村上春樹の「デタッチメントからコミットメントへ」再訪。- 加藤典洋の視点に導かれる。
ぼくの好きな本のひとつに、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)がある。20代にかけて、ぼくがなんどもなんども読んできた本である。
ぼくの好きな本のひとつに、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)がある。20代にかけて、ぼくがなんどもなんども読んできた本である。そのなかに(いろいろなひとたちによって取り上げられてきた)「デタッチメントからコミットメントへ」という、村上春樹の考え方・態度の変化が語られる箇所がある。
「デタッチメント」は「~から離れる」という原義のように、社会や関わりから「離れる」という態度である。そんな生と作品を生きてきた村上春樹が、デタッチメントをつきつめてゆくなかで「コミットメント」へ変容してゆく。
国際協力という仕方で「社会へのコミットメント」を追求していたときでもあったので、ぼくのこころに共鳴することばであった。
「デタッチメントからコミットメントへ」ということを再び考えようと思ったのは、批評家の、故・加藤典洋氏の論考(レクチャー)に触発されたからである。
ぼくが感覚と論理を信頼する加藤典洋氏(以下敬称略)は、『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』という、英語によるレクチャーが著作となった本(日本語)のなかで、いわば「助走」として「デタッチメントからコミットメントへ」のことを取り上げている。「助走」と書いたのは、このレクチャーが村上春樹の「短編」をあつかうことを目指したものでありながら、まずは長編小説『ねじまき鳥クロニクル』を語りながら、この「デタッチメントからコミットメント」への変化にふれたからである。
加藤典洋のその「ふれかた」によって、デタッチメントからコミットメントという変化について語られていた「大切なこと」を、ぼくは憶い出させられる。それは、この、いってみれば村上春樹の「変容(トランスフォーメーション)」のあいだには、デタッチメントの「深化」ということがあるということ。「変わる」というときに、ひとは、横に移動するとか、よくなるという上昇への移動をイメージするかもしれないが、ここには「深化」が方法とされている。
村上春樹は心理学者の河合隼雄を前に、つぎのように語っている。
コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を超えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
加藤典洋はこの「デタッチメント」から「コミットメント」への移行が、「変化」というより「深化」であるのだということを強調するために、「井戸」の形象がもちいられていることを指摘している。なお、加藤典洋自身は「連通管」(理科の実験などで使われる器具)をイメージして語っている。
ぼくは「じぶんの変容」というテーマを立てているけれど、この「変容」のなかに、<深化>を重ね合わせている。ぼくがこれまで考えてきて、これからの<生きかた>をひらく核心として考えたいと思っていることの中心は、「じぶん」という経験を、内面に向けて<降りてゆく>ということである。だから、このタイミングで、加藤典洋の明晰な指摘があらためてぼくの思考を深く触発する。
けれども、さらに思考を触発するのは、加藤典洋自身が「面白いと思う」ことである。「誰からも離れた細い井戸を、掘って掘って掘ったあげくに、つまり「孤立」の道を極めた果てに、広い「人とのつながり」の海にでる」といった、このような言い方やあり方や考え方が、「日本ではけっして珍しくない」という方向に加藤典洋は論考の舵をきってゆく。
…こういうあり方に「惹かれる」ことのうちに、日本の戦後性ともいうべきものが顔をのぞかせているのではないかと思われるからです。僕の考えを言えば、こうした形象のうちに、近代の社会における孤立と連帯の主題に関して「原型的」なあり方が、いわば日本における世界史的な戦後性の核心として、掴まれているのです。
加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』(ちくま学芸文庫)
こういうあり方に惹かれてきた系譜として、思想家の吉本隆明、政治学者の丸山真男、森田療法、心理学者の河合隼雄、親鸞などを、加藤典洋は挙げている。それぞれに関心をひくところがいっぱいにあるけれど(それはこの本を読んでいただくことにして)、なにはともあれ、ここに「日本」があらわれることに、ぼくは興味をおぼえる(ちなみに、このような系譜が「日本」だけにあるわけではない)。ぼくとしては、社会学者の見田宗介=真木悠介の思想を重ね合わせながら、考えてみたいと思うところだ。
ところで、加藤典洋も指摘しているように、「デタッチメントからコミットメントへ」という村上春樹の移行(深化)は、村上春樹がアメリカに住んだことと関係があるかもしれないということを、最後に付記しておきたい。
ぼくの関心にひきつけていえば、「じぶんの変容」における<異文化>や<異世界>との出逢い、ということ。ぼくはそこに「可能性」をみたいと思う。
「人生はかくも単純で、かくも美しく輝く」(村上春樹)。- アイラ島独特の生牡蠣の食べ方を一例に。
シングル・モルト・ウィスキーの「聖地」である、スコットランドのアイラ島での旅をつづった、村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)。この本のなかで、ボウモア蒸溜所のマネージャーであるジムが、島でとれる生牡蠣の食べ方(あるいは、シングル・モルトの飲み方、とも言える方法)を村上春樹に教えるところがある。
シングル・モルト・ウィスキーの「聖地」である、スコットランドのアイラ島での旅をつづった、村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)。この本のなかで、ボウモア蒸溜所のマネージャーであるジムが、島でとれる生牡蠣の食べ方(あるいは、シングル・モルトの飲み方、とも言える方法)を村上春樹に教えるところがある。
島独特の食べ方とは、生牡蠣にシングル・モルトをかけて食べる、という仕方である。「一回やると、忘れられない」という、この食べ方を、村上春樹は実際にレストランで試してみることにする。
レストランで生牡蠣の皿といっしょにダブルのシングル・モルトを注文し、殻の中の牡蠣にとくとくと垂らし、そのまま口に運ぶ。…それから僕は、殻の中に残った汁とウィスキーの混じったものを、ぐいと飲む。それを儀式のように、六回繰り返す。至福である。
人生とはかくも単純で、かくも美しく輝くものなのだ。村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
この箇所に触発されて、アイラ島ではないけれども(ぼくはまだアイラ島に行ったことがないがいずれ訪れてみたい)、生牡蠣にウィスキーをかけて食べる、という仕方を、これまでに幾度か、実際にやってみた。
確かに、一回やってみると忘れられない。なんともいえない風味と味わいが口のなかに残るのである。これが、アイラ島で、しかもそこでつくられるシングル・モルトであったらと想像すると、「至福の時」が思い浮かぶのである。
でも、このエッセイのこの箇所がぼくの記憶に残った理由は、この食べ方に加えて、村上春樹の言明にあった。「人生とはかくも単純で、かくも美しく輝くものなのだ」という、言明である。「生牡蠣にシングル・モルトをかける食べ方」はひとつの例として、ぼくのなかに根をはったのは、「人生とはかくも単純で、かくも美しく輝くもの」ということであった。
そのような見方で人生を見渡してみると、「かくも単純で、かくも美しく輝くもの」に充ちていることに気づくことがある。もちろん、人の生はそんな気づきがあったり、気づきから遠ざかったり、また深く気づいたりと、なかなかシンプルにいかないものだったりする。あるいは、頭ではそうとわかっていても、実感がわかなかったりする。さらには、「単純」ではない方向に生きていって、思っていたものが見つからないと嘆いたりする。
それでも、やはり気づくときがある。「人生とはかくも単純で、かくも美しく輝くものなのだ」ということを。
「生牡蠣にシングル・モルトをかける食べ方」よりもいっそう単純なこと、たとえば、朝の凜とした空気に身体をさらすこと、好きな人(たち)とことばを交わすこと、水をのむこと、などなどの、いっそうシンプルなことのなかに、ぼくたちは、人生が「かくも単純で、かくも美しく輝くもの」である実体を見出すのである。
最近はじぶんのまわりの整理整頓をすすめ、モノを減らしていっているのだけれど、そのプロセスのなかで、いっそうシンプルなものごとのなかに「かくも単純で、かくも美しく輝くもの」を見つけ出すようになってきていることを、ぼくは感じる。あるいは、逆に見れば、シンプルなものごとのなかに「かくも単純で、かくも美しく輝くもの」を見つけ出すなかで、整理整頓がすすみ、モノを減らすことができているのかもしれない。
人それぞれの「基層」でつながること。- 「グローバルという言葉は、僕にはあまりぴんとこない」(村上春樹)。
「グローバル」という言葉。グローバリゼーションがあたりまえのように日々語られるようになっていた2004年のインタビューで、この言葉が「あまりぴんとこない」と、小説家の村上春樹は語っている。
「グローバル」という言葉。グローバリゼーションがあたりまえのように日々語られるようになっていた2004年のインタビューで、この言葉が「あまりぴんとこない」と、小説家の村上春樹は語っている。
僕は僕の心の中に深く暗い豊かな世界を抱えているし、あなたもまたあなたの心の中に深く暗い豊かな世界を抱えている。そういう意味合いにおいては、…我々は場所とは関係なく同質のものを、それぞれに抱えていることになります。そしてその同質さをずっと深い場所まで、注意深くたどっていけば、我々は共通の場所にー物語という場所にー住んでいることがわかります。
…
グローバルという言葉は、僕にはあまりぴんとこない。なぜなら我々はとくにグローバルである必要なんてないからです。我々は既に同質性を持っているし、物語というチャンネルを通せば、それでもうじゅうぶんであるような気がするんです。村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋、2010年)
グローバリゼーションとはひとまず資本主義の運動として、経済的に世界を「つなげる」ということであり、外部に存在する客観的で異質なものをを同質に変えていくことであるということを考えると、村上春樹が語る「同質性」は、グローバリゼーションとちょうど反対の方向へとまなざされ、人それぞれの「基層」にすでに存在し、そこで「すでにつながっている」ものである。
だから「ぴんとこない」。けれどもグローバリゼーションの事情はわかるから「あまりぴんとこない」のであろう。
人と人との<つながり>のありかを、人それぞれの深いところ、ずっと深くの基層に見出す見方は、世界それぞれの土着の文化が深い基層で呼応しあっている(呼応しあってきた)様を、思い起こさせる。
「近代市民社会」は、標準化する力で「土着」を解体し、この標準化し均質化する力で「つなげる」同質性をひろげてゆく。「土着」が解体されてきたように、人それぞれに内在する<土着>も解体の力にさらされてきたのかもしれない。
けれども、人それぞれに内在する<土着>は、解体されたように見えても、解体されつくすことはない。人はだれもが「心の中に深く暗い豊かな世界を抱えている」のである。その深く暗い豊かな世界は、それを無視しようとすればするほどに、その世界からの「メッセンジャー」が幾度となく、現実の世界へとやってくることになる。
「自分を掘り下げてゆく」という仕方について村上春樹が語っているところを、別のインタビューからひろっておきたい。
…書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでも、もっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりにも個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょうね。
村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋、2010年)
「グローバリゼーションとは、無限に拡大しつづける一つの文明が、最終の有限性と出会う場所である」(見田宗介)ということは、この地球の環境・資源の有限性に真正面から出会うということである。この地球の「マテリアル」は有限である。「目に見えているもの」は有限である。
けれども、人それぞれの想像力、あるいは自分を掘り下げてゆくことで、とても深い場所に見つける共通の場所(「物語」の場所)は無限である。<目に見えないもの>はどこまでも、自由に、拡大してゆくことができる。
村上春樹の試みは、そのような、とても深い場所を掘り起こしてゆく試みである。最終の有限性と出会う場所としての「グローバリゼーション」ではなく、心の中に抱えている深く暗い豊かなの世界の無限性に出会う場所としての<グローバリゼーション>である。
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」(村上春樹)ということば。- 修辞ではなく、ほんとうに夢を見るために。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。小説家村上春樹のインタビュー(1997年から2009年)を集めた本のタイトルである。「あとがき」で、直接に本のタイトルにふれられているわけではなく、またインタビュー集の企画は編集者の方による強い提案によって実現したものだから、もしかしたら、編集者の方などが提案したタイトルかもしれない。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。小説家村上春樹のインタビュー(1997年から2009年)を集めた本のタイトルである。「あとがき」で、直接に本のタイトルにふれられているわけではなく、またインタビュー集の企画は編集者の方による強い提案によって実現したものだから、もしかしたら、編集者の方などが提案したタイトルかもしれない。
ただ、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」ということばは、2003年にフランスで行われた雑誌のインタビュー(聞き手:ミン・トラン・ユイ)のなかで、語られたものである。
…作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない。法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。
村上春樹「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』所収(文藝春秋、2010年)
とても素敵な本のタイトルであるとぼくは思うし、とても印象に残ることばである。
ところで、「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、村上春樹は心理学者の河合隼雄(1928ー2007)に語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。
河合隼雄は、夢を見ないのは「小説を書いているから」だと、村上春樹に応答している。とりわけ物語の世界に深く入って物語を書いているようなときは「現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにある」のだから、夢を見る必要がないのだという。ちなみに、詩人の谷川俊太郎も夢を見ないのだと、河合隼雄は語っている。
このような見方に照らして見ると、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言明はたんなる修辞というわけではなく、村上春樹にとっては「書くこと=夢を見ること」である。
さらに見る角度をかえてゆくと、「夢を見るために毎朝僕は目覚める」ことは「書くこと」にかぎられることではない。人が生きる、ということは、ひとりひとりが思い描く<夢>を生きていることにほかならない。<夢>とは、人が自身に語る「物語」である。
そのようにして、人は誰しもが、<夢>を見るために、毎朝目覚めているのである。どんな人も、<夢>の外に出ることはできない。できることは、どんな<夢>を見るのか、という選択である。
このような見方に照らすと、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言明はたんなる修辞ではなく、「人が生きること=夢を見ること」という側面を正面から語ることばである。「夢から醒めるために目覚める」のではなく、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」と、村上春樹は、正しい仕方でことばを転回させているのだということができる。
「誰のために書くのか?」に対する、村上春樹の応答。- 小説家の村上春樹にとっての「ひとつ身にしみて学んだ教訓」。
「どのような読者を想定して小説を書いているのか?」
「どのような読者を想定して小説を書いているのか?」
そのような類の質問がなげかけられるとき、小説家の村上春樹はけっこう迷うのだという。とりわけ「誰かのために」という仕方で小説を書いているわけではないし、さしあたっては「自分のために」書いている。
けれども、ただ「自分のため」だけということもないから、このような問いに明快かつシンプルに応えるのは確かにむずかしい。さらには「読者」といっても、特定しがたい。
そのような迷いの背景を、「誰のために書くのか?」(『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング、2015年)という文章で、「小説家」に成り、作品をつくりだしてゆくプロセスを含めて、村上春樹は書いている。
それにしても、「誰のために書くのか?」という類の質問に応えるのは、簡単でありながら、実はむずかしい。
「簡単」ということは、たとえば、「…の読者のために」と言ってしまえば聞こえはいい。「他者のため」という言説は、一面において、現代社会の美徳でもあるからである。逆に、「自分のために」という言い方も、最近はとても聞こえのいいものである。「自分のため」の生きかたが、一面において、憧憬されているからである。
質問に応えるのが「むずかしい」というのは、根本的に、「他者のため」でありながら、「自分のため」であるからである。気軽な会話やインタビューで、これら二つを踏まえて、相手や読み手が納得する仕方で応えるのは、それほどシンプルではない。また、シンプルに応えるのがよいともかぎらない。
村上春樹は、自身の経験(どのようにどのような小説を書きはじめ、どんな批判を受け、読者の存在がどのように意識され、というような経験)を踏まえ、それらを丁寧な仕方で読者に提示しながら、「誰のために書くのか?」という質問に応えている。
その応答を読んでいるなかで、「ひとつ身にしみて学んだ教訓」の箇所にさしかかると、文章の磁場が、なんだかぐっと変わったような感触をうける。
ただ僕が作家になり、本を定期的に出版するようになって、ひとつ身にしみて学んだ教訓があります。それは「何をどのように書いたところで、結局はどこかで悪く言われるんだ」ということです。…ですからいきおい、「なんでもいいや。どうせひどいことを言われるのなら、とにかく自分の書きたいものを書きたいように書いていこうぜ」ということになります。
村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)
このことは、けっして「書くこと」だけの真実ではない。「何をどのようにしたところで、結局はどこかで悪く言われるんだ」というように、汎用性のある教訓であると、ぼくは思う。
なお、「自分が楽しむ」ことが、そのまま「芸術作品として優れている」ということにはならないことがこのあとに書かれているように、上の文章だけをひきぬいて自分の人生に適用することには、「注意」が必要だ。
村上春樹にとっては「身にしみて学んだ」教訓だからこそ、生きてくる教訓である。
この教訓をとりあげながら、リック・ネルソン(Ricky Nelson)の歌『ガーデン・パーティー(Garden Party)』のなかの詞を、村上春樹はとりあげている。
もし全員を楽しませられないのなら
自分で楽しむしかないじゃないか
これはおそらく村上春樹訳だと思われる。ちなみに、もとの詞はつぎのようである。
You see, ya can’t please everyone,
so ya got to please yourselfRicky Nelson “Garden Party”「Greatest Hits」 ※Apple Musicより
古い友人たちと思い出を語るようなガーデン・パーティーに行ったけれども、誰も自分を認識しなかった。彼ら・彼女たちは自分の名前を知っているのだが、自分は同じ容貌ではなかったから。そんなガーデン・パーティーを(おそらく)振り返りながら、「But it’s all right now, I learned my lesson well(でも今は大丈夫さ。私は教訓を得たんだ)」と歌い、軽快なリズムがきざまれるなか、うえでとりあげた詞がつづく。
もし全員を楽しませられないのなら、自分で楽しみしかないじゃないか。「この気持ちは僕にもよくわかります」と、村上春樹は書いている。
この歌詞は確かに人を惹きつける。
「自分で楽しむしかないじゃないか」という箇所の気持ちよさはあるけれど、あるいはそこよりもむしろ、「もし全員を楽しませられないのなら」という箇所が人の心にひっかかってくるのではないか。ぼくは、そう思ったりする。
「全員を楽しませようとする」気持ちや試みの体験、それからその挫折。そこが感じられるからこそ、この歌詞は人を惹きつけるのである。
ところで、うえでとりあげた「教訓」は、逆も、真実をもっていることを、最後に書いておきたい。
「何をどのように書こうとも、どこかで、よく言ってくれているんだ」。
悪く言う人もいるけれども、よく言う人もいる。批判のほうが目立つから「聞こえない」かもしれないけれど、どこかで、誰かが「よく言ってくれている」ということ。
このこともいわば「教訓」である。
共有される<物語>のコンセプト。- 村上春樹「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」。
ある人とある人が対話する。その<あいだ>で、何かが共有され、何かが生まれる(何かが「解体」されることもある)。そんな<対話の時空間>は、ときおり幸福な仕方で、共有された「何か」、生まれた「何か」を、時空間をこえて、他者にとどく。
ある人とある人が対話する。その<あいだ>で、何かが共有され、何かが生まれる(何かが「解体」されることもある)。そんな<対話の時空間>は、ときおり幸福な仕方で、共有された「何か」、生まれた「何か」を、時空間をこえて、他者にとどける。
小説家・村上春樹と心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)のあいだにひろがる<対話の時空間>は、その時空間をこえて、幸福な仕方でぼくたちにとどけられる。「村上春樹と河合隼雄」という組み合わせは、(少なくとも、ぼくにとって)そのような幸福な組み合わせである。
『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)という著作の最後の章(回)で、村上春樹は「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」を書いている(初出は新潮社「考える人」夏号、2013年)。
村上春樹が河合隼雄に初めて会ったのは、プリンストン大学であった。1990年代前半のことだ。それぞれがアメリカに長く滞在していたときである(日本に住んでいたら会っていなかったかもしれない。海外にいるからこそ「会う」人たちがいるものである。ぼくの経験から。)。
「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」では、そのときのことが語られている。
けれども、そのときに「何を話したかほとんど覚えていない」という。そうでありながら、そのことはどうでもいいことじゃないかとも、村上春樹は書いている。
…そこにあったいちばん大切なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。僕は小説を書くことによって、日常的にその場所に降りていくことになります。河合先生は臨床家としてクライアントと向き合うことによって、日常的にそこに降りていくことになります。あるいは降りていかなくてはなりません。…
村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)
<物語というコンセプト>。共有されていたものは、おそらくこのことであったと書かれている。ここでの物語は、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」である。
おそらく、ここで語られ、共有されていたことが、日本での「対話」に継続され、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮社)として書籍化された。この本をとおして、ぼくたちは、共有されていたものの一端をつかむことができる。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は、「内容」もとてもスリリングだけれども、それよりも、語られていることの全体性のようなものによって、どこか、ぼくの深いところが癒されるような、そんな本である。少なくとも、(確か)2000年前後に初めてこの本を読んだとき、ぼくはそのような「実感」を抱いたものである。
今にして言葉にしようとするのであれば、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」にふれられることで、じぶんの深いところが癒されるような、そんな「実感」が湧いたのだろうと思う。
それとともに、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」の次元へと降りていって、そこから、人や社会とのかかわりをさぐる先達たちに、生きづらさを感じていたぼくは強く励まされたのだとも、ぼくは思う。
それにしても、誰かとあって話をして、何を話したかはほとんど覚えていないけれど、その場でいちばん大切であったものは、話の内容よりもむしろ、そこで何かを共有していたという「物理的な実感」であった、という経験を、人はするものである。じぶんの経験を憶い起こしながら、そう思う。
村上春樹訳『グレート・ギャツビー』の「冒頭と結末」のこと。- 「訳者あとがき」の<告白>。
小説家の村上春樹が訳した、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(中央公論新社、2006年)の「訳者あとがき」、その最後の最後のところ(もう少しで「訳者あとがき」が終えようとするところ)で、村上春樹はつぎのように書いている。
小説家の村上春樹が訳した、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(中央公論新社、2006年)の「訳者あとがき」、その最後の最後のところ(もう少しで「訳者あとがき」が終えようとするところ)で、村上春樹はつぎのように書いている。
…個人的なことを言わせていただければ、『グレート・ギャツビー』の翻訳においてもっとも心を砕き、腐心したのは、冒頭と結末の部分だった。なぜか?どちらも息を呑むほど素晴らしい、そして定評のある名文だからだ。…ひと言ひと言が豊かな意味と実質を持っている。暗示の重みを持ちながら、同時にエーテルのように軽く、捉えようとすると指のあいだからするりと逃げ出していく。告白するなら、冒頭と結末を思うように訳す自信がなかったからこそ、僕はこの小説の翻訳に二十年も手をつけずにきたのだ。…
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳(中央公論新社、2006年)
村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』本文も好きだけれど、最初に読んだときにぼくの印象につよく残ったのは、この「訳者あとがき」の<告白>であった。
冒頭と結末を思うように訳すことができないことから、村上春樹は二十年の歳月も、翻訳に手をつけずにきた。
ちなみに、この「訳者あとがき」でふれられているように、「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と問われたら、『グレート・ギャツビー』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、それからレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を考えるまでもなく挙げると、村上春樹は書いている。そして、「どうしても一冊ならば?」と問われるのであるならば、迷うことなく、『グレート・ギャツビー』を選ぶのだと、付け加えている。
それほどの一冊である『グレート・ギャツビー』の翻訳に手をつけることが、冒頭と結末の訳に自信がなかったからできなかったというのだ。もちろん、「それほどの一冊」だったからこそ、なかなか手をつけることができなかったのだとも言える。
村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を読んで、その「訳者あとがき」の<告白>を聞いてから、もちろん、ぼくは、スコット・フィッツジェラルドによる「原文」が読みたくなり、さっそく英語版を手に入れ、冒頭に目を通す。
目を通しながら、じぶんなりに「日本語」におきかえてみようとする。たしかに「名文」だと思いながら、しかし、「日本語」にうまくおきかえることができない。そこまでしてみて、「なるほどなぁ」と、ぼくは感じる。
こうして、「訳者あとがき」の<告白>、それから英語の名文と訳のむつかしさが、ぼくのなかにすとーんとおちてゆくのであった。
そんな「視点」と「体験のありかた」がぼくのなかにすみつき、それからというもの、ぼくは英語の本を原文で読みながら、何冊かの本で、「思うように日本語に訳せない」本に出会ってゆくことになる。
別にぼくは「翻訳者」ではないし、そのような本にめぐりあっていつか翻訳書を出そうなどというわけでもないのだけれど、それでも、ぼくは、いつか、思うように日本語に訳せたらと思うのである。
訳せるようになる過程においては、日本語をつむぐスキルや英語をよみとくスキルだけではなく、いろいろな意味において、ぼくの<成熟>が求められるだろうと、思う。だからこそ、いつか、思うように日本語に訳せたら、と、ぼくは思うのだ。
それにしても、そんな本が何冊かあるだけでも、とてもしあわせなことだと、ぼくは思ったりもする。
村上陽子の写真。- 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』所収の、なぜかひかれる写真たち。
ふだんは「猫」を見ることがあまりない香港の街角で、猫に出会う。カメラを向けると、瓶のうえにすわっている猫は、まったく動じずに、ぼくのほうにただ目を向ける(ブログ「「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫に出会う。」)。
ふだんは「猫」を見ることがあまりない香港の街角で、猫に出会う。カメラを向けると、瓶のうえにすわっている猫は、まったく動じずに、ぼくのほうにただ目を向ける(ブログ「「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫に出会う。」)。
この一連の動作のなかで、ぼくの念頭に浮かんでいたのは、村上陽子さんの写真たち。
村上陽子。小説家である村上春樹の奥様である。
村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)という、とても美しい本の「美しさ」は、この本に収められている村上陽子の写真たちによるところも大きい(※カバー写真のクレジットは「村上陽子」とあり、まえがきで「妻の写した写真を眺めながら」と書かれているから、カバー写真のほかの写真も「村上陽子」と思われる。仮にカバー写真だけだったとしても、美しい写真だとぼくは思う)。
ウィスキーをめぐるスコットランドとアイルランドの旅。その旅路で出会う猫たちの写真。猫たちだけでなく、渡り鳥や牛たちや羊たちなど。人や建物や自然に加えて、動物たちが、よく撮られている。本の表紙は、アイルランドのバーの、「ギネス」という名の犬が飾っている。
とりわけ「すごい」写真ではないのだけれども、村上陽子の写真にぼくはひきつけられる。「なぜか」なんて深く考えたことはないし、考える必要性も感じないけれど、そこには、ある意味で「哲学」が感じられるのである。
これらの美しい写真と文章にひきつけられて(そして、文庫という持ち運びに便利なことも手伝って)、この本は、ぼくと共に「世界」を旅してきた。
2002年、西アフリカのシエラレオネに住むようになったときも、2003年に東ティモールに住むようになったときも、それから、ここ香港に住むようになってからも、ぼくはこの本を、ぼくの手の届くところに、いつもおいてきた。
手を伸ばして本をとり、本をひらいては写真をながめる。ぼくは、すーっと、その「世界」のなかにはいってゆくことができる。あるいは、村上春樹の「ことばの時空間」に、ゆっくりと降り立ってゆくことができる。
香港の路地裏で、ひさしぶりに猫に出会い、写真を撮る。家で、ぼくは手を伸ばして『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を手にとり、村上陽子の撮った、猫たちの写真を眺める。
眺めているだけでも充分なのだけれども、ついつい、猫たちはなにを思い(あるいは、なにも思わず)、どのように生きているのか。猫たちは、ぼく(たち)になにを問うているのか、などを考えてしまう。
村上春樹の文章に眼を転じると、やはり、いつも眼にはいる文章が眼にはいってくる。
シングル・モルト・ウィスキーで有名なアイラ島で、村上春樹は、好奇心にかられて、島に住んでいる人たちにあれこれと質問をしてゆく。シングル・モルトを日々飲んでいるのか、ビールはあまり飲まないのか。ビールはそんなに飲まないという人に、では、ブレンディッド・ウィスキー(いわゆるスコッチ)も飲まないのか、と質問はつづく。
僕がそう質問をすると、相手はいささかあきれた顔をした。たとえて言うなら、結婚前の妹の容貌と人格について、遠まわしなけちをつけられたような顔をした。「もちろん飲まないよ」と彼は答えた。
「うまいアイラのシングル・モルトがそこにあるのに、どうしてわざわざブレンディッド・ウィスキーなんでものを飲まなくちゃいけない? それは天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに、テレビの再放送番組をつけるようなものじゃないか」
これをご宣託と呼ばずして、なんと呼ぶべきか?村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
なんとも、ご宣託、である。
「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに、テレビの再放送番組をつけるようなものじゃないか」。
こんなことばが会話のなかで生まれてくることにも、心を動かされる。
それとともに、ウィスキーにかぎらず、ぼくたちはこのようなことを実際によくしてしまっているのではないか、とも思ってしまう。天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに「テレビの再放送番組をつけてしまうこと」を。
「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに」は、じっとそこにたたずみ、奏でられる美しい音楽に耳を傾けたい。そう、ぼくは思うのである。
村上陽子の写真は、言ってみれば、「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているとき」に、じっとそこにたたずみ、奏でられる美しい風景のなかでしずかにシャッターをおろしているのだと言えるのかもしれないと、ぼくは思ったりもする。
名曲「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」の響きのほうへ。- ルイ・アームストロングの歌声と音色に照らされて。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
作詞・作曲はG・ダグラスとジョージ・デヴィット・ワイス。ベトナム戦争や人種問題の深刻化という時代背景のなかでつくられた曲である(※Wikipediaなど参照。「背景」にはいろいろな見方や事情や経緯があるようだ)。
時代背景は、いっぽうで、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」や「Imagine」を、ぼくに思い起こさせる。
これらの名曲をぼくはほんとうに好きなのだけれど、それは、このような「時代背景」のなかで、曲に託された「世界」(戦争や紛争のない世界)と無縁ではないようにも思う。紛争後の世界(2000年代初頭の、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール)に身をおきながら、ぼくのなかでは、名曲「Happy Xmas (War is Over)」が鳴り響いていた(※ブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」)。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」は、映画『グッドモーニング、ベトナム(Good Morning, Vietnam)』の挿入歌としても採用されているから、ぼくの記憶の深いところで、これらの名曲は通底していたのかもしれない。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」に限らず、ぼくは、ルイ・アームストロングの音楽、彼の歌声、それからトランペットの響きに心から惹かれる。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)では、JAZZアーティストたちと、アーティストそれぞれの「この一枚」(LP)が取り上げられているけれど、そこでも、ルイ・アームストロングが描かれ、書かれている。そして、和田誠が描くルイ・アームストロングの肖像、それから村上春樹の書く文章にふれながら、ぼくは、ルイ・アームストロングに、心から惹かれる理由がわかったような気がする。
ルイ・アームストロングは11歳のころ、つまらないいたずらが原因で警察に捕まり「ホーム」に入れられる。そこで楽器と出会い、チャイム代わりの「ラッパ」の役をこなし、さらにそれだけでなく、ルイのラッパを聞くようになったみんなは、とても楽しい気持ちで目覚め、とても安らかな気持ちで眠りにつくことができるようになったのだという。
音楽の、このような「効果」は、他のアーティスト(たとえば、ピアニストのLang Lang)の場合でも語られるのをぼくは読んだりするが、ルイ・アームストロングのこのエピソードは彼の音楽の「ほとんどすべてを物語っている」から大好きなのだと、村上春樹は書いている。つづけて、村上春樹は、つぎのように、ルイ・アームストロングの音楽について書く。
ルイ・アームストロングの音楽が、僕らにいつも変わらず感じさせるのは、「この男はほんとうに心から喜んで音楽を演奏しているんだ」ということである。そしてその喜びは見事なばかりに強い伝染性を持っている。マイルズ・デイヴィスはルイ・アームストロングの音楽を尊敬しながらも、舞台で白人聴衆に向かって歯を見せてにこにこと笑う彼の芸人性を厳しく批判した。でも僕はルイはほんとうに楽しくてたまらなかったのだろうと想像する。自分がこうして生きて、音楽を作り出して、人々がそれに耳を傾けてくれるというだけでたまらなく幸福で、何を考えるよりも先に、自然に、にこにこと歯を見せて笑ってしまったのだろうと思う。
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
この文章を読みながら、ぼくはたしかに、ルイ・アームストロングの音楽の核心にあるものがわかったような気がしたのだ。
でも、音楽の、あるいは世界の「楽しみかた」は、この核心そのものをその中心に向かって掘り尽くすことではなく、あくまでも、その核心に「照らされた世界」(つまり、ルイ・アームストロングの音楽)を楽しむことだ。村上春樹の文章は、核心を一気につくものでありながら、よりいっそう、この「照らされた世界」に照準されている。
そのようにしてルイ・アームストロングの音楽にもどると、「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」とともに、ぼくの心を深いところで揺さぶるのは、「Moon River」である。
彼の歌う、そして彼のトランペットが奏でる「Moon River」を聴くたびに、ぼくの心は、ほんとうに「揺れる」のだ。とくに、彼のトランペットが奏でる「Moon River」の響きに。
年を重ねることで得るもの。- ビリー・ホリデイの歌声に、村上春樹が<聴きとる>もの。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
ここ香港の空に夕闇がおとずれるころ、ライブラリーから、意識的に、あるいは無意識的にアーティストや作品や曲を選びとって、再生する。音楽の響きに、耳を、それから心身を傾け、また村上春樹のことばをゆっくりと追う。ときおり、和田誠の描くアーティストの肖像をながめる。それだけで、しあわせなひとときだ。
でも、しあわせな感覚は、高揚するような感覚(そのようなときもあるけれど)というよりは、ぼくの心の地層に静かにそそぐ雨がゆっくりとしみこんでゆくような、そのような感覚だったりする。
多少なりとも年を重ねてきたことで感じるものがある。
「ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)」(1915-1959)を、若い頃の村上春樹はよく聴いたのだという。でも、ビリー・ホリデイの素晴らしさを「ほんとうに知った」のは、もっと年をとってからであったと、村上春樹は書いている。
でも、ビリー・ホリデイの晩年の録音は、若い頃は熱心に聴かず、むしろ避けていたという。とりわけ1950年代に入ってからのビリー・ホリデイの録音は、「痛々しく、重苦しく、パセティックに」聴こえたからだ。それが、30代に入り、40代に進むにつれて、逆に、晩年のビリー・ホリデイを好んで聴くようになる。
「ビリー・ホリデイの晩年の、ある意味では崩れた歌唱の中」に聴きとることができるようになったもの、あるいはそれほどまでに村上春樹を惹きつけたものは何かと、自らずいぶん考えたのだと、村上春樹は記している。
ひょっとしてはそれは「赦し」のようなものではあるまいかー最近になってそう感じるようになった。ビリー・ホリデイの晩年の歌を聴いていると、僕が生きることをとおして、あるいは書くことをとおして、これまでにおかしてきた数多くの過ちや、これまでに傷つけてきた数多くの人々の心を、彼女がそっくりと静かに引き受けて、それをぜんぶひっくるめて赦してくれているような気が、僕にはするのだ。もういいから忘れなさいと。それは「癒し」ではない。僕は決して癒されたりはしない。なにものによっても、それは癒されるものではない。ただ赦されるだけだ。…
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
村上春樹のことばをゆっくりとおいながら、ぼくは、それこそ、ずいぶんと考えさせられてしまった。「癒し(いやし)」ではなく、「赦し(ゆるし)」ということを。
ところで、ビリーホリデイの優れたレコードとして、村上春樹が選ぶのは、コロンビア盤。さらに、その中の一曲として、村上春樹は迷うことなく、「君微笑めば」(When You’re Smiling (The Whole World Smiles With You))を選んでいる。
…彼女は歌う、
「あなたが微笑めば、世界そのものが微笑む」
When you are smiling, the whole world smiles with you.
そして世界は微笑む。信じてもらえないかもしれないけれど、ほんとうににっこりと微笑むのだ。村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
アップテンポで、心が楽しくなるようでいて、深い哀愁がただよう響きのなかで、「When you are smiling, the whole world smiles with you.…」と、ビリー・ホリデイの深い歌声が見事なまでに歌い上げている。レスター・ヤングのソロの響きも、心の深いところを揺さぶる。とてもすてきで、心をうつ曲だ。
昔どこかで聴いた曲であるけれど、そのときぼくは聴き流していたようなところがあったと思う。あれから、ひとこと、ふたことでは話せないほどの時間がすぎてゆき、今こうして聴くと、年を重ねてきたことで聴きとるものがたしかにあるように、ぼくは感じる。
このことは、たとえば、文学の古典的作品を「読めるようになった」ことに関する、思想家・内田樹のことばを、ぼくに思い起こさせる。
…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。
内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)
はたして、「音楽」という経験も同じなのだろうかと、ぼくは考えてしまう。
内田樹の書く文章を、「夏目漱石」を「ビリー・ホリデイ」に、「テクスト」を「曲」に、そして「少年期」を「青年期」に書き換えて、読んでみる。
「ビリー・ホリデイを青年期に聴いたときと、中年になってから聴いたときとでは、曲の表情は一変する。私たちは同じ曲にまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいでビリー・ホリデイの曲を聴くことができるようになったのだとしたら、その成熟には、青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与しているのである。」
うん、これはこれで成り立つように、ぼくは思う。
でも、成熟に「青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与している」のだとしたら、どのような風に「関与」しているのだろうか。曲の響き、メッセージあるいはステートメント、世界観などが、<聴く>という行為のなかで、じぶんに「関与」してくるのだろうか。……
なにはともあれ、ビリー・ホリデイの曲と歌声を、少しは正面から<聴く>ことができるようになったことは、たしかなようだ。
「音楽ストリーミング」の楽しみかた。- 村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』を道案内としながら。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
実際にはぼくも、Apple Musicが開始されて以来これまでずっと、Apple Musicの「音楽ストリーミング」サービスを利用している。Apple Musicによって、ぼくの手元に、5000万の曲たちにつながる「入り口」と「通路」を手にしたことになる。
音楽の好きな人たちにとっては、この夢のような世界が、現実として、手元に存在しているのだ。
そのような夢の世界の楽しみかたは、人それぞれに、いろいろと多様に、ひろがっているだろう。
たとえば、ある「名曲」の、いろいろなバージョン、さまざまなアーティストによるカバー曲も含めたいろいろなバージョンを、ぼくたちは楽しむことができる。名曲の曲名を検索にかけると、そのバージョンが贅沢にも、一覧で表示される。そのなかから、気になるものを選択するだけで、名曲の響きが空間にひろがってゆく。
エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」を検索して、ぼくはいろいろなバージョンを楽しむ。でも、やはり、エルヴィスの歌声に戻ってくるといった具合に。(※ブログ「エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」。- 「名曲」のなかの<名曲>というもの。」)
今取り組んでいるのは、村上春樹を「道案内人」としながら、ジャズの名作品にふれてゆくこと。村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)が、この冒険のガイドブックだ。
『ポートレイト・イン・ジャズ』は、和田誠が描くJAZZミュージシャンの肖像と、村上春樹が書くエッセイが共演する作品。1990年代に刊行された2冊(『ポートレイト・イン・ジャズ』と『ポートレイト・イン・ジャズ2』)に、ボーナス・トラックが加えられて一冊となった文庫である。
まるでJAZZの名演のように、和田誠の描く肖像と村上春樹の文章が、うまいぐあいに鳴り響いている。55人がとりあげられ、村上春樹の個人的選択による、それぞれの「この一枚」(LP)が写真とともに掲載されている。
だいぶ前に読み始めた一冊であったのだけれど、今読み返してみると、途中で「止まった」ままであったようだ。途中、ピアニストのビル・エヴァンスがとりあげられているのだけれど、エヴァンスの一枚として選ばれている「Waltz for Debby」をぼくは(香港のHMVで)手に入れて聴いているうちに、すっかりその世界にとりこまれて、そこでずいぶん長いあいだ、立ち止まって楽しんでいたようだ。
当時は、「音楽ストリーミング」の世界がきりひらかれていなかったときで、ここで村上春樹おすすめの名盤(LP)を知って、香港のHMVでCDを探す必要があったのだ(アマゾンなどで検索して注文する方法などもなかったわけではないけれど)。
今となっては、(ぼくにとっては)Apple Musicによって、5000万曲への通路がひらかれている。
『ポートレイト・イン・ジャズ』をはじめから再読しつつ、そこで取り上げられている名盤を、Apple Musicで探す。あるものもあれば、ないものもある。「この一枚」がなくても、たとえば、Chet Bakerの他の作品やライブ録音を眺めては、「これだ」と思うものをひろって、じぶんの「ライブラリー」に収めてゆく。その過程での思ってもみなかった「出会い」に、心がおどることもある。
村上春樹の「この一枚」でApple Musicにあるものであれば、迷わず、「ライブラリー」に入れる。そうして、村上春樹が曲名にふれているのであれば、その曲を再生して、その曲の響きに耳を傾ける。そうして、村上春樹の「ことば」と、曲の「響き」を重ねてゆく。音楽の聴き方はとても個人的なものでありながら、その響きはどこかで個人を超えて、深いところで通底することもある。楽しいひとときだ。
別に村上春樹である必要はない。ぼくにとっては、たとえば、道案内人のひとりが、その感覚を信頼できる道案内人のひとりが「村上春樹」であっただけだ。
また、あたりまえのことだけれど、JAZZである必要もない。ぼくは今、このタイミングで、JAZZが聴きたくなっただけだ。これまで、ぼくにとってのJAZZは、とても限られた範囲だけであった。でも、ぼくの今の心身が、JAZZの響きとそこに在るものに、とても惹かれるのだ。
村上さんは、言うかもしれない。やはり聴くなら、LPをターンテーブルにのせて聴くんだよ、と。ぼくもLPにはまっていたときがあるから、そのよさは多少なりともわかる。デジタル音楽・「音楽ストリーミング」は、JAZZのほんとうの響きに、ある種の「距離感」をつくってしまうかもしれない。
でも、「いろいろな楽しみかた」があってよいのだと、ぼくは思う。楽しみかたは、無限にひろがっている。
ぼくは『ポートレイト・イン・ジャズ』の道案内に忠実にしたがいながら、音楽ストリーミングのライブラリーに分け入っては、JAZZの世界を楽しんでいる。
「心」を外国語に訳す(技)。- 村上春樹作品の翻訳、村上春樹の考える「翻訳」。
村上春樹の小説のロシア語翻訳者のひとり、ドミトリー・コヴァレーニンは、村上作品に登場する、日本語の「心」をどのように訳したらよいのか、悩んだという。
村上春樹の小説のロシア語翻訳者のひとり、ドミトリー・コヴァレーニンは、村上作品に登場する、日本語の「心」をどのように訳したらよいのか、悩んだという。
それは村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を訳していたときで、そのなかでいちばん悩んだのが、この「心」の訳し方であったというのだ。
村上春樹の英語翻訳者のうちのひとり、アルフレッド・バーンバウムの英語訳では「心」は「mind」と訳されている。
ドミトリー・コヴァレーニンは、村上春樹に直接にインタビューしたときに、その訳(mind)をぶつけてみたのだという。
…2002年にはじめて村上さんにインタビューをしたとき、「村上さん、’mind’で大丈夫ですか」と訊きました。彼は、「ウーン、どうですかね。’soul’でもない、’mind’でもない、’heart’でもない。三つの言葉の意味が少しずつ入っているけれども、さらに必ずあたたかみを付けるように。頑張って考えてください」と言われました。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
たしかに、日本語の「心」を訳すことがむつかしいことがある。
逆に、バーンバウムが訳したような「mind」が英語にあったとしたら、これを日本語にどう訳したらよいのか、ということに悩んでしまうだろう。
ぼくは便宜的に、頭脳的なものを「mind」とし、(ハートで感じるような)心的なものを「heart」というように、じぶんの訳語のひきだしに収めているけれど、実際の文脈に入っていかないと、どう訳していいのかはわからない。英語から日本語訳では「カタカナ」を使えるので、「mind」の日本語訳は「マインド」とするようなこともある。
しかし、「心」の英語訳は、村上春樹が「…’soul’でもない、’mind’でもない、’heart’でもない」と言わざるを得ないような、そんな「心」である。
でも、さすが村上さんと思ってしまうのは、「…さらに必ずあたたかみを付けるように」と付けくわえてコメントを提示したことであり、その感覚にぼくは共感してしまう。
その意味において「的確なアドバイス」とも思われるが、「翻訳」の最終的な判断は、翻訳者に任せられている。
このような村上春樹のスタンスはいろいろなところで知ることができるが、自身も翻訳者である村上春樹の、「オリジナル・テキスト(原文)」の翻訳にたいするスタンスからも、照射することができる。
村上春樹は、かつて「原文」と「翻訳されたもの」の関係性について訊かれたとき、それぞれは「別のもの」でしょう、と応えている。そこで『グレード・ギャッツビー』の翻訳に触れながら、村上春樹はつぎのように語っている。
…いくつかの訳を比べて読んでみると、ひとつの全体像が漠然と浮かび上がってくるということはあるかもしれませんが、個々の訳はオリジナル・テキストとは別物だと僕は思います。しかし別物であっても十分に感動できるし、その感動がオリジナル・テキストを読んだアメリカ人の読者より劣るかというと、そんなことは決してないと思います。というか、優れた小説には、そういう多少の誤差を乗り越えて機能する、より大きな力があるんです。僕はそういうふうに考えています。ただもちろん誤差は少ないほうが絶対にいいです。
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書、2000年)
村上春樹は「正解な翻訳」というものは原理的にはないと考え、また、誤差は少ないほうがよいが、優れた小説の「多少の誤差を乗り越えて機能する、より大きな力」を信じているのである。
他のところでも語られるように、むしろ翻訳とは「誤解の総和」とも言えるもので、しかしそれでも、「総体としてきちっとした一つの方向性」を指し示していれば、それは優れた翻訳だと考えているのだ。
そんなふうな「翻訳」へのスタンスもあって、村上作品の「翻訳」の最終的な判断は、翻訳者に任せられている。
「頑張って考えてください」と村上春樹に励ましを受けたドミトリー・コヴァレーニンは、最終的に、この「心」をどのように訳したのだろうか。
…私は一生懸命頑張った結果、訳さないようにしたんです(笑)。「もののあはれ」のような考え方をいちばんよく訳すには、それを翻訳しないことだと思うのです。結局、「心」はできるだけ曖昧にしました。まあ、これは私のひとつの技、手法なのですけれども。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
(一生懸命頑張った結果)「訳さない」ということを選んだドミトリー・コヴァレーニンの決断は、彼が語るように、「ひとつの技」である。
研ぎ澄まされた「技」であると、ぼくは思う。
「近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている」。- 夏目漱石『坑夫』における自己の流動性。
小説の一節から。
小説の一節から。
…近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分かったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがっているんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏(まとま)ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずるくらい纏まらない物体だ。…
夏目漱石『坑夫』青空文庫
これは夏目漱石の小説『坑夫』の一節である。
『坑夫』を読んでいたら、この一節が気になったのではなく、「このような箇所」を探しながら『坑夫』を読んでいて、「あっ、こんなふうに漱石は書いているんだ」と見つけた一節である。
自我とか自己とかが確固としたものとしてあるのではなく、むしろ、その逆のように感覚するものとして、漱石はこの小説の主人公に語らせている。
夏目漱石の『坑夫』のなかにそのようなことが描かれてあることを知ったのは、村上春樹の翻訳者でよく知られているジェイ・ルービンの発言によってであった。
『坑夫』の英語翻訳もしているジェイ・ルービンは、「世界は村上春樹をどう読むか」のシンポジウム(2006年開催。文春文庫『世界は村上春樹をどう読むか』2009年として発刊)のなかで、「自己とか自我の流動性」について触れていて、夏目漱石がどのように書いているのか、直接に『坑夫』を読みたくなったのだ。
『坑夫』は、19歳の青年が東京の家から家出をして、ひょんなことから坑夫になってゆく物語で、その青年が後年に回想する仕方で物語る形式をとっている。
坑夫になるというきっかけがひらかれてゆく場面で、冒頭の一節があるのだけれど、さらに読みすすめてゆくと、漱石はつぎのようにも主人公に語らせている。
…人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。…
夏目漱石『坑夫』青空文庫
そんなふうに考える主人公によって語られる『坑夫』の物語に、まったく予測していなかったのだけれど、ぼくはとても惹かれたのであった。
ぼくは夏目漱石の熱心な読者ではないけれど、これまでに読んだいくつかの有名な作品のなかにあって、おそらく漱石らしくない作品である『坑夫』を、ぼくはもっとも「おもしろい」と感じるのである。
『坑夫』を読みすすめながら、ときおり、ジェイ・ルービンの著書『村上春樹と私』(東洋経済新報社、2016年)をひらいて読んでいたら、ジェイ・ルービンが自身による『坑夫』の英語訳と、その「前書き」を書いた村上春樹について、つぎのように書いているのを、ぼくは見つけた。
…村上さんは、2015年9月に出版された私の『坑夫』の改訳の前書きで漱石の全小説の中で『坑夫』が一番好きな作品だと言った。…
実を言うと、『坑夫』を初めて訳したのは1988年だった。そして1993年から2年間私は村上さんと同じケンブリッジに住んでいたころ、二人で『坑夫』の話をした記憶がある。
その時、村上さんはもちろん『坑夫』を読んでいたが、詳しく覚えていなかった。私が一生懸命に勧めたので、彼はすぐ読んで、主人公がいろいろな辛いことを経験しても全然変わらないというところが一番好きだと言った。その後、『坑夫』の話をしなかったが、2002年になって、『海辺のカフカ』を読んでみて、こんな言葉に出合った。 …ジェイ・ルービン『村上春樹と私』(東洋経済新報社、2016年)
『坑夫』は、村上春樹の小説『海辺のカフカ』のなかで登場する書物となったのであった(ぼくは『海辺のカフカ』のその場面をほとんど覚えていないのだけれど)。
ちなみに、村上春樹は、期間限定公開サイト「村上さんのところ」(『村上さんのところ』新潮社、2015年)に寄せられた質問に応える仕方で、ジェイ・ルービンが英訳した『坑夫』のためにイントロダクション(前書き)を書いたこと、また『坑夫』が面白いことなどを書いている。
『坑夫』が、夏目漱石の小説のなかで一番不評の作品である(あった)ことを、ジェイ・ルービンは言及しているが、じぶん自身で読んでみないとわからないものである。
ところで、『坑夫』へのきっかけをつくってくれたのは、日本とは異なる文化に生きてきたジェイ・ルービンであった。
ある固有の文化や作品を「守る」のは、ときに、その文化にとっての「他者」であることもあるのだ、ということを思う。
なにか固有の文化へと「同一・統一」してゆくのではなく、むしろ「多様性」を開花してゆくことで、つまり他者にひらかれてゆくことで、その固有の文化なりが絶えず、いのちを燃やしつづけていくようにも見えるのである。
「私」をめぐる冒険の道ゆきで。- 自己の感覚は「騒々しい議会」(リチャード・パワーズ)。
世界で村上春樹はどう読まれているのか。
世界で村上春樹はどう読まれているのか。
「村上春樹」を熱心に読む読者であれば興味のひかれる問いである。
でも、村上春樹を読まない人たち、あるいは読書にもあまり興味がない人たちにとっても、見方を変えてみれば、興味のひかれる問いであろう。
世界で日本のある作家(あるいは日本というもの)がどのように見られているのか、という問いに転換してみることもできる。
そのような問いは、『日本辺境論』での内田樹の視点を援用すれば、日本・日本人が、つねに、じぶんたちがどのように「見られているのか」という問いに回帰しつづけることで、じぶんたちのあり方を確認することの一環としてあるように見える。
なにはともあれ、「世界で村上春樹はどう読まれているのか」をめぐるシンポジウムが2006年に日本で開催され、『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)として編まれている。
「村上春樹」作品をさまざまな言語に訳す翻訳者たちなどが集まり、いろいろな視点で、ワイワイガヤガヤ、それぞれの翻訳版の紹介や議論をくりひろげてゆく。
そこでは、論点は、村上作品を基点にしながらもそれをこえて、日本や日本文学や日本文化、またグローバリゼーションなども加わってゆくのだ。
それでも、とくにひきつけられたのは、アメリカの小説家リチャード・パワーズ(Richard Powers)による基調講演「ハルキ・ムラカミー広域分散ー自己鏡像化ー地下世界ーニューロサイエンス流ー魂シェアリング・ピクチャーショー」(柴田元幸訳)であった。
2018年に発刊された最新作『The Overstory』が「2018 Man Booker Prize」の最終選考にのこり、またこれを読んだ柴田元幸が、リチャード・パワーズの代表作を簡単に決めつけてはいけないと思い直したという作品を書き続けているリチャード・パワーズ。
このひどく長い題名を冠した基調講演の冒頭のほうで、もろもろのあいさつを終えて、いよいよ、この長い題名のつけられた「世界」へと誘おうというところで、リチャード・パワーズはつぎのように語りはじめている。
いまからおよそ十年前、村上春樹が傑作『ねじまき鳥クロニクル』の仕上げにかかっていたころ、イタリアはパルマの研究所で、国際的なニューロサイエンティストの一団が、心のはたらきをめぐる、現代有数の影響力甚大な発見に行きあたりました。…
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
「講演」の体裁・形式からはみだしてゆくように、なんとも「物語」的な語り口で、リチャード・パワーズは一気に聴衆を、彼の「世界」へとひきこんでいるように見える。
少なくとも、これを読みながら、ぼくはなにか違う世界に入ってゆくような、そのような感覚にみまわれたのである。
ところで、ここで指摘される「影響力甚大な発見」とは、「ミラー・ニューロン」として知られるメカニズムのことである(この文章を読むまで、ぼくは「ミラー・ニューロン」の発見はもっと前の時代のものだと勝手に思っていた)。
このメカニズムによって、他者による行為をみるときに、「鏡」的に、自身のなかで同じ神経細胞が作動し、高次元の認知機能に益している。
リチャード・パワーズは、このメカニズムが発見されたサルの実験とヒトの実験にも言及しながら、そのインパクトと意義を語り、さらに村上春樹の作品と交差させてゆくという、なんとも興味深い、不思議な世界に、聴衆(読者)を誘ってゆくのである。
この「ミラー・ニューロン」とそのメカニズムの発見を含め、脳科学は1990年代にさまざまな発見や理論を生み出したことにふれ、それらをベースとした理解では、心というものは、「何百もの分散したサブシステムに分解され、それら一つひとつが、ゆるやかに絡みあった連合関係を成して、それぞれ個別に信号を発している」と、リチャード・パワーズは語る。
そう語りながら、彼は、「私は誰なのか?」という、古典的な問いとそれへの応えに接続させる。
…たったひとつの単語を口にするだけの営みですら、百人あまりのミュージシャンにシンフォニーを演奏させる行為になぞらえてもおかしくありません。
だとすれば、「私は誰なのか?」という自己の感覚も、こうした雑多なプロセスの上に浮かんでいるのであって、一義的な「アイデンティティ」などではありえません。それは騒々しい議会であって、そこではゆるやかなルーツでつながった議員たちがたがいにアップデートしあい、模倣し、修正しあう。そうした交渉を通して、自己はそのつど自らを作り上げているのです。そして、これがリツォラッティによるミラー・ニューロンの発見が示唆しているさらに重要な点ですが、そうした一人の人間の自己というゆるやかな議会は、それが触れあうほかの人間の自己たちを時々刻々アップデートし、それらほかの自己たちによってアップデートされてもいるのです。『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
原文がわからず柴田元幸の日本語訳に効果もあるのかもしれないが、自己の感覚を「雑多なプロセスの上に浮かんでいる」ものとしてとらえるのはイメージをひろげてくれるし、また「騒々しい議会」という表現もなかなかおもしろい(「議会」が言葉として使われるのは、アメリカ的なのかと、アメリカの中間選挙の状況を追いながら思ってしまうのである)。
一義的なアイデンティティのような「私」ではなく、他者をもまじえながら、つねにアップデートしあっている、それぞれの「自己」。
このような見方に、ぼくは賛同する(のだけれど、問いは、さらに射程を遠くに、あるいは深くに、投じられるところであるとも思う。たとえば、なぜ、「一義的なアイデンティティ」的感覚が(少なくとも表面的には)行き渡っているのだろう、とか)。
ぼくの、「私」をめぐる冒険、はつづく。
見田宗介の読み解く「村上春樹」の小説。- 「週末のような終末」とあたらしい強い思想の方へ。
ぼくが個人的に「師」と仰ぐ、見田宗介先生(社会学者)。
ぼくが個人的に「師」と仰ぐ、見田宗介先生(社会学者)。
見田宗介先生の著作などから、ぼくは「人や社会や世界」の見方を学び、その見方をぼくなりに日々採用して、人や社会や世界を見て、いろいろと考えるわけですが、ときに、ある特定の人や事象などについて「見田宗介先生ご自身の見方」を聴きたくなることがあります。
そのような「人」のひとりとして、小説家の村上春樹氏がいます(ぼくにとっては、作品が出ればかならず読み、尊敬してやまない小説家です)。
見田宗介先生が村上春樹あるいは村上春樹作品をどのように読み解くだろうかと、とても気になるわけです。
ぼくが見田宗介の(ほぼ)全著作を読んできたなかでは、1985年~1986年にかけて朝日新聞「論壇時評」として書かれた文章群のなかに、「週末のような終末ー軽やかな幸福と不幸」と題された文章を見つけることができます。
その文章で、見田宗介は、村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985年)を取り上げています。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、村上春樹の一連の小説の流れにあって「画期」的な作品であり、見田宗介が論壇時評を書いていた年(1985年)に「日本文学の最大の収穫」と考えられていた作品です(ちなみに、『ノルウェイの森』で村上春樹から遠ざかっていたぼくが、村上春樹に回帰する契機となった作品でもあります)。
1986年に書かれた論壇時評(「週末のような終末ー軽やかな幸福と不幸」)で、見田宗介は、つぎのように村上春樹に触れてゆきます。
昨年の日本文学の最大の収穫とされているのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹、新潮社)と題された小説である。…村上はこの小説で、世界が限定されたものであるという断念の上にひとつの肯定をさぐりあてている。
<私は死ぬのだーと私は便宜的に考えることにした。……そう考えると私の気分はいくぶん楽になった。>見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
この作品への他の批評のことばなどを取り上げながら、見田宗介はさらにつぎのように「見て取る」ことになる。
「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識の死を前にしての、<限定された人生には、限定された祝福が与えられるのだ>という述懐は、わたしたちの心にしみとおる。
けれどそれは、何という老人風の知恵だろう。「世界の終り」を、いわば二重の物のように、はじめから伴走させている青年たちの世代の生の物語。
村上春樹は「世界の終り」を自同律の快ともいうべき都市として描く。…見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
こうして、文庫のページ数としては6頁(うち村上春樹に直接に触れるのは4頁ほど)のなかに、見田宗介は濃密に凝縮された文章を織り込んでいきます。
ここではすべては取り上げませんが、のちに論壇時評の「最終回」においてこれまでの論壇時評を振り返るなかで、「世界の終り」を「週末のような終末」として感覚する世代たちをみながら、見田宗介は、1980年代なかばから21世紀前半にかけての本質的な課題をより明確な形で提示してゆくことになります。
…<週末のような終末>の中で、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を素材に、現在の若い世代の、明るい終末の感覚のようなものを見てきた…
…この世紀末は次の世紀が来るかという問いを、思想の内部に抱いた世紀末である。
前世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>ということだったように、今世紀末の思想の極北が見ているものは、<人間の死>ということだ。
それはさしあたり具象的には、核や環境破壊の問題として現れているが、そうでない様々な仕方でも感受されていて、若い世代はこのことを日常の中で呼吸している。核や環境破壊の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなくなっているはずだ。未来へ未来へと意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。
二十世紀の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。…見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
小説の世界に看取される、若い世代たちの感覚を出発点として、その感覚が人類ぜんたいの課題である<あたらしく強い思想>の要請につなげられ、語られています。
あるいは、このあたらしい思想の要請が、見田宗介の眼を通して、「週末のような終末」を感覚する世代たちを看取するのだということもできます。
この双方向性の(徹底的な)まなざしは、見田宗介の見方であり、あるいはいっそう、その視点の行き来が「生きかた」そのものであるところに、つきない魅力がひそんでもいるわけです。
ここで語られていることは、この文章が書かれてから30年を経過しても、けっして古くなることのない、人類の課題たちのひとつ(もっとも大きなもののひとつ)を指し示しているように、ぼくは思います。
今も、具象的には、核や環境破壊の問題が「日常の問題」として立ち現れ、ぼくたちは、<人間の死>という極北のイメージを日々呼吸しています。
それでも、「未来へ未来へと意味を求める思想」の体現としての社会システムと人々の生きかたは、それをのりこえることができず、自転車操業的に作動しつづけている状況にあります。
これらをのりこえる契機としては、やはり、「物語」ということの力がとても大きいだろう、とぼくは思うのです。
「物語」は、村上春樹の小説のような「物語」だけでなく、人間たちが<共に生きる物語>ということを共同幻想するところまでを射程とする<物語>を含みます。
村上春樹の小説から、話題はずいぶんとひろがってしまいましたが、この「ひろがり」のなかに、見田宗介先生の「本質的な問い」が見えるわけです。
ところで、ぼくの知る限り、見田宗介先生は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以降の作品に、他の著作等では触れていません(とはいえ、やはり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に触れたことがあるだけ、嬉しさの混じる「びっくり」ではあったのですが)。
それ以降の作品を読んでいらっしゃるとしたら、どのように「読んで」いらっしゃるのか、お伺いしてみたいものです。
「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。- 現実生活と創作のパラレルな存在。
「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている。
「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。
河合隼雄は、つぎのように、村上春樹にことばを返している。
河合 それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました、ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。…とくに『ねじまき鳥クロニクル』のような物語を書かれているときは、もう現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにあるのでしょうからね。だから、見る必要がないのだと思います。書いておられるうえにもう無理に夢なんか見たりしていたら大変ですよ。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。
ぼくは、なぜか、この箇所に、とてもひかれる。
詩や(『ねじまき鳥クロニクル』のような)小説などの創作と作品の本質ということ。
村上春樹や谷川俊太郎の作品が<意識と無意識の境目を往還すること>でつくられること(なお、村上春樹のインタビュー集のひとつは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』と題されている)。
そのようなことが、「夢」という文脈において、ぼくの強い関心をひらかせるようだ。
ちなみに、ここでふれられている、詩人の谷川俊太郎との「対話」が、どこのものかは定かではないけれど、「ユング心理学」をめぐる河合隼雄と谷川俊太郎の間の「対話」のなかで、「ぼくなんかも夢は見るんだけれども、ほとんど覚えてないんです。…」と、谷川俊太郎は河合隼雄に語っている(『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫)。
「夢をぜんぜん見ない」ということは「夢をほとんど覚えていない」ということと同質のこととして、ここでは捉えてもよいのだろう(※ 河合隼雄は「みんな夢は見ているんですよ。」と、上記の「対話」で谷川俊太郎に解説している)。
ところで、「夢をぜんぜん見ない」村上春樹も、(『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたいた頃)ただひとつだけ見る夢があると、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の「対話」で語っている。
その夢は、<空中浮遊の夢>である。
高いところに飛翔する空中浮遊ではなく、地面からちょっとだけ浮く<空中浮遊の夢>である。
この<空中浮遊>ということは「物語づくり」であると、河合隼雄は解釈をしている。
その対話を読みながら、ぼくもある時期、空中浮遊の夢、それも村上春樹と同じように、「地面からちょっとだけ浮く空中浮遊」の夢を見る時期があったことを、思い起こす。
ぼくもあまり「夢を見ない(覚えていない)」ほうなのだけれど。
読書に疲れたとき、ぼくは読書する。- たとえば、村上春樹『村上さんのところ』であったり。
読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
と書いてみて、こんなフレーズも悪くないと思いながら、これでは何を言っているのかわからないじゃないか、と思う。
たとえば、資本主義にかんする本を読んでいて疲れたら、ここ香港でも人気の村上春樹の『村上さんのところ』(新潮社)をひらく。
『村上さんのところ』は、何年かに一度期間限定で行われる、村上春樹と読者との「公開されたメールのやりとり」の「2015年」開催の記録である。
質問メールは、17日間のうちに「3万7456通」が寄せられ、それらすべてを読んだ村上春樹が「3716通」を選び、返事のメールを書く。
『村上さんのところ【コンプリート版】』(電子書籍)には、その「3716通のすべて」(400字詰め原稿用紙で約6000枚)が収録されている。
「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じで、最後のほうはかなりふらふら」であったというほどの「大作」であり、それだけを聞くと、読む側も疲れそうである。
けれども、一通一通のメールはさらっと読めるし、村上春樹による返事のメールは、どんな質問にも軽快に、ユーモアをふくめながら書かれていて、「質問への応答の仕方」を学ぶことだって、その気になれば、楽しみながらできる。
なによりも、あの、村上春樹の「リズム」は健在で、その場で即興で曲のちょっとしたフレーズを作って、リズムをつけて演奏するような「返信」だ。
そんなわけで、たとえば資本主義の本に疲れたら、ぼくはこの「リズム」にひたりながら、『村上さんのところ』を読む。
気がつけば、『村上さんのところ』の「3716通のすべて」は、はるか先である。
ときおり本をひらいて読むのだけれど、いっこうに、すすんでいかない。
読了を意識してしまうと、「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じ」になってしまうから、読み方は、読了を目指さないことである。
それにしても、いろいろな質問が投げかけられる。
こんなことを(こんなことまで)村上さんに聞くことの意味を、ついかんがえてしまったりするほどだ。
この期間限定のサイトを見ながら、ある人は、村上春樹のことが大好きな人がたくさんいることを感じ、「春樹さんはこのように言われて、『本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。』て思うことがありますか?」と質問を投げかけられる。
村上春樹は、この問いに、つぎのように応えている。
本当の自分とは何か?って、よくわからないですよね。人間というのは場合場合によって、ごく自然に自分の役割を果たしているわけで、じゃあタマネギの皮むきみたいにどんどん役割を剥いでいって、そのあとに何が残るかというと、自分でもよくわかりません。だから「本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。」みたいなことは、まったく思いません。せつせつと自分の役割を果たしているだけです。たぶん本当の僕というのは、いろんな役割の集合としてあるのだろうという気はします。…
村上春樹『村上さんのところ【コンプリート版】』新潮社
「本当の自分とは何か?」について、これだけ簡潔に、これだけ軽快に、でも本質の一面をつく仕方で書くのは、けっこう(というか、かなり)むずかしいものだ。
こんな「メールのやりとり」に、つい、立ち止まってしまって、『村上さんのところ【コンプリート版】』の世界でふりつづく大雪のなかで、ぼくの雪かきはまだまだつづく。
こんなふうにして、読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
追伸:
実のところ、香港の建築現場に組まれた竹の足場が、なぜか、ぼくに『村上さんのところ【コンプリート版】』
を連想させたのであったことを、ここにメモ。
だから、竹の足場の「芸術」の写真を、ともに、ここにアップロードしておきたいと思うところです。
「物語のあり方をもう一回考え直す」(村上春樹・河合隼雄)。- 物語、素朴さ、ただ生きること。
「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
ニュースを読みながら、ぼくは「あの日」を思い出していた。
「あの日」、ぼくは、大学の授業があって、午前の少し遅めの時間に家を出た。
東京の(当時の)東横線沿線に住んでいて、東横線で渋谷に出て、渋谷から大学のある巣鴨に向かうのが、ぼくの通学路であった。
遅めに家を出て、いつもと変わらず東横線に乗って、渋谷に出たのだけれど、東横線の渋谷構内がいつもとは異なる雰囲気につつまれている。
東横線は日比谷線につながってゆく線もあり、東横線構内の掲示板のオレンジ色の文字が、日比谷線のダイヤの乱れを伝えていたのだ。
その雰囲気が、ときおり起こるダイヤの乱れとは異なっていて、緊迫感が伝わってくる。
ぼくは掲示板を見ながら、緊迫した雰囲気の中、山手線に乗り換えて、巣鴨に向かった。
やがて「事件」を知り、それが、東横線からつながる「日比谷線」で起きたことに、人ごとではない、なんとも言い難い気持ちを、ぼくは抱いていた。
「あの日」から20年以上が経過し、時代と状況の変遷を感じながら、しかし、人と社会における「問題の本質」はあまり語られず、いまだに大きな問題として残っているように感じる。
心理学者の河合隼雄と小説家の村上春樹の「対談」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)は、「あの日」と同じ年、1995年の末に行われ、「問題の本質」に、直接に、またその他の一見すると関係のないような角度から触れたものであった。
何度読んでも、学ぶことがあり、また考えさせられる。
村上春樹は、「オウム」のつくりだした「物語」のなかに、「稚拙なものの力」を見て取りながら、「稚拙」だから無意味だと切り捨てることはできないと、この問題に正面から対峙している。
村上 …ある意味では「物語」というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)が僕らのまわりで、ーつまりこの高度資本主義社会の中でーあまりにも専門化し、複雑化しすてしまったのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。…
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
対談の内容に付された、このフットノートに対して、河合隼雄は、「稚拙な物語」というよりは「素朴な物語」と言う方がよいだろうとしながらも、基本路線において大賛成している。
河合 …「素朴」というのも、素朴であるほどいい、と言うわけでもありません。素朴な話を評価する規準は何なのかが問題なのだと思います。…私は「オウムの物語」の問題点は、素朴な物語に、現代のテクノロジーという、まったく異質なものを組み込んで物語を作ろうとしたことだと思っています。
「物語のあり方をもう一回考え直す」ために、私としてはこれまで「昔話」や「児童文学」を取り上げてきました。大人どもから見れば、まさに「稚拙」に見える物語が、どれほど深い意味を持っているかを示そうとしたつもりです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
あの頃を思い出して、ぼくは、ぼくの内面を問う。
「あの日」、あの頃、ぼくの内面では、いろいろと闘っていたのだと、あとで振り返ってみて、思う。
河合隼雄は、村上春樹と「コミットメント」について触れながら、「…コミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、『ここにコミットしなさい』『答えはありますよ』と」、語っている。
ぼくは、「コミットしなくちゃならない」という気持ちをひとまず<海外>に向け、翌年にはニュージーランドで過ごし、そこから国際関係を学ぶことを契機として「途上国の開発・発展研究」へと、コミットメントの対象を定めていった。
そこに「答え」があるとは思わなかったけれど、そこから多くの「問い」、そして学びと行動が生まれた。
それは、ぼくにとっての「物語」であった。
そうしてまた、「物語のあり方をもう一回考え直す」というところに戻ってくる。
「『物語』というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)」の、「素朴」な原層とは、を考える。
そこでぼくの中で立ち上がるのは、「ただ生きることの歓び」という幸せの原層である。
それは、だれしもがもつ<幸福感受性>(見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波新書)に支えられる、幸せの原層である。
<ただ生きることの物語>とは、どのようなものだろうか。
生きることの「特別な響き方」。- じぶんの<響き>を奏でる、ということ。
ぼくは音楽が好きだ。
ぼくは音楽が好きだ。
もちろん、すべての「音楽」が好きなわけではないけれど、生きるという経験の背景において、あるいはそのステージ上において、音楽がいつも奏でられている。
ぼくが音楽を好きなのは、音楽の街、浜松市に生まれたということも関係しているかもしれないし、物心ついたときにはピアノの鍵盤を通じて「音」を楽しんでいたことも理由(あるいは証拠)かもしれない。
20代前半くらいまでは、ギターなどを手に「音を奏でる」ことが日常であったのが、いつからか、「音を聴く」ことへと重心を移動させてきたところがある。
そして、ときに、音楽について、書く。
音楽について「書く」というのは、実はなかなか骨をおるところがあるのは、実際に書きながら、思ってきたところだ。
だから、小説家の村上春樹が音楽について書くのを読むようになって、文章のひろがりと深さ、そして何よりも、文章における音楽的なリズムに心を揺り動かされてきた。
批評家としての文章ではなく、「生きる=書く=音楽」がひとつになっているような、そのような文章である。
村上春樹が書く、そんな音楽に関する文章を読んでいると、ぼくの心の奥の「何か」がひらいて、ぼくは音楽を聴きたくなってくるのだ。
ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と聞かれたときに、ピアノを指差しながら彼が応えた言葉を、村上春樹はあるところで、「小説を書きながら、よく思い出す」言葉として、書いている。
モンクがどう応えたかを、まずは想像してみてほしい。
モンクは、次のように応えたという。
「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
モンクの語る英語を、このように日本語訳をする村上春樹はさすがであるけれど、村上春樹は小説を書きながら、この言葉をよく思い出す。
村上春樹は、「音」から「言葉」のことへとスライドさせながら、つぎのように書く。
…そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
ぼくは、「音」から「言葉」、そして「言葉」から「生きる」ことそのものへと、ここで語られることの本質をさらにスライドさせて読む。
「生きる」ということそのものも、抽象度を上げて語れば、形としての「新しい生き方」なんてないのだ、と。
でも、じぶんの生き方に、新しい意味や特別な響きをあたえていくことが、ぼくたちの生きるということでもある。
ぼくたちは、それぞれが、<違った響き方>で、じぶんの生を奏でてゆく。
そのことが、自己実現(self-actualization)ということの、ひとつの側面を語っているように、ぼくは思う。
「文化的無臭性」(四方田犬彦)という視点。- 香港における「日本の小説やテレビ」を通してかんがえる。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
誰でもよく知っているテレビドラマとして挙げられているのは、『キャプテン翼』『きまぐれオレンジロード』『キャンディ・キャンディ』『Dr. スランプ アラレちゃん』『ミスター味っ子』『ロングバケーション』『おいしい関係』などである。
また、也斯の子供たちは、『ドラえもん』『美少女戦士セーラームーン』『ちびまる子ちゃん』などを見て育ってきたという。
ここ香港では、今でも、街のなかで、『キャプテン翼』『ドラえもん』『アラレちゃん』『ちびまる子ちゃん』などを、よく見る。
先日はショッピングモールのイベント会場に『キャプテン翼』を見て、とても不思議な感じがすると共に、「キャプテン翼」の根底に流れる<普遍性>のようなものをかんがえていたところである。
ところで、四方田犬彦は、也斯への手紙のなかで、小説家の村上春樹の作品に言及しながら「文化的無臭性」という問題にふれている。
…恐るべき文化的無臭性が、ハルキの小説の根底に横たわっているのです。
誤解がないようにいっておきますと、わたしはハルキの作品が日本文学ではないと、単純化していいたいのではありません。彼はどこまで日本語で書き、日本を舞台に日本人を描いてきた作家です。ただ、強調したいのは、彼がこれまで海外の眼差しがステレオタイプとして享受し、また期待もしてきた日本的なるものから、完全に距離をとっているという事実です。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
香港でも、村上春樹はよく読まれており、新作が出ると、店頭に高く積まれることになる。
村上春樹の作品の登場人物を中国人名にしてみたら、香港の物語と受け取る香港の人たちは多いのではないかと、四方田は書いている。
そのような「文化的無臭性」に包まれる村上作品が海外に波及していく仕方は、「ある意味で日本のアニメや漫画、またTVゲームのそれと平行」していると、四方田はさらに指摘している。
そうして、日本文化であっても、香港文化であっても、それらの「ローカリティを犠牲にし、無臭性に徹することでしか、外国に受容されない」のだろうかと、彼はじぶんに問い、思考をめぐらせている。
「キャプテン翼」の<普遍性>のようなことをかんがえていたら、ぼくは、四方田犬彦のいう「文化的無臭性」という視点に、たまたま出くわしたのである。
世界の都市の風景と生活スタイルが「文化的無臭性」の方向に、一様化されてきているようなところは、実際の経験のなかで感じる。
「一様化」という言い方よりも、グローバリゼーションの流れにおける「標準化」の力である。
文化の地層を深く掘っていくことを通して、その根底に諸々の文化を通底するような水脈につきあたるのではなく、それとは逆の方向に「標準化」してしまうような力学だ。
「文化的無臭性」という見方をその表層においてぼくは理解しつつ、村上春樹の作品の根底に「文化的無臭性」が横たわっているのかどうかは、ぼくにはわからない。
村上春樹自身が語るように、無意識の次元に降りて書くようなスタイルは、むしろ人間のなかの深い水脈に降りていくこともできるかもしれず、それは文化的無臭性とは逆の方向に<普遍性>を見出すようにも思えるからだ。
ぼくにはわからないけれど、ただ言えることは、ぼくたちの生は(ひとつの)文化だけに規定されているわけではなく、例えば「生命性/人間性/文明性/近代性/現代性」(見田宗介)というようにそれぞれが共時的に、ぼくたちのなかに生きつづけているということである。
それでも、「文化的無臭性」という四方田犬彦が提示した視点と問題は、ぼくのなかに収めておきたい視点と問題提起である。