コロナの世界でクラシック音楽を聴く。- 「世界の色」がなくなる出来事のなかでぼくは音楽を聴く。
最近ぼくはクラシック音楽をよく聴いている。音楽全般が好きではあるのだけれど、とりわけクラシック音楽を聴く。新型コロナの世界に生きるなかで、クラシック音楽がぼくの心奥に響くようだ。
最近ぼくはクラシック音楽をよく聴いている。音楽全般が好きではあるのだけれど、とりわけクラシック音楽を聴く。新型コロナの世界に生きるなかで、クラシック音楽がぼくの心奥に響くようだ。
クラシック音楽をじぶんで聴くようになったのは、アフリカを経験したころのことだった。内戦が終結したばかりのシエラレオネ。ぼくはその地で一年弱をすごした。2002年から2003年にかけてのことだ。ぼくは国際NGOの職員として難民・帰還民支援に携わっていた。
いまから振り返れば、シエラレオネでの経験は、ぼくの心身、あるいは精神といったものの組成が変わってしまうような経験であった。当時「世界」は混沌としていた。「ひとのためになる」という意志と情熱、国際支援のプロとしての責任、組織を支えているひとたちの思いなどに駆られるようにして、ぼくは無我夢中で仕事をしていた。国連の平和維持軍が展開していて情況は「落ち着いている」けれど、安全上また感染症の危険性と隣り合わせであったこともあって、心身がきわめて緊張してもいた。そして、そこの「現実」に、ぼくの精神は深いところで圧倒されていたのだと思う。もちろん日々ずっとそうであるわけではなく、いろいろなひとたちとの暖かい会話があり、互いに笑うこともあったわけだけれど(そしてそんな笑顔にぼくは生かされてもいたのだけれど)、表面上の「大丈夫さ」の底に、生死の境を生き、心身にさまざまな傷を負ってきたひとたちの苦難、あるいはそれらを客観的に示すような破壊の痕跡などの磁場がどうしても入ってきてしまっていたのだろう。仕事に無我夢中でうちこむあいだにも、ぼくは精神の海底に、なんともいえない暗闇のようなものを抱えてしまったようだ。
だからといって、ぼくの心身になにか「異常」が現れたわけではない。マラリアに(はじめて)感染したこと以外は、ぼくは心身ともにいたって健康であった。精力的に仕事をしていたし、毎日繰り広げられる「ドラマ」のなかで悪戦苦闘しながらも、同僚たちと共にプロジェクトをすすめていた。ただ、当時気にかかったのは、シエラレオネでの直接的な体験を、ぼくはなかなか「ことば」にすることができずにいたことだ。「…できずにいた」と過去形で書いてみるものの、それ以後も、それからいまでさえも、うまく「ことば」にすることができているわけではない。そもそも「ことば」にすることが必要なのかどうかもわからない。でも、ときおりぼくは、海底に沈んでいる漠としたものを「ことば」にしてみたくなるのだ。
音楽はそんな「ことば」を飛び越して直接に情感に届くものでもあるから、時間を待つことなく、ぼくの心身や精神はクラシック音楽の旋律に揺さぶられたのかもしれない。「どの」クラシック音楽がぼくを揺さぶったのか、ぼくは覚えていない。けれど、飛行機での移動時、怒涛の日々からの「束の間の退避」の時空間で、機内音楽のプログラムから、ぼくはクラシック音楽を選んでいたことをかすかに覚えている。聴いていると、心の深いところが落ちついてくる。音楽の旋律は人間社会に起こるあらゆることを包摂するかのように感じる。そんなところがきっかけになって、ぼくは徐々に、じぶん自らの選択でクラシック音楽を聴くようになっていった。
いわゆる「西洋クラシック音楽」は18世紀から20世紀の初頭にかけての200年ほどの間に展開された音楽だ。世界史をひもとけば、その200年は「戦争と革命」によって特色づけられる時代が重なっていることがわかる。クラシック音楽にはそんな時代背景が溶けこんでいる。あるいは、その逆かもしれないという思いがわきあがる。戦争のような「世界から色がなくなるような出来事」(加藤典洋)のなかで、世界の彩りをとりもどしてゆく通路として、クラシック音楽はあったのかもしれない。いずれにしても、そこには、戦前があり、戦中があり、戦後がある。そのような時代の心情に訴えかける旋律が流れている。
整体の創始者ともいわれる野口晴哉(のぐちはるちか、1911–1976)のエッセイのなかに、カザルスの話が出てくる。チェロ奏者として有名なカザルスである。野口晴哉は体操に音楽を使うことが珍しかった時代に、クラシック音楽を彼の整体指導に活用していた。クラシック音楽は野口晴哉の整体と切り離せないものであり、彼はカザルスの音楽の完成度の高さに比しながら、自身の技術水準の完成度を確かめたりもしていたほどだ。野口晴哉のエッセイ「カザルスの音楽に“この道”をみがいて」(野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年)のなかに、そのことが書かれている。第二次世界大戦の東京空襲によって家が火事のときも、野口晴哉は悟竹の屏風とカザルスのバッハ組曲のレコードだけは持ち出したことを、このエッセイのなかで記している。整体はもとより、野口晴哉の生にとって、クラシック音楽、とりわけカザルスの音楽の存在がどれほど大きかったのかを、このエピソードは物語っている。
少し視野をひろげると「アート」ということの存在を考えさせられる。音楽や絵画や彫刻や文学や書といった「アート」のことである。いまでこそ「アート思考」というような言い方で、ビジネスサイドからの「アート」の見直しがなされてきているけれど、それは有用性(役に立つこと)の次元からアートに光を当てた見方である。ぼくもその見方や感性、その方向性への展開(転回)に賛成であることを示しつつ、アートは現在語られるような「有用性の次元」を超えて、生きることそのものを支え、生きることの歓びであり、生きることそのものであるようなものである。
そんなふうに考えてくると、戦争による空襲という「世界から色がなくなるような出来事」のなかで、野口晴哉が救い出したのは、カザルスの音楽のなかに生きている、「世界に彩りをあたえてくれるアート」であったのだと、ぼくは思う。それはそのままで、じぶん自身の精神を救い出すことでもあった。
西アフリカのシエラレオネのあと、ぼくはアジアにもどり、東ティモールという21世紀最初の独立国に暮らし始めた。インドネシアのバリから飛行機で二時間ほどのところにある東ティモールはとても美しいところだ。牧歌的で平和な東ティモールにぼくが赴任したのは、独立後1年が経過した2003年。独立前まで紛争が25年以上にもわたってつづいていたわけで、ぼくが着いたときも「紛争後(戦後)」だ。国連の平和維持活動が継続され、日本の自衛隊も活動を展開していたころだ。
独立後は平和な情況がつづいていた東ティモールであったのだけれども、2006年にディリ騒乱が起きる。首都ディリ市内で銃撃戦も勃発し、東ティモール政府はオーストラリアを含む他国に治安の支援を要請するほどであった。ぼくを含めて在留邦人のほとんどが、騒乱の翌日にチャーター機でインドネシアのジャカルタに退避し、そこから日本に戻ることになった。日本に戻ってからも、ぼくは遠隔で現地事務所とやりとりをしながら、東ティモールで展開しているプロジェクトを継続した。東ティモールはとても不安定な情況のなかにおかれていた。
日本に戻るまで緊張のためか、ぼくはテンション高く行動していた。日本に戻ってようやく「日常」に適合しはじめたころ、ぼくは以前日本に住んでいたとき以上に、書店に立ち寄るようになった。駅構内の小さな書店にも、時間が少しでも空けば立ち寄った。ぼくはいつしか気づくことになる。「世界から色がなくなるような出来事」を体験してきたのだと。書店はぼくにとって「世界に彩りをあたえてくれるアート空間」であった。そこにはさまざまな「物語」が並べられている。文学だけでなく、実用的な本にも「物語」があるのが、ぼくには見えてくる。どんな本でもそこには物語がながれている。ぼくのなかで色が消えかけていた「世界」に、さまざまな物語が彩りをあたえてくれる。それはぼくの心を深いところで包んでくれるように感じられた。こうして、ぼくは東ティモールにふたたび帰ってゆくまで、いくどもいくども書店に立ち寄ったのであった。
本も、クラシック音楽も、絵画も、限定的な「有用性の次元」だけで出逢うのはもったいない。それらは思っている以上に、ひとの生を深い次元で支えているものである。それ自体が歓びであるようなものたちである。じぶんのほんとうに深いところからそれらを求めるとき、そんな感覚がせまってくる。
新型コロナの発生とそれに続く事象、それから「ぼくの世界」で起きてきた事どものなかで、どこか世界の色がなくなっていくような感覚が起きていたのかもしれないと、ぼくは思う。意識的にはまったくそんなことは思いもしていなかったのだけれど、いつもよりもクラシック音楽をよく聴くようになり、いつもよりも本をたくさん読むようになり、いつもよりも(本などを通じて)絵画にふれるようになるなかで、過去の記憶の断片を憶い起こしながら、そんなことをぼくは考える。
美術館での「体験」を通じて。- 美術鑑賞における「身ぶるい」の感覚。
昨年(2019年)日本に一時帰国する際に楽しみにしていたことのひとつに、美術館に行くことがあった。日本の美術館や美術展は数が多く、また見応えのある作品に出逢うことができる。
昨年(2019年)日本に一時帰国する際に楽しみにしていたことのひとつに、美術館に行くことがあった。日本の美術館や美術展は数が多く、また見応えのある作品に出逢うことができる。
だいぶ前に香港でモネの作品を見ることのできる展示企画があったのだけれど、限られた会場はひとでいっぱいで、また展示点数もわずかであった。ゆっくり鑑賞することもできないままに、ぼくは会場を後にした記憶がある。
日本の美術館・美術展は混んでいることもあるけれど、昨年、上野公園にある国立西洋美術館に訪れたときは、ゆっくりと、静かに、作品と対面することができた。ルノワール、モネ、ゴッホ、ピカソなどの作品に、一対一で、静かに向き合うことができる。これほど贅沢なことはない。
ところで、見田宗介先生(社会学者)は、「アートの人間学ー野口晴哉「美術随想」ノートー」という文章(『定本 見田宗介著作集X 春風万里』所収)のなかで、ムンクという人は「気の流れ」をよく描いている作家である、と書いている。「気の流れ」という表現は核心をついていると、ぼくは思う。有名な作品「叫び」などを鑑賞すると、そのことがよくわかる。
ムンクはパリ滞在中に印象派の画家たちから影響を受けている。ぼくが好きな作家、ゴッホやルノワールの作品はまさに「気の流れ」があふれでているような作品たちだ。ゴッホやルノワールの作品とじっさいに向き合うとき、ぼくはそこで「気の流れ」を全身で感じる。あたまではなく、身体のおくのほうに、ぼくは「ふるえ」を感じるのである。「身ぶるい」ということばが日本語にはあるけれど、このことばは、まさしくこのようなときのことを語っているのだ。
この感覚はなにも昔から感じていたことではない。ぼくが44歳を迎えた昨年にはじめて感じた感覚だ。本やインターネットで見てきた作品ではなく、じっさいに身体で「観る」という体験をとおして、ぼくは作品の「気の流れ」、そして身体のおくのほうからやってくる「身ぶるい」をはじめて知ったのであった。「体験」ということ、じっさいにこの身体で経験してみることの大切さを、ぼくは身にしみて感じたときでもあった。
こうして、「身ぶるい」の体験を身体にのこしながら、ぼくはこの方法を美術鑑賞に適用している。
絵画から受けとる「第一印象」を感じてみる。それから絵画の前に立つ。できれば、静かな空間で、一対一で向き合いたい。絵画の前で、角度と距離を変えながら鑑賞する。それから、距離をちぢめて、絵画の気の流れを感じる。じっさいに、こころの絵筆で、その気の流れと筆づかいをなぞってみる。ときおり、絵画がじぶんにせまってくる。そして、あのひとときが訪れる。身体のおくのほうから「身ぶるい」が生成するのがわかる。時空をこえて、作者(例えば、ゴッホ)を身近に感じる。
こんなふうにして、ただ作品と向き合うだけで、深い歓びを感じることができる。
スティーブン・フォスターという人物。- 『はじめてのアメリカ音楽史』を、音楽を聞きながら読む。
スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。
スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。ぼくは、まったく聞いた覚えがなかった。
けれども、名前を知らなくても、この人物は(おそらく)きわめて多くのひとたちにとって、それなりに「関わり」のある人物である。ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)は、その関わりを簡明に解きあかしてくれる。
スティーブン・フォスター(1826-1864)は「ポピュラー音楽の元祖」。フォスターは「歌をポピュラーにすることに成功した最初のアメリカ人」であり、「歌をつくるのを職業にした最初のアメリカ人」であるという(前掲書)。
彼がつくった歌は、あまりにも有名だ。「故郷の人々(Old Folks at Home)」(別名「スワニー河」)、「おお、スザンナ(Oh! Susanna)」、「草競馬(Camptown Races)」、それに「ケンタッキーのわが家(My Kentucky Home, Good Night!)」。
曲名を見ただけではわからないかもしれない。音楽ストリーミングやYouTubeで検索して、再生してみればすぐにわかる。「あぁ、あの歌か」といった歌たちが、すべてフォスターの手になるものだとはびっくりである。フォスターは家庭歌謡の「パーラー・ソング(parlor songs)」を135曲つくったようだ。
バーダマンはつぎのように解説をしてくれる。
パーラー・ソングというのは、アイルランドやスコットランドの民謡の流れをくむ郷愁歌や上品な音色のラブ・ソングのこと。家庭の居間(パーラー)で演奏されたのでそう呼ばれました。フォスターは自分自身が作詞作曲したものを一般大衆に向けた(ポピュラーな)商品として出版した。フォスターの時代にはまだレコードは存在していませんから、彼は印刷した楽譜を売ることで生計を立てていた。
ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)
もちろん、フォスターがそのように生きていけたのは、アメリカの経済社会状況が変遷してきたことにもよる。アメリカは独立戦争と米英戦争を経てイギリスから自立し、その流れのなかで「都市」や「市場」がひらけてゆく。こうして商業娯楽の道がひらかれてゆく。
それにしても、おもしろい。『はじめてのアメリカ音楽史』は読んでいてこころの躍る本だ。でも、この本の第1章を読んでいるあいだ、フォスターの音楽をApple Musicで聴いたりして、だいぶ脱線しながらの読書になってしまう。以前、村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)を読んでいたときも、たしかそんな感じだった。村上春樹と小澤征爾の話に耳を傾けながら、そこで語られる音楽を聴く。そんなふうにして、音楽についての本を楽しむ。
ところで、著者(対談者)のバーダマンは、アメリカの国家「星条旗」にはその前身があることを教えてくれる。「天国のアナクレオンへ(To Anacreon in Heaven)」という曲である。なんと、この歌は酒飲みたちの歌であったという。その歌を「国家」へ昇格させてしまうアメリカも、すごい。
民謡「Row, Row, Row Your Boat」のこと。- 19世記のアメリカの時空間へ。
ぼくのブログのなかでよく読まれているブログに「民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。」があります。2018年の9月に書いた文章ですが、2020年になったいまも、よく読まれているようです。
ぼくのブログのなかでよく読まれているブログに「民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。」があります。2018年の9月に書いた文章ですが、2020年になったいまも、よく読まれているようです。ありがたいことです。
この民謡「Row, Row, Row Your Boat」をとりあげた最初のきっかけは、この民謡の歌詞の最後に「life is but a dream」という歌詞が出てくるのですが、そのことばについていろいろとかんがえていたことにあります。
この歌詞に触発された真木悠介(社会学者)がじぶんの生を表現するものとしてこころのなかでつぶやいてきた「人生という旅のことば」(life is but a dream. dream is, but, a life)。ぼくの好きなことばのひとつですが、このことばの源泉をさがしていて、この「Row, Row, Row Your Boat」に辿りつきました。子どもたちが学校などで歌う歌だというのはあとで知ったのですが、ぼくは小さい頃に学校で歌った覚えはありません。でもたしかに、英語圏などではよく歌われているようでした。
子どもたちに歌われているとのことですが、はたして「life is but a dream」ということばの「意味」はどのように捉えられているのだろうか。ちなみに、ここでの「but」は、英語の試験でもよく出てくるように「only」の意味合いです。つまり、「人生は夢でしかない」ということ。このことばが歌詞の最後に突如あらわれるのです。子どもたちがいきなり「人生は夢でしかない」と言われても、いったいなんのことかわからないだろう、とおもうわけです。
でも、小さい子どもは「意味」によってこの「世界」を捉えないのでないか。そのように、ぼくの内なる声が語りかけてきました。子どもたちは「世界」をもっともっと「感覚的」に捉えている。ぼくはそう思います。ぼくが子どものころを憶い出しても、歌を歌いながらはたしてそれらの「意味」を正確に捉えようとしていたかというと、けっしてそんなことはなかった、とおもいます。
だから「life is but a dream」ということばも、子どもたちにとっては「感覚的」に、とうぜんのことのように捉えられている。そんなふうにおもうわけです。
ところで、この民謡の成り立ちは明確にはわかっていないようです。Wikipedia(英語版)によると、アメリカのミンストレル・ショー(大衆芸能)から生まれ、現在確認できるところでは、1852年に初期の印刷物(※楽譜)が確認されているといいます。作曲と作詞が誰によってなされたのかもわかっていません。
「ミンストレル・ショー(Minstrel Shows)」とはアメリカで19世紀半ばに誕生した大衆娯楽の形態であるとのことです。Wikipediaの英語版・日本語版ともに、結構詳細に記載されています。詳細を読んではいなかったのですが、ジェームス・バーダマンと里中哲彦の対談からなる『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)を読んでいたら、「ミンストレル・ショーとは何か」にふれられていました。
白人の役者が顔を黒く塗って芸(歌や踊り、劇など)を披露するという、黒人の軽蔑があからさまな芸能ではあったものの、アメリカの「ミュージカル」へとつながる力線をもっているなど、歴史的には切り捨てることができないものであったようです。
話を民謡「Row, Row, Row Your Boat」へ戻すと、この民謡は上述のミンストレル・ショーと呼ばれた大衆芸能において生まれてきた歌曲であったというわけです。
さらに、『はじめてのアメリカ音楽史』においてバーダマンは、当時は歌がお金になるなんて誰もおもっておらず、著作権といった概念もなかったから、「作者不明」という曲がたくさんあるんだということを、語っています。おそらく、「Row, Row, Row Your Boat」もそのような曲群のなかに生まれた曲だったのでしょう。
それにしても、19世紀のアメリカで、「Row, Row, Row Your Boat」がいったい、どのようにつくられ、どのように歌われ、どのように捉えられていたのか。どんな心情のなかで「life is but a dream」が歌われたのか。ぼくの想像は19世紀のアメリカのひとびとへと投げかけられます。
Lil Dickyの曲『Earth』。- 「We are the Earth」としての共演。
昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。
昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。
最近、地球環境のことをいろいろ考えている。べつに環境専門家でも環境活動家でもないし、環境保護にとりわけ熱心というわけではない(できる範囲では「楽しく」関わりたいと思う)のだけれど、上述の「宇宙」の関わりで言えば、<宇宙から折り返す視線>で地球を見るとき(たとえ、それが架空の映像であっても)、やはりそこに美しい青い惑星が存在していることが、ひとつの奇跡のように感じたりして、地球環境のことを考えてしまうのだ。
目の前にひろがる空や海、木々など、さらには空を飛び、きれいな声を放つ鳥たち、花のまわりを飛び交う蝶たちなどの存在も、この地球での共生ということをつきつけてくる。さらには、自分の家の片づけをすすめながら、「モノ」(厳密にはモノと自分との関係)を見直しながら、いろいろと考えさせられるのだ。
そんな折、2019年4月22日の「Earth Day」に先行するかたちで発表された、アメリカのラッパーLil Dickyの曲『Earth』を、ぼくはたまたま、Apple Musicをブラウズしているときに見つけたのであった(※この曲については、先月末のぼくの「メルマガ」で紹介させていただきました)。
Lil Dickyの『Earth』は、4月19日にシングル版が発表され、翌日に音楽動画(※YouTubeに飛びます)が配信された。
曲自体、そのメロディーも、それから歌詞も魅力的であるけれど、やはり音楽動画(※YouTubeに飛びます)で見ることをおすすめしたい。
そして、話題をつくったのは、声で登場するさまざまなミュージシャンたちだ。Justine Bieber、Ariana Grande、Shawn Mendes、Halsey、Ed Sheeranなどが、声で参加している。参加アーティストそれぞれが動物や植物などの役を担いながら(たとえば、トップバッターのJustine Bieberは「ヒヒ(baboon)」というように)、声(歌声)で登場してくる。
Leonardo DiCaprioも出てくるので「なんでだろう」と思ってしまうのだけれど、この曲の収益は「Leonardo DiCaprio Foundation」を通じて環境保護活動に使われることが背景としてあるようだ。
有名ミュージシャンたちの顔ぶれを見ていると、昔、『We are the World』という曲があったことを思い出す。この曲は「We love the Earth」と歌うけれど、それはどこかで「We are the Earth」といった趣もあるのだ。
でも、『We are the World』が、この世界の「人と人とのつながり」を促したのにたいして、『Earth』は、この地球の「人と地球(動物や植物など)とのつながり」を唄っている。そんな時代の移り変わりを見てとることもできるように、ぼくは見る。
曲の終盤の「語り」の部分で、登場人物の「人間」は、「Are we gonna die?」というJustine Bieberの質問に対し、「We might die」と応答するところがある。そんなふうに、正直に、応答される。いらだちを込めながら。「We」つまり人類が死んでしまうかもしれないのは、地球の温暖化がほんとうに起きていることを信じない人たちがいるから、と語りながら。
見田宗介先生は1980年代半ばの論壇時評で、19世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>であったのに対して、20世紀末の思想の極北が見ているものが<人間の死>であることを指摘している。
それはさしあたり具象的には核や環境破壊の問題として現れているけれど、若い人たちはそうではない仕方でも感受しているのだ、というふうにも書いている。この指摘は、きわめて鋭敏である。
…核や環境汚染の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなっているはずだ。未来へ未来へ意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。二〇世紀末の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。
人類の死が存在するという…明晰の上に、あたらしく強い思想を開いてゆかなければならない時代の戸口に、わたしたちはいる。見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
『Earth』という曲を聴いていると、見田宗介先生のこの指摘を、ぼくは憶い起こす。
人類の死が存在するという明晰のうえに築かれる「あたらしく強い思想」がひとりひとりの生活のなかにひらかれてゆくとき、それは具象的な仕方で現れている「環境破壊」の問題も、解決の軌道にのってゆく。
Yoko Onoのアルバム『Warzone』。- なぜか心に響いてくるYoko Onoの声音。
昨年2018年にリリースされた、Yoko Ono(ヨーコ・オノ)のアルバム『Warzone(ウォーゾーン)』。生誕85周年、またミュージシャンとしての50周年にあわせて発表されたアルバムである。
昨年2018年にリリースされた、Yoko Ono(ヨーコ・オノ)のアルバム『Warzone(ウォーゾーン)』。生誕85周年、またミュージシャンとしての50周年にあわせて発表されたアルバムである。
収録曲は13曲。1970年から2009年までのヨーコ・オノの作品から選曲され、新たに収録されている。
13曲目には、あの、ジョン・レノンの「Imagine」が収められている。2017年に、作詞・作曲のクレジットに「Yoko Ono」が追加された曲でもある。背景としては、ジョン・レノンが生前、歌詞やコンセプトへの、ヨーコ・オノのかかわりを認めていたことがある。
正直、ぼくがこのアルバムを聴いてみようと思った理由のひとつに、この「Imagine」があったことがある。ヨーコ・オノがどのように「Imagine」を歌うのか。それを確かめてみたかった。
ヨーコ・オノの曲や歌声は「普通」ではない。ミュージシャンそれぞれにユニークさを持っているという次元ではなく、そもそもの次元において異なっている(ように聞こえる)。
はじめて聴く人のなかには、ただの語りや叫びのように聞こえるかもしれないし、ずっと聴くに耐えないという人もいるかもしれない。確かに、「うまい」と言えるような歌声ではない。街角の静かなカフェではながれていないだろう。カフェでながれてきたら、びっくりしてしまう曲たちもある。
ビートルズも、ジョン・レノンをよく聴いてきたぼくでさえも、ヨーコ・オノを尊敬しながらも、彼女の曲たちをすすんで聴こうとはあまり思わなかったのが正直なところである。
けれども、ぼくがそれなりに歳と経験を重ねてゆくなかで、ヨーコ・オノの曲たち、とりわけ彼女の声音が自分の心に響いてくるのを感じるから不思議なものである。どんなふうにしてなのかは、ぼくにはよくわからないけれど。
アルバムに収められた「I Love All of Me」や「I Love You Earth」はどこか遠い世界からのことづてのように、聴く者に届けらるかのようだ。
それから、アルバムの最後に収められている「Imagine」の新バージョン。
「この曲をやるのは怖かった」と、ヨーコ・オノは語る。
「この曲をやるのは怖かった。トム(プロデューサーのトーマス・バートレット)も少し怖がっていたんじゃないかと思います。世界中の人が知っている曲ですから。でも、今回のアルバムのテーマに合うと思ったから、やるべきだと決心しました」
聴き方は、聴く人それぞれによるものである。
でも、少なくともぼくの耳には、ヨーコ・オノの声音が「届いた」のだと言える。そこに聞こえる声音だけでなく、まるでその声音を超える仕方で<音>がひろがってゆくのを感じながら。
ポール・マッカートニーに生きつづける<ビートルズの精神>。- 『Get Enough』(2019年)の響きのなかに。
同時代のなかで、ポール・マッカートニー(Paul McCartney)がつくり歌う曲を聴くことができるのは、ぼくにとってしあわせなことである。
同時代のなかで、ポール・マッカートニー(Paul McCartney)がつくり歌う曲を聴くことができるのは、ぼくにとってしあわせなことである。
ビートルズはぼくが生まれるまえに解散してしまったし、ジョン・レノンはぼくがビートルズとその4人を知るまえにこの世を去ってしまったから、同時代において、ポール・マッカートニーの曲を聴くことができることは歓ばしいことだ(もちろん、リンゴ・スターも曲をつくり歌いつづけてくれている。が、ここは、ポール・マッカートニーの話である)。
さらに、76歳(1942年生まれ)のポール・マッカートニーが、いまでも<ビートルズの精神>でもって、<新しい試み>をつづけていることには勇気づけられるのである。
今年2019年の1月1日にシングル曲が世に放たれているなんて知らなかったぼくは、その『Get Enough』という曲を聴いたとき、ひどく心が揺さぶられた。「ポール・マッカートニー」的なメロディーを色調とする曲なのだけれど、それは、思いもしなかった(現代的な)仕方でアレンジがほどこされていたからである。
そこでは、「Auto Tune」のテクノロジーによって、ポール・マッカートニーの歌声が変声されているのだ。ビートルズが時代をきりひらいたよう革新性はないけれども、(ぼくの知るかぎり)ポール・マッカートニーの曲づくりにおいて<新しい試み>である。
そしてなにはともあれ、そのことが、時代をきりひらく革新性よりも、ある意味において(ポール・マッカートニー自身にとっても、聴く人たちにとっても)大切なことであったように、ぼくは思う。
そのポール・マッカートニーは当初、Auto-Tuneを使うことで反感をかうのではないかと懸念していたようなのだ。けれども、新しい技術を積極的に受け入れるビートルズの精神にもとづき、<新しい試み>へとふみきったという(※参照:Wikipedia「Get Enough (Paul McCartney song)」)。
ぼくは個人的に反感をもたない。もたないどころか、ポール・マッカートニーの声の新鮮さと深みを感じるのである。
数々の名曲(「Yesterday」「Let It Be」「Hey Jude」など)をつくってきたポール・マッカートニーが型にはめられた「ポール・マッカートニー」におしこめられるのではなく、<ビートルズの精神>によってひらかれてゆく方向性に、ぼくは惹かれる。
正直に言えば、(あの)「ポール・マッカートニー」に期待してしまう気持ちもないわけではない。どこかで、「Yesterday」や「Let It Be」や「Hey Jude」などを超える曲がでてくることを期待し、望んでいる。けれども、それ以上に、ポール・マッカートニーがどのように(またどこに)「ポール・マッカートニー」を超えでてゆくのかに、あるいは「ポール・マッカートニー」を生ききるのかに、ぼくは関心があるのである。
そんなことを思いながら、『Get Enough』の響きに耳をかたむける。そこに、<ビートルズの精神>を聴きとりながら。
人生は、40歳にはじまる。- ジョン・レノンの曲「Life Begins at 40」。
「Life Begins at 40」。人生は、40歳にはじまる。
「Life Begins at 40」。人生は、40歳にはじまる。
「Life Begins at 40」は、ジョン・レノンが、1980年、40歳になった年に創られた曲である。同じ年に40歳になったリンゴ・スターのアルバムに収録を意図して創られたようである(参照:Wikipedia「Life Begins at 40(song)」)。
けれども、同年12月8日、ジョン・レノンは銃弾に倒れる。こうして、もともとの計画は頓挫してしまったのだけれど、後年、「Life Begins at 40」のデモ版が収められたCDが発売されて、ぼくたちが聞けるようになった。
メトロノームが鳴り響くなか、「…ダコタのカントリー・ウェスタン倶楽部にようこそ」という、ジョン・レノンの語りからはじまるデモ版である。
その言葉に見られるように、カントリー風の曲調で曲がはじまり、どこか悠長な響きで、ジョン・レノンは歌いはじめる。
They say life begins at forty,
Age is just a state of mind.
If all that’s true,
You know, that I’ve been dead for thirty-nine.John Lennon「Life Begins at 40」(Lennon Music, EMI Blackwood Music Inc. OBO LENONO Music)
人生は40歳にはじまるのだという。年齢はただのマインドの状態にすぎないんだと。もしそれがほんとうだというのなら、ぼくは39年のあいだ、機能停止して死んでいたも同然だ。
シリアスな感じではなく、ゆっくりとしたカントリー音楽の曲調にあわせて、「あらまあ」という感覚で歌われている。それはたしかに、リンゴ・スターの楽観性にあわせられているかのようでもある。
それにしても、「Life Begins at 40」という見方(パースペクティブ)が、ぼくは好きである。人生は、40歳にはじまる。
ジョン・レノンは「年齢はただのマインドの状態にすぎない」と歌ったけれど、「人生は40歳にはじまる」こと自体が、マインド、心の持ちようであるとも言える。
そのことを確認したうえでなお、「人生は40歳にはじまる」のだということが、ぼくにとってはまるで「真実」のように感じとられるのである。40代の半ばにさしかかって、ぼくはいっそう、そのように思う。
でも、誤解しないでほしい。40歳だけが「人生のはじまるとき」ではない。どんなときも、「はじまり」とすることができる。人が描く「物語」というものは、いろいろに描くことができるのだ。
けれども、さらにこのことを再確認したうえでなお、「40歳」頃、いわゆる「中年期」というのは、人生の「転換期」であると、ぼくは自分の経験から感じるのである(例外がいくらでもあることを、念のため強調しておく)。それも、とても「深い」転換期である。
なお、「人生100年時代」の到来のなかで、おそらく、「中年期」という時期の捉え方も変わってゆくと思う。けれども、捉え方が変わったとしても、人生の「転換期」であることは変わらないだろうと思う。
「Life Begins at 40」を歌ったジョン・レノンは、人生の「このとき」をどのように捉えていたのだろうか。何を感じていたのだろうか。何を思い、この先をどのように描いていたのだろうか(あるいは描いていなかったのだろうか)。
この曲を聴きながら、ついつい、そんなことを想像し、考えてしまう。
「雨粒」がぼくのうえに落ちてくるとき。- B.J. Thomasが歌う「Raindrops Keep Falling on my Head(雨にぬれても)」。
今日もここ香港は、午後に入って、少しづつ雨が降りはじめる。降りはじめのころは、雨粒を「雨粒」として感じることができるほどの、やわらかな降雨である。
今日もここ香港は、午後に入って、少しづつ雨が降りはじめる。降りはじめのころは、雨粒を「雨粒」として感じることができるほどの、やわらかな降雨である。
「雨粒」といえば、B.J. Thomasが歌う名曲、「Raindrops Keep Falling on my Head」(「雨にぬれても」)が思い浮かぶ。
1969年のアメリカ映画『Butch Cassidy and the Sundance Kid』(邦題『明日に向って撃て!』)のために、(あの)バート・バカラックによって作曲された曲である。その後、いろいろな人たちによってカバーされ、いろいろなところで使われてきた名曲だ。
ぼくにとっては、映画『フォレスト・ガンプ』のサウンドトラックが身近である(けれども、どの場面で曲がながされていたのかはまったく思い出すことがきない。ちなみに、サウンドトラックの曲名を追っていたら、別のブログでとりあげたWillie Nelsonの名曲「On the Road Again」も『フォレスト・ガンプ』で登場していたことを発見しました)。
そのほか、この曲名(日本語)は、作家の上原隆が著書『雨にぬれても』(幻冬舎アウトロー文庫)で借用しているのを、この本を最近読んでいて知った。
この曲はその時代を生きてきた人たちそれぞれに、それぞれの「思い出」が重なっているようだ。
ぼくは、ときおり、この曲を無性に聞きたくなることがある。
この曲の「世界」が、ぼくの情緒世界と深く共振するようだ。曲ができるまでには紆余曲折があったようだけれども、B.J. Thomasの歌声が絶妙な仕方で曲調にマッチしている。なお、似たような感覚を、Gilbert O’Sullivanが歌う「Alone Again (Naturallu)」を聞くときにもぼくは覚えることになります。
曲名「Raindrops keep fallin’ on my head」と同じ歌詞以外は、注意して聴いたことがなかったのだけれど、味のある歌詞である。
たとえば、次のように歌われるのだ。
…
It won’t be long till
Happiness steps up to greet me
Raindrops keep fallin’ on my head
But that does’t mean
My eyes will soon be turnin’ red
…B.J. Thomas『The Very Best of B.J. Thomas』 (Drew’s Entertainment) ※Apple Musicより
幸せがやってくるまでは遠くないのだと、つまり今は大変なんだと、この歌の「物語」が伝えられる。英語では、「幸せがやってきて(step up)わたしに挨拶してくれる(greet me)までは遠くない(won’t be long till)」と、素敵な表現が使われている。
でも、ぼくにとっては、ゆっくりとしたアップテンポの曲と「Raindrops keep fallin’ on my head」という歌詞だけで、ぼくの世界との共振を感じることができる。それは、ぼく自身にとっての「解釈」によって醸成される世界なのだけれど。
雨粒が、ぼくの頭のうえに落ちてくる。
「幸せがやってくるまでは遠くない」というよりは、それはそれで、幸せなときなのだ。
ただ、雨粒が、ぼくの頭のうえに落ちてくる。
「Live at…」の、すてきな<変換>。- 音楽バンド「Endless Summer」の企て「Music, Travel, Love」。
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
🤳 by Jun Nakajima
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
少なくとも、ぼくは、このような題名だけを見た時に、「…で開催されたコンサート映像」というふうに、一方で思ったわけです。「コンサート」というからには、そこには、会場があり、バンドが存在して、聴衆がいる。そんなイメージがあるわけです。
けれども、「Perfect(Live from Gasparilla Island)」という題名を見ながら、どこか「違和感」を感じたのは、YouTube動画の静止イメージには、いわゆる「コンサート会場」があるのでもなく、聴衆の姿が見えるのでもなく、ただ、広大な自然を背景に、ギターを手にした二人が写っていたからです。
文字で読んで沸いたイメージと、動画の静止イメージが、ぼくの解釈系統において、スムーズにつながらない。でも、二人の歌い手、それからなによりも、二人の背後にひろがる広大な自然の美しさにひかれながら、ぼくは、YouTubeの動画を再生したのでした。
これが、「Endless Summer」というバンド(*注:のちに、バンド名を「Music Travel Love」に変更)との出逢いだったのですが、動画を再生してみて、「Live at…」の意味がわかり、ぼくは深く触発されたのでした。
彼ら二人は、世界を旅し、広大な自然(山も、湖も、花畑も)などを「舞台」にし、マイクスタンドを立て、ギターを手に、歌を歌うわけです。つまり、「Live at…」の「…」は、これら、世界のうつくしい場所だったわけです。
「会場」は、なにも、コンサート会場である必要もないし、また「聴衆」も、その場にいる必要はないわけです。こんなふうにして、カバー曲やオリジナル曲がYouTubeにアップされてゆくわけです。
● True Colours (Live at Singha Park)
● When You Say Nothing At All (Live in Nashville)
● Perfect (Live from Gasparilla Island)
● I Will (Live at Glenwood Canyon)
などなど。
このような「企て」に触発されたわけですが、企てのエネルギーを支えているのは、やはり、二人の歌声です。どこかひかれる歌声なのです。
そこで、インターネットで彼ら「Endless Summer」(Music Travel Love)のホームページにとび、バンドの成り立ちなどを読んでいると、彼らが兄弟であり、1990年代に結成され人気を博したカナダのグループ「The Moffatts」のメンバーであった(ある)ことがわかったのです。
「The Moffatts」は人気のグループであったので、知る人は知っているだろうし、ぼくのようにグループ名を知らなくても曲は覚えている人もいるようなグループです。
4歳からプロフェッショナルとして歌いはじめ、5000を超えるライブパフォーマンスを重ねてきた経験が、「Endless Summer」の歌声に結晶してきたのだと、ホームページを読みながら、ぼくは勝手に想像します。
そして、うえで取り上げた曲群は、そんな彼ら、ボブとクリントがすすめるプロジェクト「Music, Travel, Love」に沿って、アップロードされている曲たちなのです。
彼らの歌声にひかれ、また「企て」も面白いのですが、でも、ぼくが、とりわけここで書いておきたいのは、この企てにおけるコンサートの「舞台」です。つまり、広大な自然のことなのです。
舞台である自然がとてもうつくしく撮影され、また魅力的に編集されている。それらを見ているだけで、気持ちがひらかれるのですが、でも、ぼくは、自然にひらかれた視点をふたたび、ボブとクリントの二人にもどしてみるのです。
彼らの歌声はもちろん彼らの歌声であるわけですが、彼らの歌声は、これらの自然から得るちからを<変換>させているのだと。ぼくにはどうしても、そう感じられるのです。
コンサート会場であればたくさんの聴衆から得るちからを変換させてパフォーマンスにつなげるのと同じに、「Endless Summer」の二人は、自然から得るちからを、歌声に<変換>させている。それが、伝わってくる。
そこに<うつくしさ>を、ぼくは感じます。
音楽の「楽しみ」そのもののほうへ。- 村上春樹が小澤征爾との対談で学んだこと。
「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた。
「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた(ブログ「「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。」)。
この時代や環境などのなかで、「学ぶ」ことが「~ために」という功利的次元へと、あまりにも狭く押しこめられてしまっている。「学ぶ」ことが、何かのための「手段」として、何かを達成するための「手段」としてばかり語られて、それ自体の楽しみや歓びが肩身の狭い思いをしているようなのだ。
なにも、手段としての学びが「悪い」わけではなく(手段としての学びがどれだけ世界を豊かにしてきたか)、楽しみや歓びとしての「学ぶ」ことを、いっそう鮮烈に取り戻してゆくことが、生きることの本質であるように、ぼくは思う。また、むしろ、楽しみや歓びとしての「学ぶ」が、手段としてもいっそう、その役割を深めるのだと、ぼくは思っている。
「学ぶ」ことそのものの楽しみと歓びということをこうして書いていたら、ふと、ある文章に、ぼくはまた惹かれた。小説家の村上春樹が、小澤征爾について、また小澤征爾との共著『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』(新潮社)について書いた文章である。
この文章は、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)のライナーノートとして、村上春樹が書いた文章である。
CDのタイトル通り、うえで挙げた本のなかで取り上げられたクラシックが集められた、とても贅沢な曲集に、これまた贅沢に、村上春樹が文章を寄せている。
『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』という本はとても素敵な本で、読んでいるだけで音楽が聴こえてくるかのようだ。でも、やはり、(CDを通してだけれども)じっさいの音楽を聴きたくなる。そんなふうにわきおこる欲求を、さーっと満たしてくれるCDである。
そのCDのライナーノートで、村上春樹はつぎのように書いている。
…僕が小澤さんとの対話から学んだいちばん大きなことは、「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」ということだった。当たり前のことだけれど、音楽は音楽であり、音楽として自立し、完結するべきものなのだ。…
「小澤征爾さんとの一年」ライナーノート、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)
「当たり前のことだけれど」と注記しながら、しかし、村上春樹は、直球で、この言葉を書いている。「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」、ということを。
音楽の「周辺」には、あまりにも多くのことがらがあり、あまりにも多くのことが語られる。音楽には、あまりにも多くの意味づけがされてしまう。そんななかで、「音楽そのものの楽しさ」が、ときとして、どこかへ身をかくしてしまうのだ。
音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない。学びは学びそのものとして楽しまなくてはいけない。
何かを、そのものとして、ただ楽しむこと。それは、日々の暮らしのなかで、忘れてしまいがちなことであり、ぼくたちは、その経験のただなかで、楽しさと歓びを取り戻さなければならない。
ちなみに、ぼくがマーラーをきちんと聴きたくなったのは、『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』の本を読んでからであったと思う。
「On the Road Again」の<この道>のなかに。- Willie Nelson(ウィリー・ネルソン)は音楽を奏でつづける。
カントリー・ミュージシャンのWillie Nelson(ウィリー・ネルソン)のことを、なにかの本を読んでいて目にしたかで、ぼくはApple Musicで探して、聴きはじめばかりのところ、1933年生まれの現役の「レジェンド」が、85歳にして9つ目の「グラミー賞」受賞とのニュースを見る。
カントリー・ミュージシャンのWillie Nelson(ウィリー・ネルソン)のことを、なにかの本を読んでいて目にしたかで、ぼくはApple Musicで探して、聴きはじめばかりのところ、1933年生まれの現役の「レジェンド」が、85歳にして9つ目の「グラミー賞」受賞とのニュースを見る。
フランク・シナトラの名曲「My Way」などを曲目に連ねるアルバム『My Way』(ウィリー・ネルソンがシナトラをとりあげた背景なども興味深いところだ)で、第61回グラミー賞の「Best Traditional Pop Album」を受賞したのだ。
受賞自体については、ウィリー・ネルソンは特段、大きな意味をおいていないだろうと推測しながらも、音楽を奏でつづける「レジェンド」にぼくはひかれる。
ウィリー・ネルソンの「My Way」も深みがあるけれど、この受賞で思い起こしたのは、いまでもよく聴いている、ウィリー・ネルソンの名曲「On the Road Again」(1979年録音、1980年リリース)であった。
ツアーの人生を歌った「On the Road Again」。最初はつぎの一節である。
On the road again
Just can’t wait to get on the road again
The life I love is making music with my friends
And I can’t wait to get on the road again
…Willie Nelson “On the Road Again” 『Legend - The Best of Willie Nelson』 ※Apple Musicより
ウィリー・ネルソンを知らなくても、どこかで、たとえば映画のなかなどで聞いたことのあるであろう曲である。それほど、親しまれている曲である(なお、この曲で、グラミー賞「Best Country Song」を受賞している)。
アップテンポな曲調が、「on the road again」というイメージとともに、ぼくたちのこころを軽快にうごかす。
なんどもくりかえされる「on the road again」ということばが、「again 再び」ということが語るように、ぼくたちを、いつも「道のうえに on the road」にもどすかのようである。
でも、ほんとうは、ぼくたちは、いつだって、「on the road」でもあるのだ。この「道」の先に、大きな夢をみようと、なんらかの目標をみようと、ただ地平線をみはるかそうとも、いつだって、ぼくたちは「この道」にいるのである。
この「道のうえ」が生きることであり、人生である。
このことばを軽快なアップテンポにのせて、40年ほどまえに歌いはじめたウィリー・ネルソンは、85歳のいまも、「on the road」である。
「The life I love is making music with my friends…」、大好きな人生は友人たちと音楽をつくることだと歌ったウィリー・ネルソンは、いまも、人生というツアーの「on the road」で、友人たちと音楽を奏でている。
そんなウィリー・ネルソンに、ぼくはひかれる。
さぁやるぞ、と腰をあげながら、ぼくは、名曲「On the Road Again」を選んで、再生する。
on the road again。<この道>にいるということを、ぼくは思う。
それがどんな道であろうと、ひとは、それぞれに<この道>のうえにいる。
この道を、「心のある道」(@ドン・ファン)として、歩きつくすこと、楽しみつくすこと、生きつくすこと。
中原中也の書く「宮沢賢治の世界」。- もし宮沢賢治が芸術論を書いたとしたら。
世界を生きてゆくうえで、たとえば、宮沢賢治の『春と修羅』のようなことばたちと共にあることが、ぼくの生を支えてくれる。そんなふうに思うときがあることを書いた。
世界を生きてゆくうえで、たとえば、宮沢賢治の『春と修羅』のようなことばたちと共にあることが、ぼくの生を支えてくれる。そんなふうに思うときがあることを書いた(ブログ「世界に生きてゆくうえで、たとえば、宮沢賢治『春と修羅』の「序」のことばと共にあること。」)。
ここでいう「世界」は、ぼくがこれまで暮らしてきた西アフリカのシエラレオネであり、東ティモールであり、それから香港を、直接的に思いながら書いていたのだけれど、さらには、そのような地理的な空間のひろがりだけに限られることなく、ひとがひとりひとり、それぞれに生きてゆく<世界>というようなことも意識しながら書いた。
そのように、ひとがそれぞれに生きてゆく<世界>というように視界をひろげてみるとき、「宮沢賢治の世界」を生きるうえでの支えのようなものとしてきた人に、詩人の中原中也(1907-1937)がいる。
中原中也は、宮沢賢治『春と修羅』の「十年来の愛読者」であった(中原中也「宮沢賢治全集刊行に際して」「宮沢賢治全集」)。
宮沢賢治がひろく知られるようになるまえから、宮沢賢治の愛読者であった中原中也の書いたもののなかに「宮沢賢治の世界」という文章がある。とても短い文章だけれども、宮沢賢治の作品の本質、あるいは「宮沢賢治の世界」を通した芸術論を鮮烈に書きしるしている。
「宮沢賢治の世界」は、はじめの文章で、「宮沢賢治の一生」をつぎのように集約している。
人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があって、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であったと云うことが出来る。
中原中也「宮沢賢治の世界」青空文庫
すごい文章である。「かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界」をこれほど集約させて書きながら、宮沢賢治の作品の本質とつなげてゆく様に、ぼくはいっきにひきこまれてしまう。
こう書き出しておきながら、このような世界に恋慕した宮沢賢治が「もし芸術論を書いたら」と仮定し、芸術論のいくつかをノート風に箇条書きで書きつけている。おもしろい試みである。
箇条書きで6つの短いノートを書きつけてから、中原中也はこの短い文章を、つぎのように書き終えている。
芸術家にとって世界は、即ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、其の他如何なるモディフィケーションを冠せられるべきものでもない。彼にとって「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、即ち名辞するとしてA=Aであるだけの世界の内部に、彼の想像力は活動してゐるのである。従って彼にあっては、「面白いから面白い」ことだけが、その仕事のモチーフとなる。
中原中也「宮沢賢治の世界」青空文庫
「面白いから面白い」ことだけが、芸術家の仕事のモチーフになる。
「宮沢賢治の世界」のはじまりの文章も鮮烈であったけれど、さいごの文章も鮮烈だ。「面白いから面白い」ことだけが、芸術家の仕事のモチーフになる。ぼくはこのことばをなんどか、黙読する。
中原中也は詩人という芸術家を意識しながら芸術論として書いている。でも、ここでふれられる「芸術家」は、いま、この現代にあって、いかなるひとをも名指す名詞であるようにも、ぼくには見えてくる。
「面白いから面白い」ことだげが、これからの時代の生きることのモチーフとなってゆく、と。
村上陽子の写真。- 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』所収の、なぜかひかれる写真たち。
ふだんは「猫」を見ることがあまりない香港の街角で、猫に出会う。カメラを向けると、瓶のうえにすわっている猫は、まったく動じずに、ぼくのほうにただ目を向ける(ブログ「「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫に出会う。」)。
ふだんは「猫」を見ることがあまりない香港の街角で、猫に出会う。カメラを向けると、瓶のうえにすわっている猫は、まったく動じずに、ぼくのほうにただ目を向ける(ブログ「「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫に出会う。」)。
この一連の動作のなかで、ぼくの念頭に浮かんでいたのは、村上陽子さんの写真たち。
村上陽子。小説家である村上春樹の奥様である。
村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)という、とても美しい本の「美しさ」は、この本に収められている村上陽子の写真たちによるところも大きい(※カバー写真のクレジットは「村上陽子」とあり、まえがきで「妻の写した写真を眺めながら」と書かれているから、カバー写真のほかの写真も「村上陽子」と思われる。仮にカバー写真だけだったとしても、美しい写真だとぼくは思う)。
ウィスキーをめぐるスコットランドとアイルランドの旅。その旅路で出会う猫たちの写真。猫たちだけでなく、渡り鳥や牛たちや羊たちなど。人や建物や自然に加えて、動物たちが、よく撮られている。本の表紙は、アイルランドのバーの、「ギネス」という名の犬が飾っている。
とりわけ「すごい」写真ではないのだけれども、村上陽子の写真にぼくはひきつけられる。「なぜか」なんて深く考えたことはないし、考える必要性も感じないけれど、そこには、ある意味で「哲学」が感じられるのである。
これらの美しい写真と文章にひきつけられて(そして、文庫という持ち運びに便利なことも手伝って)、この本は、ぼくと共に「世界」を旅してきた。
2002年、西アフリカのシエラレオネに住むようになったときも、2003年に東ティモールに住むようになったときも、それから、ここ香港に住むようになってからも、ぼくはこの本を、ぼくの手の届くところに、いつもおいてきた。
手を伸ばして本をとり、本をひらいては写真をながめる。ぼくは、すーっと、その「世界」のなかにはいってゆくことができる。あるいは、村上春樹の「ことばの時空間」に、ゆっくりと降り立ってゆくことができる。
香港の路地裏で、ひさしぶりに猫に出会い、写真を撮る。家で、ぼくは手を伸ばして『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を手にとり、村上陽子の撮った、猫たちの写真を眺める。
眺めているだけでも充分なのだけれども、ついつい、猫たちはなにを思い(あるいは、なにも思わず)、どのように生きているのか。猫たちは、ぼく(たち)になにを問うているのか、などを考えてしまう。
村上春樹の文章に眼を転じると、やはり、いつも眼にはいる文章が眼にはいってくる。
シングル・モルト・ウィスキーで有名なアイラ島で、村上春樹は、好奇心にかられて、島に住んでいる人たちにあれこれと質問をしてゆく。シングル・モルトを日々飲んでいるのか、ビールはあまり飲まないのか。ビールはそんなに飲まないという人に、では、ブレンディッド・ウィスキー(いわゆるスコッチ)も飲まないのか、と質問はつづく。
僕がそう質問をすると、相手はいささかあきれた顔をした。たとえて言うなら、結婚前の妹の容貌と人格について、遠まわしなけちをつけられたような顔をした。「もちろん飲まないよ」と彼は答えた。
「うまいアイラのシングル・モルトがそこにあるのに、どうしてわざわざブレンディッド・ウィスキーなんでものを飲まなくちゃいけない? それは天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに、テレビの再放送番組をつけるようなものじゃないか」
これをご宣託と呼ばずして、なんと呼ぶべきか?村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
なんとも、ご宣託、である。
「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに、テレビの再放送番組をつけるようなものじゃないか」。
こんなことばが会話のなかで生まれてくることにも、心を動かされる。
それとともに、ウィスキーにかぎらず、ぼくたちはこのようなことを実際によくしてしまっているのではないか、とも思ってしまう。天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに「テレビの再放送番組をつけてしまうこと」を。
「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに」は、じっとそこにたたずみ、奏でられる美しい音楽に耳を傾けたい。そう、ぼくは思うのである。
村上陽子の写真は、言ってみれば、「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているとき」に、じっとそこにたたずみ、奏でられる美しい風景のなかでしずかにシャッターをおろしているのだと言えるのかもしれないと、ぼくは思ったりもする。
「Mind the step」の連鎖する階段をのぼりながら。- 香港「Tai Kwun(大館)」にて。
香港のセントラルにある「Tai Kwun(大館)」(旧警察署・監獄などの跡地が改造されてつくられた、歴史遺産とアートの文化的空間・施設)。
香港のセントラルにある「Tai Kwun(大館)」(旧警察署・監獄などの跡地が改造されてつくられた、歴史遺産とアートの文化的空間・施設)。
2018年にオープンしたばかりの「Tai Kwun(大館)」は、TIME誌2018年9月3日号/10日号の特集「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)のなかで、「100 Destinations to Experience Right Now」(今体験すべき目的地100)のひとつとして選ばれた文化施設だ。
その「Tai Kwun(大館)」の敷地内に「JC Contemporary」と呼ばれる現代芸術館がある。
このブログの写真は、「JC Contemporary」内の「階段の風景」だ。
「JC Contemporary」の建物に入ると、レセプションが右にあり、展示物を見るためには左前方の階段をのぼってゆくことになる。階段にあがる手前のところにエレベーターもあるけれども、(確か)フロア・1階・2階からなる建物だから、階段へとふつうにひきよせられてゆく。
見てすぐに気づくように、この階段には、「Mind the step」という表示が、階段の一段一段につけられている。
Mind the step。段差に注意。
それぞれの段の奥ゆきが少し長いのだけれど、特段、段差が高いわけではない。
だから、ぼくの「思考」が少しばかり、混乱する。
こんなになんども注意されなくても、大丈夫なんだけれども、と。
いや、訪問者の人たちに向けて、丁寧に丁寧に伝えてくれているのだろうか。そうだ、でも、ここは美術館。コンテンポラリー・アーツだから、これも「エキシビジョン」のひとつだろうか。エキシビジョンとして、なにかを語っているのだろうか。
写真で見るのではなく、実際に、この階段を一段一段、足元に視線をおとしてゆっくりとのぼるとき、「Mind the step」の文字は、いやおうなく、ぼくの眼と思考のなかに入り込んでくる。
思考の少しばかりの混乱がほどかれて、あとで思ったことは、「mindfulness(マインドフルネス)」のこと。意識・注意を「今ここ」の経験に向けること。
メディテーション(瞑想)とともに、ここのところ注目をあつめてきた「mindfulness(マインドフルネス)」。
「Mind the step」の表示は、一瞬一瞬において、一歩一歩、一段一段へと意識・注意を向けさせる。まるでマントラのように頭のなかでひびきながら。
この現代という時代において、ぼくたちの頭のなかは、いろいろな「声」や「ノイズ」でいっぱいである。歩くという行為、階段をただのぼるという行為のあいだにも、いろいろな声やノイズがやってきては、ぼくたちの意識や注意は「今ここ」から離れてしまう。
アーティストの意図があったり、訪問者たちの受け取り方はいろいろだろうけれど、「Mind the step」の表示が連鎖してゆく「JC Contemporary」の階段を思い出しながら、そんなことをぼくは考えている。
なぜか「日本の風景」が心象風景にあらわれる久石譲の映画音楽。- <風景の地層>を、さらに降りてゆく。
作曲家の久石譲。
作曲家の久石譲。
ジブリ映画などの映画音楽をつくる作曲家として、よく知られている。映画音楽の作曲家としての「顔」があまりにもよく知られているが、映画音楽にかぎらず作曲家として音楽をつくり、指揮者であり、ピアニストであったりと、いろいろな「顔」をもっている。
ここ香港でもよく知られているようで、2018年、香港でのコンサートは、チケットがすぐに売り切れていたことを覚えている。席があれば行こうと思ってWebサイトをひらいたら、売り切れだったから、そのことをぼくは覚えている。
そんな久石譲が、解剖学者の養老孟司と対談をし、それをもとに出版されている『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)。
この本を最近読み返している。ずいぶん長い現在進行形の読書である。読んでいて、かんがえさせられるところで立ちどまる。他のアーティストなどの名前や作品名がときおり触れられると、つい、いろいろと調べたくなったり、音楽家であれば作品を聴いてみたくなって、また読書から脱線してゆく。
そして、久石譲の作品を聴きたくなる。ジブリ映画のサウンドトラックを聴きたくなる。
そんなふうにたどりついて、ここ香港で、ジブリ映画のサウンドトラックを聴く。「天空の城ラピュタ」や「千と千尋の神隠し」などのサウンドトラックを再生し、流れてくる音楽に、ぼくは耳をむける。
すこしおどろいたのは、それらの音楽を聴いていたら、なぜだか、なつかしい「日本の風景」が、ぼくの心象風景にあらわれるのだ。
香港には日本のいろいろなものがいっぱいにあるし、とくに「ホームシック」的な感情をぼくは抱くことはないのだけれども、久石譲によるジブリ映画のサウンドトラックを聴いていたら、そのような感情がわきあがってきたのだ。
それは、他の日本の音楽を聴いてもわきあがってこない感情である。
音楽はそれ自体で「風景」をもつというよりは、それを聴く人がその(ような)音楽をどこでどのように聴いていたのかという個人史とのかかわりのなかで色合いをもつものである。だから、これらの音楽がぼくの実際の生活のなかで、どんなときに、どのように流れていて、どのように聴いたのか、ぼくはじぶんの記憶をめぐってみたけれど、なかなか「これだ」という記憶が思いつかない。
異国で「千と千尋の神隠し」のDVDを観ていたことがあって、そのときの感情とつながっているのかと思ったりするのだが、やはりよくわからない。
そんな記憶や感情にいろいろと思いをめぐらせていたら、なつかしい「日本の風景」は、たんなる日本の風景というよりは、いわば、その<風景の地層>をさらに降りていったところにある風景であるように感じられる。
「映画音楽」は製作者側からの注文がはいるから、「自由に」音楽をつくることができるわけではないが、それでも、久石譲の構築する音楽には、そんな<風景の地層>を降りてゆくような響きがあるのかもしれない。
そのように感じてくると、「日本の風景」というよりも、<普遍的な地層>というところと言ったほうが、ぼくにとって、より正確であるように思える。
けれども、久石譲は情感豊かに音楽をつくってゆくというよりは、それとは逆のように見える仕方でつくっているようでもある。
作曲の仕事をしていると、「その閃きはどこから出てくるんですか?」とか「どんな時にいいメロディーが閃くんですか?」といった質問をよくされるんです。でも正直なところ、困ってしまうんですね。僕自身は別に閃きだけで音楽をつくっているつもりはないので……。音楽というのはドレミファソラシドの中にある12の音を組み合わせていくしかないわけです。要するに、作曲とは限られた音の中での構築作業であって、何かパッと閃いたものを次々出していけばいいというものではない。
モチーフとなるメロディとかリズムとか、そういう一つの取っかかりは確かにあります。でもそれは、とりとめのない思いつきでしかない。それをどうしたらうまく形にできるか、どうやったら有機的に結合させていけるのか、そういうことを考えながらつくっているんです。…養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)
養老孟司との対談では、このような「構築される」ものとしての音楽、音楽をつくるときの「意識」のこと、音楽制作と「システム」などの興味深い話がつづいている。
そんななかで、つぎのように久石譲が語っている部分を、最後にとりあげておきたい。
僕は音楽というのは、つくった人間の強い意識というものから離れてくれることが、重要なことだと思っています。もちろん、「これは、俺の書いた曲!」というのを主張したい人は、それはそれで構わないですけど、僕自身はどうではありたくない。
養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)
つくった人間の強い意識というものから離れてくれること。
ここに、音楽にかぎらず、さまざまな「創作」ということにおける核心のひとつが語られているように、ぼくには聴こえるのである。
ひとびとを魅了してやまない肖像画「モナ・リザ(Mona Lisa)」。- 野口晴哉による「モナ・リザの微笑」論へ。
CNNのニュース(2019年1月9日)に、「Researchers debunk myth about Mona Lisa’s eyes」(研究者たちがモナ・リザの目についての神話を覆す)と題された記事を見つける。
CNNのニュース(2019年1月9日)に、「Researchers debunk myth about Mona Lisa’s eyes」(研究者たちがモナ・リザの目についての神話を覆す)と題された記事を見つける。
ここでの「モナ・リザ」はもちろん、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた肖像画である。
その記事では、ドイツにある大学の科学者たちの研究によると、モナ・リザは、実は、この絵画のモナ・リザを観るあなたの「右15度くらいのところ」(おそらく、あなたの右耳、あるいは肩の上)を見ているのだ、という。つまり、描かれた彼女はあなたを凝視しているように見えるけれども、そうではない、というのだ。
それにしても、「モナ・リザ」はほんとうに多くの人たちを魅了してきた。オリジナルだけでなく、いろいろなバージョンを含めて視聴者数をカウントしたら、きっと、とんでもない数字が出てくるだろう。
それから、ほんとうに多くの研究者たちの研究対象となってきた。研究者たちも多彩である。医師がモナ・リザを見て、モナ・リザは病にかかっている、と見て取ることもある。
「研究者」にかぎらず、モナ・リザを見る人それぞれの「専門」や「関心」をフィルターにして、モナ・リザがさまざまな様相であらわれるのだろう。
いろいろな見方と現れ方がありながら、モナ・リザの微笑と凝視は「何か」を考えさせたり、伝えたりするものがある。
ぼくの尊敬する整体の野口晴哉(1911-1976)が、モナ・リザについて書いている。「モナ・リザの肖像」と題され、『大絋小絋』というエッセイ集に収められている。
人間のどの女にも、こういう微笑はある。しかし見えない人もいる。
見える人は、どの人にも見る。この微笑が見えるか見えないかで、この世の中の美しさが大きく動く。
満たされて抑え、更に求むる動きーこれが見える人は、世のすべての動きに美しさを見ることであろう。
モナ・リザのこの微笑は開三種現象である。野口晴哉『大絋小絋』(全生社、1996年)
最後の文章のところで「開三種現象」と書かかれているのは、野口晴哉の「体癖」研究をもとに、モナ・リザの体癖を読みとって書かれているものと思われる。「体癖」とは、個人の身体運動がそれぞれに固有な「偏り」の運動に支えられているとし、一種から十二種までを分類している論である。それぞれの偏りが体ぜんたいの動きと連動してゆくさまを、野口晴哉はいろいろに研究し語っており、モナ・リザの微笑に「三種」(四種と共に左右型。体の運動が左右に偏る)の動きを見たのである。
それにしても、体を知り尽くした野口晴哉の巨大な知性を介して、モナ・リザの微笑が、とても簡潔に語られ、しかしいっそうの深みを帯びてくる。この微笑が「見える」人は「世のすべての動きに美しさ」を見ることだろう、とは、言っていることはわかっても、深みのある示唆である。
このように感覚する<感受性>を、じぶんがもちあわせているかどうか、心許なくなる。
「満たされて抑え、更に求むる動き」。この動きのなかに<美しさ>があらわれるのだと、野口晴哉は書いている。
このことを充分に「わかる」とは思わないけれど、ぼくは、野口晴哉の、この「モナ・リザ」論に、とてもひかれるのである。
「脳の働きをさまたげない音楽」のこと。- 音楽を聞き「ながら」の仕事。
ビル・ゲイツは20代のころ、一時期、音楽を聴くこととテレビを見ることをやめた。ソフトウェアについて考えることから、音楽やテレビが気を散らすと思っていたからだという。そんな時期が5年つづいたという。集中力を保つためには今ではメディテーションを行い、音楽もU2やWillie Nelsonやビートルズをよく聴くのだという。
ビル・ゲイツは20代のころ、一時期、音楽を聴くこととテレビを見ることをやめた。ソフトウェアについて考えることから、音楽やテレビが気を散らすと思っていたからだという。そんな時期が5年つづいたという。集中力を保つためには今ではメディテーションを行い、音楽もU2やWillie Nelsonやビートルズをよく聴くのだという。
ビル・ゲイツはこの話を、2018年の本のうちの一冊として選んだメディテーションの本(『The Headspace Guide to Meditation & Mindfulness』)について書いている文章の冒頭でもちだしているが、ぼくはここでは、「音楽」ということにフォーカスをあてたい。
ビル・ゲイツ自身が書いているように、音楽を聴くことをまったくやめてしまうことは極端である。「ながら族」をやめるのではなく、生活の一切において、じぶんから音楽を聴くことをやめてしまう。ソフトウェアに集中するために。
このようなことが「ビル・ゲイツ」をつくったのかもしれないが、当時のビル・ゲイツにとっては、音楽が「気を散らす」ものであった。
テレビにかぎらず、「音楽」は、人の「気を散らす」ものである。テレビはまだしも音楽は違う(気を散らさない)、と言う人もいるかもしれないけれど、「音楽」は人の気を(程度の差こそあれ)散らすものである。じぶんが「自己」に正面から向き合うことなどから、じぶんの気持ちを散らして/逸らしてしまう(「気を散らす」はわるいことのように語られるけれども、ここでは必ずしもわるいこととしては書いていない)。
けれども、ここでいう「音楽」は、さまざまな音楽をひとくくりにしすぎでもある。「音楽」はさまざまである。ロックもあればクラシックもある。日本語で歌われるものもあれば、英語で歌われるものもある。
そして、「音楽と人の関係性」も、さまざまである。それは、多様な音楽が人にあたえる影響はいろいろだし、その音楽を聞いている人がどのような状況でなにをしているのかもいろいろである、ということである。
「ながら族」である解剖学者の養老孟司は、つぎのように書いている。
考えてみると、いまでは仕事中はほとんど音楽を聴きっぱなし、典型的な「ながら族」である。とくに虫の標本を作ったり、観察しているときには、耳が完全に空いている。だから、音楽でそこを埋める。原稿を書いているときも、同じである。いまはファン・ダリエンソが演奏するタンゴを聴いている。それが原稿とどういう関係があるというなら、まったくわからない。ただし歯切れの悪いことは書けないだろうと思う。ダリエンソをご存知なら、おわかりだろう。…
養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)
それから、対談相手である久石譲に応え、曲の選び方は、好きとかではなく、<仕事の邪魔にならないもの>だと、養老孟司は語っている。タンゴなど、スペイン語であれば言葉の「意味」へとひっぱられず、<声を感じる>だけというようにである。
また、集中しているときには聞こえない。思考の途中でふっと気持ちがよそへいくとき、聞こえてくる音楽が<気持ちのいいもの>を選ぶ。
ちなみに、宮崎駿も絵コンテを切っているときなどに音楽をかけているのだと付けくわえながら、久石譲は作曲家として、つぎのように語っている。
久石 脳の働きを邪魔しない音楽というのは、僕も非常によくわかります。作曲家として、ある種、目指しているところでもありますから。…
養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)
映画の音楽を担ってきた久石譲がめざす<脳の働きを邪魔しない音楽>。
ぼくはこのブログなどを書くときはだいたいにおいて「音楽」をかけないけれど、養老孟司と久石譲の対談を読みながら、<脳の働きを邪魔しない音楽>、また意識ではないレベルでなんらかの影響を与えるような音楽のことに(ふたたび)興味をもちはじめる。
「ふたたび」と書くのは、「歯切れの悪いことは書けないだろう」と、ファン・ダリエンソの音楽が養老孟司の心持ちをいくぶんかつくるように、ぼくにとっては、カザルスの音楽が、そのような影響をぼくに与えていたことがあったからである(カザルスの音楽の力を、ぼくは整体の創始者と言われる野口晴哉の本で知り、その力はぼくにも作用した)。
この機会に、ファン・ダリエンソを聴いてみよう(聴きながら、書くことをしてみよう)と思っている。
この時代に「ジグソーパズル」をやる楽しみ。- 楽しさと学びのプロセスとしてのジグソーパズル。
家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。
家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。
「パズル系」のゲームは、今ではスマートフォンを手にとれば、いつ、どこにいても、プレーすることができる。
だから、「ジグソーパズル」を販売する店舗などは、これからかなり縮小していくだろう(あるいはすでに、かなり縮小しているだろう。店舗を持てずオンライン店舗になるかもしれない)と漠然と考えていたのだけれど、実際には、ここ香港では、実店舗がのこっている。のこっている、というだけでなく、ある店舗はそれなりの広さを確保し、平日のお昼などでも人が入っている。
ここ香港はオフィス/店舗賃貸料がおどろくほど高いから、実店舗でやっていけるだけでもすごい。すごいと思いながら、このような趣味・遊びが今も好まれていることに、ほっとするところもある。
もちろん、これまでにもさまざまな形態が考案されてきている「ジグソーパズル」が、これからどのような運命をたどってゆくのかはわからないけれど(テクノロジーは想像をこえる仕方で道をひらいている)、このような遊びのすべてがデジタルにおきかわるわけではないと、ぼくは思う。CDが出ても、ストリーミング音楽が出ても、「レコード」がなくならないのと同じように。
そんなこんなで、いろいろと考えるところはあるのだけれど、ジグソーパズルは、遊ばれることでその使命をまっとうするものであるし、なによりも、ジグソーパズルをやってみたくなったので、小さな箱に納められたパズルを机の上にひろげ、とりかかることにした。
なによりも、画面のクリックではなく、じぶんの「指」を使って組み合わせてゆくことが心地よい。たぶん、10年ぶりくらいのことだから、組み合わせてみながら、じぶんの「組み合わせ方」を思い出していく。
あまり意識することなく、じぶんの身体に「組み合わせ方」がしみこんでいるようにも感じる。他の人と一緒にパズルをすると、「組み合わせ方」(ぜんたいの戦略とこまかい戦術)が、違っていることもわかる。そんな気づきがある。
300ピースの小さいパズルだから、2時間と見込んでいたのだけれど、途中で失速してしまい、結局、4時間ほど完成するまでにかかった(楽しさは完成ということ以上にプロセスにあるのだけれど、それでも時間の速さを気にしてしまうのである)。でも、途中むずかしくなってきてから、あきらめることなく、完成させることができた。
プロセスも楽しく、気づきがさまざまで、なおかつ、完成したときの嬉しさがある。
完成したジグソーパズルは、チベット仏教の「砂曼荼羅」のように、できあがってすぐに「解体」しようと思っていた。できあがりのものに固執・執着するのではなく、<手放す>のだ。
ここ数年、ぼくは<手放す>ことを、日々のなかで、実践してきた。だから、そうすることに、とくに抵抗もない。けれども、ジグソーパズルの「花」がきれいであったので、数日だけ、部屋を照らしだしてもらうことにした。
昔であれば「せっかくつくったんだから」などという気持ちからくる執着がのこって、なかなか壊すことができなかったと思う。今回は、そのような執着としてではなく、あくまでも、美を楽しむこととして、数日おいておいたのだ。
楽しさと学びのプロセスとして「ジグソーパズル」(あるいは同様の遊び)を体験することができる。そんなことを思う。
自然のなかで得たインスピレーションに導かれるクリスマスソング。- Gwen Stefani のクリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』。
ぼくにとっての「クリスマスソング」と言えば、いわゆるスタンダートナンバーももちろんチョイスのうちだけれど、なによりも、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」である。
ぼくにとっての「クリスマスソング」と言えば、いわゆるスタンダートナンバーももちろんチョイスのうちだけれど、なによりも、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」である。
ほんとうのところを言うと、この名曲は、「クリスマス」に限ることなく、ぼくの生きるという経験において、ひとつの大切な「物語」の一部としてありつづけてきたように思う。
昨年のブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」で書いたように、2006年の騒乱を受けた混乱のなかで、ぼくのなかで、この曲が流れていた。2006年だけでなく、それ以前、西アフリカのシエラレオネにいたときだって、その内戦が終結したばかりの国で、この曲はぼくのなかで鳴り響いていたし、今だってぼくのなかで奏でられている。
そうでありながら、今年(2018年)挙げておきたい「クリスマスソング(クリスマスアルバム)」は、Gwen Stefaniのクリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』(2017)。
全12曲(6曲のオリジナルと6曲のスタンダードナンバーのカバー)が収められたこのクリスマスアルバムは2017年に発表され、2018年には「Extended Edition」として、5曲(2曲のオリジナルと3曲のカバー)が加えられた。
アルバムのタイトルともなっているオリジナル曲「You Make It Feel Like Christmas」を含め、楽しさと歓びとインスピレーションに充ちた曲たちが収められている。また、想像したこともなかったのだけれど、Gwen Stefaniの独特の歌声は、なんともクリスマスソングとの相性がよいのだ。
Gwen Stefani(グウェン・ステファニー)は、アメリカのバンド「No Doubt」のボーカリストとして世に知られるようになり、ソロでも活動をしてきた歌手である。
彼女の存在をぼくが知ったのは、1996年のこと。当時は「No Doubt」のボーカリストであったグウェン・ステファニー。アルバム『Tragic Kingdom』(1995)、およびそこに収められた曲「Just a Girl」が人気を博していたときだ。
1996年にニュージーランドに住んでいたぼくは、ハウスメートたちと一緒にテレビで観ていたMTV番組を通じて、バンド「No Doubt」のことを知った。「Just a Girl」の曲に、ぼくは惹きつけられたのであった。ぼくは、オークランドのレコード店で、手頃な価格のカセットテープでアルバム『Tragic Kingdom』を購入したことを記憶している。
さらに運がよかったのは、1996年9月に「No Doubt」が『Tragic Kingdom』の世界ツアーで、オークランドにやってきたことである。ぼくはこうして「No Doubt」の音楽を、オークランドのライブハウス「Powerstation」で直接に聴くことができたのだ。
ぼくが当時住んでいた家からすぐ近くにあったライブハウス「Powerstation」はまさにライブハウスで、それほど大きくもなかったから、ぼくはほんとうに間近で、「No Doubt」の音楽の、あのうねりと熱を感じることができた。
でも「No Doubt」の音楽はアルバム『Tragic Kingdom』を頂点としながらバンド活動は次第に縮小してゆき、ぼくも、このアルバムを除いて、それほど聴かなくなっていった。
そのあいだもグウェン・ステファニーがソロ活動を展開していたことなどは耳にしていたのだけれど、そんな時期がずっとつづいていたところ、昨年(2017年)、クリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』が世に放たれ、聴けば聴くほどに、このアルバムに惹かれるのであった。
「クリスマスアルバム」をつくろうと触発された契機は「nature walk」(自然のなかを歩くこと)のなかにあったのだという(※Wikipedia英語版)。
ボーイフレンドであり、「You Make It Feel Like Christmas」の曲をともに歌っているカントリー・ミュージシャンBlake Sheltonのオクラホマにあるランチ・ハウスと自然のなかで、グウェン・ステファニーは、運動をしたり、メディテーションをしたり、祈っていたりしたのだという。近くにある自然のなかを歩きながら、ふと、自問がわいてくる。「クリスマスの歌をじぶんが書くとしたら、どんな歌になるのだろう?」と。
そんな問いとインスピレーションに導かれながら、クリスマスアルバムの制作につながってゆく。そのプロセスは、つらい感情を曲に変換するという前作とは異なり、ただ「歓び」に充ちていたようだ。
そんなふうにして、楽しさと歓びとインスピレーションに充ちたクリスマスソングがつくられ、ここに収められた曲たちを通して、それらの感覚がぼくたちに伝わってくるように、ぼくは思う。
そこに1996年にオークランドで聴いたグウェン・ステファニーの独特な歌声の芯をひきつづき感じながら、でも、20年の歳月とそのあいだの彼女の生が凝縮され、深いところに込められているようにも、ぼくは感じる。いろいろな辛い体験や困難なことも一緒に凝縮され、たしかな地層ができて、その地層から「楽しさと歓び」が生成されてきたような曲たちと歌声である。