<自由><平等>対<合理性>という鮮烈な視点。- 見田宗介による「現代社会」の明晰な見方。 / by Jun Nakajima

ぼくたちの生きかたを考えていくうえで、現在(現代社会)を含む「近代」という時代を理解しておくことが、ほんとうに大切なことだと、ぼくは思う。

現在はなにごとにおいても「個人」ということに焦点があてられる時代であり、いろいろな言説や商品やサービスが「個人」へと向けられていて、生きかたにおいても<自分を生きる>ということに光があてられる。

それはひとまず「正しい」ところではあると思うのだけれど、ただ「自分」だけをまなざすのではなく、どのような「社会」なのか、どのような時代なのか、どのような歴史的経緯のなかに自分は生きているのかなどを理解しておくことが、「自分」という存在を深いところで知り、よりよい生きかたへひらいてゆくために大切なことである。


たとえば、「<自由><平等>対<合理性>」という視点をあげてみよう。

見田宗介(社会学者)は、あるところで、日本における「近代家父長制家族」の考察に続けて、次のように書いている。


 ウェーバーの見るように「近代」の原理は「合理性」であり、近代とはこの「合理性」が、社会のあらゆる領域に貫徹する社会であった。他方、近代の「理念」は自由と平等である。現実の近代社会をその基底において支えた「近代家父長制家族」とは、この近代の現実の原則であった生産主義的な生の手段化=「合理化」によって、近代の「理念」であった自由と平等を封印する形態であった…。
 「高度経済成長」の成就とこの生産主義的な「生の手段化」=「合理化」の圧力の解除とともにこの「封印」は解凍し、「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始している。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店


この文章は少し手を加えられ、別の著書『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)にも収められている。

ここで書かれていることの主旨は、この本の第1章のある「節」のタイトルとして書かれているけれど、「<自由><平等>対<合理性>。合理化圧力の解除、あるいは減圧」ということである。

教科書的な理解では、「近代」という時代は「自由」と「平等」を理念としてきた時代であったということであるのだけれど、実際の「現実原則」は「合理性」であったということ。「近代家父長制家族」というシステムに支えられる「合理性」によって、実は「自由」と「平等」は封印されていた/封印されてきたということである。

この視点をとりいれてみるだけで、世界のあり様が<視える>ようになる。

「生産主義的な生の手段化=合理化」ということが社会のあらゆる領域、その社会に生きる人たちの内奥にまで貫徹してきたことは、いろいろに語ることができる。


ところが、経済成長による物質的な豊かさが獲得されるなかで、この「合理化」の圧力が解除、あるいは減圧してきたところに、高度産業社会を生きている人たちはおかれている。合理化の圧力の解除・減圧に伴い、「<自由><平等>対<合理性>」という図式における<自由>と<平等>が、「封印」を解除されてくるのだ。

こんなふうにして<自由>と<平等>の声たちが、社会のあらゆる領域にひろがっていきつつある。見田宗介が明晰に書いているとおり、「「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始」している情況を、ぼくたちは日々、目にしたり、耳にしたりしている。

また「個人」ということがこれほどに前景化してきたことも、合理化の圧力が解除・減圧してきたことと関連しているのだと思う。

「豊かな社会になって、今の若者たちは…」というように世代論的に言われることもあるけれど、今ぼくたちが直面しているのは、はるかに深いところで動いている社会の地殻変動である。「<自由><平等>対<合理性>」という図式は、そんな地殻変動を見るための、鮮烈な視点である。