「脳の働きをさまたげない音楽」のこと。- 音楽を聞き「ながら」の仕事。 / by Jun Nakajima

ビル・ゲイツは20代のころ、一時期、音楽を聴くこととテレビを見ることをやめた。ソフトウェアについて考えることから、音楽やテレビが気を散らすと思っていたからだという。そんな時期が5年つづいたという。集中力を保つためには今ではメディテーションを行い、音楽もU2やWillie Nelsonやビートルズをよく聴くのだという。

ビル・ゲイツはこの話を、2018年の本のうちの一冊として選んだメディテーションの本(『The Headspace Guide to Meditation & Mindfulness』)について書いている文章の冒頭でもちだしているが、ぼくはここでは、「音楽」ということにフォーカスをあてたい。


ビル・ゲイツ自身が書いているように、音楽を聴くことをまったくやめてしまうことは極端である。「ながら族」をやめるのではなく、生活の一切において、じぶんから音楽を聴くことをやめてしまう。ソフトウェアに集中するために。

このようなことが「ビル・ゲイツ」をつくったのかもしれないが、当時のビル・ゲイツにとっては、音楽が「気を散らす」ものであった。

テレビにかぎらず、「音楽」は、人の「気を散らす」ものである。テレビはまだしも音楽は違う(気を散らさない)、と言う人もいるかもしれないけれど、「音楽」は人の気を(程度の差こそあれ)散らすものである。じぶんが「自己」に正面から向き合うことなどから、じぶんの気持ちを散らして/逸らしてしまう(「気を散らす」はわるいことのように語られるけれども、ここでは必ずしもわるいこととしては書いていない)。

けれども、ここでいう「音楽」は、さまざまな音楽をひとくくりにしすぎでもある。「音楽」はさまざまである。ロックもあればクラシックもある。日本語で歌われるものもあれば、英語で歌われるものもある。

そして、「音楽と人の関係性」も、さまざまである。それは、多様な音楽が人にあたえる影響はいろいろだし、その音楽を聞いている人がどのような状況でなにをしているのかもいろいろである、ということである。


「ながら族」である解剖学者の養老孟司は、つぎのように書いている。


 考えてみると、いまでは仕事中はほとんど音楽を聴きっぱなし、典型的な「ながら族」である。とくに虫の標本を作ったり、観察しているときには、耳が完全に空いている。だから、音楽でそこを埋める。原稿を書いているときも、同じである。いまはファン・ダリエンソが演奏するタンゴを聴いている。それが原稿とどういう関係があるというなら、まったくわからない。ただし歯切れの悪いことは書けないだろうと思う。ダリエンソをご存知なら、おわかりだろう。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)


それから、対談相手である久石譲に応え、曲の選び方は、好きとかではなく、<仕事の邪魔にならないもの>だと、養老孟司は語っている。タンゴなど、スペイン語であれば言葉の「意味」へとひっぱられず、<声を感じる>だけというようにである。

また、集中しているときには聞こえない。思考の途中でふっと気持ちがよそへいくとき、聞こえてくる音楽が<気持ちのいいもの>を選ぶ。

ちなみに、宮崎駿も絵コンテを切っているときなどに音楽をかけているのだと付けくわえながら、久石譲は作曲家として、つぎのように語っている。


久石 脳の働きを邪魔しない音楽というのは、僕も非常によくわかります。作曲家として、ある種、目指しているところでもありますから。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)


映画の音楽を担ってきた久石譲がめざす<脳の働きを邪魔しない音楽>。

ぼくはこのブログなどを書くときはだいたいにおいて「音楽」をかけないけれど、養老孟司と久石譲の対談を読みながら、<脳の働きを邪魔しない音楽>、また意識ではないレベルでなんらかの影響を与えるような音楽のことに(ふたたび)興味をもちはじめる。

「ふたたび」と書くのは、「歯切れの悪いことは書けないだろう」と、ファン・ダリエンソの音楽が養老孟司の心持ちをいくぶんかつくるように、ぼくにとっては、カザルスの音楽が、そのような影響をぼくに与えていたことがあったからである(カザルスの音楽の力を、ぼくは整体の創始者と言われる野口晴哉の本で知り、その力はぼくにも作用した)。

この機会に、ファン・ダリエンソを聴いてみよう(聴きながら、書くことをしてみよう)と思っている。