「誰と歩くのか、ワイワイと歩けるのか」(飯島勝矢)。- 「歩く」ということ。

誰と「歩く」のか。たのしく「歩いている」か。


糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)の企画「糸井重里が知りたいことシリーズ vol.1」、その冒頭に掲げられていることばである。

ぼくは、このことばを見て、そこにまったくじぶん勝手な意味合いを与えて読んでいくことになるのだけれど、そのことはあとで書くことにして、ともあれ、第一回のテーマは「歩く」である。

「糸井重里が知りたいことシリーズ 」は、糸井重里が「知りたいこと」をテーマとして選び、専門家、また一緒に学んでほしい方を交えての、座談会形式ですすめられる。

第一回のテーマ「歩く」では、東京大学で「老い」(老いによる衰弱)を研究している飯島勝矢先生(著書に『東大が調べてわかった衰えない人の生活習慣』)、またカンニング竹山を迎えての座談会である。


飯島勝矢は自身の著書にふれながら、つぎのように語る。


飯島 …本の中でも「歩く」だけで健康になれるとはまったく書いていません。歩くという動作や手法というよりも、「誰と歩くのか、ワイワイと歩けるのか」、そういうことが大事だと話をしています。

第一回「運動神話」「糸井重里が知りたいことシリーズ vol.1」『ほぼ日刊イトイ新聞』


飯島勝矢の研究は「フレイル(衰弱)」ということにあり、ここではその研究結果のひとつを紹介している。

詳細はこの座談会記録を読んでいただくのがよいと思うが、65歳以上の自立高齢者を対象とし、「何を生活習慣に取り入れているか」を調査して、「要介護一歩手前の状況なのか全く問題ないのか」を見ていったという。

この調査における「生活習慣」でとりあげられたのは、「運動習慣(ウォーキングやジムなど、ひとり黙々とする運動)」「文化活動(囲碁や将棋など)」「地域ボランティア活動」の、3つの活動である。

この調査結果の中で「いちばん驚いた」のは、「運動習慣」だけの人は、「地域ボランティア」や「文化活動」をしている人よりも3倍くらいリスクが高い、ということであったという。

つまり、ふつうの見方をすれば、「運動習慣」がある人がリスクが低いと思うけれど、それとは逆の結果が出たのである。


ここでのポイントは、飯島勝矢自身が解説しているように、「人とのつながり」である。

「地域ボランティア」や「文化活動」は、「人とのつながり」を基盤とし、醸成している。

だから、ひとりで黙々とする運動ではなく、「誰と歩くのか、ワイワイと歩けるのか」ということが大切だということになる。


というようにして、飯島勝矢のコメント、およびシリーズ vol.1のタイトルに戻ってくる。


誰と「歩く」のか。たのしく「歩いている」か。


「ワイワイ」ということばはイメージがわきやすく、魅力的でもあるけれど、「ワイワイ」していない人たちを除外するようにも聞こえるから、「たのしく」の方がより包括的な表現である。

ところで、ぼくは、座談会の内容を読む前、このタイトルを見たときに、このタイトルに別の意味を勝手に与えてしまっていたのである。

ぼくは、「運動習慣」的な「歩く」ではなく、「人生」的な<歩く>というようにこのタイトルを解釈して、惹かれたのであった。

ぼくたちが人生を<歩く>なかで、「誰と」歩くのか、そして、「たのしく」歩いているか。

そのようにタイトルを「読んで」、座談会のやりとりを読みはじめ、「そう(ぼくの解釈)ではないんだ」と思いつつ読みすすめ、次第に、「いや待てよ」の感覚がわきあがってくる。

飯島勝矢が「人とのつながり」ということに言い及んだとき、ぼくの解釈でもいいんじゃないかと、思い直したのだ。


人生の道ゆきを<歩く>とき、「誰と」歩くのか、そして、「たのしく」歩いているのか、ということが大切であることと同じに、ふだん運動などで「歩く」とき、「誰と」歩くのか、そして「楽しく」歩いているのか、ということが大切である。

人生の道ゆきを<歩く>ように、ぼくたちはなんでもない道を「歩く」ことができるし、逆に、なんでもない道を「歩く」ように、ぼくたちは人生の道ゆきを<歩く>ことができる。

そんなふうにして歩きながら、じぶんへの問いがやがてやってくる。


<誰と>歩くのか。<たのしく>歩いているか。


生きるということは、ある意味において、たぶん、そのようなことだけでもあるように、つい思ったりしてしまう。

前へ
前へ

内戦下の子どもたちが放つ「ゆるし forgiveness」の声。- 「ゆるしは、まるで水のようなんだ」(Gausくん)。

次へ
次へ

まったく理解できない本をまえにして。- 「内田樹にとってのレヴィナス」を読みながら。