「旅の仕方」がかたちづくられるとき。- 「はじめてする」旅の憶い出のなかで。
香港の、住んでいるところの近くの道を歩いていたら、ふと、香港を旅していたころのことを憶い出した。
香港の、住んでいるところの近くの道を歩いていたら、ふと、香港を旅していたころのことを憶い出した。
憶い出していたのは、「旅の仕方」ということである。どのように旅をするのか。どのように旅をつくり、どのように街を歩き、どのように食事をし、どのように人とふれあうか。そのような、じぶんの「旅の仕方」というものは、旅をしはじめたころの影響が大きいのではないか、ということを感じたのである。
はじめて海外を旅したのは1994年の夏のことで、横浜からフェリーにのって上海に入った。この旅の大半は一人旅であり、海外一人旅の魅力にとりつかれることになった。
それから、ここ香港に来たのは、翌年、1995年のことであった。やはり暑い夏の日であった。はじめての飛行機の旅でもあった。香港を経由して、広東省、そこからベトナムに飛んだ。そんな旅のルートに香港を組み込んだのだ。香港は旅の入り口と出口であった。
作家の沢木耕太郎の『深夜特急』(新潮文庫)の旅のはじまりは「香港」であった。後年、沢木耕太郎は、旅の「はじまり」が香港であったことが幸運だったことを述懐している。「旅の仕方」を、香港で構築することができたようだ。
ぼくの「旅の仕方」も沢木耕太郎の経験と交差するようなところがある。ぼくにとっては、海外一人旅をはじめたころの「旅の仕方」が、その後の「旅の仕方」の原型のようなかたちで、ぼくのなかに刻まれている。その「はじめのころ」というのが、1994年の中国(上海・西安・北京・天津)の旅、それから1995年の、香港・広東省・ベトナムの旅であった。
香港の街を歩いているとき、ふと、そんなことを思うのである。
旅というものが、しばしば人生におきかえられるように、「旅の仕方」ということも、日々の「生きる仕方」におきかえることができるようなところがある。「旅の仕方」が旅の初期の経験のなかでかたちづくられるように、「生きる仕方」も、それぞれの「初期の経験」のなかにかたちづくられる。
なにかを「はじめてする」とき、つまり、それまでの「じぶんの枠組み」(コンフォート・ゾーン)からはみだしてゆくようなときに、「じぶん」という経験の核心のようなものがあらわれやすかったり、あるいは「じぶん」をかたちづくる核心のようなものが生まれやすいのではないか。
そんなふうに、ぼくは思う。
そんなことを思い、考えていたころに、香港の大衆食堂で雲呑麺を食べていたら、あの、「旅の仕方」と「生きる仕方」が重なって現れるような感覚が、ぼくのなかで湧き上がってきた。
「ことば」がむつかしい時代に。- 「ことば」を取り戻すために採用する「二段階の方法」+「もう一段階」。
「ことば」がむつかしい時代である。1990年代、10代から20代をかけぬけたぼくは、地に足のついた「ことば」を求めていたけれど、それから時代が変遷してゆくなかで、「ことば」がほんとうにむつかしい時代になっていると思う。
「ことば」がむつかしい時代である。1990年代、10代から20代をかけぬけたぼくは、地に足のついた「ことば」を求めていたけれど、それから時代が変遷してゆくなかで、「ことば」がほんとうにむつかしい時代になっていると思う。
「ことば」はもともと生を裏切るものだという根底的な「ことば」のむつかしさもあるけれど、それよりももっと日々の「ことば」の次元において、「ことば」は<虚構性>をそのうちに増殖させながら、それらを聞く人や語る人のなかにひろがり、浮遊してゆく。
そんな浮遊する「ことば」がいつしか(内的であろうが外的であろうが)「自分が語ることば」となる。虚構性を増殖させた「ことば」は、それを吸収し培養させた個人たちのなかで、彼・彼女を混乱させ、矛盾のなかに投げ込み、なにがほんとうなのかをわからなくさせる。
「ことば」がむつかしい時代である。
1990年代のぼくを振り返ると(結果的に見ると、ということだけれど)、「ことば」を取り戻してゆくために、ぼくは「二段階の方法」を採用していたようだ。この方法を支えていたのは、海外(日本の外)への一人旅であった。
方法の一段階目は、日々の「ことば」の洪水から、いったん<外>に抜け出ることである。海外への一人旅は、この<外>へ、ということにおいてきわめて効果的であった。毎日当たり前のように聞いて、読んで、話している「日本語の世界」から抜け出ることで、いったん洪水をせきとめるのである。
方法の二段階目は、「身体」を使うなかで(身体性を取り戻しながら)「ことば」を取り戻してゆくこと。もちろん、誰だって「身体」は毎日使っているのだけれど、ここでは、実際に行動しながら、世界を歩きながら、自分の「身体」で体験しながら、自分の「ことば」を取り戻してゆくことを指している。
アジアを旅しながら、ニュージーランドに住み、ニュージーランドをじぶんの身体で歩きながら、ぼくは地に足のついた「ことば」を取り戻そうとしていた。振り返って見てみると、そんな側面が見えてくる。
採用した「二段階の方法」によって、うまくいったところもあれば、うまくいかなかったところもある。でも、少しでもうまくいったこと、つまり「ことば」を取り戻したという感覚を少しでも得た経験は、ぼくにとってはとても貴重であった。
ぼくの心身に、迷ったときの道しるべとなるような杭が打たれたように思う。
あれから時代がすすみ、経済的なグローバル化が完遂し、情報技術テクノロジーの発展のなかでSNSなどが現れ、どこに行っても、虚構性に満ちた「ことば」の洪水にさらされる。「ことば」がずいぶんとむつかしい時代だ。
だからかもしれない、と、ぼくは思いつく。
1910年代から1920年代に生まれた著者たちの「ことば」に最近惹かれてやまないのは、彼ら・彼女たちが「ほんとうのことば」を求めてきた世代であったから/あるからかもしれない、と。浮遊する「ことば」ではなく、地に足をつけながら、同時に飛翔しようとする<ことば>を紡ごうとする世代。
「方法の三段階目」として、このような方法を付け加えることができるかもしれない。
「ひとり旅」という旅の形式と方法。- 内向的でありながら外向的であること。
1994年、大学1年の夏休みに、ぼくははじめて「海外」を旅した。
1994年、大学1年の夏休みに、ぼくははじめて「海外」を旅した。
横浜から大型客船の鑑真号にのって、中国の上海を最初の目的地とし、上海から北に向けて(西安→北京→天津)移動してゆく旅であった。
こだわったのは「ひとり旅」ということであった。旅の終盤に北京の故宮で大学の友人とおちあう約束をしてはいたのだけれど、そこまでの旅路は「ひとり」であった。
「ひとり旅」にこだわった理由は、じぶんの好きな仕方で旅をしたかったこともあるけれど、自立への志のようなものも少なからずあったし、モデルとなるような旅人たちに見習ったということもあったと思う。
ひとり旅では、当たり前と言えば当たり前なのだけれども、普段の日常に比較して、「ひとり」になる時間が圧倒的に多くなる。「ひとり」であることの自由さを楽しみながら、でも、異国の地の宿でひとりでいるときなど、深い孤独の暗闇にまよいこんでしまうこともある。
深い孤独の暗闇のなか、思ったことを文章に書くことでじぶんやじぶんのなかの他者と対話して、孤独感をやわらげたこともあった。
たとえばそんな風にして、「じぶん」と向き合う時間も増え、「じぶん」と向き合う深さも深まった。
「ひとり旅」は、旅路は結構忙しかったりもするのだけれど、それでもやはり、「じぶん」の内面と向き合うための機会として貴重な方法であった。
このような「ひとり旅」は、ひとり旅をしてきた人たちには「当たり前」のことだろうし、ひとり旅の経験がない人たちも想像がつくところである。
外部からの見え方によっては、ひとり旅によって<じぶんに閉じこもる>、というように見える。それは「正しい」見方ではあるのだけれど、「ひとり旅」の一面をとらえただけである。
「ひとり旅」という方法は、<じぶんに閉じこもる(向き合う)>というじぶんに向けられた方向性とは逆に、「ひとり」であるからこそ、<外部にひらかれている>形式でもある。旅を共にする人たちとの「共同体」を形成して、外部に対する皮膜をつくってしまうのではなく、ひとりであることで、誰とでも接する可能性にひらかれる。
「ひとり旅」とは、「ひとり」という言葉の語感とは裏腹に、外部に向かってオープンにひらいてゆく方法でもあるのだ。
実際に、「ひとり旅」をしていると、旅路でいろいろな人たちと出会う。相手も「ひとり旅」をしている人であったり、現地の人たちであったり、出会いの量と質が異なるように感じることもある。
1994年、中国の旅においても、「ひとり」であるぼくを、ほんとうにたくさんの方々が気にかけてくれたり、声をかけてくれたり、ケアしてくれたりしたものだ。
「ひとり旅」が一番いい、などと言っているのではない。別のブログにも書いてきたように、<横にいる他者>(真木悠介)によって、じぶんが体験する「世界」の奥行きがまるで変わってくることがある。北京の故宮で待ち合わせをした友人の「人柄」と「眼」を通して、ぼくの「世界」は広がってゆき、深まったものだ(ぼくひとりであれば、会わないような人たちに出会い、行かないようなところに行った)。
ぼくが書いているのは、「ひとり旅」は、<じぶんに閉じこもる>(※言葉にネガティブさを感じるのであれば、「じぶんに向き合う」)という方法でありながら、それと同時に、<外部にひらかれている>形式であり、方法であることである。
内向的でありながら、きわめて、外向的である。
「ヒッチハイク」へとおしだされた旅。- ニュージーランドを、北から南に向かって歩きながら。
旅を始めたとき、まさか、ぼくが「ヒッチハイク」をすることになるとは、思ってもみなかった。
旅を始めたとき、まさか、ぼくが「ヒッチハイク」をすることになるとは、思ってもみなかった。
ぼくのなかでヒッチハイクをすることはイメージになかったし、もちろん意図としてもなかった。でも、旅を続けてゆくなかで、「ヒッチハイク」という旅をすることにおしだされていったのである。
1996年、ぼくは、ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドのオークランドに住み、滞在の後半になってから、ぼくは「ニュージーランド徒歩縦断」の旅に出た。
ニュージーランドに渡るまえから決めていたことではなく、オークランドに住みながら、「こんなことをしたんだ」と、じぶんや他者に言えるような「何か」をしておきたいと思い、アウトドアの雑誌で見た記事に触発されて、ぼくは「ニュージーランド徒歩縦断」を試みたのであった。
結果としては「途中で断念した」のだけれども、ニュージーランドの北端から南に向かって歩きはじめオークランドに到達し、オークランドで体制を立て直して南に向かってふたたび歩いた経験は、ぼくにとって、とても大切なものとなった。
驚いたことのひとつに、歩いている道中、ほんとうにたくさんの車がぼくのまえで停車してくれて、「乗っていきますか?」と声をかけてくれたり、乗車提供のジェスチャーを示してくれたりしたことがある。
そのたびに、ぼくは「No, thank you.」を伝え、ときに「北から南に歩いているんです」と説明することになった。そんなやりとりに、ぼくは励まされたものである。
足をけがして、ようやく到着したオークランドで治療し、オークランドで体制をととのえてふたたび南に向かって歩きだしたとき、ぼくの身体も精神も、なんだか歯車がくずれはじめたように思う。
ニュージーランドの北端から(おそらく)700キロメートルほどのところで、ぼくはじぶんでじぶんに「リタイヤ」を告げた。ぼくの身体を大粒の雨粒がうっていた。
じぶんで「リタイヤ」を決めてからそれほどたたないうちに、大雨がふりしきるなか、ある車が停まってくれた。大雨のなか、田舎のハイウェイを歩いているぼくを見兼ねて、停車してくれたようであった。
こうして、ぼくは、「ヒッチハイク」をすることになった。なお、その日は、彼の家での宿泊をすすめてくれ、ぼくはありがたく泊めてもらうことにした。出会ったばかりの方に泊めてもらうのは、ぼくにとって「はじめて」の経験でもあった。
身心の状態がよければありがたく断っていたかもしれない。それほどに、ぼくの身心は疲弊していたのかもしれないと思う。
今ふりかえってみると、「ヒッチハイク」という旅の形と内実は、「生きることの幅」をひろげてくれる契機のひとつであった。
ぼくの「ニュージーランドでの旅」は、一方に、きちんと料金を支払って決められた時間に決められた交通機関で移動する旅があり、他方に、じぶんの足をたよりにニュージーランドを縦断しようと試みる旅があった。
どちらの旅の形態も、「他人に迷惑をかけまい」とする旅の形態であるように、今ではぼくの眼に見える。「他人に迷惑をかけてはいけない」、このことを小さい頃から教えられてきたことを、ぼくはふと憶い出す。
でも、身心が疲弊し、ふりしきる雨がぼくの身体に浸潤してくる状態で、ぼくは、他者がさしのべてくれる好意を受け入れることにした。
「他者がさしのべてくれる好意を受け入れること」を、ぼくは「他人に迷惑をかけること」であると勝手に思っていたところがあるのかもしれない。切羽詰まった状態になってはじめて、ぼくは、そのような偏った見方の壁を、いくぶんか崩すことができた。
最後の最後まで、よくしてくれることに「申し訳なさ」が残ったのだけれど、でも、ぼくも「他者に手をさしのべる」ことができるような人になりたいと思ったものだ。
イメージもせず、意図もしていなかった「ヒッチハイク」の旅におしだされて、「じぶんの足をたよりに歩く」ことに挑戦していたときとは異なる経験と楽しさと学びを、ぼくは得ることができた。
そのことを、ここに書いておきたい。感謝の気持ちをこめて。
自分のなかに埋もれている「一面」を照らしだす。- 旅で出会った人たちの<窓>を通して見る世界。
「あんな風に振舞ってみたい」。旅先で出会った日本人の方と語り、行動を共にしながら、そんな風に思ったことがあった。
「あんな風に振舞ってみたい」。旅先で出会った日本人の方と語り、行動を共にしながら、そんな風に思ったことがあった。
もう20年以上もまえのことになる。
1997年、ぼくは大学の夏休みのあいだに、タイ、ミャンマー、ラオスを旅していた。大学に入ってから、夏休みはアジアを旅し続けていた。そのまえの年、1996年には大学を一年休学し、ニュージーランドに住んだぼくは、1997年の夏、アジアに戻ってきた。アジアは、アジア通貨危機で揺れていた。
ニュージーランドに住んでいるときに無性にアジアに行きたくなるときがあったのだけれど、タイに到着したときは、やはり、身体の細胞がさわぎだすような感覚を覚えた(ちなみに、ニュージーランドでの経験はもう少し異なる次元を含めてぼくに影響を与え続けてきている)。
その方に、どこで、どのように出会ったのかは、今となっては正確には覚えていない。けれども、あのときの「体験」は、ぼくのなかにたしかに残っている。
成田空港からタイに入り、タイからミャンマーに空路で移動し、ミャンマーからラオス、ラオスからタイに戻ってくるルートで旅はすすんでいったのだが、おそらく、ミャンマーで(あるいはラオスで)、ぼくはその方に出会った。ぼくも一人旅であったし、彼も一人旅であった。
異国の地で、彼と語り、食事を共にしたりした。
それほど長い時間ではなかったけれど、彼と行動を共にするなかで、彼が、とても気さくでオープンマインドであったことに、ぼくはとてもひかれたのであった。異国の地の人たちと打ち解けてゆく仕方に、ぼくは人の「豊かさ」のようなものを感じたのだ。
後年ふりかえるなかで理解したことは、彼と行動を共にすることで、隣にいるぼくは「彼」を通じて、その<窓>から「世界」を見て、体験することができたことになる。その鮮烈な体験が、ぼくのなかの「埋もれていたもの」を刺激し、ふるい起こす。他者に感じる圧倒的な魅力性は、自分のなかに埋もれているものを照らす光となることがある。
「埋もれていたもの」に光があてられ、凍りついていたその表面が雪解けし、自分の違う「一面」が表層に出てくる。
旅路で彼と別れ、ラオスのビエンチャンに移動したぼくは、じぶんのなかに埋もれていた気さくさとオープンマインドをひらいてみる。出会う人たちや子供たちにオープンマインドで声をかける。夜の路上店で、クレープのような食べ物を売っている人にたのんで、作り方を教えてもらう。それだけで、「世界」がいつもとは違って、ぼくの前にあらわれる。
向き合う他者というのではなく、<横にいる他者>(真木悠介)である。
…関係のゆたかさが生のゆたかさの内実をなすというのは、他者が彼とか彼女として経験されたり、<汝>として出会われたりすることとともに、さらにいっそう根本的には、他者が私の視覚であり、私の感受と必要と欲望の奥行きを形成するからである。他者は三人称であり、二人称であり、そして一人称である。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
1997年のアジアの旅を憶い出しながら、そのことをさらに深く感じる。
生きてゆくうえで、その場ですぐに学べることもあれば、あとになって(ときには、ずっとあとになって)「ことば化」されることがある。さらには、あとになって「ことば化」されたことのなかにも、生の旅路を歩きながら、もっともっと、深まってゆくこともある。
1997年のアジアの旅は、そんな体験のひとつであったようだ。
「Live at…」の、すてきな<変換>。- 音楽バンド「Endless Summer」の企て「Music, Travel, Love」。
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
🤳 by Jun Nakajima
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
少なくとも、ぼくは、このような題名だけを見た時に、「…で開催されたコンサート映像」というふうに、一方で思ったわけです。「コンサート」というからには、そこには、会場があり、バンドが存在して、聴衆がいる。そんなイメージがあるわけです。
けれども、「Perfect(Live from Gasparilla Island)」という題名を見ながら、どこか「違和感」を感じたのは、YouTube動画の静止イメージには、いわゆる「コンサート会場」があるのでもなく、聴衆の姿が見えるのでもなく、ただ、広大な自然を背景に、ギターを手にした二人が写っていたからです。
文字で読んで沸いたイメージと、動画の静止イメージが、ぼくの解釈系統において、スムーズにつながらない。でも、二人の歌い手、それからなによりも、二人の背後にひろがる広大な自然の美しさにひかれながら、ぼくは、YouTubeの動画を再生したのでした。
これが、「Endless Summer」というバンド(*注:のちに、バンド名を「Music Travel Love」に変更)との出逢いだったのですが、動画を再生してみて、「Live at…」の意味がわかり、ぼくは深く触発されたのでした。
彼ら二人は、世界を旅し、広大な自然(山も、湖も、花畑も)などを「舞台」にし、マイクスタンドを立て、ギターを手に、歌を歌うわけです。つまり、「Live at…」の「…」は、これら、世界のうつくしい場所だったわけです。
「会場」は、なにも、コンサート会場である必要もないし、また「聴衆」も、その場にいる必要はないわけです。こんなふうにして、カバー曲やオリジナル曲がYouTubeにアップされてゆくわけです。
● True Colours (Live at Singha Park)
● When You Say Nothing At All (Live in Nashville)
● Perfect (Live from Gasparilla Island)
● I Will (Live at Glenwood Canyon)
などなど。
このような「企て」に触発されたわけですが、企てのエネルギーを支えているのは、やはり、二人の歌声です。どこかひかれる歌声なのです。
そこで、インターネットで彼ら「Endless Summer」(Music Travel Love)のホームページにとび、バンドの成り立ちなどを読んでいると、彼らが兄弟であり、1990年代に結成され人気を博したカナダのグループ「The Moffatts」のメンバーであった(ある)ことがわかったのです。
「The Moffatts」は人気のグループであったので、知る人は知っているだろうし、ぼくのようにグループ名を知らなくても曲は覚えている人もいるようなグループです。
4歳からプロフェッショナルとして歌いはじめ、5000を超えるライブパフォーマンスを重ねてきた経験が、「Endless Summer」の歌声に結晶してきたのだと、ホームページを読みながら、ぼくは勝手に想像します。
そして、うえで取り上げた曲群は、そんな彼ら、ボブとクリントがすすめるプロジェクト「Music, Travel, Love」に沿って、アップロードされている曲たちなのです。
彼らの歌声にひかれ、また「企て」も面白いのですが、でも、ぼくが、とりわけここで書いておきたいのは、この企てにおけるコンサートの「舞台」です。つまり、広大な自然のことなのです。
舞台である自然がとてもうつくしく撮影され、また魅力的に編集されている。それらを見ているだけで、気持ちがひらかれるのですが、でも、ぼくは、自然にひらかれた視点をふたたび、ボブとクリントの二人にもどしてみるのです。
彼らの歌声はもちろん彼らの歌声であるわけですが、彼らの歌声は、これらの自然から得るちからを<変換>させているのだと。ぼくにはどうしても、そう感じられるのです。
コンサート会場であればたくさんの聴衆から得るちからを変換させてパフォーマンスにつなげるのと同じに、「Endless Summer」の二人は、自然から得るちからを、歌声に<変換>させている。それが、伝わってくる。
そこに<うつくしさ>を、ぼくは感じます。
「定住と遊動」のこと。-「定住革命」(西田正規)の視点から、「遊動の衝動」をまなざす。
「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」。真木悠介は、かつて、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)の本編のさいごのほうに、このように記した。
「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」。真木悠介は、かつて、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)の本編のさいごのほうに、このように記した。
「翼をもつこと」だけでなく、「根をもつこと」の欲求。「根をもつこと」だけでなく、「翼をもつこと」の欲求。いずれもが<人間の根源的な欲求>であると、人間の欲望・欲求の構造を徹底的に探求してきた真木悠介は書いた。
「根をもつ」という定住のあり方が、現代の人間社会のデフォルト的な様態である。そこに、ひとびとの「物語」が生成し、語られ、そうしていっそうデフォルトの状態が強化される。
けれども、現代社会がゆるぐなかで、より自由な、さまざまな生きかたが模索されてきている。
そのような問題関心において、ぼくは、西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)を読む(もともとは、新曜社から1986年に発刊され、絶版になっていた)。
「定住」というあり方に距離をおいて、移動をくりかえす「遊動」との比較のなかで、「定住革命」という視点を導入しながら、定住と遊動をとらえなおす。
不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく。この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。
…
ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えたのである。この変化を「定住革命」と呼んでおこう。およそ一万年前、ヨーロッパや西アジア、そしてこの日本列島においても、人類史における最初の逃げない社会が生まれた。西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)
「不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく」という、生きる基本戦略は、いわば「初期設定」として、また生きられてきた時間の長さと深さとしても、人の身体の奥深くに刻印されているのだろう。
そこに「定住革命」が起こる。まさに「革命」である。
「動物に脳がつくられた理由というのは、遺伝子レベルでは間に合わないことをするため…つまり、環境に適応するため」と養老孟司は語っているけれど、人間(ホモ・サピエンス)の「脳」は、「初期設定」である生きる基本戦略でさえも、比較的みじかい期間で、のりこえてしまう。
定住に伴って現れてきた現象、食料生産の開始、都市の発生と発展、社会の分業化・階層化などは、「脳化社会」(養老孟司)ともあわせて、考えてみることができる。
西田正規の「定住革命」の視点でおもしろいのは、定住生活は「遊動生活を維持することが破綻した結果として出現した」という視点である。
食料生産などの活動による経済的能力の向上などに定住生活の出現をみる見方とは、逆転した見方だ。つまり、「定住がデフォルト」(定住が望まれることもあたりまえ)という見方ではない視点を、西田正規は、人類史のなかに位置づけ、そこから定住と遊動をとらえかえしている。
そんな西田正規の、「ノマド」(遊動民)に対する見方もおもしろい。
逃げない社会のなかにあっても、人々が逃げる衝動を完全に失ったわけではないだろう。定住社会の間隙を縫ってすり抜けるノマド(遊動民)たちは、その後も絶えたことはなく、また、定住社会における不満の蓄積は、しばしばノマドへの羨望となって噴出する。だからこそ定住社会は、ノマドの衝動をひたすら隠し、わけもなくノマドたちに蔑視のまなざしを投げ、否定し続けてきたのであろう。
西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)
1980年代に書かれたこの文章であるが、歴史はその後、情報通信テクノロジーの発展を支えとしながら、「ノマド」的なライフスタイル/ワークスタイルを積極的に選びとり生きる人たちを目撃してきている。
そのような人たちへのまなざしは、いまだ、「定住者会」のまなざしから脱却していないようにもみえる。まなざしも、それから社会システムも、いまだ、移行途中だ。
そんななかで、「定住革命」の視点もとりいれながら、ぼくは、じぶん自身の内奥にひそむ「遊動の衝動」へと、<ポジティブなラディカリズム>の姿勢で、まなざしを投げかける。
いつものぼる太陽が「あたりまえでなくなる」旅と文章。- 探検家の角幡唯介の「極夜行」。
探検家の角幡唯介(かくはたゆうすけ)のノンフィクション作品、『極夜行』(文藝春秋、2018年)。
探検家の角幡唯介(かくはたゆうすけ)のノンフィクション作品、『極夜行』(文藝春秋、2018年)。
太陽が地平線の下にしずみ、太陽が3ヵ月から半年ものあいだ姿をみせない漆黒の夜、「極夜」(きょくや)。その「極夜」を未知の空間ととらえ、先住民が住む集落として世界最北に位置する、グリーンランドのシオラパルクを出発点に、極夜という闇を経験し、「本物の太陽や本物の月」を見る旅。
「私たちは普段、太陽を見ているようで、じつは見ていない」のであり、太陽が人間にとって本質的な存在でなくなったと角幡が書く、この近現代という時代にあって、真の闇をもとめ、そして本物の太陽をもとめる。
こうして、「極夜明けの最初の太陽を見ること」が、あえての、旅の目的として設定される。
極夜。太陽があらわれない、長い、長い、漆黒の夜。そんな「夜」は、想像するだけでも、こわくなる。『極夜行』の旅の準備とはじまりを読みながら、そんな極夜を想像しているだけで、もしそんな状況におかれたら、精神がおかしくなってしまうのではないかと思ってしまう。
以前、それほど遠くない以前に、ぼくは、「もし太陽がなくなったら…」という想像にとりつかれたことがあった。そんな映画や小説があっただろうかと思いながら、とくに思い出せない。地球は永遠ではないし、太陽にも寿命がある。インターネットで検索して、太陽には寿命があるが、はるかはるか先であることを知って少し安心する。
極夜の想像もそうだけれど、「もし太陽がなくなったら…」という想像をするだけで、毎日、あたりまえのようにのぼる太陽が、とてもありがたいものとして感じられる。
そんなことを思っていたこともあり、ぼくはこの『極夜行』を手にとったのだった。
ところで、角幡唯介は早稲田大学探検部のOBである。今はどうかは知らないけれど、ぼくが1990年代半ばにアジアを旅していたとき、早稲田大学探検部の人たちに出会って情報交換などをしたことがあるが、彼らの「探検」にかける意欲と行動には、おどろかされるばかりであった。
そのときの「おどろき」とイメージがぼくの記憶のなかにきっちりとしまわれていたから、角幡唯介が早稲田大学探検部OBと知ったとき、彼が敢行する「探検」の広さと深さへの想像と期待もかきたてられたのである。
そんな想像と期待にもかかわらず、『極夜行』の冒頭の、つぎのような文章に、ぼくは共感をおぼえる。
学生時代から私はしばしば探検や冒険に出かけてきたが、そのため人からは、何で冒険なんてするんですか、とよく訊かれた。はっきり言って冒険とは生きることと同じなので、その質問はあなたは何で生きているんですかと訊かれるのに等しく、ほとんど回答不能なのだが、そんなことを言って野暮な人間だと思われるのも嫌なので、冒険の意義は自然のなかで死の可能性に触れて、死をとりこむことで生の実感を得ることにあります、などともっともらしいことを言ったり書いたりしてきた。…
角幡唯介『極夜行』(文藝春秋、2018年)
このあとにつづく、彼の妻の出産を契機とした「妊娠出産」考と冒険活動の対比も興味深いのだけれど、それはともかく、「冒険とは生きることと同じ」という感覚と思考のなかで、角幡唯介の探検・冒険は彼にとって存在している。
探検・冒険が「ふつうではない」(標準ではない)世界に住む人たちにとって、そこに「なぜ」という質問が生じてくる。これから徐々にひらいてゆく、<億の生きかた>が相犯さない世界においては、探検・冒険であれ、その他の活動であれ、「なぜ」という質問ではなく、別の質問が交わされることになると、ぼくは思う。
ぼくの質問は、「なぜ」ではなく、「長い、長い漆黒の夜の経験」に直接的に向けられた質問であり、極夜の旅において「本物の太陽や本物の月」をどのように見たのかという問いである。
角幡唯介は探検という活動を「人間社会のシステムの外側に出る活動」とみなしているが、現在の近現代社会を「外側」から照射する経験に、ぼくの問いは向けられる。
この本をひらいて、まだぼくはその旅の途上にいる。角幡唯介の極夜行における直接的な経験に照準をあわせながら、ぼくはこの本を読んでいる。
本を読む旅の途上だけれども、あるいは旅の途上だからこそ、書きたくなることがある。だから、こうして、ぼくは書くのである。
「旅で人は変わることができるか?」。- 旅人「沢木耕太郎」のまなざし、それから「大沢たかお」の旅。
「旅で人は変わることができるか?」
「旅で人は変わることができるか?」
10代の終わりから20代前半にかけてのぼくにとって、とても切実に迫ってきた「問い」です。
当時の思索ののちに至った、この問いに対する「答え・応え」は、「変わることもできる」し、「変わらないこともできる(変わらない)」という、ごくごくあたりまえのものでした。
今考えてみても、このような問いの立て方であれば、そう応えるしかないことは、至極当然のことのようですが、当時のぼくにとっては、それでも、「切実な問い」であったことに変わりはありません。
その「切実さ」に賭けられていたのは、「旅で人は変わることができる」として、どのような「旅」であるのか、「旅」を方法として取り出すとともに、どのように「人」を変えるのか、あるいはどのような影響を「人」にあたえるのか、という問いでした。
18歳のときにはじめて海外を旅し(鑑真号で横浜から上海へ渡り、西安と北京・天津をめぐる旅)、また香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスへも足をのばし、さらには、ニュージーランドに「住む」という経験を経ながら、ぼくは、じぶんの身体の実感を手がかりにして「旅の方法論」をとりだそうとしたわけです。
ところで、当時読んでいた本のなかに、沢木耕太郎の著書シリーズ『深夜特急』(新潮社)があり、それは少なからず、ぼくの旅に影響をあたえたのでした。
今の若い世代に読まれているのかどうかはわかりませんが、ユーラシア大陸を、デリーからロンドンまで乗合バスでゆくという旅は、多くの人たちに影響をあたえてきたものです。
沢木耕太郎の旅(1970年代)は、インドのデリーを出発点とする予定であったのが事情により(今ぼくが住んでいる、ここ)「香港」からの出発となったのでしたが、そのことが幸福な仕方で作用し、「香港」というはじまりが、沢木耕太郎に「順化」の理想ルートをあたえ、また沢木耕太郎の旅のスタイルを形つくったのだということを、後年に書かれた沢木耕太郎自身の言葉によって、ぼくは知ることになりました。
その沢木耕太郎は、同じ著書『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)のなかで、ぼくが冒頭に挙げた「問い」にも応えています。
沢木耕太郎は、この問いに対する「応え」の結論部分を、つぎのように書いています。
旅は人を変える。しかし変わらない人というのも間違いなくいる。旅がその人を変えないということは、旅に対するその人の対応の仕方の問題なのだろうと思う。人が変わることができる機会というのが人生のうちにそう何度もあるわけではない。だからやはり、旅には出ていった方がいい。危険はいっぱいあるけれど、困難はいっぱいあるけれど、やはり出ていった方がいい。いろいろなところに行き、いろいろなことを経験した方がいい、と私は思うのだ。
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
旅は人を変えるし、旅は人を変えない。
最終的には、その「人」しだいである、という「結論」は、あたりまえの結論だけれど、肝心なことは、その結論に至るまでのプロセス、つまり経験じたいにあると、ぼくは思います。
沢木耕太郎は、自身の旅の経験を下敷きにしながらこの言葉を書いているとともに、たとえば、ほかの「事例」として、テレビドラマ化された『深夜特急』(1996年~1998年)に出演していた「大沢たかお」に触れています。
このテレビドラマが興味深かったところは、ドキュメンタリーとドラマを融合するという、その形式と内容にありました。
あるプロデューサーがあまりにも熱心であったため、テレビドラマ化の申し出を沢木耕太郎は受け入れることにし、のちに、ようやく決まった主演の、大沢たかおに出会い、そのときの大沢たかおの印象をつぎのように語っています。
私が初めて会ったときの大沢さんは、確かに背は高いが、線が細くてひ弱な感じだった。これであの苛酷な地域の旅に耐えられるのだろうかと心配になるくらいだった。しかし、考えてみれば、旅に出たばかりの私もほとんど似たようなものだったと思い返した。大沢さんもぜひやりたいと言うし…、それでは気をつけて行ってらっしゃいとロケに送り出した。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
そののち、3年がかり、三部作の大作となった『劇的紀行 深夜特急』が放映されますが、沢木耕太郎は、このテレビドラマを見ながら、驚きにとらわれることになります。
…その中の大沢さんを見て私は少し驚いた。彼が明確に変化していったように見えたからだ。…仕事としての旅を彼は自分自身のための旅と捉え直していったらしいのだ。大沢さんは、一作目から二作目、二作目から三作目と旅していくうちに少しずつ変わっていった。それは、旅の質が変わったためではないか、と私には思われた。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
大沢たかおの「変化」は、沢木耕太郎の眼にだけでなく、だれの眼にも明らかであったのではないかと思います。
少なくとも、ぼくの眼にも、明らかに感じるとることができた「変化」であり、そのことがこのテレビドラマを魅力的にした要因でもあったと、ぼくは考えます。
沢木耕太郎は、すべてうまくすすんだら、最終ロケ地のロンドンで落ち合って一杯酒を呑もうと約束していたとおり、ロンドンに向かい、そこで大沢たかおにふたたび会うことになります。
そのときに見た「大沢たかお」は、沢木耕太郎の眼に、「別人」のように見えたのであり、じぶんにたいして確かな自信をもったかのように感じたと、前掲の『旅する力 深夜特急ノート』のなかに書きながら、あわせて、日本に帰ってから大沢たかおが受けたインタビューの言葉をひろっています。
大沢たかおは、つぎのようにインタビューに応えます。
《この仕事の話をいただいた頃の僕って、力不足を認識している一方でどんどん大役が入ってきて。自分の足で歩いていない、自分が頭打ちになっているんじゃないか、その不安感から逃げ出したかったんです。未知なものを求めて、仕事をすべて投げ出して旅に出た26歳の主人公と一緒でした。
原作に、「ふっと体が軽くなった気がした」とか、「また、ひとつ自由になれたような気がした」って表現が幾度も出てくるんですが、僕も第2弾のインド・ロケをしてる頃そんな感じを強く持った。一場面一場面完成させていく度に、重い服を一枚ずつ脱いでいったような。
だから、マルセイユで身体を壊して医者から帰国を命じられた時も、撮影を止める気はなかったですね。ここで散るなら散るでいいかなって。》沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
この言葉に耳をすませながら、大沢たかおの「変化」についても、そしてテレビドラマの魅力についても、ぼくは心の深いところで納得がいくような気がしました。
そして、やはり、「旅で人は変わることができるか?」ということへの、ひとりの人間の<応え>を見ることができたのだと思います。
つまり、沢木耕太郎が書いたように、「旅」にたいする、その人の対応の仕方ということをです。
それにしても、『劇的紀行 深夜特急』をいっそう魅力的にしているのは、井上陽水が歌う主題歌(「積み荷のない船」)であると、ぼくは思ってやまないのですが、いかがですか?
沢木耕太郎『深夜特急』の旅のはじまりとしての「香港」。- 沢木耕太郎にとっての<香港>。
作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。
作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。
日本をはなれ「世界を旅する」人たちの多くにとって、バイブル的な本として位置づけられていた本である。
26歳の沢木耕太郎がインドのデリーから乗合バスをのりついでロンドンをめざすユーラシア大陸の旅をもとに書かれている。
大学時代、ぼくのアジアへの旅にも、この『深夜特急』の旅は影響を少なからず与えていたものだ(また、旅先で、さまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を生きる人たちに出会い、あるいはさまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を否定する人たちに出会った)。
くわしくは小説に書かれているけれど、沢木耕太郎の旅は、いまぼくが住んでいる、ここ「香港」からはじまることになった。
後年、沢木耕太郎は、『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社)という著書のなかで、「香港」という、旅のはじまりについて、つぎのように振り返っている。
このユーラシアへの旅には、いくつもの思いがけない幸運が訪れてくれたが、その最初にして最大のものは、第一歩が香港だったということである。
それはやがて書くことになる紀行文にもあるとおり、本当に訳のわからないまま、九龍にある連れ込み宿風のホテルに長期滞在することから始まった。沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
この「九龍にある連れ込み宿風のホテル」は、その後、バックパッカーの宿として有名になった「重慶大厦」(チョンキン・マンション)である(この建物のなかに幾多もの宿がひしめきあっている)。
「重慶大厦」は、改装され、その外観を新たにしたが、今も健在である。
1995年にはじめて香港を訪れたぼくが目指したのも「重慶大厦」で、そのときの香港・広州・ベトナムの旅のはじまりと終わりに、ぼくは「重慶大厦」のなかの宿を拠点として、香港の街を歩いたのであった。
沢木耕太郎は、当時の香港の旅について、つぎのように書いている。
香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。しかも、筆談によって、あるていど互いの気持ちが通じ合える。自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
のちになって理解することになるのだが、香港から東南アジアを経てインドに入っていくというのは、異国というものに順応していくのに理想的なルートだったかもしれない。…沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
沢木耕太郎の「旅」、それは1970年代の旅で、それから40年ちかく経過してもなお、ここ「香港」は、「無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気」がこもっている(ながく香港に住んでみると、この「熱気」に耐えられなくなるときもあるけれど、やはりこの「熱気」が香港の動力なのだ)。
都市化の進展で、ショッピングモールが増えるなどして食事事情は変貌をとげてきたと思うのだけれど(そして値段は「安い」とは言えなくなってしまった)、それでも、ヴィクトリア湾をつなぐフェリーは「素晴らしいクルージング」だと楽しむことはいまもできるし、香港に10年以上住んでみても、「素晴らしいクルージング」だとぼくは感じることができる。
ところで、沢木耕太郎は、「香港をはじまり」とするルートを、<順化>という視点において理想的だったかもしれないとふりかえっている。
「旅」ということであれば(もちろん「旅」になにを求めるかにもよるけれど)、香港をそのように位置づけることもできるだろう(「住む」となったときは、人によっては「逆」かもしれない。香港の「便利さ」を胸に、たとえば東南アジアやインドに移り住むというルートがよいかどうかには、いろいろと留保があるだろう)。
とはいえ、これも人それぞれであり、場所への適応の仕方それ自体が、その人を特徴づけるものである。
ともあれ、沢木耕太郎の「深夜特急」の旅においては、この<順化>が、とても幸福な仕方で機能したということは、沢木耕太郎自身が明確に意識をしているところだ。
香港が、<順化>ということにおいて機能したことに加えて、沢木耕太郎は、ここ香港で獲得したものに大きな意義・意味を与えているようだ。
香港で旅の第一歩を踏み出したことは、「順化」だけでなく、その後の旅にとって決定的な意味を持ったと思われる。香港に滞在しているうちに私の旅のスタイルがほぼ決まることになったのだ。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
そうして挙げられているのが、たとえば、「記録」であり、「街歩き」である。
「記録」においては、日本から持っていった大学ノートの書き方を、左頁に「その日の行程と使った金の詳細」、右頁に「心覚え風の単語やメモや断章」を書くことを、香港に到着した一日目に決めたのだという。
また、「街歩き」では、「ガイドブックなし」という方法を香港で適応し、そののちもこの方法で街を歩くことで、新鮮な驚きを獲得しつづけたのだと、沢木耕太郎は書いている。
こんなふうに、沢木耕太郎は、ここ香港で、順化の最初の一歩、記録の方法、街歩きの方法という、旅における<大切なもの・こと>を手にしたのであった。
しかし、このように言葉として抽象的に取り出してしまうと、これらの獲得は必ずしも「香港」である必要はないものであるように見えてくるのだけれども、旅というものは、そんな抽象性を、旅を生きる具体性のなかに融解してゆくことがあり、26歳の沢木耕太郎にとっては、香港での滞在が決定的な意味をもつものであったのだろう。
それは、ぼくにとっての最初の旅が1994年の上海(上海から西安、そして北京・天津)であったこと、そしてその旅がいくぶんなりとも、ぼくの旅のスタイルを決定したものであることからも、実感として感じとることができるのである。
じぶんの「世界の○○な場所」の地図をつくる。-「The World's Greatest Places 2018」(TIME誌)の特集を読みながら。
「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)という特集が、TIME誌2018年9月3日号/10日号に掲載されている。
「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)という特集が、TIME誌2018年9月3日号/10日号に掲載されている。
副題には「100 Destinations to Experience Right Now」(今体験すべき目的地100)と付され、「新しい」目的地として100の行き先(博物館、公園、レストラン、ホテルなど)が厳選されている。
選定の基準として、クオリティ、オリジナリティ、創造性、持続可能性、影響が挙げられている。
特集の見開きページに写真と共に掲載されている、中国の天津の図書館「Tianjin Binhai Library」は、「A Haven for Book Lovers」と書かれるように、本好きのぼくにとってはとても魅力的だ。
それから、ここ香港からは「3箇所」(ホテル、レストラン、文化的施設)が選ばれている。
今の「新しい行き先」が選ばれているとおり、まだ、ぼくも行ったことがない(機会を見つけて、そのいくつかには行ってみたいと思う)。
いわゆる「定番」の行く先ではなく、「今体験すべき」行き先を眺めるのは(行くことはできなくても)楽しいものだ。
ひとつには、やはり「今」がきりとられていて、変わりつつある世界を少しでも感じることができる。
100の目的地すべてに行くことはできないから(「不可能」ではないけれども)、写真や文章などで「知る」ことは、大切な手段である。
ふたつ目には、じぶんではない他者たちの「お勧め」に、じぶんでは見つけることができなかった/知ることができなかったような場所が取り上げられていることである。
やはり、じぶんの「検索」だけでは視野が狭くなってしまう。
視野をひろげようと思って、普段しないような「検索」をしても、それでもそれほどひろがりを持てないかもしれない。
だから、他者たち(ここではTIME誌の編集者たち)による「お勧め」は、「じぶんの検索」幅を、じぶんが思ってもしなかったような仕方でひろげてくれる。
みっつ目には、「100の目的地」のトレンドやコンセプト、またそれらの「選定基準」というメガネは、今の<時代>のあり様、それから未来の萌芽を見てとるのに「参照」となる。
例えば、選定基準に、持続可能性(sustainability)や創造性(innovation)が含まれていて、その視点で選ばれた場所を知ることから、<時代を読むこと/考えること>ができるのだ。
このように特集を楽しく読みながら、他方で、じぶんにとっての「世界の○○の場所」という<地図>を、じぶんの体験・経験のなかにつくってゆくことが楽しいことだとも思う。
「○○」は、じぶんにとっての基準やテーマが入り(TIME誌のように「Greatest」も候補のひとつである)、その視点から「選定基準」もかんがえてみる。
また、ここでの「世界」とは、この地球ぜんたいというよりも、<じぶんの生きる世界>のことであり、ローカルな世界でもよい。
挙げる数はいくつでもよいけれど「100」とするのもひとつである。
「100」という数は、思っている以上に多く、列挙してゆくのは大変だけれども、その分飽きない数だ。
そんなふうにして、じぶんの「世界の○○の場所」の地図をつくってゆく。
TIME誌の特集「The World's Greatest Places 2018」を読みながら、そんなことをやってみようと、ぼくは思う。
登山家の栗城史多の語る「旅」。- 「うまくいかないことって、実は意外と楽しい」(栗城史多)。
「旅」について、ほんとうに残念ながらエベレストで帰らぬ人となった登山家の栗城史多が、その著書で書いている。
「旅」について、ほんとうに残念ながらエベレストで帰らぬ人となった登山家の栗城史多が、その著書で書いている。
著書『弱者の勇気』(学研、2014年)のなかで、テーマ別の短いエッセイを集めた章で、「旅」にかんする文章を綴っている。
「無駄」というテーマのもとで、「旅」にふれる。
「無駄」という、一見するとマイナスな言葉のなかに、<光り輝くもの>を見つける視点である。
…でも旅の面白さって、実は無駄な部分にあったりするんじゃないだろうか。
例えば、列車が途中で止まってしまい、蒸し風呂のように暑い車内で一日過ごしたり、目的地までの道が崩れて迂回するはめになり、悪路を歩かされて大変な目にあったり。炎天下の中、自転車で移動したら迷子になった、とか。
…
のちに旅を振り返ってみたときに思い出されるのは、意外とこうした無駄な経験だったりするのだ。
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
栗城史多は「無駄」な部分として語っているけれど、ここで語られる経験はまた、「途方に暮れる」経験であったり、「大変な」経験であったりする。
このような「無駄な経験」がのちに振り返って思い出されるのは、その経験の深さに印象づけられるためであったり、<じぶん>の枠を超えてゆくようなものでああるからであり、そしてまた、その経験のうちに、ほんとうは心が奪われているからでもあったりする。
列車が途中で止まってしまったり、道が崩れていたり、悪路であったり、迷子になったりするところから、ほんとうの「旅」がはじまる。
「入っては駄目」と言われていた扉をあけたら素晴らしい世界がひろがっていたという童話などと同じく、「無駄」という標識の扉も、じっさいにあけてみて、中に入ってみたら、想像以上の世界がひろがっていたりする。
だから、栗城史多は、「無駄」というテーマの短いエッセイで、「うまくいかないことって、実は意外と楽しい」と、文章の最後に書いている。
山も同じで、写真で見るよりも自分の足で立って見る景色のほうが感動するし心に残る。目に見える世界を簡単に見ようとするのではなく、自分の心に刻みこめる世界。そういうものを僕は感じたい。
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
山登りということも、「山の頂上に登る」という結果だけからかんがえれば、それは「無駄」なことである。
人類は、山を登ることの代わりに、飛行機などを発明し、あっというまに効率的に、またリスク少なく、苦しむこともなく、山の頂上の高さまで飛翔できる。
そしてそこから、高性能なカメラを通じて、美しい景色をきりとることができる。
そのことに比べ、危険を冒し、一歩一歩、山を登ってゆくことは「無駄」なことである。
しかし、そのなかに、「生きる」ということの歓びの本質があったりするのだ。
ぼくも、ニュージーランドに住んでいたとき、徒歩縦断の試みや山登りなど、効率性の観点からは、いわゆる「無駄」と呼ばれる時間を生きていた。
アジアの旅だって、バスを乗り継いだり、陸で国境を越えたり、「無駄」な時間の積み重ねであった。
けれども、そのような経験たちが、ぼくの存在の地層を確かにつくってきたのだし、そして、栗城史多が書いているように、のちに旅を振り返ったときに思い出すことの多くは、やはりそのような思い出だったりする。
効率性を追求してきた近代社会の果てに、ぼくたちは「無駄」を見直す時代にはいっている。
もちろん効率性の追求は新たなテクノロジーの出現によってさらにすすんでいるのだけれど、それはすでに「次元」をいくつも上げながら、すすんでいる。
それらのような効率性の追求は、決して否定されるものでもない。
ただ、ぼくたちそれぞれの生きるという経験のぜんたいにおいては、「効率ー無駄」という区分を超えるようなところにも、その経験の深さと豊饒さがひろがっている。
次なる時代は、この経験の深さと豊饒さが解き放たれていく仕方で、ひらかれていくと、ぼくは思っている。
香港で、「啓徳空港」の跡地(クルーズ・ターミナル)に「歴史」を見る。- 想像力が飛び立っていくところ。
香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
啓徳空港は、20世紀の香港の歴史をかけぬけてきた空港でもある。
1998年に閉港され、跡地は、現在では「啓徳クルーズ・ターミナル」となっている。
ぼくが初めて香港を旅したのは、1995年の夏のことであった。
成田空港からユナイテッド航空にのって、当時はイギリス領であった香港の地に、ぼくは降り立った。
中国への返還の2年前のことで、当時は、まだ啓徳空港が使われていた。
ぼくにとっては、初めての空の旅であったし、初めて降り立った海外の空港であった。
この旅の前年に、ぼくは中国を旅していたけれど、行きも帰りも、いずれもフェリーの旅であった。
そういうことで、啓徳空港は、ぼくにとって思い出深い場所であり、20年以上が経過して、ぼくはその跡地をふみしめることにした。
九龍湾と呼ばれる駅から、ミニバスにのって、10分ほどで、「啓徳クルーズ・ターミナル」に行くことができる。
クルーズ・ターミナルの細長い施設が、跡地に、悠然と建てられている。
ミニバスで跡地の道のりを確かめながら、こんな小さな場所に空港があったことを、ふたたび感じさせられる。
啓徳空港は、滑走路はひとつで、市街地につらなる場所に位置し、着陸がむずかしい場所であったことを、ぼくは啓徳空港に着陸しながら/着陸して、知ることになる。
1995年、ユナイテッド航空の窓から香港の夜のネオンを間近に見ながら、機体が大きく旋回しながら、まるでジェットコースターのように滑走路に降り立っていったのだけれど、着陸と同時に沸き起こった、乗客たちの歓声と拍手に、ぼくは啓徳空港というものを知らされることになったのだ。
今もYouTubeなどの動画で啓徳空港の様子を見ることができるけれど、なかなかスリリングな着陸を、ぼくたちは映像で確認することができる。
タイミング的なものか、静まりかえった「啓徳クルーズ・ターミナル」を歩きながら、かつての啓徳空港のイメージが、ぼくのなかで重なってくる。
かつての啓徳空港の名残は、クルーズ・ターミナルの細長の形態にしか見られないくらいだけれど、何もない跡地にだって、ぼくたちは「歴史」を見ることができる。
日本にいるときには、城跡など、ただ草むらしかないような跡地に、ぼくは古き戦国の世を見ることだってできたのだ。
啓徳空港には20年以上前に「実際に」来たのであり、ぼくはありありとしたイメージの断片を呼び起こしながら、そこに「過去」を見ることができる。
ただし、ぼくの記憶のなかには、啓徳空港の空港内の記憶はかなり薄れている。
滑走路に降り立ったところの次に来る記憶は、空港のバス停で、香港の街に出るバスに乗るときのことだ。
宿も決めておらず、街の名前もまったく知らなかったぼくは、夜10時頃の空港のバス停で、西洋人のバックパッカーたちが乗るバスに乗り込んだのであった。
そんな、夜の空港のバス停が、ぼくの記憶に残っている。
「空港」という場所は、いつだって、ぼくたちにとって特別な場所となりうる。
人が、出発する場所であり、帰ってくる場所である。
あるいは、新しく降り立つ場所であり、次なる場所に向かう中継場所である。
現実の場所としてそうありながら、また、ぼくたちの「物語」や「想像力」が、飛び立っていくところでもある。
啓徳空港の跡地から、ぼくはどこに飛び立っていこうとしているのだろうか。
旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- そして、「旅の後」に、旅を感じる。
旅は、旅の「前」に、はじまる。
旅は、旅の「前」に、はじまる。
旅は、途上で、例えば<途方に暮れる>経験を軸に、その先におもわぬ宝物の箱をひらいてみせてくれる。
そして、旅は、やがて、おわる。
でも、旅はおわっても、旅の情景は記憶として、また<じぶんの地図>として、じぶんのなかで新たな場所を得ることになる。
小説家の村上春樹が書く極上のエッセイをまとめた本に、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)がある。
「ウィスキー」を中心テーマに、スコットランドのアイラ島、それからアイルランドと、ウィスキーの聖地巡礼の旅を、村上陽子の素敵な写真とともにエッセイとして綴られた、素敵な本だ。
「あとがき」で、村上春樹は、東京のバーでシングルモルトを飲むとき、そこに、アイラ島の風景がわかちがたく結びついていることを書いている。
アイリッシュ・ウィスキーも、同じように、アイルランドの風景に結びついている。
…どこかでジェイムソンやタラモア・デューを口にするたびに、アイルランドの小さな待ちで入ったいろんなパブのことを思い出す。そこにあった親密な空気と、人々の顔が頭の中によみがえってくる。そして僕の手の中で、ウィスキーは静かに微笑みはじめる。
旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。人の心の中にしか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なものを、旅は僕らに与えてくれる。そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
村上春樹は、「人の心の中にしか残らないもの」を与えてくれる旅に、「旅はいいものだな」と感じる。
「いいものだな」とは、効用や効果やメリットということを超えた、生きていること自体の歓びのような感慨である。
そして、「そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるもの」と、村上春樹は、付け加えている。
旅の途上ではなく、旅の「後」で、ぼくたちは気づくことになる。
だから、旅の「後」を楽しむとは、ただそのときの思い出を楽しむということではなく、気づかなかったことの思い出を、今の時間のなかで楽しむことでもある。
そして、その「後」は、まったく思ってもみないほど「後」に、やってくることがある。
10年や20年という後にやってくることだってある。
今住んでいる、ここ香港の街を歩きながら、1995年に香港に初めて来たときの「あの旅」が、20年以上のときを超えて、ぼくの今の心象風景に、ふと、やってきたりする。
そんなときに、旅はいいものだなと、ぼくは思う。
旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- 旅の途中で、「途方に暮れる」とき。
旅は、旅の「前」から、その楽しみがはじまる。
旅は、旅の「前」から、その楽しみがはじまる。
目的地を立てながらルートをかんがえたり、あるいは「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく(黒川伊保子)ことだってできる。
そんなふうに楽しみにしていた旅は、やがて、はじまる。
楽しみにしていた旅がひらいていく過程に、ときに、ふしぎな感覚をおぼえたりする。
予定・計画していた場所に行き、食べ、見て、体験する。
世界が新鮮に開示してくる。
写真や動画で見ていた世界に身体をさらしてみると、違った世界が、五感を通じて感じられる。
そんなふうにして感じた世界が、じぶんのなかに「地図」として、はいってくる。
旅は一人旅もあれば、二人旅もある。
それなりの人数で行く旅もあるけれど、旅は、やはり、「途方に暮れる」というところから、旅らしくなってくる。
予定や計画が、旅のなかで、立ち行かなくなってしまう。
<じぶんがかんがえていたこと・予測していたこと>が、現実の旅のなかで行き詰まり、その状況において、<じぶんが超えられながら超える>という体験がおきてくる。
創る旅が、「創られながら創る旅」へとひらかれ、じぶんが超えられてゆく。
ぼくが、今住んでいる香港に、旅としてはじめて来た1995年。
宿も何も決めない行き当たりばったりの旅(そんな旅をしてみたかった)。
空港からバスにとびのって街で降りたのはいいけれど、目指していた場所にも着けず、バックパックを背負って深夜の香港の街で途方に暮れる。
そんな「途方に暮れる」ところから、旅ははじまる。
じぶんが乗り越えられていく。
社会学者の真木悠介は、「ほんとうの創造」という体験を、フランスの思想家バタイユにヒントを得ている。
…創造するということは、「超えられながら超えるという精神の運動なんだ」と。つまり、ほんとうの創造ということは、創るということよりまえに、創られながら創ることだと。…ぼくらは、近代的な芸術を批判するものとして、バタイユを読み返すことができると思う。近代的な芸術というのは、個性の表現とか主体の表現ということがあって、…バタイユは、そういうのは、いわば貧しい創造に過ぎないのであって、ほんとうの創造は、自分自身が創られるという体験から出てくるのがほんとうの創造なんだということを、半分、無意識に言っていると思うんです。
真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること』(太郎次郎社)
真木悠介は、このあとのところで、自身のインドの旅の経験、まさに「途方に暮れる」旅の経験を語っている。
芸術にかぎらず、この「創られながら創る」ということは、ほんとうの創造が現出するときのエッセンスであるように、ぼくは思う。
あるいは、生きるということそれ自体が「芸術(アート)」であり、個性の表現とか主体の表現という一方向性の生き方を、「超えられながら」超えるところに、<生きることの芸術>がひらかれていくのだとも、いうことができる。
「超えられながら超える」旅、あるいは「創られながら創る」旅は、その旅の途上において、快適ではない。
「途方に暮れる」とは、どうしてよいかわからなくなる経験であり、道に迷うことだ。
ただし、そのような旅は、その先に、思ってもみなかった宝物をぼくたちに与えてくれる。
だから、じぶんと他者と世界を信じて、旅の途上の一歩一歩を、楽しみながら、歩くだけである。
旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- まずは、「旅の前」の楽しみから。
旅は、時間の流れから見てみると、旅の「前」「途中」「後」と、それぞれに異なる仕方で、ぼくたちの生を祝福してくれる。
旅は、時間の流れから見てみると、旅の「前」「途中」「後」と、それぞれに異なる仕方で、ぼくたちの生を祝福してくれる。
旅の「途中」だけでなく、旅立つ前からの一連の流れにおいて、旅の楽しみに充ちている。
旅の「前」を楽しむことは、格別である。
でも、それは、人によっても、旅の前の「楽しみ方」は異なってくる。
ぼくがアジアを一人旅していたときなど、目的地とそこに至るルートなどを計画しながら、楽しんだ。
それはとてもワクワクするものであった。
今では、それは男性脳的な「目的・ゴール志向」の楽しみ方であるかもしれないと、思ったりする。
女性脳の持ち主の女性とともにする旅であれば、男性脳の持ち主は黒川伊保子のアドバイスも聞いておきたい。
脳の性差にかんするエッセイストでもあり、人工知能エンジニアでもあった黒川伊保子は、「女性脳のトリセツ」を語るなかで、(旅に限られることではないけれど)「女性脳は、「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく」ということに触れている。
感性のひも付けを手操って、関連記憶を臨場感たっぷりに想起する女性脳は、未来への想念においても、それを応用する。だから、少し先の楽しみが、女性脳にはとても嬉しいのである。
「梅雨が明けたら、美味しいビールを飲みに行こう」「今年の冬は、北海道に蟹を食べに行こうか」などと誘われたら、何を着て、何を見て、何を食べて、どうふるまうかを、断片的に想像しては期待感を増す。
黒川伊保子『キレる女 懲りない男ー男と女の脳科学』ちくま新書、2012年
このように、「少し先の楽しみ」をともに楽しんでいくところに、旅の前の楽しみのひとつがある。
「少し先の楽しみ」は、別に大げさなことではなく、「今週末、うちでご飯食べない?」などの女友達の誘いでもよいと、黒川伊保子はこの文章のあとに書いている。
生きるということの「楽しみ方」として、このことはとても大切なことを教えてくれてもいると、ぼくは思う。
ちょっとした予定とちょっと気の利いた言葉だけで、世界は、あかるい色に照らされる。
それにしても、「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく、という響きはとてもすてきだ。
ここ香港に住んでいて、電車のなかやカフェや本屋さんで、女性の方々が日本旅行のガイドブックをひらいているのを目にしたりする。
視線はとても真剣であるけれど、他方で「少し先の楽しみ」の世界を楽しんでいらっしゃるのかもしれない。
ぜひ日本を楽しんでほしいと、ぼくは勝手に思ったりする。
1週間の旅であっても、それは1週間だけの旅ではない。
旅は、いつだって、その前からはじまっているし、旅が終わっても、その旅のうちにあって心をうばうような経験は、その後もぼくたちの生を照らしていく。
そんな旅の作法において、旅を楽しんでいくことも、方法のひとつである。
旅することで、「地図」が、からだのなかにはいる。- <じぶんの地図>をつくっていくこと。
情報通信テクノロジーの発達によって、世界中の画像と動画とニュースに、いつでも、どこでも、ぼくたちはアクセスできる。
情報通信テクノロジーの発達によって、世界中の画像と動画とニュースに、いつでも、どこでも、ぼくたちはアクセスできる。
VRや360度動画などを駆使すれば、ほんとうに、その場にいるような錯覚さえ覚える。
そんな時代に生きながら、それでも、この身体で、実際に旅することは、異なる体験である。
この身体は、どれだけ画像と動画を見ていても、実際にその場にいくと、五感をひらきながら、その場を感じる。
その場の空間にひろがるにおいを感じ、空気の流れを肌で感じ、空気の質感を全身で感じ、さまざまな音をきき、そこの<全体感のようなもの>を、身体の全体感のようなもので感じる。
そして、実際に旅することで、「地図」が、ぼくのからだのなかにはいるように、ぼくは思う。
10代の頃、学校の地理の授業で、地図帳を前に、あるいは地球儀を前に、地域や地名をおぼえていた。
でも、これが、なかなかむずかしい。
地域や地名の「位置感」が、頭のなかにしっくりとはいってこない。
そんな経験を、ぼくはおぼえている。
それが、大学に入ってから、例えば、アジアを旅しながら、ニュージーランドに住みながら、また働くようになってアフリカに行くようになってから、「地図」が、ぼくのからだのなかにはいるようになった。
なんの苦労をすることもなく、「地図」が、ぼくのからだの体感としてきざまれていったのだ。
アジアの旅では、中国本土を電車やバスで旅しながら、またタイ・ラオス・ミャンマーという国々の国境をこえながら、さらにベトナムをバスと電車を乗り継ぎながら縦断していって、ぼくは「地図」をからだのなかにとりこんでいく。
今住んでいる香港にいても、そうである。
香港という限られたところでも、実際にその場に行ってみないと、やはりわからないことは多いし、香港の「地図」がからだにはいってこない。
実際にあちらこちらに足をはこんで、この身体をさらしてみることで、香港の「地図」が、ぼくのからだのなかに、ぼくのフィルターと物語を通して、ぼくのなかにはいってくる。
そんな風にして、ぼくのなかに<香港の地図>が、つくられていく。
あるいは、<世界の地図>が、ぼくのなかに、リアリティをもって、つくられていく。
そのような<地図>はリアリティのほんの断片であることも承知しているし、また人によっても感覚の仕方は異なることも承知だけれど、ぼくにとって、それはとても大切なことであるように思うし、生きるということのしあわせな一面であるようにも思う。
そのような<地図>があると、その地域やその場所のニュースをきいたときに、ぼくはじぶんの地図を重ね合わせながら、ある種の現実感(リアリティ)をじぶんのなかで組み立てる。
出来事の一面しか伝えることのないニュースに、そこにひろがりをつくりながら、読み解き、感じる。
じぶんの地図が「正しい」わけではないし、それも一面であるだけだけれど、その感覚が体感としてあるだけで、ぼくのなかに、余裕ともよべる空間ができる。
とくにニュースがなくても、日々生きているなかで、ぼくは思うことになる。
あぁ、あそこの人たちも、この地球のあの場所で、ぼくと同じときを生きているんだ、と。
そう思うだけで、ぼくの心は温かくなったりする。
海外に「どれくらい住んでいるか」ということをめぐる体験。- 「滞在期間の相対性」を超えてゆく。
海外に住んでいると、「どれくらい住んでいるのですか?」「来て、どのくらいになりますか?」という質問が、会話のなかで交わされたりする。
海外に住んでいると、「どれくらい住んでいるのですか?」「来て、どのくらいになりますか?」という質問が、会話のなかで交わされたりする。
そのような質問が交わされる理由として、ただ「相手を知る」ことや会話の進め方を見定めていくための情報収集ということがある一方で、ときおり、「滞在の長さ」を前提とした「相手の意見等の見定めるための<メガネ>」となってしまうようなことがある。
長い滞在をよしとする、滞在の長さの競い合いのような様相だ。
「来て●ヶ月(●年)じゃ、…だよね」というような応答のなかに、優越の響きが聴こえ、聴いている方としては肩身の狭い思いをしたりする。
そのような肩身の狭い思いの経験があるから、ぼくは、このような質問を相手に投げかける側になる場合、「ぼくが尋ねているのはそんな優越のためなんかではなくて、話をしている相手のプロフィールを知るための情報のひとつとして聴いているのですよ」という話し方と声の響きとなるように、気をつけたりする。
「滞在の長さ」ということに戻ると、それはとても相対的なものだ。
どれくらいの期間をもって「長い」と言うのかは、比較対象の長さによってしまう。
ぼくは香港に住んでまもなく11年になるけれど、11年なんて、20年や30年あるいはそれ以上いる方々にとってみれば、なんでもない長さである。
社会学者の真木悠介(=見田宗介)はメキシコに1年ほど滞在していたときのことを、次のように書いている。
旅をする人の観察について、永く住む者の目からは「よく分かっていない」というような批評を目にすることがある。わたしは直感的に、それをイヤミな言い方だと思うことがある。わたし自身、メキシコに1年位いた時に、数日だけ日本から訪れてきてメキシコのことを語ったり書いたりする人のものを、表面的だと思ったこともある。けれども10年位も前にメキシコ人と結婚してメキシコに住みついているT教授などの目からみるなら、1年しかいないわたしの観察など、数日間の旅行者のそれと同じだろう。…
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
真木悠介は、さらに、「22歳かにペルー経由でメキシコに来て50年以上になるという…わが敬愛する大老人」を挙げて、大老人(荻田さん)のただ一つのわるいくせは、10年位しかメキシコにいないT教授のような人も、「何も分かっとらん」ということであったことを書いている。
…その荻田さんだって、先祖代々のメシーカ族の子孫からみれば「旅の人」みたいなものなのに!
そうして旅の人にしかみえない真実というものもある。…
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
真木悠介のとる「時間軸」は、とてもひろい。
「先祖代々のメシーカ族の…」と書く真木悠介の時間軸は、この「先祖代々」というようにひろがってゆく時間に向けられているようにぼくには聴こえ、一人の人間が生きる生涯ほどの時間は、まるですべての人が「旅の人」であるかのように感じさせるところがある。
香港も、香港に長くいることで、見えてくるものもあるように思う。
少なくとも、ぼくにとっては、すぐには見えないこともあった。
しかし、旅人や短期滞在者だからこそ見えるものもある。
旅人や短期滞在者の見たものあるいは語るものが、表層的であるかもしれない。
ただし、長くいることで見える深いものごとも、見方が偏見化され固定化されてしまい、別のものを覆い隠してしまうかもしれない。
「滞在の長さ」は、その土地や環境を知るための、あくまでも、要素のひとつでしかない。
大切なことは、海外というその土地や環境に、じぶんがひらかれる仕方であり、視点や視野の豊饒さと持ち方であり、またオープンさと見方の組み合わせによる柔軟性である。
そしてそのように外部にたいしてひらかれながら(また同時にじぶんにたいしてひらかれながら)、どのようにそこの環境において他者とかかわってゆくのかということが、滞在の長さにかかわらず、大切なことのように思う。
柳田国男の「生の基底」のような旅(真木悠介)。- 旅人の気もちと視力につらぬかれる生。
民俗学者の宮本常一のノート「野帖」が、研究のための旅も、シンポジウムでの対話も、読書も、宮本常一にとって旅のようなものとしてあったことを、シンポジウムなどで隣席となった社会学者の真木悠介は、<旅の方法としての学問>というように書いている。
民俗学者の宮本常一のノート「野帖」が、研究のための旅も、シンポジウムでの対話も、読書も、宮本常一にとって旅のようなものとしてあったことを、シンポジウムなどで隣席となった社会学者の真木悠介は、<旅の方法としての学問>というように書いている(真木悠介『旅のノートから』岩波書店)。
また、真木悠介は、官僚さらに民俗学者であった柳田国男にとっての「旅」も、同じ方向性においてとりだしている。
柳田国男が晩年に朝日新聞社に招かれた時、年に2ヶ月は旅行をするために休暇をほしいという条件を出して、「客員」という形式にしてもらったという。旅はそれほど、柳田の学問だけでなく生の基底のようなものであった。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
真木悠介は、柳田国男の名著『遠野物語』に付された折口信夫の「解説」にふれ、「…まして二十年前、若い感激に心をうるまして、旅人は、道の草にも挨拶したい気もちを抱いて過ぎたことであらう」と、遠野を歩いていた柳田をおもいうかべる折口信夫共々、生の基底のようなもとして「旅」というものがあった二人の呼応する生を見ている。
宮本常一にとって読書も「旅のかたち」であったと真木悠介が言うのと同じく、柳田国男にとっても読書も「旅のかたち」のようなものとしてあった。
柳田国男は「読むこと」について、次のように書いている。
本を読むということは、大抵の場合には冒険である。それだから又冒険の魅力がある。…
柳田国男『書物を愛する道』青空文庫
柳田国男、折口信夫、宮本常一という、日本の民俗学を牽引してきた知者たちの生の基底に「旅」を見てきた真木悠介は、このようにして、自身の「旅」を、生きることの基底のようなものとしている。
1973年、30代半ばで初めての海外としてインドを旅した真木悠介は、その後も、インド、メキシコ、アメリカ、ヨーロッパなど、海外への旅を続ける。
著書『旅のノートから』(岩波書店、1994年)という美しい書物には、1973年のインドから、1991年のスペインにいたるまで、真木悠介の旅の軌跡を見ることができる(真木悠介は、1978年に、ぼくが今いる、香港に来ている。「香港」をどのように見たかについてはどこにも書かれておらず、直接お伺いしたいと、ぼくは思う)。
真木悠介にとっての「旅」は、彼の著作の内容や文体へ影響してきたと言えるし、また学問のあいだの境界や学問という世界をとびこえてしまう生き方と伴奏してきたようなところがある。
真木悠介(見田宗介)の方法である「比較社会学」の「比較」は、海外のそれぞれの文化や社会のあいだの「比較」という空間を行き来する視点を用意しながら、それはさらに「近代と前近代」などというように、異なる時間を行き来する<比較>をも方法として獲得してゆく。
これらの方法論は、はじめから、そして意図的に、「生き方」の発掘をめざしている。
ぼくは、「生の基底」のような旅に、強くひかれる。
民俗学者・宮本常一の「ノート」。- <旅の方法としての学問>(真木悠介)。
勉強ができる人やビジネスで活躍している人の「ノート術」や「メモの取り方」などが書籍化されたり、インタビューなどの記事で取り上げられたりする。
勉強ができる人やビジネスで活躍している人の「ノート術」や「メモの取り方」などが書籍化されたり、インタビューなどの記事で取り上げられたりする。
このようなライフハック的な方法はおもしろいものである。
さらに気になったりするのが、いわば「深い仕事」をしてきた人たちの、その「ノート」である。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートは公開されていて興味深いものである。
社会学者の真木悠介は、名前の姓が近いことから、シンポジウムなどで隣席となる民俗学者の宮本常一の「ノート」の話を書いている(真木悠介『旅のノートから』岩波書店)。
ノートには「野帖」と太い字で書かれていて、旅先で出会われたことを書き込んでいるという。
真木悠介は文化人類学の「field note」と同じようなもので、「野帖」はこの英語の日本語訳であったかもしれないと思ったりする。
民俗学を深めていった宮本常一の、<学問の方法としての旅>が、そのなかにつめられている。
真木悠介は、シンポジウムをともにしながら、そこに<旅の方法としての学問>という見方、そしてそのような生き方を提示している。
宮本常一氏の「野帖」には、国際的なシンポジウムの報告もまた旅の記憶と同じ筆致で記入されていた。ベトナムの小さい村々に夜がどのような仕方でやって来るか。等々。宮本氏にとって、シンポジウムの対話も旅であり、読書もまた旅のかたちであったはずだ。
…<旅の方法としての学問>というものもある。学問は旅の一形態である。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店, 1994年
「野帖」は、学問(民俗学)のための旅の記録に限らず、そのような狭い世界をつきやぶるようにして、「生きるということの旅」の記録として、宮本常一にとってあった。
思えば、アジアやニュージーランドの「旅」を通じて、ぼくがようやく「生きる」ということ、そして「学ぶ」ということに正面か立ち向かっていったとき、ぼくの「ノート」は、すべてが「同じ筆致」で記載されていた。
香港やベトナムなどの旅先で書いた日記、国際的なシンポジウム(経済学者アマルティア・センなど)を聞きにいったときのメモ、ときおりの日記、読書からの抜粋などが、ひとつのノートにおさめられていた。
学ぶことも、読書も、日々の考えや悩みも、それらが「生きるということの旅のノート」ともいうべきノートにつまっている。
そのようにしてノートに書きつけていたのは昔のことで、最近は、もっぱら、スマートフォンやパソコンにノートしている。
手書きのよさは捨てきれないから、電子ペン(Apple Pencil)をときおり使うなどしている。
生きるうえでの「マテリアル」はなるべくスリム化したいと思いながらそうしているけれど、一方で「生きるということの旅のノート」を、ボールペンで書きつけていきたいという欲望も捨てきれずにいて、ときおり、ボールペンを手に、メモを書いたりしている。