「知」についてのメモ。- ヘッセ、サイード、真木悠介を導きの糸に。 / by Jun Nakajima

 

「知」と「生」についてのメモ。
知の巨人たち、ヘッセ、サイード、
真木悠介から教えられたことの
メモである。

20世紀前半のドイツ文学を代表する
ヘルマン・ヘッセ。
文学研究者・批評家で、主著として
『オリエンタリズム』がある
エドワード・サイード。
それから、社会学者の、
真木悠介(本名:見田宗介)。

一見すると、繋がりのない、
ヘッセ、サイード、真木悠介は
ぼくにとっては「師」である。

思想家の内田樹は、「師」について
語る中で、
「師」=
「想像的に措定された俯瞰的な視座」
あるいは
「弟子をマップする視座」
である、と述べている。
(内田樹『レヴィナスと愛の現象学』
文春文庫)

この視座をもつことで、
「自分自身を含む世界の風景」を
超えることができる。

「師」とはそのような存在であると
するなら、
ヘッセも、サイードも、真木悠介も
ぼくの「師」である。
圧倒的な跳躍で飛び上がった俯瞰的
視座で、自分を含む世界の風景を
違った形で見せて/魅せてくれる。

この文章は、
その「俯瞰的視座」から、
ぼくの生を「マップする視座」の
メモ(のほんの一部)である。

なお、ここでいう「知」は
広義の意味での「知」である。

 

1)それ自体で歓びの「知」

ヘッセの著書は、ぼくが確か高校生で
あったときに、夏休みか何かの「読書
感想文」を書くために選んだ本であっ
た。

すすんで手に取ったというよりは、
他に特に読みたいようなものもなかっ
たから、最後に、仕方なく手にとった
本であった。

確か、新潮文庫の『シッダールタ』や
『知と愛』を、ぼくは読んだ。
読書感想文は「宿題」として書いた。
大したことは書かなかったと思う。
「あとがき」か何かを参考にしながら
字数を積み上げただけのようなもので
あった。

でも、それらの著書、特に『シッダー
ルタ』は、ぼくの人生に「宿題」を
残した。
ぼくは、ヘッセの文章に、深いところ
で「何か」を得ていたのだ。

大学時代、本を読むようになったぼく
は、ヘッセが「教養」について書く
文章の冒頭にひきつけられる。

ほんとうの教養というものは、
何か他の目的のための教養ではなく、
それ自体で意義のあるものである、
という趣旨の文章であった。

大学入学のための教養、
就職するための教養などというのでは
なく、
それ自体で歓びになるような教養。

ぼくは、この言葉を頼りに、
大学院に進んだ。
国際協力の仕事では、当時「修士」
が必要であるような状況だったから、
大学院の学びは「何かのため」で
あった。
しかし、ヘッセの言葉を頼りに、
ぼくは学び自体をほんとうに楽しむ
ことを意識し、
そして、とことん楽しむことができた。

 

2)「知」と「権力」

エドワード・サイードの著書、
『オリエンタリズム』は、
大学の授業か何かでの課題図書であっ
たと記憶している。
大学などで、「ポストコロニアル」的
な思想がよく学ばれていた時期であった。

日本語の分厚い書籍を手に、
何度もくじけた本である。
ひどく「難解」な本であったのである。

他方で、ぼくは、社会学者の見田宗介
(筆名:真木悠介)の著作の「難解さ」
を通過していた。
しかし、見田宗介の著作の内容を理解
しはじめ、また「読むこと」の深みが
増していくなかで、ぼくは、サイードの
著作に真正面から向かうことができて
いったように、記憶している。

サイード著『オリエンタリズム』は
今でこそ内容は覚えていないけれど、
「とてつもない本」であったことだけ
は、身体で記憶している。
はるか上空に舞い上がった「俯瞰的
視座」を与えてくれるような内容で
あった。

ただ、サイードが教えてくれたことで
ひとつだけ明確に覚えていることが
ある。

それが、知と権力のことである。
知は権力に結びつきやすい。
知識人は、知を、よきことに使わなけ
ればならない。云々。

大学院を修了し、ぼくは
国際協力・国際支援の領域で仕事を
する機会を得る。
西アフリカのシエラレオネ、
東ティモールと、
緊急支援・開発協力の現場に降り立つ。

サイードが仔細にわたって語る「知=
権力のこと」の、その「姿勢」を意識し
つつ、ぼくは常に「大きな俯瞰的視座」
をもちながら、言葉や語り、支援の実践に
取り組んできた。

 

3)「知」と「生」

そして、社会学者の真木悠介。
ブログ「ぼくと「見田宗介=真木悠介」」)

内田樹が哲学者レヴィナスの「自称弟子」
であるのと同じように、
ぼくは真木悠介の「自称弟子」である。

真木悠介は、小さい頃からの自身の切実
な問題であった「時間の虚無」ということ
に、名著『時間の比較社会学』(岩波書店)
で自身の展望を手にいれる。

この著書の「あとがき」で、
真木悠介は、「知」と「生」について
書いている。


生きられるひとつの虚無を、知によって
のりこえることはできない。けれども
知は、この虚無を支えている生のかたち
がどのようなものであるかを明晰に
対自化することによって、生による自己
解放の道を照らしだすことまではできる。
そこで知は生のなかでの、みずからの
果たすべき役割をおえて、もっと広い
世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店)
 

「理論のための理論」にならないような、
ほんとうに生をきりひらくための理論を
追求していく真木悠介の「姿勢」が、ここ
に見られる。

ところで、
「知と生」という問題系において
世間一般に流布する「問題の立て方」は、
「理論と現実」
というものである。
往々にして、理論を仕事にする人たちと
現実(現場)を仕事にする人たちとの間
にはギャップがあるものだ。

真木悠介の思想と姿勢は、
そんな「問題の立て方」に対して、
一気に、垂直に「軸」を突き通すような
力を有している。

真木悠介は、『時間の比較社会学』の
「最終章」の最後で、このように語って
いる。


知でなく生による解放とは、世界を解釈
することではなく世界を変革するという
こと、すなわちわれわれが現実にとりむ
すぶ関係の質を解き放ってゆくことだ。
けだしひとつの社会の構造は、人間の
自由な意志と想像力とがその中でみずか
らをうらぎるような軌道をさえ描いてし
まうような磁場を形成しているのであり、
ひとつの時空とその非条理からの解放は、
ひとつの社会のあり方の構想なしには
ありえないからだ。けれどもそれはこれ
までのいわゆる「社会変革」のイメージ
とはすでにはるかに異質の、しかし同様
に実践的な、ひとつの人間学的な解放で
なければならないだろう。…

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店)


真木悠介が、「知」と「生」をひとつ
のものとして突き抜けていく仕方に、
ぼくは憧れる。

「知」と「生」をひとつのものとして、
ほんとうに追い求めていく「師」として、
真木悠介はぼくにとって在る。