音楽の「楽しみ」そのもののほうへ。- 村上春樹が小澤征爾との対談で学んだこと。 / by Jun Nakajima

「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた(ブログ「「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。」)。

この時代や環境などのなかで、「学ぶ」ことが「~ために」という功利的次元へと、あまりにも狭く押しこめられてしまっている。「学ぶ」ことが、何かのための「手段」として、何かを達成するための「手段」としてばかり語られて、それ自体の楽しみや歓びが肩身の狭い思いをしているようなのだ。

なにも、手段としての学びが「悪い」わけではなく(手段としての学びがどれだけ世界を豊かにしてきたか)、楽しみや歓びとしての「学ぶ」ことを、いっそう鮮烈に取り戻してゆくことが、生きることの本質であるように、ぼくは思う。また、むしろ、楽しみや歓びとしての「学ぶ」が、手段としてもいっそう、その役割を深めるのだと、ぼくは思っている。


「学ぶ」ことそのものの楽しみと歓びということをこうして書いていたら、ふと、ある文章に、ぼくはまた惹かれた。小説家の村上春樹が、小澤征爾について、また小澤征爾との共著『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』(新潮社)について書いた文章である。

この文章は、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)のライナーノートとして、村上春樹が書いた文章である。

CDのタイトル通り、うえで挙げた本のなかで取り上げられたクラシックが集められた、とても贅沢な曲集に、これまた贅沢に、村上春樹が文章を寄せている。

『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』という本はとても素敵な本で、読んでいるだけで音楽が聴こえてくるかのようだ。でも、やはり、(CDを通してだけれども)じっさいの音楽を聴きたくなる。そんなふうにわきおこる欲求を、さーっと満たしてくれるCDである。

そのCDのライナーノートで、村上春樹はつぎのように書いている。


…僕が小澤さんとの対話から学んだいちばん大きなことは、「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」ということだった。当たり前のことだけれど、音楽は音楽であり、音楽として自立し、完結するべきものなのだ。…

「小澤征爾さんとの一年」ライナーノート、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)


「当たり前のことだけれど」と注記しながら、しかし、村上春樹は、直球で、この言葉を書いている。「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」、ということを。

音楽の「周辺」には、あまりにも多くのことがらがあり、あまりにも多くのことが語られる。音楽には、あまりにも多くの意味づけがされてしまう。そんななかで、「音楽そのものの楽しさ」が、ときとして、どこかへ身をかくしてしまうのだ。


音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない。学びは学びそのものとして楽しまなくてはいけない。

何かを、そのものとして、ただ楽しむこと。それは、日々の暮らしのなかで、忘れてしまいがちなことであり、ぼくたちは、その経験のただなかで、楽しさと歓びを取り戻さなければならない。

ちなみに、ぼくがマーラーをきちんと聴きたくなったのは、『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』の本を読んでからであったと思う。