「欲望は欲望によってしか越えられない」(見田宗介)。- 生き方の「道具箱」におさめる言葉。 / by Jun Nakajima

ぼくは、20年ほど前のメモに、こう記している。
 

見田宗介「欲望は欲望によってしか越えられない」


前後の脈力もなく、この一文を、手書きで、書き付けている。

当時なぜこの一文に惹かれたかは定かではないけれど、「欲望を禁欲する」仕方に、息苦しさのようなものを感じていたからだと、ぼくは思う。

ただし、人が自身の人生を生きていくときにも、組織が組織文化をかたちづくっていくときにも、あるいはひとつの社会がその社会を構想していくときにも、この認識は、きわめて、大切である。

人生においても、組織文化においても、そして社会構想においても、二つの方向性がある。

これら二つの方向性は、行動様式の「基底的な認識」を、次のように異にしている。

  1. 「欲望は欲望によってしか越えられない」
     
  2. 「欲望は禁欲によってしか越えられない(抑えることができない)」

もちろん、実際の社会的な生活のなかでは、ぼくたちは「禁欲」しなければならないことを、さまざまにもっている。

組織や社会では、ルール・規則は必要だ。

しかし、このような「生活の表層」でなく、ぼくたちは、生きることの<基層>ともいうべき地層にまで降りていく。
 

社会学者の見田宗介は、「欲望」という問題系に対して、きわめて意識的に、取り組んできている。

彼の修士論文をベースとする大著『価値意識の理論』(弘文堂、1966年)は、副題を「欲望と道徳の社会学」としている。

社会的人間の理論における、これら二つ(欲望と道徳)の問題系は、次のように、方法として、分けられている。

  1. 欲望の問題系:人間の行動の「動機」ないし「欲求」、また行動の「目的」や「生き甲斐」
     
  2. 道徳の問題系:「ほんとうの善」とはなにか、「ほんとうの幸福」とはなにか

これらの問題系が、後年、見田宗介が展開する理論や分析の<基層>として、一連の著作に通底してくることになる。

『価値意識の理論』から30年後の1996年に出版された『現代社会の理論』(岩波新書)では、「欲望は欲望によってしか越えられない」という視点が、「歴史的な出来事の分析」と「未来の構想」の二つに向けられている。

第一に、「歴史的な出来事の分析」として、「冷戦の勝利」ということを見ている。

「冷戦の勝利」について、理論的・思想的に寛容なことは、勝利は軍事力の優位による勝利ではなく、「自由世界」における<情報と消費の水準と魅力性>であったことであると、見田は言う。

第二に、「未来の構想」として、われわれは「情報を禁圧するような社会、消費を禁圧するような社会」に魅力は感じず、「情報と消費」のコンセプトを原的に考察し、そこから未来をきりひらくことを、提案している。

また、社会の視点だけでなく、「個」という視点においても、見田宗介は別の著作(『自我の起原』岩波書店)で、エゴイズムが禁欲ではなく、個に装填されている「欲望」によってひらかれることを、生物社会学・動物社会学の地平から解き明かしている。


生活の表層における禁欲はさておき、ぼくたちは、じぶんが生きていくなかで、二つのアプローチをとることができる。

欲望を欲望によって超えるか、禁欲によって超えるか。

「それはセルフィッシュだ(自己中心的だ)」というときに語られる「欲望」は、ときに、「貧しい欲望」であったりする。

そのような欲望は、「ほんとうの歓び」ではなく、一時的な欲求充足である。

中途半端な「自己中」なのだ。

「ほんとうの歓び」は、「セルフィッシュ」を、原的に、そして徹底的に突き詰めていく先にひらかれるものだと、思っている。

「ほんとうの歓び」は、自分一人だけでは、手にすることができない。

これからの人の生き方の規範も、これからの組織も、これからの社会も、見田宗介の一文が、鍵の一つだと、ぼくは思う。

ただし、現代社会では欲望は表層的に、またネガティブに捉えられがちである。

欲望の言葉の周りには、さまざまな「禁欲」「禁圧」の言葉が、道徳的に語られている。

それでも、表層の言葉と現象を透明につきぬけていく芽となるように、ぼくはその<基層>に、言葉の種をまきたい。

「欲望は欲望によってしか越えられない」