニュースで「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわしたことを、ぼくは思い出すことになる。
そのニュースは、日本の鉄道会社が、電車が25秒早く駅を出発したこと(数ヶ月の内に同様のケースとして2件目)について謝罪したことを伝えていた(もちろん言外の驚きとともに)。
香港MTRでは、ぼくの知るかぎり、「何時何分」という表示はないし、時刻表も(始発・終電を除いて)ない(システム上はあるのだろうけれど、どこにも記載されていないから、電車の利用者としては正確にはわからない)。
中国語と英語それぞれの表示が、代わる代わる、あと「何分」を表示し、到着直前に「到着」の表示がされる。
香港MTRのアプリのひとつが『Next Train』という名前と機能でつくられているように、「次の電車」がいつくるのか(何分でくるのか)が、肝要であるのだ。
この表示のされ方も、このように「次の電車」を待つ仕方も、ぼくは今ではごくごく「あたりまえ」のこととしながら電車を利用しているけれど、東京に住んでいたときとは「異なる」ということを思う。
そして、そう思いながら、この「異なり」が、どのような「時間感覚」や「生活感覚/生活様式」の<違い>をもとにして現出しているのか、あるいは、これらの「異なり」が、(ぼくを含めて)ここに住む人たちの「時間感覚」や「生活感覚/生活様式」をどのように醸成していくのか、ということを考えてしまう。
東京はさまざまな鉄道路線(鉄道会社)が存在しているから、それらの「つながり」をつくるには、「次の電車」ではなく、「何時何分」という<時刻>が要請されるようにも思う。
ただし、それだけだろうか、という問いがわいてきては、ぼくのなかに「仮説」をつぎからつぎへと生んでゆくのである。
そのような「仮説」を頭のなかでゆらせながら、ぼくは、香港の「電車の風景」を見る。
それにしても、「何時何分」によって社会システム(および生活システム)のすみずみまでが編成されていることについては、日本の外に住んでいると、ますます驚嘆させられるものだ(それがよいかどうかなどは別のこととして)。
海外に出てゆくさいの「必読書」の一冊。- 内田樹『日本辺境論』という必読書。
日本から海外に出てゆくとき、その形態が旅であれ、ワーキングホリデーであれ、仕事であれ、移住であれ、読んでおきたい「必読書」。
日本から海外に出てゆくとき、その形態が旅であれ、ワーキングホリデーであれ、仕事であれ、移住であれ、読んでおきたい「必読書」。
もし、そんな「必読書リスト」をつくるとしたら、ぼくは迷わずに、つぎの一冊をリストに加える。
内田樹『日本辺境論』(新潮新書)。
これは、日本・日本人論である。
内田樹自身が言及しているように、「日本・日本人論」の射程において、この本にはほとんど創見といえるものは含まれておらず、「日本・日本人論」について知っておくべきことは、これまでに論じ尽くされている。
「問題は…」と、内田樹は続けて書いている。
問題は、先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として語り継ぐこともなく、ほとんど忘れてしまって今日に至っているということです。
先人たちが、その骨身を削って、深く厚みのある、手触りのたしかな日本論を構築してきたのに、私たちはそれを有効活用しないまま、アーカイブの埃の中に放置して、ときどき思い出したように、そのつど、「日本とは……」という論を蒸し返している。内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
ここで言われている先賢や先人には、たとえば、丸山眞男、沢庵禅師、梅棹忠夫、養老孟司、司馬遼太郎、川島武宜などが念頭されているが、この「問題」について、ぼくは同意せざるをえない。
内田樹が提案するように、これらの先賢たちの論に一気に向かうことも方法のひとつではあるけれど、いきなり丸山眞男や沢庵禅師を読もうと思う人は比較的少数だろう。
だから、内田樹による、さまざまな日本論の「抜き書き張」(内田樹)は、創見はなくても、そのようであることで役に立つものあるし、また「唯一の創見」と内田自身が語るつぎのような事実には、目を開かれざるをえない。
私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
冒頭のほうでこのように言及される箇所を読んだだけで、ぼくはこの本の価値を高くひきあげてしまった。
日本の外で16年以上の歳月を過ごしながら、執拗にぼくのもとにやってくる問いたち、「日本文化とは何か」「日本人とはどういう集団か」などなど。
日々の生活や仕事のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。
そのようななかで先賢たちの日本論にはやはりはっとさせられ、納得させられたりするのだけれども、さらにそこに通底している「日本人の宿命」(同一の主題に繰り返し回帰すること)という視点は、じぶんの立ち位置そのものを問われるような感覚が一気にわきおこるのである。
「グローバルに活躍する方法」だとか、「グローバル人材になるために」だとか、「異文化理解のために」だとか、いろいろと役に立つ本はあるし、実際の生活や仕事で効果を発揮することもあるだろう。
けれども、方法論だけをじぶんに重ね、それまでの「じぶん」というものを所与のものとしていると、これまでの経験などに条件づけられた思考や行動が、いろいろな場面で、無意識のままに、現れてくる。
そのところも含めて射程とし、対自化しておくためには、「日本文化とは何か」や「日本人とはどういう集団か」といった問いに正面から向かっておくことが必要になる。
だから、海外に出てゆくさいの「必読書」の一冊として、ぼくは迷わず、この、内田樹『日本辺境論』(新潮新書)をリストに加える。
「序破急」と「英雄になる基本構造」(Joseph Cambell)の違い。- 引き続き、能楽師安田登に耳を傾けて、メモをとる。
能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
つまり、能の創作において、世阿弥は「能の構造」を「序破急(じょはきゅう)」にするように説いていることである。
「序破急」はそもそも雅楽の用語であったのだが、世阿弥は「観客を引き込む作劇法」として応用したという。
安田登の説明(前掲書)をもとにすると、能における「序破急」は以下のようになる。
●「序」:観客を場に引き込む。いろんな要素を投げることで、無意識下に「何か」を埋め込む。
●「破」:大切なことをじっくり展開する。途中で(半分くらい目を開けて)眠くなる状態がよく、観客の心の深いところに降りてゆく。
●「急」:目が覚めることをする。
能においては、さらに、それぞれのなかに「序破急」があるという(たとえば、「序」のなかに「序破急」があるというように)。
このような「序破急」は、演劇や音楽の分野にかぎらず、華道・茶道、書道、武術、文学などに応用されていったようで、安田自身も、この方法論を、短い文章を書くこと、プレゼンテーションをすること、講演することに適用していることを述べている。
安田登の好奇心と知見のひろがりと深さに圧倒されながら、ぼくが興味深く読んだのは、「序破急の構造」と「英雄になる基本構造」の比較(違い)についての見方のところであった。
「英雄になる基本構造」は、アメリカの神話学者Joseph Campbell(ジョーゼフ・キャンベル)が神話のなかに見出した「構造」のパターンである。
それは、世界の様々な神話に共通する英雄の型であり、キャンベルは「Departure 出発 - Initiation 通過儀礼 - Return 帰還」として見出している。
これに関連してよく知られているのは、キャンベルの「英雄になる基本構造」に感化されたジョージ・ルーカスが、映画『スター・ウォーズ』の制作においてこの「構造」をベースにしたことであり、安田登も、本のなかで、このことにふれている。
そのうえで、安田登は、『スター・ウォーズ』の構造が、「序破急の構造」になっていることを指摘しながら、しかし、能とキャンベルの見た神話との「違い」について、つぎのように書いている。
能とキャンベルの見た神話との違いは、後者は必ず「帰還」の場面があることでしょう。召命を受けた主人公が、一度共同体から出て敵と戦い、そして帰還することによって、共同体を救う。現実的に変わることを大事にする、これは英雄の類型です。
でも能の場合は、事態に変化はありません。自分の過去を語り、ときには恨み言を言った幽霊は本姓を明かして去るだけで、現実的に何かを変えるわけではない。でも、旅人(ワキ)に話を聞いてもらった幽霊(シテ)は救われ、ワキ方が演じた、幽霊と出会い、その声を聞いた現世の人の内面も確実に変わっています。そして、それが結果的に共同体を救うことになるのです。安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
「現実的に変わることを大事にする英雄の類型」と「現実的に何かを変えるわけではない類型」。
このような「対称性」ということにおいては、異なる角度から、思想家の加藤典洋が、「ディズニーのアニメ」と「宮崎駿のアニメ」を対置しながら、登場人物たちの「成長」ということを素材に書いている(加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年)。
加藤典洋は、「ディズニーのアニメ」を「大人から見られた成長」としている。
ディズニーのアニメは、物語として悪に対峙する「正義」の物語が展開され、またその過程において「子どもが大人になるという成長」の物語である。
そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまう成長観、言い換えれば「近代的な成長の物語の型」があると、加藤典洋はいう。
宮崎駿は、このような型とは異なる現実を描く。
映画『千と千尋の神隠し』では、映画の冒頭でトンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてこの世界にもどってくるときも、千尋は相変わらず心細そうに母親の手にすがりついている。
そこでは「成長」は目に見える形では見られない。
けれども、千尋やその周辺に変化が見られないとしても、だからといって、成長や変化や影響がないということではないだろう。
ただし、それらが「見えにくい」ということはある。
このような対称性において、どちらが良いだとか悪いだとかいうことではなく、ひとまずはそのような対称性(違い)があるのだということだけを、ここでは書いておきたいと思う。
このことを問題意識のひとつとして、ぼくの「考えること」の抽斗に、いったん入れておくのである。
能楽師安田登に引き続き耳を傾けながら、ぼくはこうして、メモをとる。
伝統芸能「能」における5つの効用。- 能楽師安田登の「夢中さ」に伝染する。
ぼくは、別のブログで、「伝統芸能「能」で、眠くなってしまう「メカニズム」。- 安田登の「解釈」。」と題して、「能」を見ながら眠くなってしまうことについて、能楽師である安田登による興味深い推測・解釈を紹介した。
ぼくは、別のブログで、「伝統芸能「能」で、眠くなってしまう「メカニズム」。- 安田登の「解釈」。」と題して、「能」を見ながら眠くなってしまうことについて、能楽師である安田登による興味深い推測・解釈を紹介した。
伝統芸能を見ながら、やはり眠くなってしまうぼくの疑問に、興味深い「視覚と視点」を与えてくれる解釈であった。
「眠くなる=つまらない」という短絡的かつ狭い思考では到底およびつかないような思考でもって、安田登は語ったのであった。
そのような思考と語りに導かれながら、ぼくは、安田登の著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)をひらく。
今では能楽師としても舞台にも立つ安田登はもともと高校教師、ジャズなどの西洋の音楽に夢中でバンドにあけくれていた24歳の頃に、初めて「能」の舞台を見たという。
この能の舞台に度肝を抜かれ、安田登は門をたたき、玄人に習ってプロになる(そんな「安田登」だから、ぼくは惹かれたのかもしれないという想念がよぎる)。
こうして能楽師として日々舞台に立ち、自分なりに能を学んでゆく安田登は、社会資源としての「能における5つの効能」について書いている。
その1 「老舗企業」のような長続きする組織作りのヒントになる
その2 80代、90代でも舞台に立っているほどなので健康寿命の秘訣がある
その3 不安を軽減し、心を穏やかにする効能がある
その4 将軍や武士、財閥トップが重用したように、政治統治やマネジメントに有効
その5 夢幻能の構造はAI(人工知能)やAR(拡張現実)、VR(仮想現実)など先端技術にも活かせて、汎用性が高い
安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
キーワードとして繰り返すなら、組織作り、健康、ストレスマネジメント、組織マネジメント、情報技術であり、これらは現代において、ぼくたちの切実な問題・課題に重なってくるものだ。
「歴史」は、現在における新たな視覚・視点を獲得することで、それまで見えていなかった風景や事象が前景化してくるように、安田登の視覚・視点は、「現代」という時代をメガネとしながら、「能」における効能を前景化している。
この本では、これらについて、折々に説明が加えられている。
これだけでも、好奇心がそそられる内容である(気になる方はぜひ手にとられてみてはいかがだろうか)。
高校教師をし、バンドにあけくれていた安田登が「能」に出会ったときの、心身の泡立ちのようなもの、どうしても惹かれてしまう心身の衝動が、この本のなかに、今でも生き続けているのを見ることができる。
安田登は、この本について、つぎのように書いている。
よく「能はわからない」と言われます。ですが、バンドに明け暮れていた自分がここまで夢中になって続けてこられた魅力をお話したい、そんな風に思っています。なにしろ能は、やっていてお得なことが多い。よく言われますが単に「眠くなる」だけだったら、そもそも650年も愛され続けるわけがありません。
安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
そんな安田登の「夢中さ」に引かれるようにして、ぼくは、夢中で、安田登のインタビューを読み、本のページをひらき、語りに耳をすませている。
ある種の「夢中さ」は伝染するのである。
「外国に行って外国の人とよくつきあう日本人」は日本のことを理解しているか?。- 作家橋本治の叱咤激励。
ぼくがちょうど、海外に出るようになった1990年代半ば、作家の橋本治は、日本が経済大国となった頃に外国のあちこちで挙がることになった「日本人はよくわからない」という声について、その「理由」の推測を、つぎのように書いている。
ぼくがちょうど、海外に出るようになった1990年代半ば、作家の橋本治は、日本が経済大国となった頃に外国のあちこちで挙がることになった「日本人はよくわからない」という声について、その「理由」の推測を、つぎのように書いている。
…どうして外国の人が日本のことを「わからない」というのか?理由はいろいろあるでしょうが、私には「もしかして」と思うことがあります。それは、「外国に行って外国の人とよくつきあう日本人が、あまり日本のことを知らないから」ということです。
…英語を熱心に勉強してちゃんと英語が話せるようになった日本人はいっぱいいます。英語が話せて、外国語にくわしくて、外国人とよくつきあう人たちです。でも、そういう人たちが、一転して「日本のこと」になったらどうでしょう?日本の古典や日本の歴史や日本の伝統文化のことをきちんと理解している人たちは、どれくらいいるでしょう?橋本治『これで古典がよくわかる』(ごま書房 1997年→筑摩書房 2001年・2014年に電子書籍)
この箇所を読みながら、ぼくはなぜか「既視感」を覚えていた。
ぼくは2000年前後にこの本を「読んでいた」のかもしれないという感覚である。
それで、たぶん、そのときにおいても、この箇所が「気になる」ところで、またじぶんに「突き刺さってきた」ところであった、という感覚である。
1990年代半ばから、アジア諸国を旅し、また1996年にニュージーランドに住んだぼくは、「「日本のこと」になったらどうでしょう?日本の古典や日本の歴史や日本の伝統文化のことをきちんと理解している人たちは、どれくらいいるでしょう?」という言葉を強烈に突きつけられたのであった(と思う)。
もしかしたら、この本を以前に「読んでいない」のかもしれないけれど、それでも、どこかで出会った同じ趣旨の言葉に、当時のぼくは、「理解していない」、の言葉以外に返す言葉をもちあわせていなかった。
実際に、たとえば、ニュージーランドで「日本のこと」を聞かれて、応えられることもあれば、応えられなかったこともあり、そのような経験は、日本のことを「理解していない」じぶんを浮き上がらせてきたのであった。
明確に書いておきたいことは、「日本・日本のこと」を知りたいとぼくが心の底から思ったのは、「日本の古典や歴史や伝統文化を学ばなければだめじゃないか」という声によってではなかったこと。
むしろ、外国の人たちに聞かれて「応えられなかった」ことの情けなさ、あるいは、日々の仕事や生活のなかでどうしても現出してしまう「日本的なるもの」の存在(異文化との差異のなかで明示的に浮かび上がってくる思考や行動)といったものが、「日本・日本のこと」を知りたいと思う気持ちを醸成し続けてきたのだと、ぼくは思う。
また、日本から物理的に距離を置いているという距離感が、ある程度客観的な思考の条件をつくり、さらには「日本・日本のこと」への好奇心の火に薪をくべてくれたのであった。
と同時に(とは言っても多少の時間差はあっただろうけれど)、「他者」、つまり住んでいる国や地域の人たちのことも、もっともっと知りたくなったということも、ぼくの経験に刻まれている。
だから、「日本・日本のこと」だけを知ろうとするのではなく、ぼくは好奇心の赴くままに、楽しみながら学んでいる。
ところで、2000年前後から時はうつり、今では、ほんとうに多くの外国の人たちが日本を訪れるようになった。
冒頭に挙げた橋本治の言葉を裏返せば、もし「日本人はよくわからない」と言われるのであれば(今実際にどう言われているかはわからないけれど)、「日本で外国の人とよくつきあう/コミュニケーションをとる日本人が、あまり日本のことを知らないから」ということもあるかもしれない(もちろん、日本を訪れる人たちは、言葉によるコミュニケーションだけでなく、まさしく「体験」として日本にふれることになるので、事情は異なっている。)。
このように書いて、「だから、日本のことを知ろう」などと声高らかに語ろうとはぼくは思わない。
でも、なんらかの形で、いろいろな文化の人たちと「ふれあう」体験があってほしいなとは思う。
そしてそんな「ふれあい」が、心温まるものであったり、ただ可笑しさにあふれるものであったり、あるいは何かの「問い」や好奇心を立ち上がらせるものであったりするとよいなと思う。
相手を知るということは、雪がふりつもっていくように、そのようなふれあう体験のつみかさねである。
中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』。- けっして「古くない」、日本・日本の組織や集団・日本人を「視る」視点の提起。
ある本で、つぎのように論じられている。
ある本で、つぎのように論じられている。
…海外滞在が長いと出世がおくれる、ということは多くのサラリーマンたちの口にするところである。…本国の中央から遠くにいるということは、マイナスを意味するというのが常識になっており、事実、日本の人事というものがその傾向を充分もっていることはいなめないのである。
この現場軽視の思想が、現地駐在員の発言権を弱め、彼らの現地生活は腰かけ的な一時しのぎのスタイルを生むのである。…
これは、中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』(講談社現代新書、1972年)の一節であり、今から45年以上も前の論考であるにもかかわらず、それはある側面において「今」を分析しているかのように思われる。
もちろん、この45年ほどの間に、グローバリゼーションが進展し、経済社会的に、あるいは企業組織的にも、いろいろな(そして、ときに根本的な)変化を遂げてきてはいる。
現地駐在員の方々の中には、現地生活を一時しのぎではなく、そこに「ミッション」を定めながら、仕事に傾注してきた/傾注している人たちがいる。
また、現在の状況においては、海外滞在が多くの「プラス」を意味していることもある。
そのような変化や個人的な傾注にかかわらず、また冒頭の文章も企業・組織によっては現在の状況とのズレがでていることを考慮に入れたうえで、それでも、「日本社会また組織」という地平からみるとき、中根千枝がこの本で書いていることは、さまざまな点において、「今」の状況をかんがえるための視点を与えてくれる。
中根千枝は社会人類学者であり、今でも読み継がれている、中根千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書、1967年)がよく知られている。
この本の「姉妹篇」として、『適応の条件:日本的連続の思考』が書かれている。
ぼくが『タテ社会の人間関係』を読んだのは、大学に在学中の頃であったから、20年ほど前のことになる。
「日本社会」におけるいろいろな疑問を感じていた頃に読んだこの本は、その疑問の背景を、まるで「見方・考え方」にひとつひとつ輪郭をつくることで理解させてくれるような本であった。
少し長くなるけれども、目次の全体を下に書いておきたい。
【目次】
まえがき
第一部 カルチュア・ショックー異文化への対応
1ー異なる文化の拒絶反応
2ー日本文化(システム)への逃避
3ー表現と実行のあいだ
4ー特定ケースと一般化の問題
5ー日本的システムの強制
6ー日本的信頼関係の敗北
7ー契約に信頼をおく欧米との違い
8ー現地社会への逃避
9ー国内用の異国
10ー外国語の修得と文化の関係
11ー個人差による適応度
第二部 日本の国際化をはばむものー社会学的諸要因
1ー厚い“ウチ”の壁
2ー日本人の社会学的認識
3ー連続の思考・ウチからソトへ
4ー二者間関係における連続
5ー義理人情の分析
6ーもてる者ともたざる者の関係
適応の条件ー結びにかえて
「異文化への対応」と「日本の国際化をはばむもの」という、「今でも」本質的なものとして立ち上がる課題にたいして、1970年代初頭という「国際化」のはじまりの時代に、中根千枝は自身の海外経験と「タテ社会」の論理をもって向かい、論を展開している。
一部の記述は当時の状況を反映したものであり、一見すると「古さ」を感じるものである。
しかし、日本企業のより積極的な海外進出などを見ることになった「国際化」の初期の時代だからこそ、現象する問題が先鋭化されて発現することもあること、またそれらを駆動する力学は今でも見られる現象や問題を分析する上で大切な視点を与えてくれることから、「古くない」と言える論考である。
むしろ、それは、海外の日系企業において変わってゆく形態や施策や試みや努力などの底流において、今も生きつづけている力学を論じていると、ぼくは読む。
こうして、冒頭の状況に戻ってくる。
底流に生きつづけている力学としての「タテ社会」は、つぎのように書かれている。
…「タテ」のイメージは、自己中心的な社会認識と異なるようであるが、いずれもヒエラルキーの頂点あるいは自己という基点を設けて、そこからの距離によって他の人々、集団を位置づけるという点で同じである。いずれも異質の存在、機能というものを考慮にいれないところに特色があるといえよう。
タテ組織の頂点、あるいは自己(集団)を基点とする思考方法によるイメージ化は、さらに、中央から地方へというスキームに結びつくものである。これは、本書のテーマからいえば、本部と現場、本社(本省)と海外駐在員ということになる。
中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』講談社現代新書、1972年
この力学において、「日本人全体、そして日本の中枢の人たちは、まだ本当にソトの世界を理解しようとしていない」のであり、このことは「『ソトに出る者』は相対的に低い地位におかれてきたという、社会学的なシステムと密接に関連している」と、中根千枝は書いている。
繰り返しになるが、現在における、海外における日系企業の動きにおいては、さまざまな動きと試みによって、「タテ社会」から生じる問題の克服、あるいはそれ自体の構造変化をねらうものが見られる。
けれども、と前置詞を置いた上で、ぼくは、この現代においても、いろいろな実際の場面で、ぼくは、中根千枝の指摘するような状況を見て取るのである。
この小さな本(新書)には、そのような指摘と分析、そしてときに厳しいコメントが詰まっている。
20年ぶりに中根千枝の本をひらき、その20年のほとんどを海外で仕事をしてきた経験を本の内容に重ねてみながら、ぼくはここ香港で、日本・日本の組織・日本の集団・日本人について、いろいろと深くかんがえさせられる。
「25秒早く出発した日本の電車」のニュースを、日本の外から見て。- 「時間の比較社会学」(真木悠介)の視点と共に。
先日BBCのアプリでニュースを読んでいたら、「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわした。
先日BBCのアプリでニュースを読んでいたら、「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわした。
日本の鉄道会社が、電車が25秒早く駅を出発したこと(数ヶ月の内に同様のケースとして2件目)について謝罪したというニュースだ。
記事に書かれているとおり、電車が(極度に)時間通りに運行されることにおいて、日本の列車は高い評価を得ている。
しかし、25秒というように秒刻みで動く社会の「ニュース性」ということが、日本という社会の特異性を示してもいる。
日本に住んでいると、そのような電車があたかも「あたりまえ」のように生活する一方で、ひとたび、日本の外に出ると、そのことが「あたりまえではないこと」として、見えてくる。
アジアのいろいろなところを旅し、ぼくはこれら双方の視点で、「時間」をかんがえてきた。
社会学者の真木悠介(=見田宗介)は、1970年代にメキシコに住んでいた折に、日本で電車が1時間ほどおくれたことから暴動がおきたことを報じるメキシコの新聞を見て、次のように書いている。
…それは必ずしも先天的な「民族性」云々の問題ではなく、「みんな生活がかかっている」のだ。精緻なシステムの破綻するときに一挙に裂け目を噴出するそのエネルギーは、分刻みに追われる時間に生活がかけられている社会構造が、平常はみえないところに抑制し、たくわえられているいらだちの情動のようなもののすごさを思い知らされる。「1日に2度とおる」というバスを朝から待つようなくらしの中で、“緊急用件”の無限連鎖のシステムとしての<近代>のうわさがとおい狂気のように伝わってくる。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
日本における「時間どおり」はとてもすごいものだと思う一方で、さすがに、「25秒」に「みんなの生活がかかっている」システムと生活は行き過ぎだと、日本の外にいながら、ぼくは見つめる。
海外に駐在する駐在員の人たちが「ぶつかる」問題に、出勤などにおける「時間」の問題があるけれど、その問題の詳細はさておき、「時間感覚」の違いが、このようなニュースにも見てとれるように思う。
真木悠介は、日本とメキシコの「間」に置かれながら、時間はたんに費用(コスト)にすぎない<近代>の世界と、メキシコなどのいなかの市場で売り手と買い手のはてしないかけひきに1日を暮らす人たちの世界をかんがえている。
…インディオたちにとって、時間はどんな時間でもそれ自体人生であるようにみえる。バスを待つ時間は近代人にとって、最小限にきりつめられるべき無意味な余白か、本をよむこと(doing!)などに有効に活用されるべき資源だ。インディオたちはどんな時間も等価に充実していることを知っているから、待つときは待つことのうちに現実に存在してしまう。彼らが関心をもっているのは時間を活用することではなく、時間を生きることだ。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
どちらがよい・悪いということではなく、ぼくたちが「あたりまえ」としている日常を、「あたりまえではないこと」として照射する視点を投じている。
真木悠介はこの問題意識を熟成させながら、後年、名著『時間の比較社会学』を書いている。
近代がもたらした「光の巨大」を豊饒に享受しながら、近代の「闇の巨大」を乗り越えてゆくところに生き方をひらいていくうえで、とても大きな課題が提示されてもいる。
「時間」ということを通じて、現在と未来に目を向けることは、ぼくたちの「生きる」という経験の芯へと、ぼくたちを導いていく。
ひきつづき、「日本と心」への視点。-「近代科学と心」(河合隼雄)を読みながら。
松岡正剛が「ビフテキと茶碗蒸し」(松山幸雄)という、意外性のある「日本とアメリカ」の対比に触れる考察を取り上げ(2018年5月8日のブログ)、「日本人の会話」について書いた。
松岡正剛が「ビフテキと茶碗蒸し」(松山幸雄)という、意外性のある「日本とアメリカ」の対比に触れる考察を取り上げ(2018年5月8日のブログ)、「日本人の会話」について書いた。
また、日本人のコミュニケーションという視点から、平田オリザが提案している、協調性から社交性へという、コミュニケーションの質の転換について、別のブログ(2018年5月9日)で触れた。
「心からわかりあえなければコニュニケーションではない」という、日本的なコミュニケーションの前提に疑問を付し、「わかりあえないこと」を前提とした社交性のコミュニケーションに活路をひらいている。
「対比」と「心」ということを組み合わせてみると、以前は、「日本は心、西洋は物」というような言い方をする人たちもいた。
この対比について、心理学者・心理療法家の河合隼雄が「近代科学と心」というエッセイのなかで、書いている。
1980年末頃のこと、河合隼雄がアメリカの大学を訪れたとき、「日本に臨床心理士はいないのですか」と言われて恥ずかしい思いをしたときのことだ。
そのアメリカの大学は日本の医療の研究を詳細に行なっており、臨床心理士というのがないので不思議に思ったという。
日本人は「自分たちは心を大切にする国民だ」と言って、「西洋の物質文明」に対抗するようなことを言うが、「心の専門家」を大切にしない日本人の方がよほど「物」ばかり大事にしているのではないか、と痛いことを言われた。日本人のなかには経済の成長にともなって、外国に行き、日本文化の優位を述べたりするときに、日本は心で西洋は物などということを単純に割り切って言う人があるので、これに反発している人が先のような質問をすることになるらしい。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
この文章につづけて、「日本で臨床心理学の発展が欧米の先進国に対して極端に後れをとった理由」について、若干の考察を加えている。
その第一としては、日本が西洋の文明に学ぼうとしはじめたころ、西洋においても臨床心理学などはまだなかったことなどである。
その後、西洋の学問体系を追いつき追いこせとやってきたけれど、ある程度の形ができあがっている日本の大学では、急に新しいものを取り入れるのは難しいといった、大学の学問としての側面についての考察である。
それらの視点に学びながら、他方で、ぼくの思考に、松岡正剛と平田オリザたちの思考がはいってくる。
平田オリザが書くように、「心を一つに」などといった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきていた日本。
そのような協調性の磁場の内にあっては、「心の問題」は見えにくく、語られにくいところにあったのではないかと、ぼくは思う。
しかし、日本の高度成長とともに進む日本的な共同体の解体のなかにおいて、いわゆる個々の自我・自己の問題がより出てくることになる。
そのように近代化のプロセスのなかで、社会と人が、別々にではなく、互いに影響しながら変化してゆく。
経済成長のつづくアジアでは、このような社会と人の変化のなかで、「心の問題」がいっそう表面化してきているし、これからも増えていくものと思われる。
西洋が進んでいて、アジアが進んでいないという問題ではなく、近代化のプロセスを同じように取り入れてきている世界の各地で、あるところで起こった問題は、(形や内実を変形・変容させながらも)いずれ他のところでも起こる可能性がある。
そのような視点において、ぼくは、例えばアメリカで起きてきたことを、なるべく知り、学んでおくようにしている。
「比較・対比」による文化・社会の考察。- 松岡正剛による「ビフテキと茶碗蒸し」(松山幸雄)の考察。
ビフテキと茶碗蒸し。まったく意味のわからない並置は、日米文化比較のエッセイ集の著書名である。
ビフテキと茶碗蒸し。
まったく意味のわからない並置は、日米文化比較のエッセイ集の著書名(『ビフテキと茶碗蒸し』暮しの手帖、1994年)である。
書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」の1673夜(2018年5月2日)にて、とりあげられた本である。
著者の松山幸雄は朝日新聞のニューヨーク支局長やアメリカ総局長を遍歴した人物。
著書は1994年に発刊され、このエッセイが書かれた時代背景も一昔前ではあるけれど、松岡正剛も指摘するように、「ビフテキと茶碗蒸し」というタイトルの対比は意外なものであり、好奇心をそそられるものだ。
松山幸雄が国際会議に参加しているとき、途中ずっとハンバーグやビフテキだったところ、最終日に行った料理店で出てきた茶碗蒸しに同行者一同が感激したことの体験から、「ビフテキと茶碗蒸し」にアメリカと日本の違いを見てとったという。
このような文化の比較・対比は、松岡正剛がここで例を挙げているように、これまでもさまざまに語られてきた。
そのような比較・対比が語られるようになってきた流れを、例えばルース・ベネディクト『菊と刀』などに見ながら、松岡正剛も、きりっとした比較・対比を文章にもりこんでいる。
「訴訟するアメリカ、自粛する日本」や「以言伝心のアメリカ社会、以心伝心の日本社会」などの側面を、博識と慧眼に支えられた視点で書いている。
ぼくがおもしろく読んだ箇所は、「過剰サービス社会の日本」という文脈で、アメリカの作家スーザン・ソンタグと松岡正剛が国鉄に乗っていたときのやりとりである。
本書には、ラッシュ時の駅のアナウンスが「降りる人がすんでから、すいている扉から順にお乗りください」と言っている例が出ていたが、ぼくもスーザン・ソンタグ(695夜)と国電に乗ってアナウンスや貼紙の文言を尋ねられたときは、いやになった。「いま、何て言ったの?」「電車が入りますから、白線より下がってお待ちくださいって言った」「いまのアナウンスは?」「前の人に続いて順にお乗りください」「その次のは?」「閉まる扉にご注意ください」「あっそう。これは、なんて書いてあるの?」「指がはさまれるのをご注意ください」。ソンタグは呆れ、「日本人ってそこまで言われないとわからないのね」。
いや、言われないとわからないのではなく、「サービス過剰」と「言わずもがな」と「責任回避」が一緒くたなのである。ソンタグは遠慮なく追い打ちをかけてきた。「どの駅でも同じことを言っているの?」、ぼく「そうね」。ソンタグ「公衆道徳はどこにあるの?」、ぼく「公示するんだね」。「ふうん、自主性を教えられていないのね」、ぼく「そうだ」。そう言うしかない。
「あの」スーザン・ソンタグがどのように日本社会を観たのかということ、またその視点の新鮮さ、さらに松岡正剛の応答と考察を、ぼくは興味深く読んだ。
さらに、著者の松山幸雄がかなり苛立っているという「日本人の会話力」についての松岡正剛の考察も、海外に住んできたぼくとしては、やはり耳を傾けたくなる。
英語はうまくなる必要はない。発音も二の次でいい。要めになる単語をはっきり言えば、あとはもぐもぐしてもいい。それよりも「何を話すか」「何を話しているか」を方向づけ、そこを強調したほうがいいに決まっているのだが、ところがこれがへたくそだ。ぼくは同時通訳のグループを10年ほど預かって、いかに日本人の会話やスピーチの通訳が厄介か、要約するのが困難か、かれらから何十回となく聞かされてきた。白洲正子(893夜)もずっとそう感じていたようだ。『白洲正子自伝』(新潮文庫)に、英米人は日本人が何を話しているのかわからないといつも言っているという話を書いていた。
このようにとてもストレートに、松岡正剛は書いている。
ぼくは会話や会議や議論でこのような失敗をいっぱいしてきたうえで言うのだけれど、松岡正剛の意見に同感である。
アメリカなどに限らず、アジアにおいても、日本人が「何を話しているのかわからない」と感じる人たちに、ぼくは数えきれないほど出会ってきたのだ。
なお、松岡正剛はこの会話力の文脈の流れで、「ディベート」についても言及し、独自の視点を一気にさしこんでいる。
このような「比較・対比」は、じぶんを知り、他者を知り、そしてその間の距離を確かめ、柔軟に実践していくことにおいて、有効な方法のひとつである。
もちろん、それは事象の側面をわかりやすくきりとったものであり、「わかりやすさ」が切り捨ててしまう側面もある。
また、そのような比較・対比が「偏見化」してしまい、実際の事象を観るときに、見方を固定してしまう可能性もある。
そのような負の側面を考慮しつつ、それでも、有効な方法のひとつとして、ぼくたちはそこから学び、そこにとどまるのではなく、そこから思考や考察をひろげてゆくことができる。
それにしても、「ビフテキと茶碗蒸し」は意外な対比であった。
ここ香港で言えば、この意外性に相当するものは何だろうかと、ついつい、かんがえてしまう(けれど、思いつかない)。
「浜松まつり」という恍惚。- 「最も奥深い<遊>の極地」(真木悠介)という視点から。
海外に住んでいても、日本のゴールデンウィークの時期には、生まれ故郷の「浜松まつり」のことを思い出すことになる。
海外に住んでいても、日本のゴールデンウィークの時期には、生まれ故郷の「浜松まつり」のことを思い出すことになる。
「浜松まつり」は、毎年5月3日~5月5日に行われ、この3日間、朝から夜まで、凧揚げ合戦、練り、御殿屋台の引き回しなどがくりひろげられる。
「浜松まつり公式ウェブサイト」によれば、子どもの誕生を祝う凧揚げの伝統は、一説では16世紀半ばに起源をもつとも言われている。
それぞれの町がひとつの組織となり、近年では170を超える町(御殿屋台引き回しは80を超える町)が参加しているようだ。
初子の誕生を祝って「初凧」が揚げられ、また「糸切り合戦」がくりひろげられる。
夕方からは市の中心街に場所をうつし、練りと御殿屋台の引き回しが街頭を熱気と煌びやかさで彩る。
この3日間、「浜松」は、その様相をまったく変えてしまう。
これほどの規模と伝統でつづいている「まつり」は、世界でもそれほど多くはないのではないかと、ぼくは思う。
「まつり」をとおして、ぼくたちは、人や社会の異なる位相に出会う。
日常性から離れた世界である。
まつりのために「法被(はっぴ)」を着ることで、ぼくたちはこの「異世界」へ入り込む準備をする。
男の子も、女の子も、普段とは異なる姿で、大人たちと一緒に、まつりの世界に入っていく。
普段は車が通る「道路」を、ラッパの音を鳴り響かせながら、練り歩く。
普段の道路が、「道路」ではなくなる。
社会学者の真木悠介は、ブラジルのカルナバルの体験を綴りながら、次のように書いている。
<聖・俗・遊>というカイヨワの卓抜な人間世界の構図。ホイジンガーが<聖・俗>二元論の中で、遊びを聖なる領域としたのを批判して、遊びはむしろ聖の対極に立つことをカイヨワは指摘する。<俗>なる日常世界を中点に、<聖>はいっそうの厳粛と緊張の時、<遊>はいっそうの奔放と自在の時だ。
しかし同時にこの対極をあえて同一のものとみたホイジンガーの直観にもまた、心理は含まれているはずだ。最も奥深い<聖>の極地と最も奥深い<遊>の極地…。
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年
1970年代半ばのブラジルのカルナバルを前に、「カルナバルの三日四晩のために、カリオカ(リオっ子)は一年間働いた金をほんとうに使い果たしてしまう」(前掲書)ほどの熱気に包まれながら、真木悠介は、とても美しい筆致で、体験を綴っている。
「浜松市」が、在日ブラジル人コミュニティの中心都市となっていることは、産業都市ということがまずはあったのだろうことは、想像に難くない。
けれども、(前夜祭含め)三日四晩の「浜松まつり」に全身全霊をかける人たちと、三日四晩の「カルナバル」に全身全霊をかける人たちの、生のあり方と楽しみ方の通底性も見てとれるのではないかと、ぼくは思う。
今日(5月6日)は、3日間で177万人の人出(「浜松まつり閉幕 3日間の人出177万人」静岡新聞)であった浜松まつりが閉幕しての翌日。
三日四晩の恍惚のなかに散開した生のひとときを胸に、ゆっくりと眠りについているのかもしれない。
そして、人は、<俗>の領域へと、ふたたび立ち上がってゆく。
海外で、じぶんの「出身地」を語る準備。- 「静岡県浜松市」を、海外の人たちに伝える。
海外へ旅したり、海外に住んでいくうえでは、じぶんの「出身地」を語れるようにしておくことの大切さを、ぼくは経験から学んできた。
海外へ旅したり、海外に住んでいくうえでは、じぶんの「出身地」を語れるようにしておくことの大切さを、ぼくは経験から学んできた。
ぼくの感覚として、以前は、海外にいるとき「どこから来たんですか?」と聞かれて、「日本から来ました」と応答すれば、比較的多くの場合、それでいったんその話題は終わった。
しかし、最近は、ここ香港に住んでいると、日本に旅行で行く人たちがたくさんいるからか、「日本のどこの出身ですか?」ということを聞かれる。
香港の方々のなかには、ぼくよりもはるかに頻繁に日本に行く人たちもいるし、またぼくが行ったこともないような日本の地方を旅している方々もいたりして、「日本から」ということだけでなく、「日本のどこから」ということが、話題としてあがってくることになる。
出身地が「東京」や「大阪」、あるいは「北海道」や「沖縄」であれば、それだけを語れば、おおよそわかってくれるのであるけれど、ぼくの出身は「静岡県浜松市」である。
「静岡」と「浜松」という地名だけでは海外の方々はイメージがわかないから、ぼくはそこにキーワードを加えていくことになる。
まずは、「場所」からだ。
東京と大阪はよく知られているから、ぼくは「東京と大阪の中間にある」ことでイメージをつけてもらう。
そこに、浜松からは若干距離があるけれど、静岡県は「富士山」があるところだとも伝える。
会話のなかでは、場所の正確性が求められているのではないから、浜松から富士山の距離は問題ではないと思う。
「場所」のイメージを持っていただいてから、ぼくは「浜松」にまつわるキーワードを加えていく。
ぼくが挙げるのは、ホンダ、ヤマハ、スズキ、である。
「ホンダ、ご存知でしょう?」
「それから、ヤマハ、ご存知ですね?」
「スズキも、ご存知ですね?」
ここまで来れば、ここ香港に限らず、世界のいろいろなところでも、ぼくがどんなところから来たのかを知っていただけることになる。
繰り返しになるけれど、詳細の正確な情報ではなく、海外の人たちとの共通の情報や話題を通じて<つながり>をつくっていくプロセスである。
ここ香港では、これらのキーワードに加えて、最近は「キャプテン翼」が加わった。
漫画「キャプテン翼」は、ここ香港でよく知られている。
キャプテン翼の南葛小は、設定上は「静岡県」にあることになっている。
だから、ぼくはキャプテン翼の大空翼と同じ県から来たのです、と伝えることになる。
日本の漫画は、海外でも、<つながり>をつくってくれるのだ。
それから香港のショッピングモールで、ぼくは、ハッとした。
「ちびまる子ちゃん」を忘れていたと、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターを見つけて気づいたのだ。
香港で人気の「ちびまる子ちゃん」。
漫画「ちびまる子ちゃん」の舞台は、静岡県清水市であった。
「キャプテン翼」や「ちびまる子ちゃん」など、日本の漫画のキャラクターと同じ場所(静岡県)の出身であること(そしてそのことを語ること)は、ある意味、バカバカしいことであるかもしれない。
しかし、それらを通じて、ぼくは、海外の人たちとの<つながり>をつくっていくことができる。
ぼくは、それでいいのだと、思う。