海外に住みながら「季節」のことをかんがえる。- 「雨季と乾季」あるいは「四季」を生きながら。 / by Jun Nakajima

「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。

紀年法などは、人間の「頭脳」に働きかけるのに対し、季節などは、人間の「身体」に直接に働きかけるものだと、ふと思ったのだ。

西暦の「2000年」や日本の元号の変更などが人びとの意識(そして行動)を変容させて時代をつくってゆくのに対し、一年そして季節のうつりかわりは、人びとの「身体」に直接に作用してくる。


2002年から海外に住んできたなかで、「季節」ということを、ぼくはときおりかんがえる。

2002年の半ばから2003年の半ばにかけて住んでいた西アフリカのシエラレオネ、それから2003年の半ばから2007年初頭まで住んでいた東ティモールで、ときおり、「季節」のことをかんがえたりしたことを思い起こす。

シエラレオネも東ティモールも赤道に近く、熱帯性の気候で、雨季と乾季のうつりかわりがある。それまで日本とニュージーランドに住んできたぼくの身体にとっては、この「雨季と乾季」の季節のうつりかわりは、新しさがあるいっぽうで、どこかなじまないようなところがのこる感覚があったことを覚えている。

もちろん「雨季」的な気候は初めてではないし、また「乾季」的な気候も初めてというわけではない。でも「四季」にすっかり慣れてきた身体にとって、最初の一年・二年のころは、そのような新しさによる興味、それからなんとなくの違和感を感じたのである。

熱帯性の「雨季と乾季」では、日本のような寒い「冬」は訪れないから、それはそれでとても過ごしやすいところでもあるのだけれど、「四季」に慣れ親しんできた身体だからだろうか、最初のころは「四季がない」というふうにかんがえてしまう。四季という季節のうつりかわりの「いいところ」が、ちらほら、ぼくの脳裡にうかんできたりするのであった。

あるいは、いい・わるいということよりも手前のところで、四季ではない季節をすごしてゆくことで、「季節」というものが、じぶんの身体に及ぼす影響のようなものをよりいっそう感じ、ぼくはときおり季節のことをかんがえていたのだ。


東ティモールですっかり「雨季と乾季」の気候に慣れたあと、ぼくは、ここ香港に移り住むことになる。

亜熱帯性の気候の香港。日本と比べると、相対的に、冬はそれほど寒くはない。日本のような秋の紅葉があるわけでもなく、冬に雪はふらない。それでも、そこにはやはり「四季」が、香港の「四季」がある。

東ティモールの「雨季と乾季」を経験している身体であったから、よりいっそう、「四季」に敏感であったのかもしれないと、今では思う。日本から直接に香港に来たのであれば、香港に、四季の「欠如」を見ていたかもしれないし、あるいは「香港の四季」に気づくのに、もっと時間を要したのかもしれない。

でも、やはり、香港には香港なりの季節のうつりかわりがあるし、さらには、「雨季と乾季」のシエラレオネや東ティモールにだって、シエラレオネなりの、また東ティモールなりの季節のうつりかわりがある。

それら季節のうつりかわりのなかで、季節の影響を受けながら、あるいは季節を楽しみ享受しながら、人びとはそれぞれの仕方で、それぞれに生きている。

都市/「脳化社会」(@養老孟司)は季節をできるかぎり脱色してゆくようなところがあるけれど(そうすることで人間社会を自然的制約から離陸させてきたけれど)、そうでありながら、しかし、あたりまえだけれど季節はなくなることはないし、いろいろな仕方で、生きるということと共振している。

「異文化」だけでなく、<異気候/異季節>ともいうべき視点も、海外に住みながら、ぼくはいっそう、この身体に感じてきたし、これからも感じてゆくことを思う。