「生き方の開拓者 Social Pioneer」と <道に迷うこと>。- リンダ・グラットン、キャンベル、ソルニットからソロー。
「人生100年時代」という認識をひろめてゆくきっかけをつくった経済学者リンダ・グラットンが、その契機となった本を出版したのち、次にとりかかった仕事のなかで使っている用語、「Social Pioneer」(社会的パイオニア、生き方の開拓者)。
🤳 by Jun Nakajima
「人生100年時代」という認識をひろめてゆくきっかけをつくった経済学者リンダ・グラットンが、その契機となった本(『The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity』)を出版したのち、次にとりかかった仕事(『The New Long Life: A Framework for Flourishing in a Changing World』)のなかで使っている用語、「Social Pioneer」(社会的パイオニア、生き方の開拓者)。
これからは、だれもが、その生き方において「開拓者」でなければならない。これまでのように、過去のだれかが舗装した道をただただ進んでゆくのではなく、荒野のなかで「開拓」してゆかなければならない。定年を見越した、人生の三段階「教育→仕事→定年・定年後」という単線的な道のりは、標準なのではなく、さまざまな生き方のうちのひとつにしかすぎないという方向に、のりこえられてゆかなければならない。ぼくはそうおもいます。
生き方を開拓してゆくということ。つまり、<じぶんの道>を生きてゆくということをおもうとき、神話学者ジョセフ・キャンベルの「ことば」が憶いおこされます。
Follow your bliss.
The heroic life is living the individual adventure.
There is no security
in following the call to adventure.
Nothing is exciting
if you know what the outcome is going to be.
To refuse the call
means stagnation.
What you don’t experience positively
you will experience negatively.
You enter the forest
at the darkest point,
where there is no path.
Where there is a way or path,
it is someone else’s path.
You are not on your own path.
If you follow someone else’s way,
you are not going to realize
your potential.
Campbell, Joseph. A Joseph Campbell Companion: Reflections on the Art of Living (The Collected Works of Joseph Campbell) . Joseph Campbell Foundation. Kindle Edition.
森深くにわけいってゆくとき、そこには「道 path」がない。道があるのだとすれば、それはだれか他者の道なのだ。キャンベルはこうして、<道のない道>を歩いてゆくこと、そうすることで、じぶんの可能性をひらいてゆくことの大切さを語っています。
レベッカ・ソルニットの、美しいエッセイ「Open Door」(『The Field Guide to Getting Lost』所収)では、<道に迷うこと>にむかって、直接的なまなざしが投げかけられています。じっさいの登山中に「道に迷うこと」から、さらには「生きてゆく道のりに迷うこと」まで、ソルニットの詩的な手触りのする文章が、「迷うこと」の森へと分け入っていきます。
とりあげられている単語に分け入ってみると、そこでは違う景色が見えてきます。ソルニットはここで「lost」という単語の語源にさかのぼります。
The word “lost” comes from the Old Norse los, meaning the disbanding of an army, and this origin suggests soldiers falling out of formation to go home, a truce with the wide world. I worry now that many people never disband their armies, never go beyond what they know.
Solnit, Rebecca. A Field Guide to Getting Lost (pp. 6-7). Penguin Publishing Group. Kindle Edition.
「lost」という言葉はもともと、「軍隊を解散すること」を意味していたこと、そして、この語源が指し示してくれるのは、「兵士たちが編隊から散り散りになって家に帰り、広い世界と休戦すること」なのだと、ソルニットは書いています。ソルニットはこの言葉を、この「社会」のなかで「戦う」現代人に向かって投影し、現代人たちがただただ戦いつづけているだけで、じぶんたちの知っていることの先へとじぶん自身を投じていかないことを杞憂しています。
「It is a surprising and memorable, as well as valuable, experience to be lost in the woods any time,…」
『Walden』でソローが書いているこの文章を引用しながら、ソルニットは、「どのように迷うのか」という問いへと向き合っています。
ニュージーランドの森で、ずいぶんと「迷った」体験を、ぼくはおもいだします。ぼくが二十歳のころのことで、ひとり、ニュージーランドの自然のなかに身を投じていたときのことです。森や山には一応「コース」が設定されていて、地図があり、また道ゆきの樹々には「目印」が打たれていて、それらを頼りに、歩みをすすめていきます。けれども、「コース」といっても、「道」がはっきりしているところもありますが、その「道」が消えて獣道になるところもあります。そのなかでは樹々に打たれている小さな「目印」を探しながら前にすすんでゆくのですが、場所によっては、それら目印が見つかりません。前に前にすすんでも一向に目印が見えないとき、この方向ではないなと気づきます。でもそこからどこまで引き返したらよいのか、あるいはどの方向に引き返したらよいのか、わからなくなるときがあります。
ひとは「迷い方を知らない」と、ソルニットは書いています。ぼくも、はじめのうちは、迷ったことに気づいて、パニックを起こすことがありました。森深くに分け入り、まわりに誰の姿も見えず、目印も見つからない。コンパスは持っていたけれど、どの方向へ抜けてゆけばよいのかわからない。重いバックパックを背負いながら、ぼくは必死で目印を探しに、もと来たであろう方角へとすすんでいきました。こんなことが幾度かつづくなかで、ぼくは次第にパニックを起こすことなく、森の声たちに耳をすまし、光を投げかける太陽にアドバイスをもとめ、川の流れの気配をかんじながら、すすむ方向をさがすようになりました。森のなかで「迷うこと」の体験が、のちのぼくの生のなかで「貴重な」経験であったのだと、ソローを引用するソルニットの文章を読みながら、ぼくはおもうようになりました。
人生という道を歩みながら、ひとはじぶんのなかに「軍隊」を編成し、ここかしこで戦闘をつづけていきます。ときに敗れ、ときに戦果をあげながら、ときに傷つき、そしてときに一息つきながら、それでも戦闘はやみません。でも、ときに、どうしようもないほどに、「軍隊」がひどく打撃をうけて、意図しないうちに、戦闘員たちは散れぢれになることがあります。これまでの戦略や戦術を遂行しつづけようとおもっても、うまくいかない。人生の「道」で、立ち止まらざるを得なくなり、「道」は道でなくなり、目印も見えなくなります。道を失いながら、じぶんを失ってしまう。じぶんの内面が空っぽになったようにかんじることもあります。けれども、「lost」の語源に本質が隠されているように、この道を失う体験のなかに、もっともっと広い世界との休戦が存在しています。
「道」があるところは、他者たちの道です。だれかが通ってきた道であり、あるいは、だれかがじぶんに「教えてくれた道」です。キャンベルのことばのように、そこでは、じぶんの可能性は閉じられたままです(少なくとも完全にはひらかれていないままです)。森深く、道のない道にふみだしてゆくとき、ひとは、だれのものでもない、<じぶんの道>を歩みはじめることになります。
「生き方の開拓者」であるということは、迷うことでもあります。開拓ということの手前で、あるいは開拓と同時に、「迷う」ということがあります。これまでは、家族や世間や社会が「教えてくれた道」を歩んできていたところ、その道が消えて、迷うことになります。でも、そこから、道ではない道を歩んでゆくことになります。そして、これからは、だれもが、「生き方の開拓者」となってゆく時代、あるいはそのような道のない道に投げ出されてしまう時代となっていきます。ひとは喪失感を抱えるかもしれませんが、「道のない道」を、心をもって歩んでゆくことで、気がつけば<じぶんの道>が現れ、キャンベルのいう「じぶんの可能性の世界」がひらかれてゆくのだということです。
「これからの生きかた」とはどんな生きかたか?- シンプルに応えてみると。
これからの生きかた」とはどんな生きかたなのか?そう尋ねられるとすれば、ぼくはこう応える(「答える」ではない)。<自由な生きかた>である、と。生き型にしろ、生き方にしろ、<自由な生きかた>であると、ぼくはおもう。
🎨 by EN
「これからの生きかた」とはどんな生きかたなのか?そう尋ねられるとすれば、ぼくはこう応える(「答える」ではない)。<自由な生きかた>である、と。生き型にしろ、生き方にしろ、<自由な生きかた>であると、ぼくはおもう。この応答ではそもそもの問いに「答えて」いないように聞こえてしまうかもしれない。「これからの生きかた」を問う人たちは、もっと限定的な「回答」を期待するかもしれない。けれども、シンプルに言ってしまえば、やはり<自由な生きかた>である。抽象的な言い方ではあるのだけれど、具体的にすればするほど、生きかたの「自由度」が下がってしまうから、<自由な生きかた>という抽象度を保っておきたい。
ちなみに、書名に「生き方」がもりこまれている本はさまざまにある。検索をかけてみたときの個人的な印象では、おもっている以上にあった。遠慮しない生き方、迷わない生き方、ブレない生き方、がんばらない生き方、我慢しない生き方、簡素な生き方、ゆるい生き方、等々。これらの書名をざっくりとカテゴリー化すると、以下のように、3つのカテゴリーに分けられる。
(1)アンチテーゼの生き方
(2)テーゼの生き方
(3)その他
(1)のアンチテーゼは「~しない生き方」である。つまり「これまでの」生き方の否定・反対の姿勢である。これまで遠慮ばかりしてきた人生に対して「遠慮しない生き方」で生き直す。これまで迷ってばかりいた生き方に嫌気がさして「迷わない生き方」を掲げる。このアンチテーゼ型に対して(2)はテーゼ型の生き方である。簡素な生き方も、ゆるい生き方も、テーゼとして提示されている。もちろん、(1)と(2)は表裏一体であることもある。迷わない生き方は、決断する生き方というようにテーゼ式に提示することもできる。ただ、書名という観点から言えば、アンチテーゼ型は人の関心を呼び起こしやすい。日々の生活のなかで「生き方」を見直すときというのは「これまでの」生き方に対する疑いや否定などを感じているときだから、その気持ちに直截に届きやすいのは「アンチテーゼ」である。さらに、(3)その他としては、60歳からの生き方、人生100年時代の生き方のような、アンチテーゼでもテーゼでもない「テーマ型」の生き方の本が見受けられる。これら3つのカテゴリーは、重点にこそ違いはあるのだけれど、「これまで→これから」というようなベクトルを共通点として持っている。つまり、<生き方の変容>である。そしてそこには、<社会の変容>が連動している。
そのようななかで「これからの生きかた」は、<自由な生きかた>である。上述のカテゴリーで言えば、(2)のテーゼ型に含まれるところだけれど、実質的には、すべてのカテゴリーを包括するものでもある。アンチテーゼであろうが、テーゼであろうが、あるいはその他の特定のテーマであろうが、それらすべてへの<可能性>がひらかれている生きかたである。
見田宗介(社会学者)は名著『社会学入門』(岩波新書、2006年)のなかで、哲学者ニーチェの生涯を「ある困難な稜線を踏み渡ろうとする孤独な試み」であったとしながら、ニーチェのこの困難な「二正面闘争」についての、思想家バタイユの思考(バタイユ『至高性』)にふれている。
「二正面闘争」とは、次の通りである。
(1)<失われた至高性を回復すること>
(2)<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>
これら「二正面闘争」が、ほんとうに<自由な社会>の条件を構想する課題の遂行において引き受けなければならないものだと、見田宗介は「<自由な社会>の骨格形成」という論考をすすめているのだけれど、これらはそのまま<自由な生きかた>を考え、生き、ひろげてゆくうえでも引き受けていかなければならない「二正面闘争」であるように、ぼくはかんがえている。
見田宗介は上述の二正面闘争について、理解のために言い方を変えて提示してくれている。
(1’)<魂の自由>を擁護すること
(2’)<魂の自由>を擁護すること
見田宗介はここから<自由な社会>のモデル構成へと社会理論を発展させている。ぼくはここではその(同じシステム内の)別の一面である<生きかた>という側面に光をあて、「これからの生きかた」へと拡張させてみたい。
つまり、「これからの生きかた」は、つぎのように簡潔に述べておくことができる。
(1”)<生きかたの自由>
(2”)<生きかたの自由>
再度ニーチェの二正面闘争にバタイユが見たことに則して言えば、第一に、それぞれの人たちにとってほんとうに歓びに充ちた<生きかた>を取り戻すこと、の課題であり、また第二に、他者に強いられる<生きかた>の一切の形式を否定すること、の課題である。ニーチェ、バタイユ、見田宗介という系譜のなかで鮮烈に提示され追究されてきた課題の延長線上に<生きかた>の課題をあてはめてみたい。ぼくはそんなふうにかんがえる。
ひとつ目の、<生きかた>を取り戻すこと。「生きかたを取り戻す」ということを言い換えれば、ほんとうに<生きる>ということ、<生きる>ということの全体を引き受けてゆくことあるいは享受してゆくこと、さらに、じぶんが<生きる>ということに自ら責任をもつこと、などである。
二つ目の、他者に強いられる<生きかた>の一切の形式を否定すること、というのは比較的わかりやすい。じぶんの<生きかた>を生きること。もちろん、じぶんの<生きかた>のほうが良い・正しいなどというように、じぶんの<生きかた>を他者に強要しないことである。互いの生きかたを尊重すること。つまり、互いに自由に生きるということ。
「これからの生きかたはどんな生きかたか?」という問いへの応答、<自由な生きかた>というシンプルな応答には、これら二つの要素がもりこまれている。なお、ひとつ目のことは<じぶん>という存在のあり方を捉え直してゆくことであり、二つ目のことは、じぶんと他者との自由な関係性をきりひらいてゆくことである。<じぶん>という存在を捉え直したうえで、<じぶんの変容>を生きてゆくということである。
外の環境に眼を転じれば、コロナ禍があったり、情報通信技術に牽引される産業革命があったり、また環境破壊があったりする。そのような環境変化や社会変化の諸々が、ホモ・サピエンスがこれまでに経験したことのないことであり、「時代の変化」や「景気がよい・わるい」という言葉で集約・縮尺されがちな現在の変化をはるかに超える<変化・変容>のなかに、ぼくたちはいる。
このような<変化・変容>のなかで、<じぶん>という存在のこと、<じぶんの変容>ということ、そこに土台を置いた組織や集団やコミュニティのあり方、さらに<自由な社会>ということをかんがえ、構想し、共有し、企図し、動き、試してゆくことに、ぼくの心は所在し、ぼくの身体と頭脳のエネルギーは注がれている。
治療への拘泥とは病に執着すること。- 森田療法の「ことば」にふれて。
批評家の加藤典洋(1948-2019)の「乱暴な要約」に触発されて、1919年に創始された森田療法(神経症に対する精神療法)を学んでみたくなり、創始者である森田正馬(まさたけ)(1874-1938)の「ことば」にふれる。
批評家の加藤典洋(1948-2019)の「乱暴な要約」に触発されて、1919年に創始された森田療法(神経症に対する精神療法)を学んでみたくなり、創始者である森田正馬(まさたけ)(1874-1938)の「ことば」にふれる。
海外から入手できる電子書籍をさぐってみると、『神経質に対する余の対症療法』(1921年)と題される、20頁ほどの文章が入手可能である。さっそくダウンロードして、読んでみる。
なお、森田療法センターのウェブサイトに掲載されている説明によると、森田療法がもともと対象としていた「神経症」とは、強迫症(強迫性障害)、社交不安症(社交不安障害)、パニック症(パニック障害)、広場恐怖症(広場恐怖)、全般不安症(全般性不安障害)、病気不安症(心気症)、身体症状症(身体表現性障害)などの病態を指すものである。
これらの症状の背後に、森田正馬は「神経質性格」と呼ぶことになる共通性を見出す。それは、内向的、自己反省的、小心、過敏、心配性、完全主義、理想主義、負けず嫌いなどの性格特質であり、それを基盤として、「とらわれの機制」という心理メカニズムによって症状が発展してゆく。その「とらわれの機制」から、「あるがまま」の心へと、森田療法は援助してゆく。森田療法センターのウェブサイトはこのように解説している。
不安や恐怖の感情を排除するのではなく、それらを「あるがまま」に受け入れてゆく。そしていわば心身の根柢に生成するちからを花ひらかせる。加藤典洋は、このような森田療法とは「患者が自分の無力の底まで「落ちて落ちて落ちて」行かせる」セラピーだと、要約している。なるほど、と、ぼくは加藤典洋の要約を思い起こすのである。
『神経質に対する余の対症療法』で、森田正馬はつぎのように書いている。
神経質は精神の病的過敏であるから、患者が自ら治さんとあせる事は皆却て有害で、例へば物を忘れようと努力する事は、意識が其の方に執着して、却て忘れる事の出來ぬ關係である。…余は先づ患者の意識する衛生法や治療法を一度び破壊し、治療的ならぬ治療法を行ひ、以て患者をして治療といふ事を忘れしめ、從つて病の観念から離れしめるのである。治療に拘泥するといふ事は、同時に病に執着するといふ事である。
森田正馬『神経質に対する余の対症療法』1921年、青空文庫
ここでいわれる「衛生法の破壊」とは、例えば、原則一日一度の入浴を習慣とする患者があれば、その習慣(衛生観念)を一度は壊すのだという。「一日一度は入浴しないと気持ち悪い」という地点から、「入浴しなくても別に心にとまらない」という地点へと促してゆく。
「とらわれの機制」から「あるがまま」へという視点をとりいれれば、森田正馬が意図していることがよくわかる。「~すべき」という<とらわれ>のこころに、窓をうがつことで、<とらわれ>が決壊する。
別の言い方をすれば、<手放す letting go>である。いままでの観念と行動を手放してゆく。森田正馬が書くように、「執着するといふ事」を手放してゆくのだ。ぼくはここに、深く共感させられる。
ところで、森田正馬の文章を読んでいると、整体によって身体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)のことが思い浮かぶ。「人間」をその<あるがまま>に視る、その徹底したあり方に、森田正馬と野口晴哉に共通のものを感じ、ぼくはいっそう惹かれてゆく。
未来が現在に「意味」を与える生。- 作曲家チャイコフスキーのことば。
未来は、生きることの現在に「意味」を与える。いまの勉強や仕事は、将来の「~のため」というように。このような「意味」によってひとの生は支えられ、充実を得ることがある。
未来は、生きることの現在に「意味」を与える。いまの勉強や仕事は、将来の「~のため」というように。このような「意味」によってひとの生は支えられ、充実を得ることがある。そしてじっさいに「未来/将来」が生に果実を与え、「意味」が現実化する。けれども、いま、この「未来/将来」が必ずしも果実をもたらさない。そんな時代にいる。
見田宗介先生(社会学者)は、ここに「現代」という時代の「二重の疎外」を明晰に見ている。
…「近代」の最終のステージとしての「現代」の特質は、人びとが未来を失ったということにあった。…未来へ未来へとリアリティの根拠を先送りしてきた人間は、初めてその生のリアリティの空疎に気付く。…第一に<未来への疎外>が存在し、この上に<未来からの疎外>が重なる。この疎外の二重性として、現代における生のリアリティの解体は把握することができる。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
現代における生のリアリティの解体はさまざまな局面において見られる。そんなときにあって、「これからの<生きかた>」は、この疎外の二重性を乗り越えてゆくことを、その核心においてゆく。
「未来を失う」(未来からの疎外)ということにおいて、その前提となる<未来への疎外>自体を変容させてゆく生きかた。つまり、この<現在の生>を取り戻してゆくことを核心とするのである。
作曲家チャイコフスキー(1840-1893)の伝記とレターが収められた本『The Life & Letters of Peter Ilich Tchaikovsky』(Modeste Tchaikovsky, translated by Rosa Newmarch, 1907)のはじめに、チャイコフスキーのレターから抜粋されたことばがおかれている。
“To regret the past, to hope in the future, and never to be satisfied with the present - this is my life.” - P. Tchaikovsky (Extract from a letter)
「過去を悔い、未来に希望をもち、現在に決して満足しない。これがわたしの人生だ。」そう、チャイコフスキーは書く。この焦燥のようなものが作曲へのちからを生みだしたのかもしれないけれど、ここには現在の生に満足せず、未来へ未来へと向かう生が語られている。
チャイコフスキーは精神の病を患ったが、彼の精神はじっさいにどのような困難を抱えていたのか。そこにはどのような「人生の物語」が流れていたのか。そんな彼の「音楽」はどのように彼とともに在ったのか。ぼくはこの大著を読みながら、<未来へ疎外>された精神と生に寄り添おうとする。
村上春樹の「デタッチメントからコミットメントへ」再訪。- 加藤典洋の視点に導かれる。
ぼくの好きな本のひとつに、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)がある。20代にかけて、ぼくがなんどもなんども読んできた本である。
ぼくの好きな本のひとつに、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)がある。20代にかけて、ぼくがなんどもなんども読んできた本である。そのなかに(いろいろなひとたちによって取り上げられてきた)「デタッチメントからコミットメントへ」という、村上春樹の考え方・態度の変化が語られる箇所がある。
「デタッチメント」は「~から離れる」という原義のように、社会や関わりから「離れる」という態度である。そんな生と作品を生きてきた村上春樹が、デタッチメントをつきつめてゆくなかで「コミットメント」へ変容してゆく。
国際協力という仕方で「社会へのコミットメント」を追求していたときでもあったので、ぼくのこころに共鳴することばであった。
「デタッチメントからコミットメントへ」ということを再び考えようと思ったのは、批評家の、故・加藤典洋氏の論考(レクチャー)に触発されたからである。
ぼくが感覚と論理を信頼する加藤典洋氏(以下敬称略)は、『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』という、英語によるレクチャーが著作となった本(日本語)のなかで、いわば「助走」として「デタッチメントからコミットメントへ」のことを取り上げている。「助走」と書いたのは、このレクチャーが村上春樹の「短編」をあつかうことを目指したものでありながら、まずは長編小説『ねじまき鳥クロニクル』を語りながら、この「デタッチメントからコミットメント」への変化にふれたからである。
加藤典洋のその「ふれかた」によって、デタッチメントからコミットメントという変化について語られていた「大切なこと」を、ぼくは憶い出させられる。それは、この、いってみれば村上春樹の「変容(トランスフォーメーション)」のあいだには、デタッチメントの「深化」ということがあるということ。「変わる」というときに、ひとは、横に移動するとか、よくなるという上昇への移動をイメージするかもしれないが、ここには「深化」が方法とされている。
村上春樹は心理学者の河合隼雄を前に、つぎのように語っている。
コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を超えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
加藤典洋はこの「デタッチメント」から「コミットメント」への移行が、「変化」というより「深化」であるのだということを強調するために、「井戸」の形象がもちいられていることを指摘している。なお、加藤典洋自身は「連通管」(理科の実験などで使われる器具)をイメージして語っている。
ぼくは「じぶんの変容」というテーマを立てているけれど、この「変容」のなかに、<深化>を重ね合わせている。ぼくがこれまで考えてきて、これからの<生きかた>をひらく核心として考えたいと思っていることの中心は、「じぶん」という経験を、内面に向けて<降りてゆく>ということである。だから、このタイミングで、加藤典洋の明晰な指摘があらためてぼくの思考を深く触発する。
けれども、さらに思考を触発するのは、加藤典洋自身が「面白いと思う」ことである。「誰からも離れた細い井戸を、掘って掘って掘ったあげくに、つまり「孤立」の道を極めた果てに、広い「人とのつながり」の海にでる」といった、このような言い方やあり方や考え方が、「日本ではけっして珍しくない」という方向に加藤典洋は論考の舵をきってゆく。
…こういうあり方に「惹かれる」ことのうちに、日本の戦後性ともいうべきものが顔をのぞかせているのではないかと思われるからです。僕の考えを言えば、こうした形象のうちに、近代の社会における孤立と連帯の主題に関して「原型的」なあり方が、いわば日本における世界史的な戦後性の核心として、掴まれているのです。
加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』(ちくま学芸文庫)
こういうあり方に惹かれてきた系譜として、思想家の吉本隆明、政治学者の丸山真男、森田療法、心理学者の河合隼雄、親鸞などを、加藤典洋は挙げている。それぞれに関心をひくところがいっぱいにあるけれど(それはこの本を読んでいただくことにして)、なにはともあれ、ここに「日本」があらわれることに、ぼくは興味をおぼえる(ちなみに、このような系譜が「日本」だけにあるわけではない)。ぼくとしては、社会学者の見田宗介=真木悠介の思想を重ね合わせながら、考えてみたいと思うところだ。
ところで、加藤典洋も指摘しているように、「デタッチメントからコミットメントへ」という村上春樹の移行(深化)は、村上春樹がアメリカに住んだことと関係があるかもしれないということを、最後に付記しておきたい。
ぼくの関心にひきつけていえば、「じぶんの変容」における<異文化>や<異世界>との出逢い、ということ。ぼくはそこに「可能性」をみたいと思う。
生きづらさの<身体的>感覚。- 「じぶんの変容」への舵きり。
「生きづらさ」ということは、ぼく自身の「生の探究」ともいうべきものの原点でもある。日本社会のなかで感じてきた「生きづらさ」をバネにしながら、1994年から開始する<旅>を起点にして、<ほんとうに歓びに充ちた生>の方向性へ舵をきってきた、というのが、これまでのぼくの生のダイジェスト(一行ダイジェスト)である。
「生きづらさ」ということは、ぼく自身の「生の探究」ともいうべきものの原点でもある。日本社会のなかで感じてきた「生きづらさ」をバネにしながら、1994年から開始する<旅>を起点にして、<ほんとうに歓びに充ちた生>の方向性へ舵をきってきた、というのが、これまでのぼくの生のダイジェスト(一行ダイジェスト)である。
その「生きづらさ」を著書タイトルにのせた『生きづらさについて考える』(毎日新聞出版)の著者、思想家であり武道家である内田樹は、週刊金曜日によるインタビューのなかで、つぎのように応えている。
2016年暮れに、米問題外交評議会発行の『フォーリン・アフェアーズ』が、「日本の大学」特集をしたときに、いまの大学に対してどう思うかを、日本の教員や学生にインタビューしていました。すると、「身動きできない」(trapped)「息苦しい」(suffocating)「釘付けにされている」(stuck)というような、「身体的」な印象を共通してみんなが語っていた。
僕は制度の問題より、そういう「身体的」な印象を語った言語のほうが、今の日本社会の実相をよく現していると思うのです。
「生きづらい」とみんなが思っているのは文字通り、「身体的」につらいということなのです。
若い人たちが特に感じているのは「未来が閉じられている」という実感ではないでしょうか。自分が動ける可動域がどんどん制限されていく、職業であっても、居住地であっても、生き方の自由度が下がってきている。…内田樹「週刊金曜日インタビュー」、ウェブサイト『内田樹の研究室』
ぼくには「とてもよくわかる」ことばである。ぼくが1990年代に感覚していた「生きづらさ」は、やはり「身体的」に感じられたものだった。そのことは、あとになって振り返るなかで「ことば化」されたのだけれど、アジアやニュージーランドへの旅はぼくの身体をひらいてゆく契機となった。
「閉塞感を感じる」。昨年会って話をしていた日本の友人がいまの日本社会について静かに語ったのを思い出す。「閉塞」ということも、『フォーリン・アフェアーズ』のインタビューでみんなが共通して語っていた「身体的」な印象、身動きができない、息苦しい、釘付けにされている、と同じ感覚を表現している。それは、やはり、身体的な印象である。
ところで、あたりまえのことだけれど、個人と社会はそれぞれが別個にあるわけではない。個人の網の目、個人が関係する仕方が社会である。個人のあり方が社会のあり方をつくり、社会のあり方が個人をつくる。その意味において、社会の実相は個人の生きかたや内面に反映され、逆もしかりである。
「社会を変える」には、「じぶんの変容」がなによりも出発点であり、方法論でもある。社会は「…あるべきだ」、ひとは「…あるべきだ」という仕方で、じぶんの外部を変えてゆこうとするのではなく、まずは、「じぶん」の生きかたや内面に光をあててゆく。そこに「閉塞の窓」をうがち、変容をうながしてゆく。そのような生のプロセスを、世界いっぱいにひろげてゆく。じぶんの「生きづらさ」、変容にさらしてゆく。
なお、「じぶん」という存在はそれ自体、<ひとつの共生社会>である。ぼくたちの「意識」は絶えず「わたしはわたし」と言い張ろうとするけれど、この身体も、それからパーソナリティ(意識/無意識)も、きわめて多様性に満ちた<共生社会>である。その共生社会の閉塞性、身体的な閉塞感を解き放つ。そこにぼくは、「閉じられた未来」ではなく、「ひらかれた未来」の可能性を見ています。
子どもたちはさまざまな仕方で「語りかける」。- <人類誕生のドラマ>を重ねる三木成夫。
子どもたちと接することはそれだけで歓びでもあるけれど、学びと気づきの場でもある。兄弟姉妹や友人の子どもたちと接しながら、ぼくは学ばされ、気づかされる。子どもたちはぼくの「先生」でもある。
子どもたちと接することはそれだけで歓びでもあるけれど、学びと気づきの場でもある。兄弟姉妹や友人の子どもたちと接しながら、ぼくは学ばされ、気づかされる。子どもたちはぼくの「先生」でもある。子どもたちが直接に何かを教えてくれるのではない。何らかの「情報」を教わるのではなく、ぼくがじぶんやひとや自然や世界と接する、その仕方を根抵から問われる。生きかたが問われるのだ。そのようにして「教え」はやってくる。
幼児たちにとっての「世界との出逢い」、どこまでもひろがる好奇心にみちびかれてゆく。いや、好奇心ということばが適切なのかどうなのかもわからない。好奇心ということばにおさまらないほどの身体の揺さぶりが子どもたちをとらえているように、ぼくには見える。
指差しにはじまり、「あれ、なーに?」、それから「どーして?」と続いてゆく。どこまでもひろがる「世界との出逢い」の経験は、「大人」になったぼくにも、かつて訪れていた時空間である。ひとにとって、じぶんの周りにひろがる「世界」は、じぶんの感受性をいっぱいにひらいてみれば、そのようにして「あらわれる」ことのある時空間だ。
名著『内臓とこころ』では、解剖学者の三木成夫は自身の子ども観察をおりこみながら、子どもの成長のなかに<人類誕生のドラマ>を重ね合わせる視界をひらいてみせてくれている。
赤ん坊の成長の日々を観察すること…それは、いってみれば自然観察の最後の課題に入るのかもしれません。そのような観察が乳児期から幼児期に及び、やがてあの「三歳児」の世界に参入する時、それは、なにかひとつのクライマックスを迎えるように思われるのです。
そこには人類誕生のドラマの秘めやかな再現が見られる……!…そこでは数百万年そして数千万年の歳月が、わずか数ヶ月・数年の日々に、ものすごく凝縮される。…三木成夫『内臓とこころ』(河出文庫)
ひとそれぞれの誕生に人類誕生のドラマが重ね合わせられる。この本をひらくまで、ぼくが思いもしなかった見方である。子どもたちの指差し、「アレナーニ?」から「ドーシテ?」にいたるまで、三木は人類誕生のドラマをそこに見る。
三木成夫の視点は鮮烈に、ぼくたちの「視界」を変えてしまうちからをもつ。そして、子どもたちは、さまざまな仕方でぼくに語りかける。
自身の「西洋的」な素養の起源。- 解剖学者・養老孟司の推測。
解剖学者の養老孟司に学ぶのは、20年以上まえに「唯脳論」というパースペクティブに視界がひらかれたとき以来、ぼくにとって心躍る経験である。その養老孟司が「本」の読み方について語るのを読むことも、また楽しいものだ。
解剖学者の養老孟司に学ぶのは、20年以上まえに「唯脳論」というパースペクティブに視界がひらかれたとき以来、ぼくにとって心躍る経験である。その養老孟司が「本」の読み方について語るのを読むことも、また楽しいものだ。
著書『世につまらない本はない』では、養老孟司の生の道ゆきで影響を与えた本として、哲学者デカルトの『方法序説』、それから精神医学者R.D.レインの『ひき裂かれた自己』が挙げられていたのは興味深かった。とりわけ、レインの著作を読んで、自身の心の問題が治ってしまった経験、また当時心理学に興味をもっていた養老孟司が、レインの著作を通じて、そこに心理学ではなく「論理学」を見出した経験は、ぼくの関心をひく。
ところで、養老孟司が言うように、レインのよってたつ精神分析は「ある種、西洋的」である。つまり、「個人」が自己という世界を精神として打ち立てている。西洋=個人主義という見方は表層的だけれど、それでも、やはり「個人」という世界がつくられるのは「西洋的」な側面がある。西洋的自我である。
レインの著作にこのようにふれながら、養老孟司はじぶん自身について、「個人的な考え方では非常に西洋的」だと語っている。そして、そこにはカトリックの学校に通っていたことが影響しているかもしれないと推測している。とはいえ、カトリックの影響が「信仰」として取り込まれたのではなく、「神学」という形ではいってきたのだと、養老孟司は語る。
さらに、「世間」を探究し、「世間」というものを<外から見ること>のできた阿部謹也の境遇にも、思考をひろげている。
…日本の世間の中にずっぽり浸かっている人はどうしても客観的になれない。逆に言えば、客観的になる必要がない。しかし、塀の上から見ると、中がある程度わかるのです。
『「世間」とは何か』を書いた阿部謹也さんもそうだっと思う。
彼も修道院か何かで育っている。やっぱりある年代にああいう西洋的なもの、特にカトリック的な、ああいう世界に触れると、社会に対する妙な客観性ができるのでしょうか。養老孟司・池田清彦・吉岡忍『世につまらない本はない』朝日文庫
だいぶ以前に読んだ阿部謹也の著作を思いながら、なるほどとぼくは思う。また、「日本社会」への客観的かつ透徹した視野を同じように獲得したであろう人物として、やはり、山本七平(主著『空気の研究』など)を思わずにはいられない。
養老孟司の語りに耳を傾けながら、ぼくは「じぶん」を対話におく。思えば、ぼくも、幼稚園でキリスト教にふれていた。べつにぼくの家族がクリスチャンであったわけではないし(じっさいには仏教であったけれど、そもそも信仰というほどには程遠いところだったと記憶している)、クリスチャンになろうとしたわけでもない。たまたま家からもっとも近い、徒歩5分ほどの幼稚園(創立は大正時代)が、キリスト教主義を掲げて幼児教育にとりくんでいただけである(インターネットで調べると、その歴史の深さを感じさせられます)。
養老孟司と同じように、ぼくにも「信仰」が取り込まれたわけではなく(ぼくはいわゆる「信仰」をもたない)、やがて20年からそれ以上の歳月をかけて「社会学(宗教社会学)」のような仕方で、ぼくの学びの対象となっている。ただ、当時の断片的なイメージは記憶に残っているし、幼稚園に通っていたときにいただいた誕生日カードには聖書からのことばが記されているのを見ることができる。
もしかしたら、ぼくも当時、まだ「自己」というかたちがその輪郭をあやふやにしていたときに、この「異文化」に何かの影響を受けたのかもしれないと考えてみることができる。「個人」として、日本社会にある距離をおいて客観的に見ようとする。そんな素養は、40年前のあのときに、種がまかれたのかもしれない。
「じぶんが変わる」という主題。- 25年にわたる、ぼくの課題。
20歳のころから、ぼくにとっての大きな主題は「人が変わる」ということであった。「人が変わる」ということにまつわる、その方法をぼくは探っていた。ぼくがそのときに得た具体的な方法は「異文化」であった。
20歳のころから、ぼくにとっての大きな主題は「人が変わる」ということであった。「人が変わる」ということにまつわる、その方法をぼくは探っていた。ぼくがそのときに得た具体的な方法は「異文化」であった。
大学時代、ぼくは異国を旅し、それを<方法>とした。つまり、「旅」のなかで、あるいは「旅」の経験をジャンプ台として、「じぶんが変わる」ことを追い求めた。そのとき日本社会は、阪神大震災やオウム事件を通過し、21世紀の変わり目に直面していた。
とはいっても、夢中になって旅しているときに、明確に認識していたわけではない。旅の経験がぼくのなかでつみかさなり、それらをことば化してゆくなかで、ぼくは「旅」を方法のひとつとして認識したのであった。
旅の経験をことばに変えてゆく。その動機は意図的というよりも、衝動的といったほうがより正確である。「書かずにはいられない」という気持ちが、ぼくをかりたてていた。こうして、「断片集」というかたちで、ぼくは旅の経験を書いた。
文章を書いたのは、大学を卒業し、すぐには就職せず、大学院にすすむための準備をしているときであった。泳いでいるときの「息つぎ」のような時間に、ぼくは書いたのであった。「断片集」は、幾人かの友人たちに、送らせて(贈らせて)いただいた。
それにしても、「じぶんが変わる」という主題の立て方について、ぼくはいまになってかんがえる。そこに流れている気持ちはどのようなものであったのか。あるいは、その主題は、何を<前提>としていたのだろうか。断片集を書いたときから20年以上がたって、いっそう距離をおいてじぶんをみつめなおすなかで、ぼくはかんがえてみる。
この主題にあるのは、「じぶんが変わりたい」という渇望である。からだとこころの奥底からわきあがってくるような欲望である。こういうのもなんだか変ではあるのだけれど、ぼくは「じぶん」から抜け出したいと思っていた。
いま思うと、「じぶんが変わる」という主題の立て方は、問題の本質をつくものではなかった。ぼくの渇望がぼくを急かしているかのような、主題の立て方であった。
そんな折だったと思う。渇望が先行してしまうような主題だったけれど、その渇望の道ゆきに、ひとつの著作がぼくの前に現れる。
真木悠介の名著『自我の起原』(岩波書店、1993年)であった。
社会学者の見田宗介が真木悠介名で書いてきた著作の、いわば最後に位置する著作である(時系列的には、現在のところ『旅のノートから』が真木悠介名の最後の著作になるがこれは主軸とされる著作ではない)。
自我の起原を、生物社会・動物社会にまでさかのぼり探究される著作であるが、そこでは「じぶん」を超えでてしまう契機が描かれている。「じぶんが変わる」ということを直接の主題としているわけではないが、その「じぶん」という現象が、標準的な生物社会学の糸をたぐりよせながら、その根抵において探究されている。
ぼくにとっての「じぶんが変わる」というつたない主題が、その根柢においてひらかれてしまう、という経験を、ぼくは感じることになる。それも、思ってもみなかった仕方で。どのようにひらかれたかについては、また別の機会に書きたい。
深海の底の「記憶」。- 高校サッカー選手権の映像で「記憶」が立ち上がる。
「記憶」ということをかんがえる。ぼくは小さいころの記憶があまりない。とは言っても、どのくらい記憶があれば「ある」と言えるのかぼくはよくわからないのだけれど、いろいろなひとたちが小さいころのことを語るのを聞いていると、それに相当する記憶を、ぼくは憶い出すことができない。
「記憶」ということをかんがえる。ぼくは小さいころの記憶があまりない。とは言っても、どのくらい記憶があれば「ある」と言えるのかぼくはよくわからないのだけれど、いろいろなひとたちが小さいころのことを語るのを聞いていると、それに相当する記憶を、ぼくは憶い出すことができない。
けれども、憶い出すことができないということは、「記憶にない」ということと必ずしも同じではない。意識と意識下をつなぐ系がほつれていて、系をひっぱることができないことだってある。またそもそも記憶につながるような意識を現時点で意識していないこともある。でも、ふとしたときに、意識下にうもれていた記憶があがってくることがある。
高校サッカー選手権の決勝戦の映像、それも20年以上まえもの映像をYouTubeで見ていたときに、そんな鮮烈な経験をぼくはした。
2020年の全国高校サッカー選手権は静岡学園が見事なかたちで優勝を果たした。その映像を見たことで、YouTubeのアルゴリズムが他の「高校サッカー選手権」の映像をひっぱりだしてきたようだ。
決勝戦のハイライト版。なつかしい映像、なつかしい選手たち(のちにプロになった人たちが多数存在する)を見る。映像は「ハイライト」を映し出し、選手たちが果敢にゴールを目指すところをとりあげる。
ぼくは静岡県(浜松)に住んでいたから、当然のごとく「静岡代表」を応援していて、そのときは東海第一高校が決勝戦を戦っていた。フォワードのサントス選手がフリーキックを蹴ろうとする映像が映し出される。
ぼくは「あっ」と思う。このコーナーキックで「ゴールが決まる」と思ったのだ。「あっ」というのは予測ではなく、記憶であった。
サントス選手がフリーキックを蹴る。ボールは見事な仕方でゴールにすいこまれていった。
ゴールを決めたサントス選手の喜ぶ映像を見ながら、ぼくはこの場面を確かに覚えているのだと思った。この20年ほど、この場面を憶い出したことなんて一度もなかった。けれども、この「場面」はぼくの記憶のなかに、たしかにあったのである。
もちろんこの場面は、記憶に残るようなシーンであった。ぼくのそのときの「喜びの感情」が記憶を助けたのかもしれない。また、じっさいにテレビで観戦していたときだけでなく、そのあとに観たニュースでのシーンなども重なって、記憶に残るシーンとなったのかもしれない。それでも、記憶というものの奥深さとすごさを、ぼくは感じてやまない。
そんな体験もあってか、ぼくの意識下のさまざまな仕方で堆積しているであろう「記憶」を発掘するため、小さいときのことを文章で書き始めている。書き始めて思ったのは、当初思っていた以上に、ぼくの記憶の深海の底に記憶がただよっていることだ。もちろん、「記憶」は大人になるにつれ、さまざまな新しい解釈や変更や削除の光があてられているのではあろうけれど、それでも、深海の暗闇の底にただよっている。
一生にすくなくとも一度は<人間の網の目の外へ出る>文化。- 真木悠介が引用するゲーリー・スナイダー。
社会学者の見田宗介先生が、1970年代に真木悠介名で書いた著作に『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房)がある。カルロス・カスタネダの著作を素材にしながら、(現代を含む)近代をのりこえてゆく方向性に、<人間の生きかた>を発掘してゆくことを企図して書かれた本である。
社会学者の見田宗介先生が、1970年代に真木悠介名で書いた著作に『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房)がある。カルロス・カスタネダの著作を素材にしながら、(現代を含む)近代をのりこえてゆく方向性に、<人間の生きかた>を発掘してゆくことを企図して書かれた本である。
ミニマリストとなって、ぼくは基本的に書籍は「電子書籍」で読むようになった。けれども、見田宗介=真木悠介の主要な著作群はいまでも紙の書籍を手放さないでいる。ちなみに『気流の鳴る音 交響するコミューン』は電子書籍化されて、いつでも、どこにいても手にいれることができる。でも、ぼくの人生をたしかに導いてくれた本であり、また「導いてくれた」というように、ぼくにとっての「過去」になったわけではなく、いまも引き続き、さまざまな仕方でぼくを触発してくれる本であるから、どの国・地域にいこうとも、ぼくと共に在る本だ。
『気流の鳴る音』をひらいて、いつものようにページを繰りながら、そのときそのときに「引っかかる」箇所に、ぼくの眼は降りたってゆく。今回のブログでは、そのなかで改めて考えさせられた箇所を挙げたい。
真木悠介は、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder)のエッセイから、つぎの箇所を引用している。
「多くのアメリカ・インディアンの文化においては、その社会の一員は、かならずいちどは、その社会の外へ出なくてはならないことになっている。ーーー人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ、一生にすくなくとも一度は。彼がこの幻をもとめる孤独な旅からかえってくるとき、秘密の名まえと守護してくれる動物の霊と、秘密の歌をもっている。それが彼の『力』なのだ。文化は他界をおとずれてきたこの男に名誉をあたえる。」
* Gary Snyder, Earth House Hold, 1957. 片桐ユズル訳『地球の家を保つには』社会思想社、1975年、190ページ。
なお、「引用」については、引用の引用はなるべくなら避けたい。原典にもどることが原則だけれど、ここでは引用の引用で挙げさせていただくことにする。それにしても、「引用」は実は奥の深い方法である。引用は読む側としては容易に見えて、書く側としてはけっこう難しい。引用の仕方・方法や効用だけでも、大きなトピックである。
なにはともあれ、ゲーリー・スナイダーが他の著作でピューリッツァー賞を受賞した年(1975年)に発刊された翻訳版『地球の家を保つには』から、上に挙げた箇所を引用している。もちろん、これまでも幾度となく読んできた箇所だけれど、今回読み返していて、いっそう、ぼくを揺さぶったところである。
社会の一員が、生きているうちにすくなくとも一度は<社会の外へ出る>という方法をそのうちに装填してきた文化を、ただただすごいと思う。それぞれに孤独な旅からかえっきたときに、その旅で手に入れた『力』を、その内的な力としてゆく文化。
そのことを考えながら、はたして、日本の文化はどうだろうかと思う。すくなくとも現代の日本ではそうはなっていないように感じられる。ここでは歴史社会的な観点を含めての考察は「課題」として残しておいて、いずれ「少し長めの文章」で書こうと思う。
でも、ぼく自身の経験からひとつ言えるのは、ひとつの文化にあっては、ぼくはそうあって欲しいと思う。一度はすくなくとも<社会の外へ出る>ことを触発しあい、それぞれの孤独な旅で得たそれぞれの「力」を、内的な力としてゆく文化。
養老孟司先生の「参勤交代」(半年ごとに都会と田舎を行き来するアイデア)もおもしろいし、ぼくも望むところだけれど、一度は「人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ」出ることを装填する文化をつくりあげてゆくことは、またおもしろいものだと思う。
「信頼できる専門家」の発言を追っておくこと。ー COVID-19の感染のひろがりのなかで。
COVIT-19(新型コロナウイルス肺炎)の感染のひろがりのなかで、自身で対策を打ちつつ、いろいろなことを考えさせられる。
COVID-19(新型コロナウイルス肺炎)の感染のひろがりのなかで、自身で対策を打ちつつ、いろいろなことを考えさせられる。
「危機」のときの対応・対策というのは、あとから振り返ってみると、当然だけれど「全貌」がよりよく見えるから、ああだこうだというのは容易である。けれども、危機の「最中」というのは、まだその全貌も実際の状況もつかみづらいところがあるから、情報を入手しながら、対応・対策をどのタイミングでどのように「判断」するのか、難しい(ときに、きわめて難しい)。そんななかで、じぶんなりに(あるいは、じぶんの担う役割のもとに)判断してゆかなければならない。今回のCOVID-19についても、とても難しいところがある。
中国本土の武漢がロックダウンされたとき、ぼくは香港にいた。いつもなら旧正月時で旧正月の雰囲気が漂うところ、街は静かで、マスクを着けるひとたちが視界を覆いつくしていた。2003年のSARSの経験が刻み込まれている香港。さすが初動も早かった。事態は刻一刻と動いてゆく。ぼくも、ニュースや他の情報を追いながら、できるかぎりの対策(マスク、手洗い、消毒、外出控えなど)を打っていった。
2003年のSARSのときは、ぼくは西アフリカのシエラレオネにいた。内戦が終わったばかりのシエラレオネで、ぼくは違った状況と違った仕方で「リスクマネジメント」を日々実行していたのだけれど、たとえば同僚が持ってきてくれた雑誌「AERA」の記事などで、はるか遠いアジアで猛威をふるうSARSの状況を知った。記事には香港のことも書かれていた。今回、ぼくはその香港にいて、2003年のときの記憶がぼくの脳理をよぎったのであった。
危機といえば、ぼくは2006年に東ティモールにいて「ディリ騒乱」に直面し、市街での銃撃戦の最中をかいくぐり、翌日にはインドネシアのジャカルタに国外退避した。2009年の新型インフルエンザ(H1N1)のときは香港にいて、香港の日系企業の「リスクマネジメント」を支援した。
そのような経験を通過してきて思うのは、あたりまえだけれど、「情報」は大切であるということだ。じぶん自身・家族のためであれ組織のためであれ、リスクマネジメントにおいては「情報」が大切である。公的な情報もあれば、噂に近い情報まである。専門家の意見も、専門家によってさまざまになりうる。
そのようななかで、とりわけ「信頼のおける情報」をおさえておかなければならない。COVID-19で言えば、例えば、日本における感染症の専門家として、ぼくは岩田健太郎教授・医師の発言をずっと追ってきていた。『感染症パニックを防げ!~リスク・コミュニケーション入門~』(光文社新書)や『インフルエンザ なぜ毎年流行するのか』(ベスト新書)などの岩田健太郎教授の著作を読みながら、「信頼のおける情報」の発信者としての岩田健太郎教授を追ってきている。日本のクルーズ船の発言が大きく取り上げられたけれど、それに限らず、これからも岩田教授の発言をぼくは追ってゆく。
もちろん、全貌が見えないあいだは噂や仮説のような情報も含めて視野にいれて、じぶんなりの判断をしていかなければならないけれど、じぶんは感染症の専門家ではないから、じぶんの判断のための「仮想チーム」をもっておくのである。ありとあらゆる情報の渦に飲み込まれないように。
「生くる力をのみ見る也」(野口晴哉)。- あらゆる分野・領域における「治療する者」の心得として。
整体を通じて体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)が、「治療する者」の心得のようなものとして、つぎのように書いている。
整体を通じて体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)が、「治療する者」の心得のようなものとして、つぎのように書いている。
治療するの人 相手に不幸を見ず 悲しみを見ず 病を見ず。たゞ健康なる生くる力をのみ見る也。…
野口晴哉『治療の書』(全生社、1966年)
「治療生活三十年の私の信念の書」であると、野口晴哉自身が位置づける『治療の書』。そののちに野口晴哉は「治療」を捨てることになるのだが、それまでの治療生活のなかで「変わらなかったこと」を、売るつもりも、誰に理解されようともせず、ただただ、じぶん自身のために書き綴った文章のなかに、この、「治療する者」の章が書かれている。
ここでの「治療」ということは、整体という領域に限定されるものでなく、おおよそ、この世界で「治療」、つまり問題解決・課題解決にたずさわる人たち(と言えば、ありとあらゆる仕事に就く人たち、日々の問題に向かう人たち)にまでいたる射程をもちえている。少なくとも、ぼくはそのようにこの名著を「読んで」いる。
それは、たとえば、コンサルティングなどの仕事にも通じるところがある。
「相手」、つまり相談にこられる方々の「問題・課題」を、論理的な仕方で理解することに加えて、しかし、それらをのりこえてゆくうえで、不幸や悲しみや病などに焦点をあてるのではなく、ただ、「生くる力をのみ」見る。
どこに<生くる力>が宿り、どのように<生くる力>がひらかれ、どんな仕方で<生くる力>が発揮されてゆくのか。「問題をなくす」というよりも、<生くる力>によって問題の土台さえも解体し、課題をのりこえてゆく<肯定の力>である。
けれども、<生くる力をのみ見る>ことは、実際にはむつかしい。問題に直面するとき、はじめの関心は「不幸をとりのぞく」、「悲しみをとりのぞく」、それから「病をとりのぞく」ことへと焦点が向けられるからである。いわば、「否定の否定」という仕方である。
「否定の否定」という仕方は、どこまでいっても「否定」ということになりかねない。
そのように問われる土台自体をくずしてゆく力として、<生くる力をのみ見る也>と野口晴哉が書いた、肯定の力はある。
「靴」に新たな命を吹きこむ。- 靴磨き職人に導かれながら。
革靴用のクリームをきらしてしまい、香港の街中で探していたのだけれど、探していた品が品切れなどのため見つからない(ちなみに、香港で売られている革靴用クリームには日本製がよく見られる)。
革靴用のクリームをきらしてしまい、香港の街中で探していたのだけれど、探していた品が品切れなどのため見つからない(ちなみに、香港で売られている革靴用クリームには日本製がよく見られる)。
どうしようかと思っていたところ、しばらくのあいだをしのぐために、靴磨き職人の方に磨いてもらうことにする。
そこで、革靴を持って、靴のケアや修理などを専門にしているお店に立ち寄って、靴磨きのサービスを確認する。所要時間を確認したところ、思っていた以上に時間がかかるようで、そのときのぼくにはそんな長い時間の余裕がなく、またお店の雰囲気もあまりぱっとしないので、このお店のサービスを利用しないことに決める。
どうしようかなと思っていたところ、香港の中心部に位置するセントラル地区のショッピングモールの一角で、靴磨き職人の方が靴を磨いている風景を思い出す。その場所を通るたびに、気になっていたのだ。
靴磨き職人の方にじぶんの靴を磨いてもらったことがないのでよい体験にもなる。こうして、この靴磨き職人の方に、ぼくは靴磨きを依頼することにした。お昼時ということもあって、すでに先客がいる。ぼくは、靴磨きを依頼し、番を待つことになった。
ふつうは椅子に座って靴をはいたまま足を台にのせるのだけれども、ぼくはシューキーパーを入れたままの靴を手にもってきていたので、そのまま靴を渡した。ぼくは、椅子に座って、どのように磨かれるのかを間近で見ることにした。どのように磨くのかを間近で学ぶことができるチャンスでもある。
靴が磨かれる最中にいろいろと尋ねたくなったのだけれど、がまんして、靴磨きの動作に目を集中させる。
靴は徐々に色と輝きをとりもどしてゆく。10分から15分くらいだろうか。靴磨き職人の方は大きなそぶりで終了を伝えてくれる。
靴は新たな<命>を吹き込まれれたように、そこで存在感を放っている。「It’s beautiful.(美しい)」。ぼくは、職人さんに応答する。
ここに来て、そして依頼してよかったなと深く思う。
靴磨きにについては、これまでにYouTube動画などでも学んでいたのだけれど、こうして目の前でじっくり見ていると、やはり動画では伝わらないものごとがぼくに伝わってくるように、ぼくは感じたのであった。
家で「埋もれていた」海外のコインや紙幣に新たな命を吹き込み、また、こうしてぼくは、ぼくの靴に命を吹き込む。
ものごとに新たな<命を吹き込む>ときが、ぼくたちが生きているなかではあるものだ。
それらのものごとは、さしあたり「外部」のものごとでありながら、同時に、じぶんの<内部・内面>にそのまま反映するものごとだ。
ひきだしに、海外のコインや紙幣。- 「寄付」で、新たに息を吹き込む。
家のひきだしの奥のほうにたまっていきやすいものに、海外のコインや紙幣がある。ぼくのひきだしにも、オセアニアからヨーロッパ、アフリカ、それからもちろんアジアの国々まで、さまざまな国々のコインや紙幣が「埋もれている」のであった。
家のひきだしの奥のほうにたまっていきやすいものに、海外のコインや紙幣がある。ぼくのひきだしにも、オセアニアからヨーロッパ、アフリカ、それからもちろんアジアの国々まで、さまざまな国々のコインや紙幣が「埋もれている」のであった。
そもそも「埋もれる」ことを望んで、コインや紙幣をキープしていたわけでは、もちろんない。そのときそのときに「思い」があって、ひきだしにいれたわけである。
あるときは、旅の終わりに、素敵な体験を胸に「またぜったい来よう」と思ったのである。つまり、「また使うから」という思いで、ひきだしに入れたのである。
あるときは、やはり「思い出」として、手放せなかったこともある。
また、あるときは、単純にコインが残ってしまい、他の国々でどうすることもできなくて(もちろん捨てるわけにはいかない、と思い)、そのままになってしまったこともある。
そんないろいろな「思い」が、コインと紙幣にこめられて、ひきだしに眠りつづけてきたわけである。
使い切れなかったコインや紙幣は、たとえば、帰りの空港や飛行機(キャセイ航空など)のなかで寄付することができたりする。でも、「どこかで使うかもしれない」と思って財布に残したり、あるいは帰路忙しくしているうちに、気がつけば家のひきだしにしまわれているのである。
ぼくのひきだしには、20年分くらいの、さまざまなコインや紙幣があったわけで、ここまでたまってしまうと、これらのコインと紙幣のあつかいにこまってしまう。なお、コインや小さい額の紙幣は街の両替所ではとりあつかってくれないから、両替もできない。
ネット検索ではあまりいい情報がなく、ぼくの記憶の片隅に、香港国際空港のどこかに「寄付用のボックス」があったのだけれど確かではない。他のひとたちにも尋ねてみたりして、空港に「寄付用のボックス」があるという、ぼくの記憶とマッチする応答もあった。
そんなこんなしているうちに、ユニセフ(UNICEF)が、直接に寄付を受け付けているのをネットで見つけたのであった。そもそもキャセイ航空の機内でのコイン寄付は、ユニセフへの寄付である。海外のコインの寄付の手段としてキャセイ航空の機内がすすめられていることに加え、直接にも受け付けているとのことである。
それで、さっそくユニセフに足を運び、結構な重さのコインと紙幣を手渡したのであった。こうして、家に「埋もれていた」海外のコインや紙幣は、生き返ったのである。
それにしても、家に「埋もれていた」海外のコインや紙幣には、いろいろなことを考えさせられたのであった。
他方で、以前、NGO職員をしていたころ、西アフリカのシエラレオネでユニセフと仕事をしたことも思い出す。これらのコインや紙幣が「支援」の一部として使われるといいなぁと思う。
ときおり、カザルスを聴く。- 心身を整え、「完成度」にじぶんを照らす。
ときおり、カザルスの音楽を聴く。カザルスの奏でるバッハの組曲を、である。
ときおり、カザルスの音楽を聴く。カザルスの奏でるバッハの組曲を、である。
だいぶまえに、ブログ「あらゆる「技術」に共通するものを追って。- 野口晴哉の整体とカザルスの音楽。」で触れたように、カザルスの音楽の「完成度」にじぶんを照らしてみたくなるのがひとつの理由である。
また、そのことともかかわっているのだと思うのだけれど、ぼくに(著書を通じて)カザルスの音楽を教えてくれた野口晴哉(1911-1976)の「整体」のように、心身が<整えられる>ようにも感じることがあるのである。
野口晴哉とカザルスについて触れた、上述のブログをここに再掲しておきたい。
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整体の創始者といわれる野口晴哉。野口晴哉の存在を知ったのは、いつだったか。すでに20年以上前になると思う。「自分を変える道ゆき」を探し求めていたときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。
野口晴哉は1976年に逝去したから、もちろん、著書等を通じての出会いである。当時は、ちくま文庫の『風邪の効用』などにふれたことを、記憶している。
2007年に、ぼくは香港に来て、人事労務のコンサルティングをしていくことになる。「コンサルティング」という領域は、学びと経験を深く積んでいけばいくほど、質が高まっていくようなところがある。
自分のコンサルティングを磨いていくなかで香港で、ふとしたことから、野口晴哉の書籍に「相談」したくなったことがあった。野口晴哉の『治療の書』である。野口晴哉が「治療」を捨てた書である。人間を丈夫にするためには「治療」では駄目だと、野口が「転回」して独自の道をつくっていくことの、画期的な書である。ぼくは、この書籍を日本から取り寄せた。
ぼくも、コンサルタントとして、問題が起きてからの「対処」よりも、「予防」により力を投じはじめていたときであったから、この書は、ぼくの心に響いた。
『治療の書』と共に、日本から取り寄せた野口晴哉の書の中に、『大絋小絋』がある。この書が、ぼくの心をつかんだ。この書は野口晴哉の草稿から取り出されたエッセイ集である。
このエッセイ集の最後に、「カザルスの音楽に”この道”をみがいて」というエッセイが添えられている。野口晴哉はクラシック音楽を愛していて、特に「カザルスのバッハ組曲のレコード」は、空襲による火事のときも持ち出すほどであったという。
野口は、整体指導にもクラシックのレコードを使用していた。理由の一つは、「自分の技術に時として迷いがでるから」と、野口は書いている。カザルスは、野口にとって「本物」であった。自分自身の技術を、この「本物」に負けないように磨いていくことを心がけていたという。
野口晴哉はこのように書いている。
人間の体癖を修正したり、個人に適った体の使い方を指導している私と音楽とは関係なさそうだが、技術というものには、どんな技術にも共通しているものがある。カザルスは完成している。私は未完成である。懸命に技術を磨いたが、五年たっても十年たってもカザルスが私にのしかかる。
野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
当時、さっそく、ぼくはカザルスのバッハの組曲を手にいれて、聴いた。
海外に出るようになって、ぼくはクラシック音楽を聴くようになっていたが、カザルスのバッハの組曲の「完成度」はぼくにも大きくのしかかってきた。
それからというもの、ぼくは、このカザルスの音色に、何度も何度も戻っては、自分の「技術」の未完成に直面していた。
野口晴哉は、それから、カザルスを聴くことの中に、自分の「変化」を聴きとる。
…夢の中でも、カザルスは大きく、私は小さかった。それが始めてカザルスの音楽を聴いて以来、二十四年半で、カザルスが私にのしかからなくなった。
野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
この文章を書きながら、久しぶりに、ぼくは、カザルスのバッハの組曲を聴いている。ぼくの中で「変化」はあるだろうかと。カザルスは依然として、ぼくに、大きくのしかかってくる。カザルスの「完成度」が、ぼくの「未完成度」を照らしている。
そして、それと同時に、ぼくの前に、野口晴哉という「巨人」が立っている。野口晴哉の文章が、ぼくにのしかかってきている。
野口晴哉は、カザルスが自分にのしかからなくなってからの感想として、「うれしいが張り合いがなくなった」と、綴っている。
ぼくは、野口晴哉とカザルス、そして野口晴哉の存在を教えてくれた見田宗介という「巨人たち」を前に、「張り合い」を、自身にめぐらしている。
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いまでも、カザルスも、野口晴哉も、ぼくに「大きくのしかかってくる」のであるけれど、カザルスの音楽の「完成度」にじぶんを照らしてみると、完成度に向かっているのを感じるというよりも、この「完成度」自体のぼくの理解が変わってきたように感じる。
こうして、ぼくは、ときおりカザルスを聴く。
しあわせのかたちを他者におしつけない。- 他者に強いられるしあわせのかたちを否定する。
しあわせのかたちをおしつけない。
しあわせのかたちをおしつけない。
このことは「わかっている」ようでいて、実はそれほどすんなりとできているわけではなかったりする。
他者(たとえば子ども)がしたいことを好きなようにやらせる。このことは「したいこと」(しあわせ)をおしつけていない、とも言えるけれど、「したいこと」が日々のなんでもないことならまだしも、それが社会的に見て大それたことなどであると、「ちょっと待った」の言葉や視線やプレッシャーを放ってしまうことがある。
つまり、生きかたの「大枠」のかたち(こう生きてゆけば「しあわせ」になる)をおしつけてしまっているわけだ。その大枠のなかであれば、言動は「自由」でいられるのだけれども、この大枠それ自体にふれるような、べつのしあわせのかたちがあらわれると、つい、「(それはよくないと)言いたくなる」のである。
この「言いたくなる」は、他者にたいするアドバイスのときにも、気をつけなければならない。ひとに「人生相談」をもちかけられたときなど、ついつい「言いたくなる」ことがあるものである。
他者の生きかたの「大枠」のかたちを理解しないままにアドバイスをするとき、じぶんがよしとする「しあわせのかたち」を(知らないままに)前提としてしまうのだ。
また、逆に、じぶんにとってのしあわせのかたちを生きることも、すんなりとできるものではなかったりする。そうしたいと思いつつ、一歩足を引いてしまうこともあるものである。
ニーチェの生涯を「ある困難な稜線を踏み渡ろうとする孤独な試み」であったとしながら、見田宗介(社会学者)は名著『社会学入門』(岩波新書、2006年)のなかで、ニーチェのこの困難な「二正面闘争」についてのバタイユの思考(バタイユ『至高性』)にふれている。
「二正面闘争」とは、第一に<失われた至高性を回復すること>、それから第二に<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>である。バタイユはそのように、ニーチェを捉える。
この二つ目の闘争、<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>が、しあわせ(至高のものごと)のかたちをおしつけられたときの戦線である。
じぶんのしあわせ(ほんとうのしあわせ)のかたちを生きながら、また、他者にたいしてそれを強いないこと、おしつけないこと。
「標準」の時代から、「多様性」の時代への移りかわりということは、このような生きかたやありかたと整合しやすいということである。
整合しやすいところでありながら、しかし、まだ「標準」の時代、生きかたやありかたの標準、さらには「人生という物語」の標準が強い引力をもっていた時代の思考や感覚や価値観がひきつづき「尾」をひいている。
「〜しておけばよかった」と思うときに。- <現在>を照らすことば。
ひとはときに、「~しておけばよかった」と思うことがある。英語をもっと学んでおけばよかった、本をもっと読んでおけばよかった、勉強をもっとしておけばよかった、投資していればよかった、等々。
ひとはときに、「~しておけばよかった」と思うことがある。英語をもっと学んでおけばよかった、本をもっと読んでおけばよかった、勉強をもっとしておけばよかった、投資していればよかった、等々。それらをせずに失われた時間をみつめながら、後悔の念を抱いたりする。「もし~しておけば」今のじぶんは今とは全然ちがっていただろうにと思いながら。
その「もし」は、抽象化された時間の長さと抽象化された行動だけをとりだしてみれば、そのとおりかもしれない。けれども、具体的な現実においては「もし」のあとにやってくるであろう結果・成果はだれもわからないから、その正しさを証明することはできない。
でも、現代人は、この「抽象化された時間」を自明のことであるように生き、「~しておけばよかった」というように「時間」を「他の時間」と取りかえ可能のように考える。
かせいだり、たくわえたり、節約したりすることの可能な「時間」、ーそこではたとえば、夜明けの時と午後の時、恋愛の時と別れの時、わたしの時とあのひとの時、そのような時それぞれの固有性、絶対性は捨象され、たとえば夜明けの30分を「浪費する」ことをやめたり恋愛の三時間を「節約」したりすることの可能な対象へと還元される。時間が他の時間のうちにたがいに等価をもちうるという実践的還元のうえに、一般化された商品交換のシステムとしての市民社会の総体は存立している。
真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
真木悠介(社会学者)は、このように書いている。
「他の時間」とたがいに等価をみる思考によって、つまり「昔のあの現実の時間」を「他の(有効な)時間」に取ってかえることのできる思考によって、「~しておけばよかった」というように思い、「浪費する」ことなどに対して後悔の念をひとは抱く。
「時間」(または/あるいは「貨幣」)を見る特定の仕方のうえに、このような思考や感覚があらわれる。もちろん、そうでなくても、純粋に、過去の言動に対して後悔することは存在するだろうけれど、はるか昔の人たちは、あの「浪費した」時間に英語をもっと学んでおけばよかった、というようには思わなかっただろう。
「~しておけばよかった」という思考と感覚が必ずしも普遍のものではないことをふまえたうえで、「~しておけばよかった」と思うときは、「~」を<はじめるとき>である。ぼくはそう思う。
後悔するときではなく、今こそ<はじめるとき>である。むしろ、機が熟したのだと見ることができる。はじめるのが「遅いこと」はあっても、「遅すぎること」はない。
じぶんが生きる「物語」のなかでスポットライトがあたる「~」である。それは、学ぶことであるかもしれない、健康にかんすることであるかもしれない、人間関係のことであるかもしれない。あるいは、生きかたを変えてゆくときであるかもしれない。
「~しておけばよかった」は、過去に向かうことばではなく、現在を照らすことば、そして未来に向けられたことばである。
自然と他者との「存在」だけを必要としている。- マテリアルな消費に依存している幸福の彼方へ。
じぶんと<モノとの関係性>を見直しているなかで、歓びに充ちた生を生きているためには、それほどモノを必要としてはいないのだということを感じる。
じぶんと<モノとの関係性>を見直しているなかで、歓びに充ちた生を生きているためには、それほどモノを必要としてはいないのだということを感じる。
もちろん、情報テクノロジーの発展によるところも大きい。本もCDもDVDも、つまり書物も音楽も映画・ドラマもデジタルになったことは大きい。でも、それでも、生きることのぜんたいを見渡しながら、歓びに充ちた生のためにはそれほど(この何十年かのあいだに、ぼくも含めた人びとが消費してきたほど)「モノ」は必要ないと、ぼくは思う。
見田宗介(社会学者)が現代の「情報化・消費化社会」をひらいてゆく論理と思想を根源的(ラディカル)に展開した名著『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)。その終わりのほうに、つぎのように書かれている。
われわれの情報と消費の社会は、ほんとうに生産の彼方にあるもの、マテリアルな消費に依存する幸福の彼方にあるものを、不羈の仕方で追求するなら、それはこれほどに多くの外部を(他者と自然とを)、収奪し解体することを必要としてはいないのだということを見出すはずである。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
ここでの「外部」の収奪と解体、つまり他者と自然の収奪と解体ということは、貧困の問題、それから環境・資源問題などを視野におさめている。これら「情報化・消費化社会」の<闇>を克服してゆくことの方向性と根拠を、説得力のある仕方で、また肯定的な仕方で、見田宗介は論じている。
ただ<闇>をこえてゆくためには、「ほんとうに生産の彼方にあるもの、マテリアルな消費に依存する幸福の彼方にあるものを、不羈の仕方で追求するなら」という条件がつけられている。でも、その方向性には必ず道がひらかれる。
これらの論点だけでなく、これまで生きてきた経験、またマテリアルな<モノとの関係性>を問いなおしてきた経験から、ぼくたちは「それほどに多くの外部を、収奪し解体することを必要としてはいない」のだということを、ぼくは実感している。
うえの文章につづけて、見田宗介は書いている。
…ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていることを、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということを、見出すはずである。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
<自然と他者の存在>だけを必要としていること。「必要」ということでふつう考えてしまうように、なにかの「ため」の、自然や他者ではない。そうではなく、自然や他者が<存在>していることだけを、ほんとうは必要としていること。
ひとの歓びや欲望などを追求してゆくと、ぼくたちはそのような実感につつまれる場におしだされるように思う。あるいは、あるとき、突如の出来事が、これまでと違った仕方で「世界」を見せるなかで、そんなことを深い実感で感じるかもしれない。
「ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていることを、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということ」。
それにしても、すきとおるようなことばである。
じぶんと<モノとの関係性>に光をあてる。- じぶんの内奥への階段を降りてゆく方法。
「トランクひとつ分の幸せ」。かたづけ士である小林易の『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』に出てくることばである。ぼくはこのことばと、そんな生きかたに共感する。
「トランクひとつ分の幸せ」。
かたづけ士である小林易の『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』に出てくることばである。ぼくはこのことばと、そんな生きかたに共感する。
小林易がこのことばに至ったのは、大学時代のアイルランド留学であった。3カ月の留学生活を終えて、帰国の荷づくりをはじめた小林易は、荷づくりのために、ベッドの下に収納していたトランクを出したときに自ら衝撃をうけることになる。「トランクひとつ」で3カ月生活できたこと、またモノの少ない生活のほうが充実していたこと、これらのことにである。
あなたの人生を豊かにするモノの量は、私がアイルランドに留学したときのトランクひとつ分の荷物かもしれません。トランクひとつ分の幸せこそが、いちばんステキな幸せかもしれません。
小松易『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』電子書籍版(KADOKAWA/中経出版、2017年)
ぼくの共感は、ぼくの経験と感覚からきている。ぼくの海外暮らしも「トランクひとつ分」のようなときがあったからである。
大学時代に9ヶ月住んだニュージーランドを去るときも、それから仕事で赴任していた西アフリカのシエラレオネ、それに東ティモールを去るときも、いずれも「トランクひとつ分」(正確には、大きなバックパックひとつ分+手荷物)であった。
もちろん、シエラレオネと東ティモールはいわゆる「途上国」であり、モノの面においては情況がことなる。東京やニュージーランドや香港の街に出てショッピングをするような情況とはかけはなれている。けれども、だからこそ、いっそう「トランクひとつ分の幸せ」が見えてくることもある。
そんなぼくも、ここ香港に12年住むうちに、だいぶモノを増やしてしまった。この12年という時期は、情報技術テクノロジーの圧倒的な進展が重なったことも影響しているとは思うのだけれど、それにしても、ぼくはいつのまにか圧倒的にモノに囲まれてしまっていた。歓びに充ちたモノだけに囲まれているのであればまた違うのだけれど、そういうわけではなかった。
モノそれ自体を「悪者」にするのではなく、モノに直面しながら、じぶんと<モノとの関係性>を問うてゆくこと。
KonMari Methodも、断捨離も、ミニマリズムもそれぞれに、この<モノとの関係性>を見直すなかで、じぶんの内奥に降りてゆく方法である。モノとの関係のなかに、<じぶん>が見えてくる。そしてそこを起点としながら、これまでの「じぶん」を解体し、あらたに生成させてゆく。つまり、生きかたを変容させてゆく。
ぼくは幸いにも、じぶんと<モノとの関係性>を深く問うということを、「二重のトランジション」のなかで行っている。ひとつには、時代が変わりゆく「時代のトランジション」のなかであり、もうひとつは、ぼくの「人生のトランジション」のなかである。
これら「二重のトランジション」のなかで、ぼくは「トランクひとつ分の幸せ」をイメージとしながら、じぶんと<モノとの関係性>を根源的に問い直している。そして、それは、さまざまな<関係性>を問うことへと、ぼくを押し出してしまうのである。