今、「たった一冊の本」をぼくが無人島にたずさえるとしたら。- 真木悠介の名著『気流の鳴る音』。

村上春樹の短編集『一人称単数』(文芸春秋社、2020年)所収の「謝肉祭(Carnival)」と題された短編において、「無人島に持って行くピアノ音楽」を一曲だけ選ぶ場面がある。「一曲だけのピアノ音楽」とは、なかなかむずかしい選択だ。その選択にはさまざまな「考慮」が投じられることになる。テーマが好きなものであればあるほどに、「考慮」はひろくふかくなってゆかざるをえない。

 村上春樹の短編集『一人称単数』(文芸春秋社、2020年)所収の「謝肉祭(Carnival)」と題された短編において、「無人島に持って行くピアノ音楽」を一曲だけ選ぶ場面がある。「一曲だけのピアノ音楽」とは、なかなかむずかしい選択だ。その選択にはさまざまな「考慮」が投じられることになる。テーマが好きなものであればあるほどに、「考慮」はひろくふかくなってゆかざるをえない。

 このような、いわゆる「無人島に持って行くとしたら」の質問系は、いろいろな会話のなかで、いろいろなテーマのうちに語られる系だ。とはいっても、いまでは「無人島」物語の世界が若い世代のうちに共有されているのかどうか、ぼくにはわからない。「無人島」というものが若い世代にとって現実感をともなって迎えられるかどうか。いまの時代であれば、「無人島」ではなく、むしろ「宇宙」であろうか。でも宇宙に行くにしても、例えば宇宙飛行士の毛利衛は二度目の宇宙飛行(2000年)のときは全部で24枚のCDを持っていったのだというし(『宇宙から学ぶ ユニバソロジのすすめ』岩波新書)、いまでは音楽はデジタル形式でもあるから、24枚をはるかに超える音楽をデータで持っていける。映画『The Martian』では火星でデジタル音楽を聴くシーンがあったのを、ぼくは憶い起こす。ミニマリストのぼくは今ではCDはいっさい持っていないけれど、もちろんストリーミング(Apple Music)によってありとあらゆる音楽を聴くことができる。「オフライン」であっても、あらかじめスマホにダウンロードしてある音楽を再生すればいいだけだ。いずれにしろ「無人島に持って行くとしたら」の質問系は、無人島(あるいは宇宙)に行くときの「条件」に深入りするのは賢明ではない。スマホは持っていけるのか、スマホのキャパシティはどうかなど、そんなことを言い出したら、せっかくの会話の流れがおかしくなってしまう。あくまでも、とにかく、ひとつを選ぶこと(あるいはふたつなり三つなりと提案された数を選ぶこと)から、この会話ははじまるのである。

 ところで、無人島にしろ宇宙にしろ、それらはひとが「移動すること」の先にひろがっている世界である。この視点でみるとき、新型コロナの経験は、移動が制限され、「移動しないこと」へと戻される経験である。大航海時代を経て、近代から現代へとつづいてゆく文明の拡大と進化を高台にのぼって見晴るかすとき、それは(形態はどうであれ)「移動すること」をその核心に装填することですすめられてきたのだということがみてとれる。無人島も宇宙も、文明の拡大と進化のなかで立ち現れた領域である。そこからベクトルはぐいっと転回して、(できるかぎり)「移動しない」世界へと戻されたのである。移動していった先の「ひとつの選択」ではなく、「移動しない」世界での「ひとつの選択」とはいったい、どうなるのだろうかとかんがえてしまう。


 新型コロナの状況下で、いろいろな本をぼくは読んでいる。昨年(2019年)は「移動すること」の多い年だったから、あまり多くの本にふれることをしなかったのだけれど、今年は新型コロナの状況下で、またぼくの生活にもいろいろなことがあって、ぼくはさまざまな本たちとの対話(読書)を重ねてきた。

 新型コロナの状況がさしだしてくれたのは、例えば(長めの本を読むという)時間の余裕あるいは時空間の再編成ということだけに限られない。より深いところでは、それは、人や社会のありかたにおける、根本的な価値観に対して「裂け目」をつくったのだということができる。人の生き方や働き方はもちろんのこと、社会のしくみ、経済のありよう、それから人と自然の関係性にいたるまで、ありとあらゆるものの「根源」をまなざすところへと、現代を生きる人たちはおしだされたようである。もちろん新型コロナの状況にいたるまえにも、個人やコミュニティなどが、人の生き方や社会のあり方に対して真摯で根源的なまなざしをそそぎ、行動し、変えようとしてきたのだけれど、新型コロナの状況ではその「おしだされかた」が、同時的で、全世界的なひろがりをみせていることが特異だ。つまり、たくさんのひとたちが共有している「共同幻想」に<裂け目>ができたのだ。それは、これまで「共同幻想」によってあまり省みなかったようなことがらに風穴をあけ、「共同幻想」によって支えられていた人の生き方や社会のあり方、あるいは共同幻想自体をいっそう明るみに出すことになった。

 そのおしだされたところで人が手にとる本は、意識的にか無意識的にか、近現代の根本的な価値観の裂け目に向かっているような本の系列がひとつであるかもしれない。少なくとも今年のぼくは「古典」と呼ばれる本を手にとることが多い。それはぼくの個人的な関心によるところが大きいのだろうけれど、その個人的な関心は「近現代のあとに来る世界」、近現代をのりこえてゆく、人の生き方、組織や社会のありようをまっすぐにまなざしているから、根本的な価値観が省みられる現在の状況に接合してゆくのは当然のことである。

 いろいろな古典的作品があるけれど、ぼくがやはり立ち戻った本の一冊は、真木悠介(社会学者である見田宗介の筆名)の名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房、1977年)であった。冒頭であげた無人島シリーズのように、今のぼくが「たった一冊の本」だけを手にたずさえるとしたら、真木悠介の『気流の鳴る音 交響するコミューン』を、ぼくは手にとることになる(ちなみに、1977年以後、2003年に「文庫版」がちくま学芸文庫にはいり、この文庫版をもとに2018年に電子書籍化されている。また真木悠介の著作集にも収められている)。今回あらためて精読しているあいだ、ぼくが「たった一冊の本」を選ぶとしたら、やはりこの本だとぼくはおもったのであった。

 『気流の鳴る音 交響するコミューン』は、人類学者カルロス・カスタネダの著作を素材としながら、「われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁として、これらインディオの世界と出会うこと」を目的として書かれている。カスタネダの著作は今ではあまり知られていないかもしれないが、メキシコ北部に住むヤキ族のドン・ファンという老人のもとに弟子入りしてインディアンの生き方を学んでゆく話だ(「メキシコの教え」といえば、ぼくにとってはDon Miguel Ruiz『The Four Agreements』で、それはドン・ファンの「教え」とも重なっている)。カスタネダを通じてこれらのインディオの世界と<出会う>なかで、またそれらの素材に触発される仕方で、真木悠介は「人間の生き方」を論じてゆく。真木悠介が書いているように、素材はカスタネダの著作とインディオの世界だけれども、この本は「ドン・ファンやドン・ヘナロの魅惑的なトリックやヴィジョンやレッスンに仮託した、私自身の表現」である。

 この本をぼくの「たった一冊の本」とする理由のひとつは、上で述べたように、「近現代をのりこえてゆく生き方や社会のありよう」をまっすぐに視界におさめていることである。「人間の生き方を発掘したい。とりわけその生き方を充たしている感覚を発掘したい」と、真木悠介は本の冒頭に書きつけている。さらに、『気流の鳴る音』が書かれたときのことを憶い起こしながら、「<近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学>という夢の仕事の、荒い最初のモチーフとコンセプトとを伝えるために、カスタネダの最初の四作は魅力的な素材であると思えた」ことを、真木悠介は2003年の「文庫版あとがき」に書いている。<近代のあとの時代の構想>という仕事は、このあと、真木悠介(=見田宗介)の仕事のなかに結実してゆくことになるのだけれど、ここに軸足をおくことは、ほんとうに歓びに充ちた生き方をかんがえてゆくときにはとても大切なことであるとぼくはおもう。

 「たった一冊の本」とする理由の二つ目は、<比較社会>という方法である。自然科学とは異なり「社会」というものは研究室での「実験」はできないから、「他の社会」との比較という方法をとらざるを得ない。だから、「社会を比較する」という方法をとることになる。ぼくにとっての「関心」との重なりでいえば、「異文化という経験」だ。1990年半ば、大学に入学後、ぼくは毎年夏休みには「海外」に出ることにしていた。ぼくが入学した大学は外国語を専攻する大学で、大学内にすでに「異文化空間」が生成していたのだけれど、海外に出ることがふつうのこととして日常化していた。もちろん「海外」へのあこがれをもって入学したのでもあるから、ぼくにとって海外に出ることは当然のことであった。1994年の中国本土にはじまり、1995年には香港(返還前)・中国本土・ベトナム、1996年には一年休学してニュージーランドに滞在、1997年にはタイ・ラオス・ミャンマーといった具合に、「異文化」はぼくのなかで経験の地層をつくっていった。そのような経験の地層をつみかさねるなかで、ぼくは新宿の紀伊国屋書店で、『気流の鳴る音』に出逢ったのであった。『気流の鳴る音』との出遭いは、ぼくが見たり感じたりする「風景」を変えてしまうものであり、あるいはぼくが感覚してきたことがらに「言葉」を与えてくれた。その後もぼくの「異文化経験」は地層をつみかさねゆくことになるのだけれど、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港、マレーシアに暮らしてゆくなかで『気流の鳴る音』はいつもぼくと共にあった。シエラレオネに仕事で住むことになったときも、まさに限られた荷物のなかに、ぼくは文庫版の『気流の鳴る音』を入れ、それはぼくの日々を精神面で支えてくれたのである。なお、『気流の鳴る音』はいわゆる「異文化」よりもはるかにひろい射程をもっていることを追記しておきたい(真木悠介の言葉をそのまま使えば「異世界」であり、それは人それぞれの内部の「異世界」をも射程している)。

 さらに、『気流の鳴る音』を「たった一冊の本」とする理由の三つ目は、真木悠介がふりかえって書いているように、そこには真木悠介の<荒い最初のモチーフとコンセプト>が「混沌と投げ込まれていること」(「文庫版あとがき」)だ。投げ込まれた「荒いモチーフたち」は、その後の真木悠介=見田宗介の仕事(名著『時間の比較社会学』や『自我の起原』など)のなかで「かたち」をなしていったのだけれど、そのことにふれたあとで、真木悠介はつづけてこう書いている。「これからもなおさまざまなモチーフがこの混沌の内から立ち上がり、わたしの中で、他者たちの中で、そして見知らぬ世代たちの中で、さまざまに呼応しながら、新しくおどろきに充ちた冒険と成熟をくりかえしてゆくことに心を踊らせている」(前掲書)。「荒いモチーフたち」は、人の生き方や社会の変革の「答え」ではなく、『気流の鳴る音』を読む者たちのなかで、「新しくおどろきに充ちた冒険と成熟」を触発してゆく、そのような混沌さが、ぼくには魅力的なのだ。仮に無人島で読むにしても、その混沌のなかから、ぼくは「新しくおどろきに充ちた冒険と成熟」をくりかえしてゆくことができる。20年以上読み続け、いまでも読むたびに触発されているぼくの経験はそのことの証のひとつである。でも、ひとつ加えておかなければいけない。「混沌」といっても、『気流の鳴る音』で展開される「論」それ自体は、きわめて明晰で、みごとというほかない。なんど読んでも、ぼくの心は踊り、心の中では感嘆の声しかでない。

 まだまだ「理由」はいっぱいにあげることができるのだけれど、ここでは、「近現代をのりこえてゆく生き方や社会のありよう」への視界、<比較社会>という方法(異文化や異世界へのまなざし)、<荒い最初のモチーフとコンセプト>(答えではなく触発し生成する思想)、という三つのことをあげるにとどめておきたいとおもう。

 それにしても、この本との出逢いがなければ、今のじぶんというものはないだろうとおもう。じぶんは存在はしていただろうけれど、今のような仕方でじぶんが生きているということはないだろう。それほど、ぼくにとって大切な書物であり、「生きかた」をほんとうに変えてゆきたいとおもっている人たち、また/あるいは「社会」を変えてゆきたいとおもっている人たちにすすめたい書物である。新型コロナの世界に生きながら、いっそう「生き方」が問われ、「社会のありよう」が問われている。それらの問いに対して、表層だけで応えないこと、この機会に深い地層におりていって、根源的に問い直すこと、そして生きなおすこと。そこに向かって、『気流の鳴る音』はまっすぐなまなざしを届けてくれている。

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音楽・美術・芸術, 書籍 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 書籍 Jun Nakajima

スティーブン・フォスターという人物。- 『はじめてのアメリカ音楽史』を、音楽を聞きながら読む。

スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。

 スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。ぼくは、まったく聞いた覚えがなかった。

 けれども、名前を知らなくても、この人物は(おそらく)きわめて多くのひとたちにとって、それなりに「関わり」のある人物である。ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)は、その関わりを簡明に解きあかしてくれる。

 スティーブン・フォスター(1826-1864)は「ポピュラー音楽の元祖」。フォスターは「歌をポピュラーにすることに成功した最初のアメリカ人」であり、「歌をつくるのを職業にした最初のアメリカ人」であるという(前掲書)。

 彼がつくった歌は、あまりにも有名だ。「故郷の人々(Old Folks at Home)」(別名「スワニー河」)、「おお、スザンナ(Oh! Susanna)」、「草競馬(Camptown Races)」、それに「ケンタッキーのわが家(My Kentucky Home, Good Night!)」。

 曲名を見ただけではわからないかもしれない。音楽ストリーミングやYouTubeで検索して、再生してみればすぐにわかる。「あぁ、あの歌か」といった歌たちが、すべてフォスターの手になるものだとはびっくりである。フォスターは家庭歌謡の「パーラー・ソング(parlor songs)」を135曲つくったようだ。

 バーダマンはつぎのように解説をしてくれる。

 パーラー・ソングというのは、アイルランドやスコットランドの民謡の流れをくむ郷愁歌や上品な音色のラブ・ソングのこと。家庭の居間(パーラー)で演奏されたのでそう呼ばれました。フォスターは自分自身が作詞作曲したものを一般大衆に向けた(ポピュラーな)商品として出版した。フォスターの時代にはまだレコードは存在していませんから、彼は印刷した楽譜を売ることで生計を立てていた。

ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)

 もちろん、フォスターがそのように生きていけたのは、アメリカの経済社会状況が変遷してきたことにもよる。アメリカは独立戦争と米英戦争を経てイギリスから自立し、その流れのなかで「都市」や「市場」がひらけてゆく。こうして商業娯楽の道がひらかれてゆく。

 それにしても、おもしろい。『はじめてのアメリカ音楽史』は読んでいてこころの躍る本だ。でも、この本の第1章を読んでいるあいだ、フォスターの音楽をApple Musicで聴いたりして、だいぶ脱線しながらの読書になってしまう。以前、村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)を読んでいたときも、たしかそんな感じだった。村上春樹と小澤征爾の話に耳を傾けながら、そこで語られる音楽を聴く。そんなふうにして、音楽についての本を楽しむ。

 ところで、著者(対談者)のバーダマンは、アメリカの国家「星条旗」にはその前身があることを教えてくれる。「天国のアナクレオンへ(To Anacreon in Heaven)」という曲である。なんと、この歌は酒飲みたちの歌であったという。その歌を「国家」へ昇格させてしまうアメリカも、すごい。

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成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima 成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima

とても疲れているときに、やはり本をひらく。- 心に灯を灯し、あたためる。

とても疲れているとき、思っている仕方では休まらないことがあるものである。寝不足があきらかであれば寝れば元気になるものだけれど、寝ても何か疲れがとれないことがあったりするものである。そんなとき、逆に身体を動かすことで疲れがとれることもあるし、たとえば、読書をすることで疲れがいやされるようなこともある。

とても疲れているとき、思っている仕方では休まらないことがあるものである。寝不足があきらかであれば寝れば元気になるものだけれど、寝ても何か疲れがとれないことがあったりするものである。そんなとき、逆に身体を動かすことで疲れがとれることもあるし、たとえば、読書をすることで疲れがいやされるようなこともある。

疲れ方にもよるけれど、読書をすることで疲れをとる、という方法をぼくは採用することが結構ある。読書に疲れたときも読書で疲れをとる、という方法を採ることだってある。

読書がー仕事のように感じる人にとっては、ありえない方法かもしれないけれども、ぼくにとっては、読書がそんな役割も果たしてくれるのだ。

もちろん、どんな本でもよい、というわけではない。

数冊の本を、だいぶ前に書いたブログ「ひどく疲れた日にそっと開く本 - 言葉の身体性とリズム」で、ぼくは挙げた。そこで挙げた、下記の本は、今でもぼくにとって特別な本たちである。


  • 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)

  • 見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店)

  • 真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)


ここ2週間ほど、『旅のノートから』はぼくの座右に(字のごとく「座右」に)置かれ、ときおりぼくは、真木悠介(社会学者)のことばの世界に降り立ってきた。真木悠介の「18葉だけの写真と30片くらいのノート」からなる『旅のノートから』は、真木悠介にとって「わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」として書かれたことばたちである。

同じように、見田宗介(真木悠介)のパースペクティブを通して宮沢賢治の生を見晴るかした『宮沢賢治』。「同じように」というのは、この名著『宮沢賢治』において、「わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」という視点が、「宮沢賢治」になげかけられているように、ぼくは感じるからである。(宮沢賢治は病に倒れて、志の途中で「挫折」したのだと考えている人には、見田宗介先生による「宮沢賢治」を一読されることをおすすめする。)

「わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」に彩られたことばたちが、ぼくがじぶんの内側に灯を灯すのを手伝ってくれるのかもしれない。だからか、『旅のノートから』を本棚に戻してから、いつのまにか、ぼくは『宮沢賢治』を手にとっていた。

それから、今日もとても疲れていたところ、ぼくは、村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を手に取ることにしたのであった。

村上陽子さんの写真(おそらく。少なくとも「カバー写真」は村上陽子撮影)を見ているだけでも心がやすらぐのだけれど、スコットランドとアイルランドの旅に触発された村上春樹のことばのリズムに、しずかに身をゆだねる。

村上春樹は語る。ことばがウィスキーであったならウィスキーのグラスを交わすように人と人はわかりあうことができるけれど、人はことばがことばでしかない世界で、ことばの「限定性」に限定されながら生きている。でも、「例外的に」と、村上春樹はつづける。「ほんのわずかな幸福な瞬間に、ぼくらのことばはほんとうにウィスキーになることがある」(前掲書)と。

ここのところぼくはウィスキーもお酒もほとんど(まったく)飲まなくなったけれど、村上春樹の差し出してくれることばを、まるでウィスキーのグラスを傾けるように味わい、心身をあたためている。

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書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

ユングの深い洞察と鮮烈なことば。- ユングへの「予感」。

いつか読むことがわかっている本、いつかはわからないけれどいずれ読むだろうと予感のする本、読みたいと思いつつどこかで「まだ」と思う本、「そんなことごちゃごちゃ言っている暇があれば今にでも本をひらけばいいじゃないか」という声が聞こえつつもじっと「時」が熟すのを待っている本。

いつか読むことがわかっている本、いつかはわからないけれどいずれ読むだろうと予感のする本、読みたいと思いつつどこかで「まだ」と思う本、「そんなことごちゃごちゃ言っている暇があれば今にでも本をひらけばいいじゃないか」という声が聞こえつつもじっと「時」が熟すのを待っている本。

ぼくにとってそのような本に、心理学者カール・ユングの著作がある。膨大な著作群である。(Carl Jung『The Collected Works』第1巻から第18巻がまとめられたデジタル版があるのだけれど、ページ数で1万ページほどにもなる。)

少し読み始めたことがあるのだけれど、ぼくの側が「準備」できていないし、どこかまだその「時」ではないような気がして、本を閉じてしまった。

けれども、カール・ユングとその精神分析の学びを「閉じた」わけではない。心理学者の河合隼雄(1928ー2007)、ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)など、ぼくが尊敬してやまない知性たちを通じて学んできた。

本だけに限らず、カール・ユングに特化したポッドキャスト(英語)でもさまざまな知見にふれることができるため、ときどき聞いたりしている。

でも、ぼくのなかで「まもなく、正面から読み始める」予感がわいてきている。


そんな予感を感じさせるのに充分な「震え」を、ユングの分析手法をとりいれている実践家の著書を読んでいるときに出会ったユングのことばに、ぼくは感じたのである。


When an inner situation is not made conscious, it happens outside as fate. 

   - Carl Jung, Aion: Researches into the Phenomenology of the Self


内的な状況が意識化されないとき、それは外部にて運命(fate)として起こるのである。

とても鮮烈である。ユングの生涯の後年に出版された本のなかに出てくることばだ。

ユング自身の分析と説明の全体にふれたわけではないので、ここではこの細部には立ち入ることはしないけれども、引用されたこのことばを目にしたとき、ぼくの内部で、ほんとうに「震え」が起きたのであった。

そんな「震え」のなかに、まもなくカール・ユングの著作群に向き合う「予感」をぼくは感じる。

「When an inner situation is not made conscious, it happens outside as fate. 」。ほんとうに核心をついた深い洞察とすごい表現である。

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日本, 書籍 Jun Nakajima 日本, 書籍 Jun Nakajima

日本人にとっての「働く」こと。- 理解され難い、「働く」を支える発想。再び、山本七平の視点。

伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。

伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。

このような形の師弟関係は、日本において「働く」ことのなかにも見られ、語られたりしてきた。現代においては、そのような関係性は見られなくなったり、有効ではないというように語られている。師弟関係ではなく、メンターやコーチなどという形態がすすめられたりする。これらに焦点をあててゆくだけでも興味深いことだけれども、ここではそこには入っていくことはしない。

けれども、伝統的な師弟関係が「働く」ことのなかにおりこまれてゆく仕方が、どのような日本文化(の特質)に支えられているのかについて、もうひとつべつの議論を重ねておきたい。

内田樹の「便所掃除がなぜ修業なのか」(『日本辺境論』新潮新書に所収)を読みながら伝統的な師弟関係の本質をかんがえ、ぼくがそこに重ねていたのは、山本七平(1921-1991)の『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)における、日本的な特質のことである。

山本七平は徳川時代の武士であり禅僧であった鈴木正三の思想に日本の資本主義に通じる精神を見ているが、「禅とエコノミック・アニマルは同じ発想から出ている」と書いている。1960年代、日本人は国際社会で「エコノミック・アニマル」と呼ばれるほどであったけれど、それと「禅」が同じ発想から出ているというのだ。

ここで言われる「同じ発想」がなんであるか、どのようなものであるか、おわかりだろうか。少し考えてみてほしい。

キーワードは、冒頭に挙げた「修業」に近いことばである「修行」である。

「禅」に興味をもつ外国の人に「禅」について質問されたとき、山本七平は、鈴木正三にふれながら、つぎのように応えたのだという。


…日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏業の外成作業有べからず。」と同じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業即仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。みなが、それによって、貪、瞋(しん)、痴の三毒から解放されて成仏するためにやっている…。

山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)


山本七平のこの応答を聴いた人たちはたいへんに驚いたのだという。まさか、禅とエコノミック・アニマルが同じ発想から出ているなど、思ってもみないからである。

なお、エコノミック・アニマルにかかわる「利潤の追求」ということを支える考え方として、「利潤の追求は許されないが、結果としての利潤は肯定される」という鈴木正三の考え方が日本の底流に根強く残っていることを指摘している(1970年代の日本であるけれど、文化の根はそんなに変わるものではない)。

なお、山本七平は、近代・現代社会における「脱宗教体制」のことは織り込み済みである。今では資本主義の極致のように見えるアメリカについて、ピューリタンの面影はないというのが皮相な見方なら、日本にはすでに禅の面影が見られないのも皮相な見方であると明示している。

ちなみに、橋爪大三郎・大澤真幸は著書『アメリカ』(河出新書、2018年)で、アメリカの本質に光をあてるときに、まず押さえるべきは「キリスト教」だと語っている。キリスト教がなかったらアメリカは存在しない、と。いろいろと経験と学びを深めてゆくなかで、(「宗教」を学ぶことになるべく距離をおいてきた)ぼくも、そのことがようやくわかりはじめた。


ところで、農業も、仕事も、働くことも、それら「世俗の行為を修行とすることで宗教的行為となりうる」といった考え方が、日本人に大きい影響を与えてきたことを、山本七平は強調している。この考え方を反転させてゆくと、修行としての世俗の行為が高みに上がることで宗教否定的であり、また日本人は「無宗教」であるという見方になる(もちろん、だからといって<宗教性>をもたないということではない)。

なるほど、と思う。このような日本の社会では、「働かない」ということは仏行を行なっていないことであるから非難されるのだと、上述の議論からひきだされる興味深い状況例も、山本七平は挙げている(日本社会で「ブラブラしている」は、このようにして、非難的な言葉である)。

こんなふうにして、最初の「トイレ掃除」にもどると、その行為も、ひたすらに<修行的>なのだろう。


山本七平の著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』。今だからこそ、読まれるべき本であると、ぼくは思う。くりかえしになるけれど、海外で働く日本の人たちに、この本を勧めたい。山本七平自身が書いているように、「視点の提供」として。

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日本, 海外・異文化, 書籍 Jun Nakajima 日本, 海外・異文化, 書籍 Jun Nakajima

機能集団と共同体の「二重構造」としての日本の会社。- 『日本資本主義の精神』(山本七平)の視点のひとつ。

山本七平(1921-1991)による鮮烈な「視点の提供」である、著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)。日本の外(海外)で働きながら、異文化のはざまで「働く」ということを見つめつづけてきたぼくの実感と思考から照らしたとき、この本は刺激的であり、指摘はきわめてするどく、そして40年を経過した「いま」でも(また「いま」だからこそ)有益な視点を提供してくれている。

山本七平(1921-1991)による鮮烈な「視点の提供」である、著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)。日本の外(海外)で働きながら、異文化のはざまで「働く」ということを見つめつづけてきたぼくの実感と思考から照らしたとき、この本は刺激的であり、指摘はきわめてするどく、そして40年を経過した「いま」でも(また「いま」だからこそ)有益な視点を提供してくれている。

「いま」だからこそ、ということの理由は、「日本に発展をもたらした要因はそのまま日本を破綻させる要因」であると山本七平が見ていたように、「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展の仕方は、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」というところへつながってしまう可能性があるのであり、この「何だかわからないが、こうなってしまった」と感じられてしまう現象を、たとえば、海外の日系企業の人事マネジメントにぼくは見ることがあったからである。


海外における日系企業の人事マネジメントは、異文化間の差異が顕著にあらわれるところである。山本七平が取り上げているように、「契約」にかんする考え方と実践は、40年まえも、そして今も異文化間の差異が見られるところだ。

「差異」自体は仕方がないことであるし、よりよいマネジメントへの源泉とすることもできるものである。問題は、日本の仕方を自明(「あたりまえ」)のものとしながら、この差異から発生することがらを「正しくない」「悪い」ものとして考えてしまうことである。「うちは日本の会社だから…」という見方もひとつだけれど、「ここは日本ではない…」という見方もできるのであり、なによりも、視野を大きくすれば、海外の日系企業は、その場所から切り離された存在ではなく、その場所の「社会構造ー精神構造」のなかで活動するのであるから、少なくともマネジメントの「方法」については、オープンであるべきと、ぼくは考える。

ただし、オープンになることのためには、そこの文化や相手を知ることのほかに、じぶん(たち)の日本的特質を「あたりまえ」のものとしてではなく、<あたりまえのものではない>ものとして明確に自覚してゆくことが肝要である。山本七平が、「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であることと語っているように、無自覚は「呪縛」のうちに人を放りこむのであり、オープンになることを阻害してしまうのである。

もちろん、自覚することに完全性を求めるのではないし、また一気に自覚するものでもない。「自覚してゆく」ということ自体が、成長・成熟の旅だということもできるからである。


『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』の第一章「日本の伝統と日本の資本主義」では、「日本の会社は、機能集団と共同体の二重構造」であることが書かれている。

日本の中小企業で見られた「神棚」や、それに代表されるようなある種の宗教性というべきものを「企業神」と山本七平は呼んでいる(ちなみに、山本七平は長年にわたり出版社を独自に経営してきた中小企業の社長でもある)。そのような「企業神」は世界的な日本の大企業でも見られることにふれながら、日本の会社が「機能集団と共同体の二重構造」になっていることを指摘している。。ここで「企業神」は、利潤追求の機能集団としての会社の中心にではなく、会社共同体の中心に置かれることになる。

こうして、山本七平はつぎのように書く。


…日本の資本主義は、おそらく「企業神倫理と日本資本主義の精神」という形で解明されるべきもので、その基本は前記の二重構造にあるだろう。これが、日本の社会構造により支えられ、さらに、各人の精神構造は、その社会構造に対応して機能している。これを無視すれば、企業は存立しえない。
 この対応を簡単に記せば、機能集団が同時に共同体であり、機能集団における「功」が共同体における序列へ転化するという形である。
 そして、全体的に見れば、機能集団は共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化することを意味しているのであろう。…

山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)


このつぎに、山本七平は「血縁社会と地縁社会」という枠組み(日本は血縁社会ではなく「擬制の血縁社会」と位置づける枠組み)を活用して、さらに日本的特質へとわけいってゆく。

また、上記二重構造の「共同体」ということにおいて、アメリカやヨーロッパの共同体を見渡しながら、その違いを「機能集団と共同体の分化」に見ている。たとえば、イギリスの村共同体を述べながら、人びとはその共同体から社会(会社)に出稼ぎにいっている(つまり、機能集団と共同体が分化している)のに対し、日本の場合は、機能集団が共同体に転化している(いわば「団地共同体」から会社に出稼ぎにいく、というのではない)のだと指摘している。

このことを、ぼくが今いる「香港」の事情にあてはめるのであれば、機能集団と共同体が分化していて、そこでいう「共同体」は「家族共同体」ということになろうか。もちろん、現実はいっそう、曖昧さを残していることは言うまでもない。

いずれにしても、ここ香港で『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』を読みながら感じるのは、上述「二重構造」を基礎とした分析枠組みは、状況を把握するのに有効なツール(視点)のひとつであるということである。

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<日本資本主義の精神>への自覚。- 山本七平による鮮烈な「視点の提供」。

著書『「空気」の研究』でよく知られる山本七平(1921-1991)。2000年代に「空気を読めない(KY)」が言葉として流行になったけれども、日本社会における、この「空気」という存在を解き明かそうとしたのが、この『「空気」の研究』(1983年)である。すでに「古典」であり、近年、たとえば大澤真幸(社会学者)が、この著書に再度光をあてている。

ところで、彼の他の著書に、『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)という著書がある(現在は、PHP文庫で読むことができる)。

「まえがき」の冒頭で書かれているように、「日本資本主義精神」という標題は学術書のような誤解を与えてしまうかもしれない(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が連想されてしまう)。けれども、この本は、経営雑誌に掲載された「日本的経営を忘れてはいないか」という一文(のちに英訳されて外国人の友人から説明会の依頼がくる)、それから「日本の伝統とキリスト教」という連続講演(日本の伝統がもつ独特の宗教性が日本資本主義の倫理の基礎である)が契機となっている。

ひとつめの契機で山本七平が感じたのは、日本的経営などにおいて見られる「日本的特質を日本人自身が自覚していない」という問題である。日本の経済成長は「何だかわからないが、こうなってしまった」ものである。日本的特質は外部に説明する必要は必ずしもないけれど、「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは、「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であること、山本七平はここに最も大きな問題を見ているのだ。


…日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは、「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」という破滅をも、もたらしうる…。

山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫、1995年)


「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であること、という把握、それからそこに発展だけでなく破滅への経路を見る山本七平の視点はきわめて鋭い。


…いま必要なことは、この「呪縛」の対象を分析し、再評価し、再把握して、自らそれを統御することである。
 もちろん、それを外部に説明する必要はないが、要請されればそれができるように、各人が明確な自己を把握して、自らを統御することは必要である。それは国家に要請されるだけでなく、企業にも、個人にも要請される。
 本書は、それを行うための一提案であり、いわば視点の提供である。

山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫、1995年)


ぼくは、この本を、海外で働く日本の人たちに読むことを勧めたい。

今から40年まえの1979年に出された本だけれども、山本七平が書いている「問題」は、40年を経た「今」も、その本質はもとより、現象面においても(あまり)変わっていない(ことがある)。山本七平が「いま必要なことは…」と書くときの「いま」は、40年を経た「いま」でもあると、ぼくは思う。

日本の会社の「共同体」の構造(と精神構造)、雇用契約をふくむ契約のかんがえかた、解雇にたいするかんがえかた、「話し合い」の優位性など、現象面をふくめて、今でも「問題」として生起する問題群が、社会構造と精神構造をともに見晴るかす仕方で、明晰に語られている。

この本を読みながらぼくが実感したのは、まさにこれらの「問題」と構造が今も変わっていないことの驚きであった。

なお、「解決法」が説かれているわけではない。けれども、「自己がそれによって行動している基準」を自覚することなく(少なくとも自覚しようとすることなく)、現象面を解決しようとする仕方は、付け焼き刃になりかねない。あるいは、「何だかわからないが、こうなってしまった」という事態が起きてしまうかもしれない。その意味で、一歩踏みこんだ「解決のヒント」を得ているのだと言うことはできる。

なお、副題にある「なぜ、一生懸命働くのか」についても、興味深い視点を提供してくれている。マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理のなかで、「ベルーフ」としての仕事、つまり「神から呼びかけられている」ものとして捉えられる職業に<資本主義の精神>を見たけれども、山本七平は、日本の伝統がもつ宗教性に<日本資本主義の精神>の基礎を見出している。

そんなわけで、海外で働く日本の人たちに、この本を勧めたい。山本七平自身が書いているように「視点の提供」として。

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「自分の問題」の延長線上に。- 上原隆著『友がみな我よりえらく見える日は』。

「友がみな我よりえらく見えるとき」というのが、誰にとってもあるかもしれない。いつもそう思ってしまう人もいれば、あるときにふと、そう感じてしまう。自分の人生は誰のものでもなく、自分のものだとわかりながら、それでも、ときに、「友がみな我よりえらく見えるとき」が日常に差し込んでくるかもしれない。

「友がみな我よりえらく見えるとき」というのが、誰にとってもあるかもしれない。いつもそう思ってしまう人もいれば、あるときにふと、そう感じてしまう。自分の人生は誰のものでもなく、自分のものだとわかりながら、それでも、ときに、「友がみな我よりえらく見えるとき」が日常に差し込んでくるかもしれない。

著作『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)のタイトルを目にしたときにそんなことを思ったのだけれど、ぼくがこの本を手にしたのは、このタイトルからではなく、「上原隆」によって書かれた本だからである。

上原隆を知ったのは、鶴見俊輔を補助線として吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』を読み解く、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)を知ったときであった。

そして実直な視点と文体に惹かれて、ぼくは上原隆の他の著作を読んでみたくなったのだ。こうして、『友がみな我よりえらく見える日は』のページをひらくことになる。

その扉の詞には、石川啄木の『一握の砂』からの言葉が置かれている。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」(石川啄木)。本のタイトルはここから来ているようだ。

上原隆は、インタビューを通して、市井の人びとの人生をきりとって、それぞれ短い文章にまとめている。目次を見るだけでも、さまざまな人びとが取り上げられているのがわかる。友よ、容貌、ホームレス、登校拒否、芥川賞作家、職人気質、父子家庭、女優志願、等々。


ここではそれぞれの詳細ではなく、この本のモチーフについて、上原隆の別の著書の文章をあげておきたい。


 あるとき、鶴見さんがこういった。
「マルクスがすごいのは資本論を書いたからじゃない。餓えという問題を見つけたからなんだ。問題を解決することよりも、自分の問題を見つけることが重要なんだ。
 私にとって「自分の問題」は何だろうと考えた。映画監督になることが高校生の頃からの夢で、映画会社に入ったのに、自分の映画は作れなかった。…自分には才能がないのだと認めざるを得なかった。私は落ち込み、部屋にひきこもり、毎日、鶴見さんの本だけを読んで過ごした。そんなふうだった三十代の十年間を思い出した。あのとき、鶴見さんの本を読むことで自尊心をささえていたなと。そして、これは「自分の問題」ではないかと気づいた。
「困難に陥り、自尊心が傷つき、自分を道端に転がっている小石のように感じるとき、人はどうやって自分を支えるのか」

上原隆『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)


上原隆は、この「自分の問題」を手がかりに、人に会い、話を聴き、本を書いた。その本が、『友がみな我よりえらく見える日は』(1996年)である。

この本ができたとき、はじめて、鶴見俊輔がほめたのだという。「市井の人々の生き方を記録」と紹介されたりするなか、鶴見俊輔があるとき、上原隆に言ったのだという。「あなたの書いているものは文学ですね」、と。

『友がみな我よりえらく見える日は』を読みながらぼくが感じていたのは、それぞれの人びとの「物語」が語られているのだということ。「文学」だという鶴見俊輔と共振するところだと思う。


ところで、「自分の問題」を見つけるときというのは、ある意味で、「他者との比較」(…よりえらく見える、など)から離れてゆくときでもある。

ぼくたちは日々、直面する問題を解決していくけれども、もっと根源的な次元において「自分の問題」を見つけてゆくこと。「他者との比較」から離れ、いわば<自分との比較>がはじまる。今日の自分は昨日の自分と比較してどうか。「自分の問題」が、どう生きられているか。

こうして、<自己実現>ということが、根源的な「自分の問題」と共に、歩みはじめるのである。

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上原隆著『君たちはどう生きるかの哲学』に惹かれて。- 鶴見俊輔を補助線として、『君たちはどう生きるか』を読む。

吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』。1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』。1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

この『君たちはどう生きるか』に心を揺さぶられ、他の人たちがどんなふうにこの本を読んでいるのか気になっているときに、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)を目にし、手にとった。

最初の数ページを読んで、つづきが読みたくなったのだ。

というのも、それら最初の数ページには、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の視点が刻まれていたからである。


鶴見俊輔は、『君たちはどう生きるか』について、「日本人の書いた哲学書として最も独創的なものの一つであろう」と評したという。1959年のことだ。

上原隆はこの言葉に導かれて、『君たちはどう生きるか』をすぐに読んだのだという。

上原隆が『君たちはどう生きるか』を初めて読んだのは、1981年、32歳のときだった。小さな記録映画製作会社で働いていたが、作りたい映画は作らせてもらえず、さらには経営状態も悪化している。

先行きが見えない不安のなかで、上原隆は鶴見俊輔の本を読み、ノートにとることで自分を支えていたのだという。そんなときに、『君たちはどう生きるか』についての、鶴見俊輔の書評に出会い、『君たちはどう生きるか』に導かれてゆく。

上原隆は、鶴見哲学の主要な問題のほとんどが『君たちはどう生きるか』の中にあるのだと見てとっている。著作『君たちはどう生きるかの哲学』は、鶴見哲学を補助線としながら『君たちはどう生きるか』に書かれていることを深めてゆくことを企図した本である。

『君たちはどう生きるか』に触発され、また今年は(少しずつだけれども)鶴見俊輔の著作を読んでいるぼくにとって、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』は、関心や焦点、さらには世界観のようなところで共振するものがあるのだと、手にとった本なのだ。


「はじめに」で、上原隆はつぎのように書く。


 鶴見はこう書いている。

   わたしは思想を、それぞれに人が自分の生活をすすめてゆくために考えるいっさいのこととして理解したい。

 プラグマティズムと論理実証主義を学んだ鶴見は、論理的で実証的な手堅い哲学を背景に持ちながら、そこから出て、一人ひとりの「私」が生きる現場のことを考えた。自由意志を大切にし、正義の立場から批判することを嫌い、寛容さを大切にした。
 一人ひとりの「私」が、様々なことと出会い、失敗し、後悔し、そこから意味をくみとって、成長していく。そこに哲学があると考えた。
 文字通り、君たちはどう生きるかの哲学だ。

上原隆『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)


この箇所を読んで、ぼくは、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』を読もうと思った。さらには、上原隆の他の著作も手にとって、ページをひらいた。

読み始めて、ぼくは思う。ぼくの感覚はまちがってはいなかった、と。

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「井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし」(大澤真幸)。- 井筒俊彦『意識と本質』をひもときながら。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が「この一冊」として勧める、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)。河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、読まないわけにはいかない。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が「この一冊」として勧める、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)。河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、読まないわけにはいかない。

これからの時代を生きてゆく「指針」としては、この、「誰(whom)」、ということがキーワードだ。どのような方々と関わっていきたいのか。

だから、ぼくが関わりたい「河合隼雄」という人物に勧められるのであれば、まずは読んでみる。「何」が書かれているかあまりはっきりしない本であっても、読んでみる。ぼくはそう感じ、その感覚にひかれるままに、井筒俊彦の『意識と本質』をひらく。


河合隼雄のほかに、思考と感覚を深く信頼してやまない大澤真幸(社会学者)は、かつて、「古典」にかんする新聞の連載で井筒俊彦の『意識と本質』をとりあげて、つぎのように書いている。


 本書は、人間の意識がどのように事物の本質を捉えるのか、ということについての考え方の違いを基準にして、イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それらの間の位置関係を明らかにした書物である。東洋哲学全体の地図を作成しようとしているのだ。
 こんなことができるのは、まず井筒俊彦だけだ。井筒はイスラーム思想を中心にあらゆる東洋哲学に(実は西洋哲学にも)精通していた碩学(せきがく)中の碩学。井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。こう言いたくなくる。

大澤真幸「全編を貫く「普遍」への意志 井筒俊彦「意識と本質」」、連載「古典百名山」、朝日新聞(2017年6月11日掲載)


井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。

『意識と本質』が、ぼくにとって初めての「井筒俊彦」なのだけれど、大澤真幸がこの言葉を「言いたくなる」気持ちが、ぼくは充分にわかるのである。


ぼくにとっては、もともと、「本質」ということが主要なテーマのひとつであった。「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えであると、大澤真幸は書いているけれど、このような「問いの立て方」が、ぼくの好奇心を駆動してきたことを、ぼくは思う。

たとえば、修士論文では「開発とは何か」という問いをタイトルにして、「開発 development」の「本質」を、じぶんなりに突き詰めていった。「開発 development」の「方法・手段」を主題にすることもひとつだけれど、ぼくは、どうしても「本質」を突き詰めたくなったのである。

そんなふうにして、「Xとは何か」の「X」をいろいろに変えながら、ぼくはいろいろなことの「本質」をつかもうとしてきた。(ちなみに、井筒俊彦は本のなかで「花」を例としてとりあげることが多い。)


でも、そうこうしているうちに、「自分の考え方」そのものを主題にする方向へとおしだされてしまった。それから「考え方」ということにくわえて、このじぶんの「意識」という次元へとおしだされてゆくことになる。

だから、「意識と本質」という問い方はまさしく、ぼくがそう問わざるをえないところにおしだされたテーマであったことを、『意識と本質』を読みながら思う。

しかし、名著の名著たる所以は、さまざまな読み方ができることであり、『意識と本質』もさまざまな読み方にたいし、さまざまに光を放つ本である。

ぼくは「異文化」という視点をもちこんで読んでいて、東洋と西洋の<境界線>で考え続けてきた井筒俊彦は、そんな視点にたいしても、明晰な論理を展開してみせてくれている。

昨日も言ったけれど、「すごい」としかいいようのない本、そして人に出会うことができた。

井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。大澤真幸の言葉がぼくのなかで、こだましてくる。

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「何」の本を読むかということに加え、「誰に」勧められる本か。- 河合隼雄先生に「この一冊」と勧められる本。

昨日の日付「3月24日」がなんとなく気になって、なんだろうかなぁと思いつつ、結局わからないままであったのだけれど、今日のブログを書こうと思って「下調べ」をしているときに、記憶(あくまでもぼくの記憶)にのこる「3月24日」を、ぼくが以前書いた文章のなかに見つけた。

昨日の日付「3月24日」がなんとなく気になって、なんだろうかなぁと思いつつ、結局わからないままであったのだけれど、今日のブログを書こうと思って「下調べ」をしているときに、記憶(あくまでもぼくの記憶)にのこる「3月24日」を、ぼくが以前書いた文章のなかに見つけた。

2001年3月24日。

その日、ぼくは、社会学者「見田宗介=真木悠介」先生による「講義」を、聴講したのであった。講義は二コマで、題目は、見田宗介『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』、それから真木悠介『自我という夢』であった。

到着した見田宗介先生が「今回のテーマ設定の背景」を語る。「テーマ」の設定の背景でありながら、「『テーマ』(what)ではなく『どういう人たちと関わってみたいか』(with whom)ということ」を考えていらっしゃったとのこと。

あの「圧巻」の講義の日から、人生を歩んでゆくなかで、『どういう人たちと関わってみたいか』(with whom)ということが、ぼくのなかに印象深く残っていた。「what」ではなく、「with whom」ということ。


あれから時間が経過してゆくなかで、またぼくなりに経験を重ねてゆくなかで、このことがいっそう、大切なこととして浮上してきているのを感じる。

今、そしてこれからの時代は、「何(what)」をしていくかということ以上に、「誰と(with whom)」関わってゆくのかということが、中心的な課題となるような時代である。ぼくは、そう考えている。

2001年3月24日のときも、その「予感」を感じながらも、いまほどの確信はもっていなかった。時代がすすむにつれて、いっそう、確信に近いものとなってきている。見田宗介先生は、すでに、あのとき、確信をしておられたのだ。あのときの「種子」が、ようやく、ぼくのなかで芽を出すのだ。


「誰と(with whom)」関わってゆくのか、というときに、本を通して関わりたい方々がいる。見田宗介先生のほかに、たとえば、心理学者・心理療法家の河合隼雄先生(1928ー2007)がいる。

河合隼雄先生の本を読んでいて、河合隼雄先生の勧める「この一冊」を、最近、ぼくは手にとった。

本を選ぶにあたっても、「誰に(by whom)」勧められるのかということが、これからの「本の選び方」であると、ぼくは思う。河合隼雄先生による「この一冊」、河合隼雄先生が「名著」だとする本。タイトルは知っていたし、古典的名著だとも知っていたけれど、ぼくの肩は、「誰に(by whom)」勧められるのかという「誰に」に、ぐっと押されることとなった。

河合隼雄先生の勧める「この一冊」であり名著は、井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)である。井筒俊彦先生(1914-1993)はイスラム哲学の研究者であり、日本でより海外で活躍され、名が知られてきた方である。

河合隼雄先生は、『意識と本質』にふれながら、つぎのように書いている。


…その後記に先生は次のように書いておられる。
「西と東の間を行きつ戻りつしつつ揺れ動いてきた私だが、齢ようやく七十に間近い今頃になって、自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだと、しみじみ感じるようになった」。
 この本は何度読んでも教えられるところのある名著だが、東洋思想が西洋の知に照らされ、しかも平明な言葉によって述べられている。「この一冊」などという原稿を依頼されて、この書物をよく取りあげたものである。

河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)


井筒俊彦という碩学が「齢ようやく七十に間近い今頃になって、自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだ」と感じようになったと言われて、そして河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、『意識と本質』を読まないわけにはいかない。

でも、本をひらいて、ぼくは「この一冊」ということの深みとひろがりを知ることになった。なにしろ、「すごい」本なのだ。


それにしても、今年は、1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれてやまない(※ブログ「1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれる。- 串田孫一にふれながら。」

井筒俊彦。「すごい」方に、ぼくは出会うことができた。

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河合隼雄が語る「鶴見俊輔」。- 「天性のアジテーター」というちから。

2019年は鶴見俊輔(1922-2015)の作品群を読もうということで、年初に、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)の本をひらいた。言い訳をするならば、いろいろとほかのことをしているうちに、この本の途中でとまったままに、早いもので3ヶ月近くがすぎた。

2019年は鶴見俊輔(1922-2015)の作品群を読もうということで、年初に、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)の本をひらいた。言い訳をするならば、いろいろとほかのことをしているうちに、この本の途中でとまったままに、早いもので3ヶ月近くがすぎた。

でも、もうひとつの理由としては、鶴見俊輔の作品を読んでいると、ぼくの関心と思考の輪がひろがってゆくことがあげられる。『思想をつむぐ人たち』でとりあげられる「人たち」を、鶴見俊輔の「眼」を通して語られると、ぼくの関心と思考は、その「人たち」のほうへと、自然と向いていってしまうのである。

そんな「力」が、鶴見俊輔の「語り」のなかには宿っているのかもしれないと思ってしまう。


ところで、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が、鶴見俊輔との出会いについて、『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)という本に書いている。

鶴見俊輔を敬遠していたようなところがあると、河合隼雄は鶴見俊輔についての文章をかきはじめている。

敬遠していた理由は、第一に、河合隼雄は頭のいい人を敬遠しがちであること、それから、第二に、鶴見俊輔を「正義の味方」だと誤解していたことにあった、という。


そんななか、鶴見俊輔・多田道太郎とマンガについての評論をやらないかと編集者に誘われたが、マンガはほとんど見ないし、上述の理由もあって、河合隼雄は最初は断ったという。けれども、両氏を交えて飲む場に誘われて、行ってみることにしたのだという。

そして鶴見俊輔に会ってすぐに、鶴見俊輔を誤解していたのだということを、河合隼雄はさとることになる。とりわけ、鶴見俊輔の「目の輝き」がすばらしく、頭のいい人で頭の悪い人や弱い人の気持ちがこれほどまでにわかる人はいないだろうと思ったのだという。

さらに、鶴見俊輔が語る「マンガの面白さ」に、ひきこまれていく。鶴見はマンガの台詞もおぼえていて、熱演してみせる。シェイクスピアやゲーテの言葉を暗記している学者や偉い人はたくさんいるけれど、マンガの台詞をおぼえている人はあまりいないから、いっそうひかれてしまう。

こんなぐあいに、河合隼雄が鶴見俊輔と初めて会ったときのことが書かれている。


でも、ぼくをいっそうひきこんだのは、つぎのようなところである。


 別れてしまってから、鶴見さんというのは天性のアジテーターである、と思った。鶴見さんは一般の人の言う「アジる」などということは、まったくされなかった。ただただ、自分にとって興味のあることを話しておられた。ところが、鶴見さんの心のなかの動きが、知らぬ間に私の心のなかの動きを誘発してしまうのである。別にマンガを読んでみませんかなどと言われてもいないのに、自分のほうから自発的に「マンガを読んでみましょう」などと言ってしまうのである。おそらく、…あの目の輝きを見ているだけで、たくさんの人が自発的に何かをやり出したくなったりすることは、多くあるのではなかろうか。

河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)


ぼくは、このことがとてもよくわかるような気がしたのだ。

鶴見俊輔の文章を読んでいると、ついつい「自発的に」ほかの著書や人物を読んでみようかな、調べてみようかな、などと思ってしまうのである。

そんなことをしているうちに、「鶴見俊輔を読む」2019年は、3ヶ月近くも瞬く間にすぎてしまったのだ、というと少し大げさかもしれないけれど、じっさいに、ぼくの関心と思考はひろがっていってしまったのである。

鶴見俊輔が語り、書くもののなかに「目の輝き」が感じられ、そこにひきつけられてゆくように。


また、この「天性のアジテーター」ぶりを、ぼくは、じっさいに「体験」したことがあることを、思い出す。

残念ながら、生身の鶴見俊輔さんにお会いする機会はなかったのだけれど、鶴見俊輔の「人物関係図」を描いたとしたらそこにつながる見田宗介先生(社会学者)の講義で、ぼくは「天性のアジテーター」を体験したのだ。

見田宗介先生は、ただただ、自分にとって興味のあることを語っておられた。やはり、目を輝かせながら。

たった二コマの講義だったのだけれど、ぼくは自発的に、いろいろと学んだり、やってみたくなったりしたのであった。

思えば、鶴見俊輔を2019年に読もうと思ったきっかけも、見田宗介先生の著作(『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』)からであった。


天性のアジテーター。

それは、鶴見俊輔の核心をつらぬくものである。そこに魅力をいっぱいに感じながら、ぼくも、そう思う。


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海外・異文化, 書籍 Jun Nakajima 海外・異文化, 書籍 Jun Nakajima

「アメリカ」について知り、考える。- じぶんのなかの「アメリカ」を見つめるためにも。

「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。

「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。

「アメリカ」とは、だれもが知りながら、実はあまりよくわかっていないところだと、ぼくは思う。日々、ドラマや映画やニュースなどでアメリカに触れて、いろいろなトピックに渡って「知っている」けれど、でも「わかっていない」。

ぼくも「アメリカ」を知りながら、その本質について、やはりあまりわかっていないのだと思う。もちろん、なにをもって「アメリカがわかった」と言えるのか、という問題もあるけれど、その深みにたどりつくところまでに、ぼくはまだいっていない。

そんなふうに感じながら、「アメリカ」について、また「アメリカなるもの」について、学ぶ。


「アメリカ」に正面からぶつかってゆく本で、ぼくの手元(手元と言っても電子書籍)にある本(日本語の書籍)を刊行年月日の新しい順で挙げると、つぎのとおりである。


● 橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)

● 吉見俊哉『トランプのアメリカに住む』(岩波新書、2018年)

● 西谷修『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ、2016年)

● 内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫、2010年)※単行本は2005年


いずれの著者も、「アメリカの専門家」ではない。でも、それぞれの切り口において、アメリカをきりとっていて、さまざまな視点を得ることができる。


最初に挙げた本、橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)。

社会学者の大澤真幸は、その「まえがき」で、アメリカというものの「極端な両義性」に触れることから、「アメリカ」について語り始めている。



 アメリカというものには、極端な両義性がある。
 まず、アメリカは、圧倒的な世界標準である。世界中の人が、…少なくとも、アメリカ的な価値観がデフォルトの標準であるという前提を、受け入れている。仮に自分は賛同できないとしても、アメリカに代表される価値観の方が標準とされていることを、すべての人が知っているのだ。…
 ならば、アメリカ社会は、地球上のさまざまな国や社会の平均値に近いのか、というと、そうではない。逆である。アメリカは、他に似た社会を見出せないまったくの例外なのだ。…
 標準なのに例外。その二重性によって、アメリカは「現代」を代表している。

橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)


「現代」という時代を理解するためには、「アメリカ」を理解すること。<標準なのに例外の二重性>によって特徴づけられる「アメリカ」をである。

このことに加えて、大澤真幸は、日本のアメリカにたいする関係性から見て、「日本人ほどアメリカを理解できていない国民はほかにない」と書いている。「アメリカへの愛着の大きさとアメリカへの無理解の程度の落差」(前掲書)が見られる、と。


こうして、「アメリカを知ること」は、第一に、現代社会の全般を理解することであり、そして第二に、現代日本を知ることである、と位置づけている。

この二つは、冒頭に書いた「アメリカを知っているけれどわかっていない」というぼくの感覚と交差してくる。

そして、「現代」と「(現代)日本」を知ることで、それは、ぼくのなかの「世界観」、あるいはぼくが理解できない「世界観」に光を射してくれるように直感するのである。

「アメリカを知ること」はまた、この世界で生きる、ということを考えてゆくときにも、避けて通ることはできないようにも感じる。

だから、先に読んだ内田樹『街場のアメリカ論』を筆頭にして、この四冊をほぼ同時並行的に読みながら、「アメリカ」あるいは「アメリカなるもの」を、ぼくは理解しようとしている。

それにしても、世界のいろいろな「扉」をひらいてゆくような気持ちにもなり、これまた、とてもスリリングである。

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村上春樹, 書籍 Jun Nakajima 村上春樹, 書籍 Jun Nakajima

村上春樹訳『グレート・ギャツビー』の「冒頭と結末」のこと。- 「訳者あとがき」の<告白>。

小説家の村上春樹が訳した、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(中央公論新社、2006年)の「訳者あとがき」、その最後の最後のところ(もう少しで「訳者あとがき」が終えようとするところ)で、村上春樹はつぎのように書いている。

小説家の村上春樹が訳した、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(中央公論新社、2006年)の「訳者あとがき」、その最後の最後のところ(もう少しで「訳者あとがき」が終えようとするところ)で、村上春樹はつぎのように書いている。


…個人的なことを言わせていただければ、『グレート・ギャツビー』の翻訳においてもっとも心を砕き、腐心したのは、冒頭と結末の部分だった。なぜか?どちらも息を呑むほど素晴らしい、そして定評のある名文だからだ。…ひと言ひと言が豊かな意味と実質を持っている。暗示の重みを持ちながら、同時にエーテルのように軽く、捉えようとすると指のあいだからするりと逃げ出していく。告白するなら、冒頭と結末を思うように訳す自信がなかったからこそ、僕はこの小説の翻訳に二十年も手をつけずにきたのだ。…

スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳(中央公論新社、2006年)


村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』本文も好きだけれど、最初に読んだときにぼくの印象につよく残ったのは、この「訳者あとがき」の<告白>であった。

冒頭と結末を思うように訳すことができないことから、村上春樹は二十年の歳月も、翻訳に手をつけずにきた。

ちなみに、この「訳者あとがき」でふれられているように、「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と問われたら、『グレート・ギャツビー』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、それからレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を考えるまでもなく挙げると、村上春樹は書いている。そして、「どうしても一冊ならば?」と問われるのであるならば、迷うことなく、『グレート・ギャツビー』を選ぶのだと、付け加えている。

それほどの一冊である『グレート・ギャツビー』の翻訳に手をつけることが、冒頭と結末の訳に自信がなかったからできなかったというのだ。もちろん、「それほどの一冊」だったからこそ、なかなか手をつけることができなかったのだとも言える。


村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を読んで、その「訳者あとがき」の<告白>を聞いてから、もちろん、ぼくは、スコット・フィッツジェラルドによる「原文」が読みたくなり、さっそく英語版を手に入れ、冒頭に目を通す。

目を通しながら、じぶんなりに「日本語」におきかえてみようとする。たしかに「名文」だと思いながら、しかし、「日本語」にうまくおきかえることができない。そこまでしてみて、「なるほどなぁ」と、ぼくは感じる。

こうして、「訳者あとがき」の<告白>、それから英語の名文と訳のむつかしさが、ぼくのなかにすとーんとおちてゆくのであった。


そんな「視点」と「体験のありかた」がぼくのなかにすみつき、それからというもの、ぼくは英語の本を原文で読みながら、何冊かの本で、「思うように日本語に訳せない」本に出会ってゆくことになる。

別にぼくは「翻訳者」ではないし、そのような本にめぐりあっていつか翻訳書を出そうなどというわけでもないのだけれど、それでも、ぼくは、いつか、思うように日本語に訳せたらと思うのである。

訳せるようになる過程においては、日本語をつむぐスキルや英語をよみとくスキルだけではなく、いろいろな意味において、ぼくの<成熟>が求められるだろうと、思う。だからこそ、いつか、思うように日本語に訳せたら、と、ぼくは思うのだ。

それにしても、そんな本が何冊かあるだけでも、とてもしあわせなことだと、ぼくは思ったりもする。

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書籍 Jun Nakajima 書籍 Jun Nakajima

学びに「新鮮な空気」を入れてみる。- たとえば「物理学」の空気を。

本の「まえがき」に惹かれて、読んでみたくなる本がある。

本の「まえがき」に惹かれて、読んでみたくなる本がある。

「WALKING ALONG THE SHORE」(海岸に沿って歩く)と題された「まえがき」を読みはじめたら、読みたくなった。

本のタイトルは、『REALITY IS NOT WHAT IT SEEMS: THE JOURNEY TO QUANTUM GRAVITY』(Riverhead Books, 2017)。著者は、イタリアの理論物理学者であるCarlo Rovelli。

タイトルにも惹かれるけれど、「the next Stephen Hawking」(Time誌)とも呼ばれる人物にも興味がわく。

でも、決め手は、「Introduction(まえがき)」であった。

「まえがき」は、こんなふうに書き始められている。


We are obsessed with ourselves.  We study our history, our psychology, our philosophy, our gods.  Much of our knowledge revolves around ourselves, as if we were the most important thing in the universe.  I think I like physics because it opens a window through which we can see further.  It gives me the sense of fresh air entering the house.

われわれはわれわれ自身のことで頭がいっぱいである。われわれは、われわれの歴史を学び、われわれの心理学を学び、われわれの哲学を学び、われわれの神々を学ぶ。われわれの知識のおおくは、われわれ自身のまわりを旋回している。まるで、われわれが宇宙でもっとも重要であるかのように。私は物理学が好きである。物理学はそれを通じてわれわれがさらに見ることのできる窓を開けひろげてくれるからだと思う。それは、家に入ってくる新鮮な空気の感覚を、私に与えてくれるのだ。

Carlo Rovelli『REALITY IS NOT WHAT IT SEEMS: THE JOURNEY TO QUANTUM GRAVITY』(Riverhead Books, 2017) ※日本語訳はブログ著者


たしかに、人類はじぶんたちのことで頭がいっぱいなようだ。ぼくも、歴史を学び、心理学を学び、哲学を学び、宗教を学んでいる。「物理学」も、見方によっては、「われわれ」のことである。「われわれ」を知る方法のひとつでもある。(また、「人間」を知るためには、「人間だけ」の視点をこえることが大切であると、ぼくは思う。)

でも、Carlo氏が書くように、それは「家に入ってくる新鮮な空気の感覚」を与えてくれる。その「新鮮な空気」の感覚を、ぼくも身に覚えながら、この本を読みたくなるのだ。


それから、本を読みすすめていけばわかるように、Carlo氏は歴史や哲学などにも広い関心と知識を有している。そんなCarlo氏は、つぎのようにも書いている。


… The more we learn about the world, the more we are amazed by its variety, beauty, and simplicity.
 But the more we discover, the more we understand that what we don’t yet know is greater than what we know. …

…世界について学べば学ぶほど、その種類や美やシンプルさにますますおどろかされる。
 けれども、われわれが発見すればするほど、われわれはいっそう理解することになる。われわれがまだ知らないことは知っていることよりもずっと大きいのだということを。

Carlo Rovelli『REALITY IS NOT WHAT IT SEEMS: THE JOURNEY TO QUANTUM GRAVITY』(Riverhead Books, 2017) ※日本語訳はブログ著者


われわれがまだ知らないことは知っていることよりもずっと大きいのだ、と彼は書いている。

ぼくもおなじように感じる。日々学べば学ぶほどに、知らないことの大きさに圧倒されてくるように感じるのだ。


「まえがき」はこんな具合に書かれている。もちろん、どのような本か、それから対象とする読者に言及されている(ぼくのように、物理学をほとんど知らないか、まったく知らない読者が対象とされている)。

本に「何」が書かれているのか、ということは大切なことだけれども、最近ぼくは、「誰が」書いているのか、ということを大切にしている。

初めて読む著者の本であっても、「まえがき」を読みながら、そこでは<誰>が書いているのかということを、ぼくは知ろうとする。

その<誰>ということに関心と信頼を寄せながら、ぼくは、読む本を手にとる。その本が物理学の本であったとしても。

こんなふうにして、ぼくは、Carlo Rovelliの著作『REALITY IS NOT WHAT IT SEEMS: THE JOURNEY TO QUANTUM GRAVITY』を手にとった。

読みはじめたところだけれども、「新鮮な空気」が流れいるのを、ぼくはすでに感じている。

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1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれる。- 串田孫一にふれながら。

2019年は思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読もうと、2018年の終わりちかくに、ぼくは思うことになった。年始にさっそく鶴見俊輔の著作を手にいれ、読みだしたら、一気に脱線してしまった。著作のなかで鶴見俊輔がふれる人たちを、そのたびごとに追っていたら、まったく進まなくなってしまったのだ。

2019年は思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読もうと、2018年の終わりちかくに、ぼくは思うことになった。年始にさっそく鶴見俊輔の著作を手にいれ、読みだしたら、一気に脱線してしまった。著作のなかで鶴見俊輔がふれる人たちを、そのたびごとに追っていたら、まったく進まなくなってしまったのだ。

でも、それが「鶴見俊輔」という先達の魅力のひとつでもあるように、ぼくは感じるようになる。

そのあと、ふしぎなことのように、ぼくは、鶴見俊輔と同じくらいの年代に生まれた先達たちの著作に、なぜか、とても惹かれるである。

1910年代から1920年代くらいに生まれた人たちの書くことばにである。


ここのところ、串田孫一(1915-2005)の著作(『知恵の構造について』)にはじめてふれてみて、その文体と思索にひきこまれている。

串田孫一のことを知ったのは、もう20年以上まえのこと。作家の辺見庸の対談相手のひとりとして、串田孫一が選ばれていた。経歴をみると、当時ぼくが通っていた大学の教壇に立っておられたこともあるようで、いっそう、ぼくの印象に残っていた。

それから20年以上が経って、ぼくは、ふと、串田孫一の著作を読みたくなったのだ。少しまえに読んでいた、辺見庸の著作(『水の透視画法』)にも、串田孫一との対談の思い出が書かれていたことに、触発されたのかもしれない。

辺見庸は、串田孫一を「なんとよべばよいのか」と自問している。哲学者、詩人、エッセイスト、翻訳家、アルピニスト、画家など、どれもぴんとこない。「職業名」があてはまらないのだ。辺見庸は、結局のところ、尊称としての「ひと」と、串田孫一をよんでいる。

そのように<ひと>としかよぶほかないような人物に、ぼくは惹かれたのかもしれない。


『知恵の構造について』(角川文庫、1969年)のさいしょのほうから、ひきこまれてしまう。


 私は今日ひるすぎから、あることを考えはじめて、それを帳面に書きつけたり、ぼんやりと目をつぶっていたりしていましたが、どうにも抜けられない溝のようなところへ落ちこんでしまうので、夜になってから、ひさしぶりに望遠鏡を近くの草原に持ち出して、ついさっきまで、星をのぞいていました。…

串田孫一『知恵の構造について』(角川文庫、1969年)


それから星の世界にひたり、帰り道に近所の家から聞こえてくるピアノの音(ショパンの「エチュード」)にひかれ、その音にみちびかれた想像はひろびろとした花園を舞う蝶のイメージと思い出をひらいてゆく。

やがて机にもどってきた串田孫一は、つぎのように、書き継いでゆく。


 私はこんなことをして、昼間のうち少しいじめつけてしまった思考に、きれいな星のひかりや、なごやかな調べや、それに蝶の翅からあざやかな色などをそそぎこんで、だいぶこころよい気分をつくりあげることができました。
 私はひとになんと言われても、自分が、こうしたこころよい気分にひたっていられるときは、何ごともうまくできますし、自分の過去に積まれている苦悩も、ごく自然に整理されてゆくので、これは尊いときだと思います。…

串田孫一『知恵の構造について』(角川文庫、1969年)


こんなふうに思索がつづられている。ぼくは、なぜか、とても惹かれてゆくのである。


気がつくと、1910年代から1920年代くらいに生まれている先達たちである。

鶴見俊輔(1922-2015)はもとより、鶴見俊輔の著作でふれられている、著書『ゲド戦記』で知られるアーシュラ・K・ル=グルヴィン(1929-2018)。最近ふと著作に出会い読んでいる、ユング派の分析家Robert A. Johnson(1924-2018)。それから、串田孫一(1915-2005)。

これまでも読んできていたけれど、いっそう惹かれる、整体の野口晴哉(1911-1976)も1911年に生まれている。

ここで「理由」については立ち入らないでおこうと思う。そんなにかんたんにくくりだすことをしたくないし、また、ぼくの個人的な理由が大半かもしれないから。

でも、ぼく「個人」をとおして、この現代だからこそ求められるものも見えてくるかもしれない。あるいは、この現代において、ぼくと同じように、1910年代から1920年代くらいに生まれている先達たちに触発されている人たちがいるかもしれない。

そんな感覚につきうごかされて、ぼくは、こんなブログを書く。

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「捨てる時に、大切な本に出会える」(中谷彰宏)。- 「本」との関係をみなおすこと。

片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法が、2019年、Netflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』によって、再度脚光を浴びている。

片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法が、2019年、Netflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』によって、再度脚光を浴びている。

脚光を浴びることで(脚光を浴びれば浴びるほどに)、もちろん「批判」的なコメントも寄せられる。そのなかに「本」の片づけをめぐる意見も錯綜していた。メディアの記事やSNSの投稿がいりまじり、ちょっとした言葉の捉え方や「解釈」(言っていないことを読みかえてしまうことを含め)はさまざまであることを感じる。

でもなにはともあれ、最後は「自分」がどうしたいかである。ぼくはそう思う。


ぼくは、かつて「本を捨てるなんて…」と思っていたこともあるし、「Book Lover」であるけれども、紙の本は長い時間をかけて減らしてきた。「KonMari Method」のように「一気に」ではないけれど、じぶんなりの仕方で、何年もかけて、徐々に、徐々に。

その代わりに電子書籍を増やしている。紙の本で残っているのは、ぼくにとってのバイブル的な本たち(多くは電子書籍にもなっていない本たち)である。それらのほとんどが、社会学者である見田宗介=真木悠介の著作である。

この20年ほどを共にしてきた本たちである。


「本を片づける(捨てる)」ということをすすめてゆくうえで、「柱」としてきた考え方・見方のひとつに、「断捨離」で知られる、やましたひでこの考え方・見方があった。


 男性にも、女性にも、それぞれ、ため込みがちがちなモノがあります。
 特に、男性は、プライドを大事にする生き物。「自己重要感」を満たしてくれるモノ、「自分はすごい!」とアピールできるモノを抱え込みがちです。

やましたひでこ『大人の断捨離手帖』


やましたひでこが挙げる例は、「コレクター商品」「ネクタイ」「本」。このうちの「本」を抱え込む背景には、「知識コンプレックスが潜んでいる可能性がある」と、やましたひでこは書いている。「知識があるオレ」とか「デキる男」とか「かしこい自分」等々。

じぶんを振り返ったとき、そのような一面はあると思いつつ、また、この「世界」に対峙してゆくための武器のような安心感も感じたのである。

でも、蔵書として残す必要はなく、学んだことはこの心身に残してゆけばよいと、さらには紙の本というもの(知識の「かたち」)に「執着」しないようにと、ぼくは徐々にだけれど、紙の本を手放してきたわけである。無理をせず「自炊」もしながらだけれども。


それから、作家の中谷彰宏の著作『なぜランチタイムに本を読む人は、成功するのか。』(PHP研究所、2016年)には、64項目にわたる「人生が変わる読書術」が書かれている。そのひとつに「捨てる時に、大切な本に出会える」という方法が共有されている。

「蔵書」を限りなくゼロに近づけ、「思い出の本」(=メモリアル)だけを残す。


蔵書を持つのは発展途上の時代です。
捨てる時に、大切な本に出会います。
とっておくと、埋もれていきます。
とっておきたい本は、大学生ぐらいの時に買った本です。
そのあとも、面白い本には出会いますが、とっておくほどではないのです。
これがメモリアルとの違いです。

中谷彰宏『なぜランチタイムに本を読む人は、成功するのか。』(PHP研究所、2016年)



トータルにして100冊にも満たず、ボロボロになったメモリアルの本だという。

それにしても、「捨てる時に、大切な本に出会える」という仕方に、ぼくはひかれるのである。「捨てる時に、大切な本に出会える」。とてもすてきな言葉だ。「捨てる」という時に本を捨てるのだけれども、ほんとうはなにを<捨てる>のだろうと、じぶんに問うてみることもできる。

この本に書かれている、その他の「工夫」にも触発されながら、ぼくは、本を徐々に減らしてきたのである。

いまのこっている本、見田宗介=真木悠介の本は、確かに大学生ぐらいの時に買った本であり、「メモリアル」でもある。日々、読んでいる本である。これらの本を含めトータルでは60冊くらいのところに、ぼくはいる。

電子書籍の本棚はいっぱいにあるけれども、ぼくは、とても自由な気持ちを感じている。


それにしても、本の書き手たち、著者たちはどう思うだろうか、とも思う。いろいろな本があるし、なかには本を大切にしてほしいとも思う人たちもいるかもしれないけれども、それ以上に、読み手の人たちの生の明かりをいっそう明るく灯し、読み手の人たちが行動するための、あるいは生きてゆくためのインスピレーションとなってくれることを望んでいるのだと思ったりする。

本が「とっておかれる」ことではなく、ことばをとおして、人や世界が「変わってゆく」ことを。

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人生の前半と後半、中年(midlife)の危機/機会。- 最近よく考えていることの「メモ」。

最近よく考えていることのひとつとして、「人生の前半と後半」ということがある。もう少し焦点を当てるとすれば、「中年の危機」(midlife crisis)ということである。

最近よく考えていることのひとつとして、「人生の前半と後半」ということがある。もう少し焦点を当てるとすれば、「中年の危機」(midlife crisis)ということである。

ひとつには、じぶんがそのような「人生の時間/時期」にいるからである。

でも先に述べておけば、ユング派の分析家Robert A. Johnson(1924-2018)が書いているように、「中年の危機」(midlife crisis)というよりも、「中年の機会」(midlife opportunity)というように捉えていきたい。

ところが、じっさいにその中にいるとその中にいることは感じるのだけれど、だからなのか、じぶんの内面の風景がくもってしまって、よく見えない。

だから、ここ数年来、河合隼雄などによる著作で触れてきたこのテーマを、もっと深く理解し、今のじぶんの生きかたにつなげていけたらよいと思っていたところ(テーマの「アンテナ」を張っていたところ)、上述のユング派の分析家、Robert A. Johnsonの著作に出会うことができた。

その出会いに心を揺さぶられ、その「勢い」でこのブログを書いているようなところがある。「勢い」で書いているようなところがあるだけで、このブログはこのテーマの深さにきりこんでゆくものではないけれども、もっと(適切な仕方で)語られてもよいと思うこのテーマへと関心の光をあてておきたい。

あるいは、このブログを読んでくれる人たちのなかに、共通のテーマを切実に(また同時に、楽しく)追っている人がいるかもしれない。心を揺さぶる「こんな本があるよ」と、それだけでも伝わるかもしれない。

そんなことから、よく考えていることの「メモ」として、ぼくはこうして書いている。


まずは「メモ」(「メモ1」程度)として、Robert A. Johnson(Jerry M. Ruhlとの共著)の著作を挙げておこうと思う。


“Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life” (Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007) 

By Robert A. Johnson and Jerry M. Ruhl, Ph.D.


序文は次のように始まっている。


 In the first half of life we are busy building careers, finding mates, raising families, fulfilling the cultural tasks demanded of us by society.  The cost of modern civilization is that we necessarily become one-sided, increasingly specialised in our education, vocations, and personalities.  But when we reach a turning point at midlife, our psyches begin searching for what is authentic, true, and meaningful.  It is at this time that our unlived lives rear up inside us, demanding attention. 

 人生の前半においては、われわれは、キャリアを築いたり、仲間を見つけたり、社会によって要求される文化的な課題を果たすことに忙しい。近代の文明の代償とは、われわれが、教育や仕事や性格においてますます特化していきながら、やむを得ず一面的になることである。けれども、中年(midlife)のターニングポイントに到達したとき、われわれの精神(psyches)は、真の(authentic)、真実の、また意味のあるものを探しはじめる。われわれの生きられなかった生(unlived lives)がわれわれのなかで、注意・注目を要請しながら心をかきみだすのは、このときである。

Robert A. Johnson and Jerry M. Ruhl, Ph.D.  “Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life” (Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)   ※日本語訳はブログ著者



ここで書かれれている「人生の前半/(中年)/後半」は、カール・ユング(Carl Jung、1875-1961)が早くから言っていたことを、ユング派の分析家として継承している。

人生の前半と後半では、それぞれに人間にとっての意味が異なってくる。「中年(midlife)」のターニングポイントでは、そのトランジションの課題に直面してゆく。中年の「危機」でありながら、「機会」である。

Robert A. JohnsonとJerry M. Ruhlは「生きられなかった生(unlived life)」という視点で、「人生の前半/(中年)/後半」をわかりやすく、またセラピストとして読者に投げかける質問を盛りこみながら語っている。

中年の「危機」の現れを、たとえば、つぎのように書いている。


  The unchosen thing is what causes the trouble.  If you don’t do something with the unchosen, it will set up a minor infection somewhere in the unconscious and later take its revenge on you.  Unlived life does not just “go away” through underuse or by tossing it off and thinking that what we have abandoned is no longer useful or relevant.  Instead, unlived life goes underground and becomes troublesome - something very trouble some - as we age. 

  When we find ourselves in a midlife depression, suddenly hate our spouse, our job, our life - we can be sure that the unlived life is seeking our attention.  When we feel restless, bored, or empty despite an outer life filled with riches, the unlived life is asking for us to engage. 

 選ばれなかったことがトラブルを引き起こす。あなたが選ばれなかったことに何もしないのであれば、それは無意識のどこかに軽度の感染(infection)をつくりだし、のちにあなたに復讐するだろう。生きられなかった生は活用されなかったことで、あるいは振り落とし、われわれが見捨てたものはもう有益ではない/関連しないと考えることによって「消え失せる」ものではない。そうではなく、生きられなかった生は地下に潜伏し、年を重ねるにつれ厄介なものーとても厄介なものーとなる。
… 
 中年(midlife)において鬱になったり、突然配偶者や仕事や自分の人生が嫌になったりするとき、生きられなかった生が注意・注目を求めているのだと、確実にいうことができる。そわそわしたり、飽きたり、外面の生活が豊かさでいっぱいにもかかわらず空虚さを感じたりするとき、生きられなかった生が、われわれに関わることを求めているのである。

Robert A. Johnson and Jerry M. Ruhl, Ph.D.  “Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life” (Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)  ※日本語訳はブログ著者



ところで、「中年の危機」ということを見るときには、つぎの点については、一歩下がって見るようにしたい。

●「中年」(midlife)という時期

●「危機」の現れ方

「中年」(midlife)という時期については、人生100年時代をむかえているなかにあっては、時期の範囲がひろがるのかもしれない。

心理療法家の諸富祥彦は、人生の午前(前半)と午後(後半)を分かつ「人生の正午の時間」は、日本の平均寿命がのびるにつれてだいぶ後ろ(40代から50代、3割くらいは還暦後)にずれてきたことを、実感として語っている(『「本当の大人」になるための心理学』集英社新書)。

「人生100年時代」においては、これまでの「教育→仕事→定年」という人生経路がいろいろに変わってゆくため、その変化とあわせても、中年という時期の範囲には注意をしておきたい。

また、「危機」の現れ方も、もっと多様化してゆくかもしれない。

そんなことに注意しながら、「中年の危機」(midlife crisis)という、ある意味でよく語られてきたけれど、ある意味で語りつくされていない(生きかたにあまり反映されていない)ことを、Robert A. JohnsonとJerry M. Ruhl、またユングや河合隼雄などの知見もまじえながら、ぼくはじぶんの「中年」と照らし合わせながら、考えている。

「メモ」ということで、ひとまずこのあたりで。

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作家の橋本治からの「宿題」(仮想的宿題)。- ぼくの本棚にならんでいる5冊から。

2019年1月29日、作家の橋本治さんが亡くなられた。

2019年1月29日、作家の橋本治さんが亡くなられた。

ぼくが橋本治の著作を読み始めた直接的なきっかけは、思想家・武道家である内田樹が橋本治を語っているのを読み、またお二人の対談本(『橋本治と内田樹』)を読んだことであった。日は浅く、2018年のことである。また、橋本治さんが亡くなられたのを知ったのも、内田樹のホームページ(「内田樹の研究室」)に掲載された「追悼」のブログからであった(「追悼・橋本治」「追悼・橋本治その2」「追悼・橋本治3」)。

ぼくの本棚(とはいっても、電子書籍の本棚)には、まるで橋本治さんに「宿題」をいただいたかのように(まだすべて読めていない本棚の本を読むという「仮想的宿題」をいただいたように)、橋本治の著作が5冊ならんでいる。


● 『九十八歳になった私』(講談社、2018年)
● 『これで古典がよくわかる』(筑摩文庫、2001年←ごま書房、1997年)
● 『21世紀版 少年少女古典文学館第一巻:古事記』(講談社、2009年)
● 『生きる歓び』(角川文庫、1994年)
● 『上司は思いつきでものを言う』(集英社新書、2004年)


『九十八歳になった私』と『生きる歓び』は小説であり、『21世紀版 少年少女古典文学館第一巻:古事記』は古典で『これで古典がよくわかる』は古典の解説。さらに、『上司は思いつきでものを言う』は、社会論でもありながら、ビジネス書として読める。

ぼくの本棚のたった5冊だけを見ても多岐にわたり、自由に「境界線」をふみわたってゆくさまが見てとれる。

ぼくは橋本治をずっと読んできたわけではないし、多岐にわたる著作群の片隅にふれたぐらいだけれども、自由に「境界線」をふみわたってゆくありようにひかれてきたのだと思う。ただたんに自由に「境界線」をふみわたってゆくのではなく、そこには「人」というもの・ことに向けられる洞察がみちあふれている。

『九十八歳になった私』で、2046年、東京大震災を生き延びた元小説家の「私」を描くときも、それから古典作品を語るときも、さらには「日本のサラリーマン」や「上司」ということにきりこんでゆくときも、いつだって、「人」への透徹したまなざしが感じられるのである。

5冊のぜんぶを読みきっていなくても、ぼくはそのように思う。

なお、人事コンサルタントをしてきたぼくが見ても、『上司は思いつきでものを言う』は、今でも読まれるべき作品だと思う(※ブログでこの作品を取り上げようと思いながら、内容と論理が見かけ以上に深く、なかなか書けないでいる)。


ぼくを「橋本治」につないでくれた内田樹は、「追悼・橋本治」のブログで、つぎのように書いている。


私にとっては20代からのひさしい「アイドル」だった。最初に読んだのは『桃尻娘』で、「こんなに自由に書くことができるのか」と驚嘆して、それからむさぼるように、橋本さんのあらゆる本を読み漁った。…
橋本さんにははかりしれない恩義を感じている。
なにより「これくらい自由にやっても平気」ということを教えてくれたことである。
いわば、橋本さんが地雷原をすたすた歩いていって、振り返って「ここまでは平気だよ。おいで」と言ってくれたようなものである。
橋本さんの通った後なら大丈夫。あそこまでは行っても平気というのは後続するものにとってはほんとうに勇気づけられることだった。

内田樹「追悼・橋本治」、Webサイト「内田樹の研究室」


内田樹にとって「これくらい自由にやっても平気」ということを教えてくれる先達(mentor)の存在であったという橋本治。たしかに、どんなことにおいても、「これくらい自由にやっても平気」ということを教えてくれる先達がいたら、ほんとうに勇気づけられるだろうと思う。


そんな「足跡」をたしかめるためにも、まるで橋本治さんに「宿題」をいただいたかのようにぼくの本棚にならんでいる橋本治作品を、ぼくはひらく。

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成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima 成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima

<手放す>ことへ。David R. Hawkins著書『Letting Go』と共に。- 「逃避」という方法から、はなれてゆく。

近藤麻理恵の「KonMari Method」による「片づけ」が世界的に注目されているが、やましたひでこが提唱する「断捨離」は、片づけのなかでも<手放す>ということにより重心をおいている(人生ステージにもよるけれど、ぼくはこの二つの方法の統合型がより効果があると思う)。

近藤麻理恵の「KonMari Method」による「片づけ」が世界的に注目されているが、やましたひでこが提唱する「断捨離」は、片づけのなかでも<手放す>ということにより重心をおいている(人生ステージにもよるけれど、ぼくはこの二つの方法の統合型がより効果があると思う)。

さらに、<手放す>ということについて、ぼくが多くを学ぶのは、精神科医のDavid R. Hawkins(~2012)からである。

David R. Hawkinsの著書に、『Letting Go: The Pathway of Surrender』(Hay House, 2012)がある。そのタイトル「Letting Go」のとおり、<手放す>ことにかんする本である。

<手放す>ことについて書かれてきた本で、ぼくがこれまで読んだなかで、もっとも包括的かつ科学的である。ぼくの座右の書のうちの一冊である。


「感情と心的機制」(Feelings and Mental Mechanisms)において、人が「感情に対処する方法」として、抑制(suppression)、表出(expression)、それから逃避(escape)があるとしている。

「抑制」は、感情をおさえつける仕方であり、意識的な押さえつけを「抑制(suppression)」、また無意識的な押さえつけを「抑圧(represssion)」として、David R. Hawkinsは厳密に分けている。

「表出」も、それ自体はわかりやすい。誰かに話したりすることで、感情が発散されたり、言語化されたりする。肝要なことは、誰かに話すことは、内的なプレッシャーが発散されるだけで、そもそもの感情の残留物は抑制されて残ることである。

それから、誰もが知るところの「逃避」である。誰もが経験として知るところだけに、David R. Hawkinsの言葉はつきささってくる。


 逃避とは、気晴らしによって、感情を回避することである。この回避ということが、エンターテインメントや酒類業のバックボーンであり、またワーカホリック(仕事中毒)の経路でもある。現実逃避、そして内的な気づきの回避は、社会的に許される機制・メカニズムである。わたしたちは、わたしたち自身の内的な自己を避けることができるし、また、数かぎりない気晴らしによって、感情が湧き上がらないようにすることができる。気晴らしの多くは、それらへの依存度が上がるため、やがて中毒となる。
 人びとは、無意識でいつづけることに必死だ。部屋に入るやいなやテレビのスイッチを入れ、絶えず自身に注がれるデータによってプログラムされながら夢遊状態で歩きまわる人びとを、どれほどよく観ることができることか。人びとは自身に向きあうことにおびえている。孤独である瞬間でさえ、ひどく怖れるのだ。こうして、終わりのない付き合い、おしゃべり、テキストメッセージの送受信、読書、音楽演奏、仕事、旅行、観光、ショッピング、過食、ギャンブル、映画鑑賞、薬の摂取、薬物使用、それからカクテルパーティーなど、絶えず熱狂させる活動にひたることになる。

David R. Hawkins『Letting Go: The Pathway of Surrender』(Hay House, 2012)  ※日本語訳はブログ著者


終わりのない付き合い、おしゃべり、テキストメッセージの送受信、読書、音楽演奏、仕事、旅行、観光、ショッピング、過食、ギャンブル、映画鑑賞などと、逃避の例はつづく。もちろん、これらがすべて、「逃避」を目的としているわけではない。歓びに充ちた読書や仕事もある。

けれども、ここで挙げられるような活動は「逃避となりうる」のだ。じぶん自身をふりかえると、やはり「逃避」だと思うことが多々ある。

さらには、逃避という、内的な気づきの回避は「社会的に許される機制・メカニズム」である。「読書」はダメだと言う人は、まずいないだろう。

上の文章につづく部分を、もう少し見ておこう。


 前述の逃避の機制・メカニズムの多くは、欠陥があり、ストレスが多く、また効果がない。それぞれが、それ自体の中で、またそれ自体において、ますます多くのエネルギー量を必要とする。抑制され抑圧された気持ち(feelings)のますます増大するプレッシャーを押さえこむために、多大なエネルギー量が必要とされるのである。意識・気づきを漸進的に失い、また成長が停止する。創造性、エネルギー、それから他者に対する関心を喪失してしまう。精神的な成長が止まり、また最終的に、身体的また感情の病、病気、老化、それから早死にへと進展してゆく。これらの抑圧された気持ち(feelings)の投影は、やがて、社会的な問題、混乱、また今日の社会の自己中心的で冷淡な特性を増大させる。なにより、その効果は、他者をほんとうに愛したり信頼したりすることをできなくさせ、感情的な孤独と自己嫌悪をもたらすのである。

David R. Hawkins『Letting Go: The Pathway of Surrender』(Hay House, 2012)  ※日本語訳はブログ著者


David R. Hawkinsは明確な記述で、逃避が悪いことだ、とまでは書いていない。そのメカニズムを語り、いわば「逃避活動の行く末」を書いているだけだ。そのようであるからか、David R. Hawkinsの説明は、じぶんをふりかえるときに、とてもするどい言葉となって、じぶんの内面に向かってくる。


このような「感情(feelings)」への3つの対処方法に代わる策は、とてもシンプルだ。抑圧された感情を<手放す>ことである。

方法は、これひとつである。

自己啓発的な方法やアドバイスは世の中にいっぱいにあるけれど、David R. Hawkinsが提示するのは、<Letting Go 手放す>こと、これひとつである。

ただし、シンプルだからといって、簡単というわけではない。抑圧された感情は手強く、幾層にもわたって積層している。ひとつはがれたと思ったら、また違う層があらわれることもある。

でも、じぶんを「変える」ことをいろいろに試みてきて、成果が出ないようなときには、この方法にかけてみるのはありだと、ぼくは思う。

ぼくも、少しずつ、手放している途上だ。その旅の同伴者として、David R. Hawkinsの著作『Letting Go: The Pathway of Surrender』は、ぼくにとって、ある。

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