香港で、「香港のもの」と「香港ではないもの」を求めて。- 「ここというところへ」と「ここではないどこかへ」。

香港にいるのだから「香港のもの」を楽しみたい。どこにいても見たり聞いたりできるものではなく、香港だからこそ、見ることができるもの。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)で開催されている2018年クリスマス企画「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」では、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景が、ミニチュアで再現されている。香港で「消えゆく記憶」を、香港の二人のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、ミニチュア作品というメディアにのせる。

展示されている6つの作品は、とても精巧にできていて、とても親密だ。そんなことを、ブログ「香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。」に書いた。

<クリスマス+香港>の組み合わせに「香港」をより親密に見ることができる。クリスマスという「時間」を先にしてそのように書いたけれど、それは、むしろ、<香港+クリスマス>と言ったほうが正確である。「香港」という空間のなかに、クリスマスシーズンという時間の風景が加味されている。

いずれにしろ、「香港の風景」を前面に出しながら、ぼくは「香港のもの」を楽しむことができる。


けれども、「香港のもの」を楽しみたいという欲求とともに、「香港ではないもの」を楽しみたいという欲求も、ぼくのなかにはある。せっかく香港にいるのだから「香港のもの」を楽しむ、ということとともに、香港にいるけれど、あるいは香港にいるからこそ、「香港ではないもの」へと気持ちが向かう。

香港は「国際都市」と言われてきたように、そこには世界のものが何でもある。「日本のもの」もあらゆるところにある。そのような環境のなかで、香港式の食事を提供するレストランは、たとえば、「香港の」という形容詞を、店舗名やメニューに入れなければならなかったりする(※なお、「香港式」とはなんぞや、という議論が別途ではいろいろありうるのだけれど)。

このことは別に香港だけに限ることではなく、東京にいても、そこは世界のいろいろなものであふれている。

そのような場所で、「ここというところへ」向かう欲求と「ここではないどこかへ」向かう欲求が、ともに、じぶんのなかに存在することになる。東京にいたときは「ここではないどこかへ」という欲求がぼくのなかで強かったのだけれど、そののちに住むことになった、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そして香港と、どこにいても、これら二つの方向に向かう欲求が、ぼくのなかで共存してきたのだということができる。

それはやはり「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」(真木悠介)ということだろうかと、これら二つの欲求を感じるとき、ぼくはじぶんの感覚を確かめるのであった。


また、こんな見方もある。

社会学者の見田宗介(見田宗介)がとりあげている、ドイツの劇作家・詩人・演出家であったベルトルト・ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)はつぎのように語る。


<むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました>

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)※その後『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)に所収


「幻想の相互投射性」。そう、見田宗介は読みとる。「白いお城」か「花咲く野原」の、いずれかが魅力的なのではなく、いずれもが魅力的であり、人に幻想を抱かせるほどにメルヘン的である。「<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理」(見田宗介)。世界の「あり方」のことである。

あるところに住みながら、ぼくたちは「ここではないどこか」を夢見る。でも、やがて、そこへ住むことになり、今度は「あるところ」を夢見る。

生まれ故郷の浜松を離れ、東京・埼玉、ニュージーランド、シエラレオネ(西アフリカ)、東ティモール、香港に住んできた過程で、ぼくは「根をもつことと翼をもつこと」の根源的な欲求を感じ、そして、「<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理」を実感する。

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「あたりまえのことというのが曲者なんだよ」(コペル君の叔父さん)。- 縮減された感性をとりもどす。

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香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。