旅することで、「地図」が、からだのなかにはいる。- <じぶんの地図>をつくっていくこと。 / by Jun Nakajima

情報通信テクノロジーの発達によって、世界中の画像と動画とニュースに、いつでも、どこでも、ぼくたちはアクセスできる。

VRや360度動画などを駆使すれば、ほんとうに、その場にいるような錯覚さえ覚える。

そんな時代に生きながら、それでも、この身体で、実際に旅することは、異なる体験である。

この身体は、どれだけ画像と動画を見ていても、実際にその場にいくと、五感をひらきながら、その場を感じる。

その場の空間にひろがるにおいを感じ、空気の流れを肌で感じ、空気の質感を全身で感じ、さまざまな音をきき、そこの<全体感のようなもの>を、身体の全体感のようなもので感じる。

そして、実際に旅することで、「地図」が、ぼくのからだのなかにはいるように、ぼくは思う。

 

10代の頃、学校の地理の授業で、地図帳を前に、あるいは地球儀を前に、地域や地名をおぼえていた。

でも、これが、なかなかむずかしい。

地域や地名の「位置感」が、頭のなかにしっくりとはいってこない。

そんな経験を、ぼくはおぼえている。

それが、大学に入ってから、例えば、アジアを旅しながら、ニュージーランドに住みながら、また働くようになってアフリカに行くようになってから、「地図」が、ぼくのからだのなかにはいるようになった。

なんの苦労をすることもなく、「地図」が、ぼくのからだの体感としてきざまれていったのだ。

 

アジアの旅では、中国本土を電車やバスで旅しながら、またタイ・ラオス・ミャンマーという国々の国境をこえながら、さらにベトナムをバスと電車を乗り継ぎながら縦断していって、ぼくは「地図」をからだのなかにとりこんでいく。

今住んでいる香港にいても、そうである。

香港という限られたところでも、実際にその場に行ってみないと、やはりわからないことは多いし、香港の「地図」がからだにはいってこない。

実際にあちらこちらに足をはこんで、この身体をさらしてみることで、香港の「地図」が、ぼくのからだのなかに、ぼくのフィルターと物語を通して、ぼくのなかにはいってくる。

そんな風にして、ぼくのなかに<香港の地図>が、つくられていく。

あるいは、<世界の地図>が、ぼくのなかに、リアリティをもって、つくられていく。

そのような<地図>はリアリティのほんの断片であることも承知しているし、また人によっても感覚の仕方は異なることも承知だけれど、ぼくにとって、それはとても大切なことであるように思うし、生きるということのしあわせな一面であるようにも思う。

 

そのような<地図>があると、その地域やその場所のニュースをきいたときに、ぼくはじぶんの地図を重ね合わせながら、ある種の現実感(リアリティ)をじぶんのなかで組み立てる。

出来事の一面しか伝えることのないニュースに、そこにひろがりをつくりながら、読み解き、感じる。

じぶんの地図が「正しい」わけではないし、それも一面であるだけだけれど、その感覚が体感としてあるだけで、ぼくのなかに、余裕ともよべる空間ができる。

とくにニュースがなくても、日々生きているなかで、ぼくは思うことになる。

あぁ、あそこの人たちも、この地球のあの場所で、ぼくと同じときを生きているんだ、と。

そう思うだけで、ぼくの心は温かくなったりする。