吉本隆明の「声」に、耳をすます。- ほぼ日「吉本隆明の183講演」の、はるかな宇宙。

糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)のアーカイブに、「吉本隆明の183講演」という、心躍らせる講演アーカイブがある。

「1960年代から2008年の「芸術言語論」に至るまでの思想家の吉本隆明さんの講演をできるかぎり集めてデジタルアーカイブ化したもの」(ほぼ日「吉本隆明さんの講演について」)である。

思想家・詩人・文芸批評家の吉本隆明(1924年~2012年)は今の大学生の世代にはあまり知られておらず、また読まれていないと推測するけれど、思想家として多くの人たちに影響を与えてきた「巨人」である。

ちなみに、作家のよしもとばななは、吉本隆明の次女である。

ぼくは20年以上前に、大学に在籍していた折、社会学者の見田宗介、作家の辺見庸などを読んでいて、「吉本隆明」の名を知るようになった。

吉本隆明の著作も『共同幻想論』や『心的現象論序説』や『宮沢賢治』などを手にとってはみるのだけれど、吉本隆明の世界の深淵に、ただ立ち尽くすだけであった。

だから、これらの著作を今また手にとっては、その深淵をのぞきこんでいる。

 

「吉本隆明の183講演」のアーカイブの存在は、ぼくの心を躍らせた。

あの吉本隆明の講演が、183本もある。

分数の総計では、21746分にもなるという。

いくつかの講演のトピックをあげると、「フロイトおよびユングの人間把握の問題点」「宮沢賢治の世界」「現代詩の思想」「ドストエフスキーのアジア」「日本資本主義のすがた」「都市を語る」「ぼくの見た東京」「文学論」「恋愛について」「家族の問題とはどういうことか」「私と生涯学習」「社会現象としての宗教」「「生きること」について」「現代をどう生きるか」などなど、心踊るものばかりだ。

ひとつの講演のために論文を書くほどに労力をついやしていたこともあったという(そのことはぼくに、経済学者アマルティア・センの講演を思い起こさせる)。

iPhoneの「Podcasts」でも聞けるようになっているから、ぼくたちはいつでも、この巨人の「声」に耳をすますことができる。

 

ざっと講演リストに目をやり、最近のぼくの関心事である「物語」というキーワードがぼくをとめ、A162「物語について」(1994年)という講演を、ぼくは再生する。

吉本隆明の、あの(当初は想像しなかった)太い声が語りはじめる。

その「声」は、自信にみちあふれたような太い声ではなく、ゆらぎのなかを、一歩一歩たしかめるようにあゆむ声である。

その「声」は、人を(少なくともぼくを)ひきつけるものである。

その声は、次のように語り出す。

 

今日は「物語について」ということで、何をお話ししようかと思って、僕自身の物語についての考え方というか考察があるので、それをお話しすればいいかなと思ったんですが、たまたま出たばかりの『新潮』という雑誌に村上春樹と心理学者の河合さんの対談が載っていて、その対談が「現代の物語とは何か」という内容になっています。ちょうどこの人の『ねじまき鳥クロニクル』がベストセラーになっていて、自作の解説みたいなこともしていますから、これは入り口にはちょうどいいんじゃないかと思うので、そこから入っていきたいと思います。

テキスト「物語について」『吉本隆明の183講演』

 

ぼくはその語りを聴きながら、ある「偶然」にびっくりしてしまう。

「村上春樹と河合隼雄」に関するブログを書いたすぐ後に、吉本隆明の「物語について」という講演を再生して、まったく予測もしていなかったところに、「村上春樹と河合隼雄」が冒頭で登場する。

ぼくはその「偶然」におどろかされながら、吉本隆明の「村上春樹論」は読んだことも、聴いたこともなかったなぁと思いながら、興味深く、吉本隆明の「思想の声」に聴き入った。

また、吉本隆明自身の「僕自身の物語についての考え方というか考察」はやはり深い世界にぼくをなげこむのである。

183の講演、21746分の声とその声の「行間」から、ぼくはどんなことをまなぶのだろうかと、吉本隆明の思想の深淵をやはり感じながら、ぼくは静かに、耳をすませている。

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「浜松まつり」という恍惚。- 「最も奥深い<遊>の極地」(真木悠介)という視点から。

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「…先生」と呼んでしまう人。- 村上春樹にとっての「河合先生」(河合隼雄氏)のことから。