JN_Blog_815.jpeg

Wholeness

🤳 by Jun Nakajima

We all are born whole and, let us hope, will die whole. But somewhere early on our way, we eat one of the wonderful fruits of the tree of knowledge, things separate into good and evil, and we begin the shadow-making process; we divide our lives.
— Robert A. Johnson "Owning Your Own Shadow: Understanding the Dark Side of the Psyche"
人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ。
— 野口晴哉『碧巌ところどころ』
必要な以上の富を追求し、所有し、誇示する人間がふつうにけいべつされるだけ、というふうに時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する。…ホモ・エコノミクスという人間像を前提とする経済学の理論は少しずつ、しかし根底的に、その現実妥当性を失う。人間の欲望の全体性に立脚する経済学の全体系が立ち現れる。
— 見田宗介『現代社会はどこに向かうか』 

Wholeness


Wholeness。全体性。



「wholeness。全体性」ということについて、芸術家の岡本太郎(1911-1996)が、こんな言葉を残しています。

ぼくはパリで、
人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。
これがぼくのつかんだ自由だ。

岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)

1930年にパリに渡り、十年ほどをパリで過ごしたという岡本太郎。二十代をパリに生きながら、<人間全体として生きる>ことを学んだ岡本太郎の言葉に、ぼくは魅かれます。

また、冒頭の言葉に挙げたように、ユング派のロバート・ジョンソン氏は、人の生のありようについて、つぎのように触れている。

“We all are born whole and, let us hope, will die whole. But somewhere early on our way, we eat one of the wonderful fruits of the tree of knowledge, things separate into good and evil, and we begin the shadow-making process; we divide our lives.”

— Robert A. Johnson "Owning Your Own Shadow: Understanding the Dark Side of the Psyche"


人はみな「全体(whole)」の存在として生まれ、「全体(whole)」の存在としてこの世を去る。けれども、その道ゆきにおいて、人は例えば「良いー悪い」「正しいー間違い」などと、じぶんたちの生、それからじぶんたちの生きる「世界」を分断していくことになります。「言葉」とはそもそもにおいて、世界を分断するものでもあります(「これいいなあ」と言った途端に、その裏に「悪い」ものが生まれてしまう)。こうして、ぼくたちは「良い」とか「正しい」といった光の世界に生きようとし、「悪い」とか「間違い」といった分断された事象はじぶんの「影」として、じぶんの中に闇の世界を形成してゆくことになります。

それから、「感官」の全体性ということにも、ずいぶんと関心をもってきました。「感官の全体性」、つまり<五感をとりもどす>ということを、ぼく自身が「明確に」関心をもちはじめたのは、十八歳のときからアジアを旅し、ニュージーランドに住み、そしてそれらの体験をことば化してゆく過程のなかで、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年→ちくま学芸文庫、2003年)に出逢ったことがきっかけです。

『気流の鳴る音』のなかで、「われわれの文明はまずなによりも目の文明」であると真木悠介は述べながら、人間における<目の独裁>から感覚を解き放つことで、「世界」は違った仕方でぼくたちに現れることについて書いています。


…<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
 人間における<目の独裁>の確立は根拠のないことではない。目は独得の卓越性をもった器官だ。

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫


<目の独裁>の根拠にかかわることとして、真木悠介は「仏教における五根」の序列性を挙げている。仏教では五根を「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」というようにならべるが、この「配列」(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が、とても自然であるように思われる。そのことを指摘したうえで、五感を通じた「対象との距離」という視点で、上の配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろうと、とても興味深いことを真木悠介は書いています。

都市の問題を「唯脳論」というかんがえ方から掘り下げてゆく解剖学者の養老孟司先生も、五感の中でもっとも軽視されているのは「触覚」であることに触れています。都市というのは「触ること」を拒絶する傾向(例えばコンクリートはなかなか触ろうとはおもいません)があるのだと養老孟司先生は述べています(『耳で考える』角川oneテーマ21)。「視覚」は、対象からもっとも距離をおくことができ、対象を認識するうえで主体が身を賭することを最小にすることができる。「触覚」は、主体が身を賭することなしに、対象を知ることができません。だから、「触覚」を取り戻してゆくことだけでも、「世界の奥行きはまるでかわってくる」ことになります。ちなみに、片づけの「こんまりメソッド」がモノに「触る」ということ(触って「トキメキ」を感じること)を方法としているのは、とてもロジカルだとぼくはおもいます。

ぼくの「wholeness。全体性」への関心はとどまるところを知りません。見田宗介先生(真木悠介)が『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)という本でつきつめていきましたが、ぼくも、個人の生ということと共に、人類の向かう先、現代社会の向かう先という「全体」への関心を強くもっています。だからこそ、このホームページの大きなテーマは、「トランジションにおけるトランスフォーメーション」、つまり、時代の移行期における個人・組織・社会の変容を考え、実践してゆくというところに根をはりつつ、翼をひろげて空に飛び立っています。


「wholeness」というテーマで追究してきたこと・追究してゆくことをメモ風(体系的ではなく、あくまでもメモ風)に記述しておきます。

  • 人間の「全体性」。エゴとセルフ(ユング心理学)。トナールとナワール(ドン・ファン)。波と大海(真木悠介)。全生(野口晴哉)。

  • 五感。唯脳論(養老孟司)。

  • 東洋と西洋。「意識と本質」(井筒俊彦)。

  • 日本的なるもの。

  • 心身の健康への「ホリスティック」なアプローチ。西洋医学と東洋医学。

  • 越境する知。学問の専門性と越境。

  • 「現代社会」を見晴るかす思想。人類の解放。

  • その他


Blog on Wholeness


Book, Articles, Podcast, etc.

Recommended Books

「Letting Go」というトピックへと、深く深くわけいってゆくための本です。
なお、書名をクリックすると、出版社あるいは著者関連のホームページへと飛びます。