きゅうりの味ー味覚の記憶と<おいしさ>の基準
🤳 by Jun Nakajima
幼稚園のときのことなんて、ほとんど憶いだせないのだけれど、いくつかの記憶の断片のなかで比較的明瞭に憶いだせることがある。
それは、きょうりの味。
味覚は記憶に寄り添うのだ。
幼稚園のちょうど中庭にあたるところに、僕たちは小さな菜園をつくった。幼稚園の授業の一環だ。そのひとつに、きゅうりを植えていた。どのように植えて、どのように育てたのかはまったく覚えていない。ただ、僕の記憶に鮮烈に残っているのは、きゅうりの味だ。正確を期すと、塩を少々まぶした、きゅうりの味。
夏の澄んだ空の下にひろがる小さな菜園で、実ったきゅうりを収穫し、その場で塩をつけて、僕たちはきゅうりを口に入れた。
きゅうりのみずみずしさ、ほのかでささやかな香り、菜園からの土のにおい。そして何よりも、採れたてのきゅうりは、言葉にならないほどおいしかった。
40年以上経った今でさえも、その時の記憶が蘇ってくる。その「おいしさ」は、その後の僕の「味覚」を規定したのだと言っても過言ではない。「きゅうりの味」が、僕の「おいしさの基準」のひとつとなった。
「おいしさ」というのは、なかなかやっかいなものだ。もちろん、ひとまず、「おいしいものはおいしい」と言ってみることはできる。「おいしさ」は、理屈を超えてやってくる。そう思えるほどに、食べ物を口に入れた途端に「おいしさ」を感じる。
けれども、「おいしい」という感覚の手前で立ちどまってみる。この「おいしさ」は、ほんとうに「おいしさ」なのだろうか。なんにでも「懐疑」の念を投じてみる。
日々の食事で「糖分」を減らしていた時、僕の感じる「おいしさ」は随分、この「糖分」へと傾いていることを知った。炭水化物の食べ物も「糖分」で、いろいろな料理の味付けも「糖分」が大きな地位を占めている。
糖分を含まない(あまり含まない)ものを食べると、いわゆる「おいしさ」を感じない。物足りなさを感じてしまう。逆に、糖分を含むものは「おししさ」を感じる。満足感を伴うのだ。
でも、この「おいしさ」や「満足感」は、ほんとうのものではないように感じる。
そこで僕を救ってくれたのは「きゅうりの味」の記憶だ。オーガニックのきゅうりを、ただ切って、食べる。それだけでも甘味がある。あっ、これがほんとうの<おいしさ>なのだと思う。心身の奥に届くような<おいしさ>だ。
ところで、僕の「きゅうりの味」とおなじような体験と記憶を、解剖学者の養老孟司先生は、著書『養老孟司の旅する脳』(小学館)の中で綴っておられる。この著書は、JALグループ機内誌に掲載された連載をもとに編まれているのだけれど、その中に「異国で感じる旨い料理と旨い酒」と題された文章がある。
「…東南アジア、ことにベトナムやタイの辺りは、食材のおいしさが格別だ。野菜がいい。ちゃんと野菜本来の味がする。たとえばキュウリ。ただ塩を振るだけで十分だ。
子供のころ、夏になると味噌をつけてよく食べた。あのキュウリの味がよみがえる。…」(養老孟司『養老孟司の旅する脳』小学館)
養老先生にとっても「キュウリ」の体験と記憶、そして記憶の想起は特別だったようである。