「月明かり」に照らされながら、そしてそのことを文章で書きながら、見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを思い出していた。
この文章は、社会学者の見田宗介が1985年に新聞で連載していた論壇時評のなかの一回として書かれ、その後書籍に所収されている。
この文章の中で、雑誌編集をしていたAという人が、アメリカ・インディアンと一緒に幾年かを生きてきたKと結婚して、日本の田舎に移りすむ「記録」が取り上げられている。
その「記録」は「わが家に電気がついた日」と題されている。
…東京で生活してきたAにとっては、田舎で暮らしたいと思っていた時も、電気はあって当然に近いものだった。けれどもKは、せっかく電気が来ていない家に住めるのにという。Aも原発には反対だしと、当面は電気なしでいくことにした。案外不便は感じないし、何よりも<夜が夜らしく存在する>。
唯一めげたのは洗濯で、…結局電気は引くことにする。冷蔵庫やテレビはいらないが、洗濯機だけはおくだろう。けれどこれからも満月の夜だけは電気を消して、<闇について、この明るすぎる文明について語り合います>と書いている。
かれらは何もよびかけたりしてはいないし、自分たちの限界点を記録しているだけだけれども、この記事をよんだかれらの友人たちは、満月の夜をそれぞれの場所で、みえない全国の友人たちと呼応して<闇>を共有するという、しずかな祭りの夜としてゆくかもしれない。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
「311」を契機とした原発にかんする議論はまだ思考にこだましているけれど、それよりも30年ほど前にも原発問題ということが、生きられる問題として語られ、その「出口」をさぐる人たちが無数にいたことは、これからの「出口」をさぐるうえでもヒントを与えてくれる。
この文章を読みながら、これが「現代」として読んでもまったく違和感がないほどに、問題と課題はひきつづき、人と社会の根底によこたわっている。
上の「記録」は、しかし、見田宗介がわざわざ指摘しているように、「何もよびかけたりしてはいない」。
声高なよびかけのかわりにあるのは、みずからの「生活の仕方を変える」ことと、その生活の記録の共有である。
見田宗介はさらにこう記している。
…このこと(*生活の仕方を変えること)を倫理主義的にではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方でやっている。それは失われたよろこびたちを(快楽から至福にいたるその一切のスペクトルにおいて)取り戻してゆくというかたちをとるだろう。ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向とが、コンパスと地軸のように合致している。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ぼくはここに語られていることに深く共鳴する。
地球環境のための「消灯キャンペーン」はその試みをぼくは否定しないし、もともとの「情熱」とそこから出てくる行動力には頭がさがる思いだ。
しかし、地球環境のために、という罪悪感と倫理主義におされながら「消灯」を実行するとすれば、ぼくはそこに居心地の悪さを感じてしまう。
そうではなく、楽しみながら消灯をすること。
そして、それは、罪悪感でも倫理主義でもなく、人の生のよろこびと共振してゆくということ。
このようなことを書くとすぐに寄せられるであろう「批判」を想定して、見田宗介は最後にこう付け足している(「想定される批判」にあらかじめ答えておくことを、見田宗介は書くことの方法のひとつとしている。)。
電力の総需要といった計算からすれば、さしあたり一兆分の一ほどの効果しかもたないだろう。けれども一兆分の一だけの自己解放をいたるところで開始すること、それらがたがいに呼応し、連合していつか地表をおおうこと、このことを基礎とすることなしにどのような浮足立った「変革」も、もうひとつの抑圧的な制度を出現させるだけだということを、二十世紀のすべての歴史の経験が書き残している。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という文章に出会ってから、20年ほどが経過した。
「ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向」というコンパスと地軸を、ときおり確かめながら、ぼくは生きてきた。
それでも、現代あるいは都会の生活圏は、「消費社会」への居直りへという磁場(マグネティック・フィールド)を形成していて、コンパスと地軸がゆらぐ。
その磁場の中で、ここ4~5年ほどは、家では夏に「クーラー」を使わず、扇風機たちと共に暮らしている。
楽しみながらというと変だけど、ぼくの身体がよろこびながら、クーラーを使わない方向へ生活水準を落としている(それでも電気は消費しているけれど)。
そう、<夏が夏らしく存在する>。
そして、満月の夜には、AとKという幾千もの幾万もの「みえない人たち」と呼応しながら、少し電気を消しながら、満月からの月明かりに身体をさらす。
満月の夜に、人はそれぞれの場所で、みえない人たちと呼応しながら、「しずかな祭りの夜」をしずかに楽しむこと。
2017年8月8日という満月の日に、そんなことを思う。