追悼:見田宗介=真木悠介先生。- <人間の解放>を追いつづけて。 / by Jun Nakajima

🤳 by Jun Nakajima

社会学者の見田宗介(筆名:真木悠介)。

 「学者」だからといって通りすぎないでほしい、「社会学」だから関係ないやと通りすぎないでほしい、じぶんは「文系」ではないからと通りすぎないでほしい。ぼくはそう願います。

 見田宗介の「切実な問題」は、<人間の解放>です。

 だから、「学者」や「社会学」や「文系」などという看板をまえにして、立ち去らないでほしいとぼくはおもいます。

 二十歳をすぎたころのぼくが出逢った見田宗介(真木悠介)の著作。学問がいわゆる「学問」ではなく、社会学がいわゆる「社会学」ではなく、文系という境界がぜったい的なものではなく、学ぶということが生きるということとおなじであるというところへひらいてみせてくれたのが、見田宗介でした。それから約25年、この世界のどこにゆくにも、見田宗介(真木悠介)の著作はいつでも、ぼくに横に在ります。


 その見田宗介先生(社会学者)が2022年4月1日、お亡くなりになられました。ツイッターの投稿でこの事実を知り、驚きと共に、ぼくの心のなかにぽっかりと穴があいたように感じられました。

 驚きであったというのは、見田宗介先生の私塾『樹の塾』のネット掲示板には、「眼」以外はいたって元気である旨、先生のメッセージ(最新の投稿は数年前のもの)が掲載されていたから、そのメッセージとのギャップの間隙にぼくの驚きが現れました。

 それから、見田宗介先生の存在と仕事は、ぼくの「自我」、じぶんという経験の大きな一部を成していたこともあり、喪失感がぼくのなかにやってきました。

 一報を目にし、いろいろとニュースサイトを検索してそのことの「事実」をたしかめても、そしていずれはこの日が来るんだという(あたりまえの)心の準備があっても、ぼくの実感は、亡くなられた事実に、なかなかおいつこうとはしませんでした。ぼくの手はツイッターの投稿をスクロールし続け、見田宗介先生に少なからず影響を受けてきた方々の投稿を、ぼくはただただ追うだけでした。

 「見田宗介先生に影響を受けてきた方がこんなにもいたんだ」と、ツイッターの投稿を追うぼくは、また違った驚きを感じていました。見田宗介先生や先生の仕事(作品)に関するツイッターは普段はほとんど目にしてこなかったこともあって、「見田宗介」の文字がツイッター上に続々と現れてゆく光景に驚いたのです。若い頃に見田宗介先生の著作(例えば『気流の鳴る音』や『時間の比較社会学』など)に心を揺さぶられた方々が結構いらっしゃるようで、「この機会に再読しよう」という声もあがっていました。

 でも、ぼくにとっての見田宗介先生の数々の著作はむしろ、いつも、ぼくの傍に寄り添ってくれている存在でした。じっさいに、『気流の鳴る音』や『宮沢賢治』などの著作は、アフリカからアジアへと続く、ぼくの「長い旅」を共にしてくれています。そして、いまも、いつでも手が届く場所で待っていてくれます。だから、見田宗介先生の個人的な「死」は、これら著作群を通して交わされる、ぼくと見田宗介先生との<講義>と<対話>を止めるものでは決してないのだと、ぼくは感じています。


見田宗介先生にとっての「死」

 見田宗介先生が亡くなられたことはとてもショックではあったのだけれど、その感覚とは別のところで、ぼくの気持ちは穏やかでもありました。それは、ぼくじしんの「死」への向き合い方によるところでもあり、また、見田宗介先生の「死」に対する考え方・生き方(そして「生」に対する考え方・生き方)を知っていたからでもあります。

 まずはじめに触れておくべきことは、見田宗介先生は小さい頃、多くの子供たちがそうであるように、「死」を怖れていたことです。その「死」は、みずからの死にとどまらず、「人類の死」をも含めての「死」です。


…わたしにとっての「ほんとうに切実な問題」は、子どものころから、「人間はどう生きたらいいか」、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか、という単純な問いでした。この問題は二つに分かれて、第一に、人間は必ず死ぬ。人類の全体もまた、いつか死滅する。その人類がかつて存在したということを記憶する存在さえ残らない。すべては結局「虚しい」のではないかという感覚でした。…

見田宗介『社会学入門』岩波新書


 第二の問題は「自我」に関する感覚で<愛とエゴイズムの問題系>と呼んでいるのに対し、「死」というひとつめの問題を、<死とニヒリズムの問題系>と、見田宗介先生は名づけています。これら二つの問題系はまさしく「ぼくにとっての切実な問題」であり、人はどのように生きたらいいのか、という核心的な問いと共に、ぼくの生をつらぬいてきたものです。

 <死とニヒリズムの問題系>については、『時間の比較社会学』という仕事を通して、見田宗介先生は「透明に見晴らしのきくような仕方で、わたし自身の展望を手に入れることができた」と書いています。そして、それは見田宗介先生だけでなく、ぼくや、さらには幾多の読者たちにとって「展望を手に入れる」ことができるような触発力をもつ名著です。

 この『時間の比較社会学』よりも前に書かれた名著『気流の鳴る音』のなかでは、見田宗介先生は「死」についてつぎのように書いています。


 一 われわれの個人的な<生>とは、われわれの実質materiaである宇宙そのものが、一定の仕方で凝集して個体化した形態formaに他ならない。われわれは実質materiaとしては永遠であり、形態formaとしては有限な存在である。

 二 したがってわれわれの個人的な<死>とは、われわれの実質が形態をこえて拡散してゆくことである。…

 三 ふつうの人間の日常生活においては、生はみずからの形態formaの中にまったく内没し、凝固している。彼らは<死のない人びと>である。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房


 <死のない人びと>と呼んでいるように、近現代人は日常生活に没頭するなかで「死」の問題(じぶんの死、それから人類の死)を「意識の底に封印している」(『時間の比較社会学』岩波書店)ようなところがあります。このような<死のない人びと>とは異なり、見田宗介先生にとって<死>は身近に感じられるものでした。人は誰しもが「いつ死ぬかわからない」という感覚、この人間という「形態 forma」をとって生きていることを外部からまなざすような感覚のなかで、人間はどのようにしたら歓びに充ちた生を生きることができるのか、という途方もない問題に向かう仕事に「小さな区切り」をつけるような仕方で、見田宗介先生は著作を世に送り(贈り)だしてきたのでした。

見田宗介先生の「講義」(2001年)

 ところで、一度だけ、ぼくは見田宗介先生の講義を聴講したことがあります。2001年3月24日、横浜にある朝日カルチャーセンターにおける、「宮沢賢治:存在の祭りの中へ」と「自我という夢」と題された講義でした。当時は、見田宗介先生は東京大学を退官され、共立女子大学で引き続き教壇に立たれていたときで、ぼくはというと、「国際協力」を仕事にしようと、横浜にある大学の大学院で、後進産業地域(発展途上国などとも呼ばれる)の「開発学 development studies」を研究していました。当時から遡ること数年前に、ぼくは見田宗介先生の著作に出逢い、さまざまな仕方で触発されていました。

 講義にはまったくもって「圧倒」されました。見田宗介先生の「講義のスタイル」は、後年あるインタビューで語っておられたように、「その時々に自分が熱中している研究を、そのままストレートに講義でもゼミでもぶつけ」るものです(『超高層のバベル』講談社)。その方法が結局のところ、「いちばん深いところから触発する力をもつ」のだと、見田宗介先生は語っています。横浜での講義もまさにそのとおりの「情熱」で充たされ、また、講義から二ヶ月後くらいに書かれた『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』岩波現代文庫版への「あとがき」(2001年5月)では、講義で語っておられた内容が凝縮され、書かれていたのを見ることができます。

 宮沢賢治、という作家は、この作家のことを好きな人たちが四人か五人集まると、一晩中でも、楽しい会話をしてつきることがない、と、屋久島に住んでいる詩人、山尾三省さんが言った。わたしもそのとおりだと思う。…

見田宗介『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』岩波現代文庫


横浜での講義に来られている方々もきっと「宮沢賢治」が好きな方々であり、二コマの講義が終わったあとも、そのまま「楽しい会話」がしずかに続くいてゆくのではないかとおもわれるような、そんな講義であったように記憶しています。少なくとも、ぼくはそのままずっと一晩でも尽きないほどの興味と疑問に充たされ、けれども時間の関係から、講義の終盤にたったひとつだけ見田宗介先生に質問をさせていただきました。この小さな「会話」は、いまでもぼくの<記憶の宝物>です。

 こうして、最初に触れたように、見田宗介先生との<会話>と<対話>は、ぼくの心と思考のなかで(さらに、見田宗介先生と著作に触発されてきた幾多のひとびとのなかで)、いまでもしずかに、けれども情熱いっぱいにつづいているのだと、ぼくは感じています。

 そして、「感性的に柔軟な高校生のようなタイプの人にいちばん読んでほしかった」(『超高層のバベル』講談社)と語られるように、『気流の鳴る音』や『宮沢賢治』などの著作は、感性豊かな青年たちに向けられ書かれており、若い世代たち、さらには未来の他者たちのなかで、そこで語られたことばや思想が交響してゆくとよいと、ぼくはおもっています。そこで語られているのは、「古くなることがない」ような、そんなことばや思想であるのだから。