「現代社会はどこに向かうか」という問いを立てて自ら応答してゆくなかで、社会学者の見田宗介は、「資本主義」の行く末について、その大枠をつぎのように書いている。
必要な以上の富を追求し、所有し、誇示する人間がふつうにけいべつされるだけ、というふうに時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する。必要な以上の富を際限なく追求しつづけようとするばかげた強迫観念から資本家が解放されれば、悪しき意味での「資本主義」はその内側から空洞化して解体する(人間の幸福のためのツールとしての資本主義だけが残る)。ホモ・エコノミクスという人間像を前提とする経済学の理論は少しずつ、しかし根底的に、その現実妥当性を失う。人間の欲望の全体性に立脚する経済学の全体系が立ち現れる。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「…時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」と、見田宗介は、人間の三千年の歴史を視界にいれながら、でも、それはやがてやってくる未来として明晰に語っている。
それにしても、たったこれだけの文章だけでも、ほんとうにとても多くのことが語られている。
それぞれをかんたんに見ておきたい。
(1)富の分配
「必要な以上の富」ということが触れられているが、上記の文章の直前で、「富の分配」と「競争」について、見田宗介は書いている。
日本を含む先進産業諸社会では、「すべての人びと」に、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」したとしても、そこには富の余裕がある。富の余裕は、未来にではなく、すでにここに存在している。
だから、「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景が一変する」ことは、「if you want it」(@ジョン・レノン)であれば、いつだって可能な世界に、ぼくたちはすでにして、いることになる。よく言われるが、世界の軍事費を貧困対策にまわせば、いつでも現在あるような形と内実の貧困をなくすことができる時代なのだ。
見田宗介自身が書いているように、経済的不平等や格差を「なくす」ということではなく、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」というところをまず確保することである。「余裕な部分」は、いくらだって経済ゲームで自由な競争をしたらよいと、見田宗介は指摘している。
なお、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」ということは、ベーシックインカムにつながるポイントとなるところだけれど、少なくとも認識しておくべきことは、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」をしても、「多大な富の余裕」が存在しているという現在についてである。
(2)「資本主義」の未来
社会学者の大澤真幸が、世界の終わりは想像できたとしても、資本主義の終わりは想像できない、というようなことをどこかで語っていたが、それほどに「資本主義」は、現在の世界を根底から形づくっているということである。
そのような「資本主義」の弊害はいろいろと語られてきたし、ここで議論を繰り返すことは目的ではない。
見田宗介が言及していることで肝要なことは、「人間の幸福のためのツールとしての資本主義」ということ。概念というほどまでここでは精緻化されていないし、具体的なところも描かれてはいないけれど、「資本主義」は資本主義であるままで、<人間の幸福のためのツールとしての資本主義>として機能させてゆくことができる見通しを、見田宗介はもっている。
それは願望という見通しではなく、現実に、<人間の幸福のためのツールとしての資本主義>の試みが見られ始めていることを含めての見通しである(見田は、アメリカで法制化されてきた「ベネフィット・コーポレーション」の動きに言及している)。
(3)経済学などが前提とする「人間像」のこと
さらに、さらっと書かれているようにも見えるけれど、<人間の欲望の全体性に立脚する経済学>ということが述べられている。
経済学などの専門家学は特定の条件のもとに理論を発達させ精緻化させてきたとはいえ、「ホモ・エコノミクス」という人間像のみを土台とする経済学に対して、これまでにもさまざまな批判とのりこえが提示されてきた。
たとえば、経学者アマルティア・センは、「合理的な愚か者」という言い方で「ホモ・エコノミクス」という人間像を批判し、経済合理性だけでなく「倫理」を動機として行動する人間像をもちこんで、理論をアップデートしようとした。「経済学」という体系の内部からののりこえである。
見田宗介は「社会学」を基盤としているけれど、ひろく「社会科学」また「人文科学」、さらには自然科学にまで視界をひろげながら、<人間の欲望の全体性に立脚する経済学>ということがひらかれることを見通している。
その見通しが拠って立つのは「理論」そのものということだけではなく、現実に、「ホモ・エコノミクス」という人間像のように行動する人間と社会が変わってゆくことを見据えている。理論と現実とはそのあいだにいろいろなギャップや齟齬がありながらも、それでも相互連関しているものであるからだと、ぼくは考えている。「光景が一変する」ところでは、現実も、理論も、変わってゆく。
時代の潮目が変われば、「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」。「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光」は、どれほど鮮烈かと、ぼくは想像する。
でも、この想像が現実化されることははるか彼方ではなく、この現代社会のなかにすでに、さまざまな仕方で生成しつつあること。そして、まずは、じぶんが悪夢から目覚めた朝の陽光を経験するところから、はじまってゆくのだと、ぼくは2019年のはじまりに、あらためて思う。