「人間の成熟」ということ。- 谷川俊太郎と河合隼雄の「対話」が生みだす<ことば>。 / by Jun Nakajima

詩人の谷川俊太郎は、1970年代後半、心理学者・心理療法家である河合隼雄との「対話」のなかで、<人間の成熟>ということの考え方をつぎのように語り、河合隼雄に聞いている。

 

…たとえば人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね。
 しかし、昔ながらの一種の精神修養や修身的な発想でいくと、人間というのは人格をつくり上げていくものだというふうにとらえることがありますね。ぼくはそういうふうに人格がつくり上げることのできるものかどうかというとやや疑問で、むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいにむいていって見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか。

河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年。もとの作品は1979年に刊行

 

河合隼雄と谷川俊太郎との、この「対話」が収められた本『魂にメスはいらない ユング心理学講義』。

20年ほど前に、河合隼雄と谷川俊太郎という、ぼくの好きなお二方の対話ということで、文庫版を手に入れて読んだのだけれど、ぼくの側に、対話で交わされている言葉とそれらの余白の<ことば>を受け入れる素地ができていなかったからか、おそらく途中で読むのをやめてしまっていた本であった。

この「20年ほど」のなかで、西アフリカのシエラレオネ・東ティモール・香港で生きてきた経験と、また(たとえば)「自我・自己」ということをかんがえてきたこととが、ぼくの心と思考の素地に雨を降らし、陽光をあて、そこに芽を生成させてきたからか、ふたたびこの本の対話にふれると、ことばがぼくの深いところで共鳴するように感じる。

 

冒頭のように谷川俊太郎が語る「節」のタイトルは、<人は自分をハダカにしながら成熟していく>とつけられていて、そのことは今のぼくであるから、見えてくるようなところがある。

「人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね」と再確認する谷川俊太郎の語りの前に、河合隼雄は、「私」というもの/ことについて、ユング心理学を土台にして説明を加えている。

 

…「私」というのを普通の意味の私と本来的な私とに分けているんです。ユングはそれを「エゴ」と「セルフ」と呼んでいるんです。ぼくはほかに適当な訳語が見つからないんで「自我」と「自己」と訳しているんですが、自我というのは“説明可能な私”で、それは本来的な私とちょっとずれている。特にソーシャルな場面に入っていくほど、お世辞も言わんといかんことがあったりしますが、その底のほうに本来的な自己というのがあるとぼくらは思っているんです。

河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年

 

この「本来的な自己」を、河合隼雄は、「字では書けないもの」という絶妙な定義を加え、せっかくそういう本来的な自己(=字では書けないもの)を持って生まれてきたのだから、できる限り生かそうじゃないかと、自分の考え方を提示している。

谷川俊太郎の「質問」は、この「字では書けないもの」により接近してゆくように、「自分自身を変革するということも可能なような自己なんですか」という表現になって、河合隼雄に投げかけられてゆく。

河合隼雄も、その質問に導かれながら、つぎのように絶妙な仕方で応答する。

 

自我というのは変革できるが、自己というのは変革もくそもないわけで、何も名前のつかないようなもの、いわば無限の可能性みたいなものです。

河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年

 

こうして、「対話」は、冒頭の谷川俊太郎の言葉、「人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね」に、つながってゆくことになる。

そこから繰り出される谷川俊太郎の質問、「むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいにむいていって見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか」に対して、河合隼雄はつぎのように応えることになる。

 

ぼくもそういうふうに思います。ただその場合、むくのも自分ですので、それができるだけの力も蓄えねばいけない。

河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年

 

「自我・自己」ということが、追求され、展開され、深められてゆくこの「対話」が、ぼくは好きである。

そう、河合隼雄が言うように、ラッキョウの皮をむくために、それが<できるだけの力を蓄える>ことが必要である。

 

真木悠介は、「詩人」とは<自分と世界との境目がはっきりしない人間>だと定義している(『自我の起原』岩波書店)(*ブログ:「詩人」とは?「詩という現象」とは?。- 真木悠介による定義の明晰さ。)。

谷川俊太郎という詩人も、その「詩人」の定義に適合するように、ぼくには見える。

この本の最後には、そんな谷川俊太郎の詩のいくつかを、河合隼雄が「解釈」を加えるという試みがなされている。

<自我と自己との境目を行き来する人間>ともいうことのできる河合隼雄ならではの試みである。