野口晴哉著『体癖』。- 野口晴哉という巨人の仕事に惹かれながら。
整体の創始者といわれる故野口晴哉(1911年、東京生まれ)のことをはじめて知ったのは、どこからであったか、今でははっきりと思い出せない。
見田宗介の著作群を一気に読んでいるときに、見田宗介がふれる「野口晴哉」を知ったのだろうと、おぼろげに思うのだけれど、ちくま文庫に文庫化されている野口晴哉のいくつかの著作を通じてかもしれない。
いずれにしろ、20歳を超えたあたりで、ぼくは野口晴哉のことを知った。
ちくま文庫から出されている野口晴哉の著作のひとつに『風邪の効用』というタイトルの本があり、ぼくはその本を読みながら、「視点の転回」を体験することになった。
それは、ぼくが唯一その著作の内容として覚えていることでもあるのだけれど、野口晴哉によると、「風邪」というのは<体の祭り>なのだということである(正確な言い回しはまったく覚えていないので、あくまでもぼくの解釈もはいりこんでいる)。
ぼくが生まれた静岡県浜松市は「浜松祭り」という祭りが毎年あり、ぼくは「祭りの効用」を身体でかんじとっていたから、風邪が<体の祭り>であるという考え方は、すんなりとぼくの中に収まったようだ。
風邪が「悪いもの」と思っていたから、必ずしもそうではないことを知って、ぼくの視点はひろがりをえることになった。
その視点は、真木悠介(=見田宗介)の名著『自我の起原』(岩波書店)を読んでいるときに(本と「格闘」しているときに)、ぼくたちの身体は<共生のエコシステム>なんだと知って、さらにぼくの中に、すとーんと落ちたものだ。
それから時をだいぶ経て、見田宗介の『定本 見田宗介著作集X:春風万里』に収録されている「野口晴哉」に関する論考を読んだときに、ぼくはすっかりと、野口晴哉の世界(また見田宗介による読解)に惹きこまれてしまった。
ぼくはこのとき、香港に居住をうつしていたけれど、日本から野口晴哉の著作をいくつかとりよせた。
その中の一冊に、野口晴哉『治療の書』(全生社)がある。
野口晴哉の「治療生活三十年の私の信念の書」である。
天才的な治療家であった野口晴哉は三十年の治療生活に専心した後に、治療を捨て「整体」を創始していくことになるが、この書は、治療三十年に終止符を打つ書であった。
ぼくは香港で人事労務コンサルティングの仕事をしていて、ちょうど「予防」的な施策に思考をめぐらせていたから、専門の垣根をこえて、ぼくは野口晴哉から学んだ。
今でも、『治療の書』は、圧倒的な存在感をもって、ぼくの横にある。
見田宗介の『定本 見田宗介著作集X:春風万里』の論考(講義録)で、野口晴哉を導きの糸に、美術画に描かれている人物の「身体」を読み解くという、きわめて興味深い話を展開している。
その身体の読み解きの「基礎」は、野口晴哉の「体癖論」である。
野口晴哉の著作の中に『体癖』(ちくま文庫)という著作がある。
それによると、体癖論は、個人の身体運動がそれぞれに固有の「偏り運動」に支えられていることを中心にそえる考え方だ。
その「偏り運動」は、固有の運動焦点の感受性が過敏であることから生まれるものだという。
「偏り」は体全体の動きに関わり、偏りがどのように連動しながら体全体の動きとなるかが焦点のひとつとなる。
そもそもなぜこの「体癖研究」を行なっていたのかということについて、野口晴哉は、次のように書いている。
私は半身不随の人が火事でビックリして逃げ出したのを見たことがあります。人間は攻撃とか防御とかには全力を発揮しなければなりませんから、全力発揮のための特殊運動が行われるのは当然ですが、もっと日常的なことで、例えばある人はチップを貰えるかもしれないということから運動能力が発揮され、また別の人は探偵小説なら徹夜で読みつづけても辛くないというように、全力が発揮できる方向が各人それぞれにあるのです。こういう自発的な運動能力発揮の方向は、偶然生ずるのではなく、一定の習性があり、一連に連動する方向があるのです。各個人異なった自発的な一連の動きを解くために体癖研究を行なっているのであって、運動の研究に欲求とか感情とか闘志とか利害などを持ち出さねばならぬ理由もここにあるのです。
野口晴哉『体癖』ちくま文庫
「全力が発揮できる方向が各人それぞれにある」ということ(=自発的な運動能力発揮の方向)は、現代風に言い換えると「モチベーション」である。
モチベーションを、体癖から解いてゆくという仕事である。
「自発的な運動」ということについては、野口晴哉の、次のような言葉を引いておきたい。
健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。
野口晴哉『体癖』ちくま文庫
体癖研究の対象とする「自発的な運動能力発揮」は、したがって、「健康に至る」仕方でもあるのだ。
全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ること。
自発的に動くこと。
野口晴哉という巨人を前に、ぼくは姿勢を正しながら、ただ耳をかたむけ、「はい」と、心の中で威勢よく返事をするだけだ。