坂本竜馬とマインドフルネスー「Walking meditation(歩行瞑想)」
🤳 by Jun Nakajima
坂本竜馬とマインドフルネス
「マインドフルネス(mindfulness)」は、さまざまなメディアで取り上げられてきた。メンタルヘルスの領域においても、それからビジネス(例えばGoogle)やビジネス書においても、マインドフルネスの用語をよく見かけた。今も以前ほどではないけれど、それなりに取り上げられているようだ。
それにしても、マインドフルネスは、誤解されやすい言葉である。その言葉のイメージから、瞑想や呼吸法(あるいはそれらによるストレス低減)のことだと思われがちである。もちろん、瞑想(meditation)や呼吸法はその大切な一部であるけれども、マインドフルネスの全体と可能性をとらえきれるものではない。
マインドフルネスは東洋の思想・文化にも源流をもっているが、いわば現代版マインドフルネスの基礎的考え方と実践を広めるきっかけをつくったのは、ジョン・カバットジン(Jon Kabat-Zinn)教授である。
彼によれば、マインドフルネスとは「持続的かつ特定の方法で注意を払うことで培われる意識・認識(awareness)」のこと。その方法とは「意図的(on purpose)、今この瞬間に(in the present moment)、そして価値判断なしに(non-judgmentally)」である(Jon Kabat-Zinn “Mindfulness for Beginners” Sounds True、註:日本語訳はブログ著者)。
エッセンスを繰り返しておこう。
意図的に、今この瞬間に、価値判断なしに、注意を向けること。
過去や未来ではなく「今ここ」に。なかなか難しいのは「判断(judgment)しない」ということ。これらのことは、僕たちの日々の傾向への処方箋である。僕たちは、つい、過去や未来にとらわれてしまうし、また立ちどまることなく「よい/わるい」「正しい/正しくない」等の判断をじぶんの思考にくりだしてゆく。
だから、「意図的に、今この瞬間に、判断なしに、注意を向けること」は、流されがちな日々のなかでは難しい。
瞑想や呼吸法はこのための方法だ。
僕はジョンの次の言葉がとても好きだ。
「Ultimately, I see mindfulness as a love affair ― with life, with reality and imagination, with the beauty of your own being, with your heart and body and mind, and with the world.」
(Jon Kabat-Zinn “Mindfulness for Beginners” Sounds True)
マインドフルネスは結局のところ「恋愛(a love affair)」なんだと、ジョンは言う。人生との恋愛、現実と想像との恋愛、あなた自身の存在の美しさとの恋愛、心と身体とマインドとの恋愛、そしてこの世界との恋愛。
ところで、作家の司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のある場面で、坂本竜馬の「歩き方」を次のように描く。
「竜馬は、左手をふところに入れて歩くのが、くせである。右肩に竹刀、防具をかつぎ、これもくせで、左肩をすこし落し、ひとあし、ひとあし、かるく踏みしめるようにして歩いてゆく。そのわりに足ははやい。
このくせは、四、五年まえについてしまった。竜馬が十五歳のころ、当時若侍のあいだではやっていた座禅を軽蔑し、
ーーーすわるより歩けばよいではないか。
とひそかに考えた。禅寺に行って、半刻、一刻の座禅をするよりも、むしろそのつもりになって歩けばよい。いつ、頭上から岩石がふってきても、平然と死ねる工夫をしながら、ひたすらそのつもりで歩く。岩石を避けず、受けとめず、頭上に来れば平然と迎え、無に帰することができる工夫である。」
(司馬遼太郎『竜馬がゆく(1)』文春文庫)
竜馬が自然と実践していたのは、例えばティック・ナット・ハン(1926-2022)の言う「walking meditation(歩行瞑想)」と同様である。
ひとあし、ひとあしを、踏みしめるようにして歩く。
僕も「walking meditation」の方が身体にしっくりくるときは、「walking meditation」をする。あるいは、僕は歩行に限らず「running meditation」もありだと考えて、走るなかで瞑想状態をつくる。
(司馬遼太郎が描く)竜馬は、頭上に襲いかかってくるかもしれない岩石を空想し、それが怖かったのだという。15歳から18歳のころのことだ。そして18歳になって、自分の空想に怖がる自分がばかばかしくなって、やめてしまったようだ。ただそこには、「歩き方のくせ」が確かな痕跡を残す。ある道場の師範代は竜馬のうしろ姿を見て、「あいつは大きい。うしろが斬れぬ」と口にする。
司馬遼太郎が書くように、空想の「岩石」が自分でも気がつかない仕方で心に生き続け、竜馬を成長させていたのかもしれない。竜馬にとって、マインドフルネスの効力はそのように身体化されていったのかもしれない。
マインドフルネスをどこか非日常的な空間に追いやってしまうのではなく、日々の生活のなかに落としこんでゆく。ひとあし、ひとあし、その歩みのなかに。