成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima 成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima

自身の「西洋的」な素養の起源。- 解剖学者・養老孟司の推測。

解剖学者の養老孟司に学ぶのは、20年以上まえに「唯脳論」というパースペクティブに視界がひらかれたとき以来、ぼくにとって心躍る経験である。その養老孟司が「本」の読み方について語るのを読むことも、また楽しいものだ。

 解剖学者の養老孟司に学ぶのは、20年以上まえに「唯脳論」というパースペクティブに視界がひらかれたとき以来、ぼくにとって心躍る経験である。その養老孟司が「本」の読み方について語るのを読むことも、また楽しいものだ。

 著書『世につまらない本はない』では、養老孟司の生の道ゆきで影響を与えた本として、哲学者デカルトの『方法序説』、それから精神医学者R.D.レインの『ひき裂かれた自己』が挙げられていたのは興味深かった。とりわけ、レインの著作を読んで、自身の心の問題が治ってしまった経験、また当時心理学に興味をもっていた養老孟司が、レインの著作を通じて、そこに心理学ではなく「論理学」を見出した経験は、ぼくの関心をひく。

 ところで、養老孟司が言うように、レインのよってたつ精神分析は「ある種、西洋的」である。つまり、「個人」が自己という世界を精神として打ち立てている。西洋=個人主義という見方は表層的だけれど、それでも、やはり「個人」という世界がつくられるのは「西洋的」な側面がある。西洋的自我である。

 レインの著作にこのようにふれながら、養老孟司はじぶん自身について、「個人的な考え方では非常に西洋的」だと語っている。そして、そこにはカトリックの学校に通っていたことが影響しているかもしれないと推測している。とはいえ、カトリックの影響が「信仰」として取り込まれたのではなく、「神学」という形ではいってきたのだと、養老孟司は語る。

 さらに、「世間」を探究し、「世間」というものを<外から見ること>のできた阿部謹也の境遇にも、思考をひろげている。

 …日本の世間の中にずっぽり浸かっている人はどうしても客観的になれない。逆に言えば、客観的になる必要がない。しかし、塀の上から見ると、中がある程度わかるのです。
 『「世間」とは何か』を書いた阿部謹也さんもそうだっと思う。
 彼も修道院か何かで育っている。やっぱりある年代にああいう西洋的なもの、特にカトリック的な、ああいう世界に触れると、社会に対する妙な客観性ができるのでしょうか。

 養老孟司・池田清彦・吉岡忍『世につまらない本はない』朝日文庫

 だいぶ以前に読んだ阿部謹也の著作を思いながら、なるほどとぼくは思う。また、「日本社会」への客観的かつ透徹した視野を同じように獲得したであろう人物として、やはり、山本七平(主著『空気の研究』など)を思わずにはいられない。

 養老孟司の語りに耳を傾けながら、ぼくは「じぶん」を対話におく。思えば、ぼくも、幼稚園でキリスト教にふれていた。べつにぼくの家族がクリスチャンであったわけではないし(じっさいには仏教であったけれど、そもそも信仰というほどには程遠いところだったと記憶している)、クリスチャンになろうとしたわけでもない。たまたま家からもっとも近い、徒歩5分ほどの幼稚園(創立は大正時代)が、キリスト教主義を掲げて幼児教育にとりくんでいただけである(インターネットで調べると、その歴史の深さを感じさせられます)。

 養老孟司と同じように、ぼくにも「信仰」が取り込まれたわけではなく(ぼくはいわゆる「信仰」をもたない)、やがて20年からそれ以上の歳月をかけて「社会学(宗教社会学)」のような仕方で、ぼくの学びの対象となっている。ただ、当時の断片的なイメージは記憶に残っているし、幼稚園に通っていたときにいただいた誕生日カードには聖書からのことばが記されているのを見ることができる。

 もしかしたら、ぼくも当時、まだ「自己」というかたちがその輪郭をあやふやにしていたときに、この「異文化」に何かの影響を受けたのかもしれないと考えてみることができる。「個人」として、日本社会にある距離をおいて客観的に見ようとする。そんな素養は、40年前のあのときに、種がまかれたのかもしれない。

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一生にすくなくとも一度は<人間の網の目の外へ出る>文化。- 真木悠介が引用するゲーリー・スナイダー。

社会学者の見田宗介先生が、1970年代に真木悠介名で書いた著作に『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房)がある。カルロス・カスタネダの著作を素材にしながら、(現代を含む)近代をのりこえてゆく方向性に、<人間の生きかた>を発掘してゆくことを企図して書かれた本である。

 社会学者の見田宗介先生が、1970年代に真木悠介名で書いた著作に『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房)がある。カルロス・カスタネダの著作を素材にしながら、(現代を含む)近代をのりこえてゆく方向性に、<人間の生きかた>を発掘してゆくことを企図して書かれた本である。

 ミニマリストとなって、ぼくは基本的に書籍は「電子書籍」で読むようになった。けれども、見田宗介=真木悠介の主要な著作群はいまでも紙の書籍を手放さないでいる。ちなみに『気流の鳴る音 交響するコミューン』は電子書籍化されて、いつでも、どこにいても手にいれることができる。でも、ぼくの人生をたしかに導いてくれた本であり、また「導いてくれた」というように、ぼくにとっての「過去」になったわけではなく、いまも引き続き、さまざまな仕方でぼくを触発してくれる本であるから、どの国・地域にいこうとも、ぼくと共に在る本だ。

 『気流の鳴る音』をひらいて、いつものようにページを繰りながら、そのときそのときに「引っかかる」箇所に、ぼくの眼は降りたってゆく。今回のブログでは、そのなかで改めて考えさせられた箇所を挙げたい。

 真木悠介は、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder)のエッセイから、つぎの箇所を引用している。

 「多くのアメリカ・インディアンの文化においては、その社会の一員は、かならずいちどは、その社会の外へ出なくてはならないことになっている。ーーー人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ、一生にすくなくとも一度は。彼がこの幻をもとめる孤独な旅からかえってくるとき、秘密の名まえと守護してくれる動物の霊と、秘密の歌をもっている。それが彼の『力』なのだ。文化は他界をおとずれてきたこの男に名誉をあたえる。」
 * Gary Snyder, Earth House Hold, 1957.  片桐ユズル訳『地球の家を保つには』社会思想社、1975年、190ページ。

 なお、「引用」については、引用の引用はなるべくなら避けたい。原典にもどることが原則だけれど、ここでは引用の引用で挙げさせていただくことにする。それにしても、「引用」は実は奥の深い方法である。引用は読む側としては容易に見えて、書く側としてはけっこう難しい。引用の仕方・方法や効用だけでも、大きなトピックである。

 なにはともあれ、ゲーリー・スナイダーが他の著作でピューリッツァー賞を受賞した年(1975年)に発刊された翻訳版『地球の家を保つには』から、上に挙げた箇所を引用している。もちろん、これまでも幾度となく読んできた箇所だけれど、今回読み返していて、いっそう、ぼくを揺さぶったところである。

 社会の一員が、生きているうちにすくなくとも一度は<社会の外へ出る>という方法をそのうちに装填してきた文化を、ただただすごいと思う。それぞれに孤独な旅からかえっきたときに、その旅で手に入れた『力』を、その内的な力としてゆく文化。

 そのことを考えながら、はたして、日本の文化はどうだろうかと思う。すくなくとも現代の日本ではそうはなっていないように感じられる。ここでは歴史社会的な観点を含めての考察は「課題」として残しておいて、いずれ「少し長めの文章」で書こうと思う。

 でも、ぼく自身の経験からひとつ言えるのは、ひとつの文化にあっては、ぼくはそうあって欲しいと思う。一度はすくなくとも<社会の外へ出る>ことを触発しあい、それぞれの孤独な旅で得たそれぞれの「力」を、内的な力としてゆく文化。

 養老孟司先生の「参勤交代」(半年ごとに都会と田舎を行き来するアイデア)もおもしろいし、ぼくも望むところだけれど、一度は「人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ」出ることを装填する文化をつくりあげてゆくことは、またおもしろいものだと思う。

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「旅の仕方」がかたちづくられるとき。- 「はじめてする」旅の憶い出のなかで。

香港の、住んでいるところの近くの道を歩いていたら、ふと、香港を旅していたころのことを憶い出した。

香港の、住んでいるところの近くの道を歩いていたら、ふと、香港を旅していたころのことを憶い出した。

憶い出していたのは、「旅の仕方」ということである。どのように旅をするのか。どのように旅をつくり、どのように街を歩き、どのように食事をし、どのように人とふれあうか。そのような、じぶんの「旅の仕方」というものは、旅をしはじめたころの影響が大きいのではないか、ということを感じたのである。

はじめて海外を旅したのは1994年の夏のことで、横浜からフェリーにのって上海に入った。この旅の大半は一人旅であり、海外一人旅の魅力にとりつかれることになった。

それから、ここ香港に来たのは、翌年、1995年のことであった。やはり暑い夏の日であった。はじめての飛行機の旅でもあった。香港を経由して、広東省、そこからベトナムに飛んだ。そんな旅のルートに香港を組み込んだのだ。香港は旅の入り口と出口であった。

作家の沢木耕太郎の『深夜特急』(新潮文庫)の旅のはじまりは「香港」であった。後年、沢木耕太郎は、旅の「はじまり」が香港であったことが幸運だったことを述懐している。「旅の仕方」を、香港で構築することができたようだ。

ぼくの「旅の仕方」も沢木耕太郎の経験と交差するようなところがある。ぼくにとっては、海外一人旅をはじめたころの「旅の仕方」が、その後の「旅の仕方」の原型のようなかたちで、ぼくのなかに刻まれている。その「はじめのころ」というのが、1994年の中国(上海・西安・北京・天津)の旅、それから1995年の、香港・広東省・ベトナムの旅であった。

香港の街を歩いているとき、ふと、そんなことを思うのである。


旅というものが、しばしば人生におきかえられるように、「旅の仕方」ということも、日々の「生きる仕方」におきかえることができるようなところがある。「旅の仕方」が旅の初期の経験のなかでかたちづくられるように、「生きる仕方」も、それぞれの「初期の経験」のなかにかたちづくられる。

なにかを「はじめてする」とき、つまり、それまでの「じぶんの枠組み」(コンフォート・ゾーン)からはみだしてゆくようなときに、「じぶん」という経験の核心のようなものがあらわれやすかったり、あるいは「じぶん」をかたちづくる核心のようなものが生まれやすいのではないか。

そんなふうに、ぼくは思う。

そんなことを思い、考えていたころに、香港の大衆食堂で雲呑麺を食べていたら、あの、「旅の仕方」と「生きる仕方」が重なって現れるような感覚が、ぼくのなかで湧き上がってきた。

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ひきだしに、海外のコインや紙幣。- 「寄付」で、新たに息を吹き込む。

家のひきだしの奥のほうにたまっていきやすいものに、海外のコインや紙幣がある。ぼくのひきだしにも、オセアニアからヨーロッパ、アフリカ、それからもちろんアジアの国々まで、さまざまな国々のコインや紙幣が「埋もれている」のであった。

家のひきだしの奥のほうにたまっていきやすいものに、海外のコインや紙幣がある。ぼくのひきだしにも、オセアニアからヨーロッパ、アフリカ、それからもちろんアジアの国々まで、さまざまな国々のコインや紙幣が「埋もれている」のであった。

そもそも「埋もれる」ことを望んで、コインや紙幣をキープしていたわけでは、もちろんない。そのときそのときに「思い」があって、ひきだしにいれたわけである。

あるときは、旅の終わりに、素敵な体験を胸に「またぜったい来よう」と思ったのである。つまり、「また使うから」という思いで、ひきだしに入れたのである。

あるときは、やはり「思い出」として、手放せなかったこともある。

また、あるときは、単純にコインが残ってしまい、他の国々でどうすることもできなくて(もちろん捨てるわけにはいかない、と思い)、そのままになってしまったこともある。

そんないろいろな「思い」が、コインと紙幣にこめられて、ひきだしに眠りつづけてきたわけである。


使い切れなかったコインや紙幣は、たとえば、帰りの空港や飛行機(キャセイ航空など)のなかで寄付することができたりする。でも、「どこかで使うかもしれない」と思って財布に残したり、あるいは帰路忙しくしているうちに、気がつけば家のひきだしにしまわれているのである。

ぼくのひきだしには、20年分くらいの、さまざまなコインや紙幣があったわけで、ここまでたまってしまうと、これらのコインと紙幣のあつかいにこまってしまう。なお、コインや小さい額の紙幣は街の両替所ではとりあつかってくれないから、両替もできない。

ネット検索ではあまりいい情報がなく、ぼくの記憶の片隅に、香港国際空港のどこかに「寄付用のボックス」があったのだけれど確かではない。他のひとたちにも尋ねてみたりして、空港に「寄付用のボックス」があるという、ぼくの記憶とマッチする応答もあった。

そんなこんなしているうちに、ユニセフ(UNICEF)が、直接に寄付を受け付けているのをネットで見つけたのであった。そもそもキャセイ航空の機内でのコイン寄付は、ユニセフへの寄付である。海外のコインの寄付の手段としてキャセイ航空の機内がすすめられていることに加え、直接にも受け付けているとのことである。

それで、さっそくユニセフに足を運び、結構な重さのコインと紙幣を手渡したのであった。こうして、家に「埋もれていた」海外のコインや紙幣は、生き返ったのである。

それにしても、家に「埋もれていた」海外のコインや紙幣には、いろいろなことを考えさせられたのであった。


他方で、以前、NGO職員をしていたころ、西アフリカのシエラレオネでユニセフと仕事をしたことも思い出す。これらのコインや紙幣が「支援」の一部として使われるといいなぁと思う。

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「食器トレーの返却」がきざまれた心身。- 日本と海外の「あいだ」で。

ファーストフードや大衆食堂などで、食べたあとに食器トレーを返却口に返却する、という動作が身体にしみついていると、同じような状況において「返却しない」ということに引け目のような気持ちを感じる(ことがある)。

ファーストフードや大衆食堂などで、食べたあとに食器トレーを返却口に返却する、という動作が身体にしみついていると、同じような状況において「返却しない」ということに引け目のような気持ちを感じる(ことがある)。

たとえば、マクドナルドを想像してみるとわかりやすい。日本のマクドナルドで「返却する」ことを「あたりまえ」のようにしてきた身体が、海外のマクドナルドに立ち寄って「返却しない」ことが「あたりまえ」の状況におかれる。返却せずに、食べたあとのトレーをテーブルに残したままに席を立つ。

それらを片付けてくれる店員さんがいて、トレーを片付けてくれるのはわかっているのだけれども(そしてその「仕事」があるから店員さんはそこでの仕事を確保できるのだということもわかっているのだけれども)、じぶんの心身は「じぶんで返却する」意思が働く。でも、その意思をおさえて、その場その場の仕方にあわせて、テーブルのうえにトレーを残したままにするのだ。


そんな経験を海外に出るようになった最初のころだけでなく、ぼくは今でもする。「じぶんで返却する」意思がじぶんのなかで作動しはじめるのを感じることがあるのである。

「返却口」がまったくないようなところであれば返却はできないので、まったく気にはしないのだけれど、マクドナルドのように、トレーを返却する場(でも返却を求められているわけではない場)が設置されていると、頭ではわかっていても、「じぶんで返却する」モードが作動しはじめることがある。

返却がもとめられていれば、わかりやすい。そして、わかりやすいだけでなく、ぼくのなかで作動しはじめる「じぶんで返却する」モードは、それが作動する機会を得ることで落ちつくのでだ。

ここ香港でも日系のファーストフード(たとえばモスバーガー)や大衆食堂などでは「返却口」が設けられ、テーブルなどに「返却をもとめる」表示がされていたりする。でも、このシステムは「一般的」ではないから、なかなか浸透していかない。よい・わるいではなく、仕組みの違いである。


こんな具合であるのだけれど、面白い体験をした。ある大衆食堂のようなところ(日本の料理を提供する「日式」の大衆食堂)で食事を終えて、トレーを返却口に戻すように表示があるから、ぼくはトレーを返却口に戻した。返却口付近の店員さんが、笑顔で、そのトレーを受け取ってくれる。「ありがとうございます」と、ぼくに広東語で伝えながら。

ぼくも「ありがとうございます」と応答して、席にもどる。荷物をとってお店を去ろうしたところ、先ほどトレーを手渡した店員さんがやってきて、笑顔で話しながら、ぼくに「クーポン」を手渡してくれたのだ。

どうやら、「トレーを返却した」ことに対する御礼として、返却御礼としての「クーポン」である。クーポンにはそのように記載されている。「多謝您支持自助回収…/THANK YOU FOR RETURNING YOUR TRAY」というように。トレー返却への感謝としての「クーポン」を受け取ったのは、はじめてであったし、その発想にびっくりしてしまった。

再度笑顔で応答し、面白い体験の余韻を感じながら、ぼくはお店をあとにした。

そんなこんなで、ぼくはトレーの返却について考えさせられ、書いている。日本にいたときは「あたりまえ」であったことが、こうして「あたりまえ」ではないものとして日々体験される。

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かつて「使われなかった紙幣と硬貨」を使う。- 時空を超える香港の紙幣と硬貨。

海外のいろいろな場所を行き来してきて、いろいろな紙幣と硬貨がたまってしまっている。そんな紙幣と硬貨を整頓していたら、香港の紙幣と硬貨が出てきた。まさかそこに香港の紙幣と硬貨があるとは思っていなかったから、少しびっくりする。

海外のいろいろな場所を行き来してきて、いろいろな紙幣と硬貨がたまってしまっている。そんな紙幣と硬貨を整頓していたら、香港の紙幣と硬貨が出てきた。まさかそこに香港の紙幣と硬貨があるとは思っていなかったから、少しびっくりする。

びっくりしたと言っても、これまで行ったこともないところの、使ったこともない紙幣や硬貨がおさめられていたわけではない。そうではもちろんないけれど、それらは、ぼくが初めて香港を旅したときに使われなかった紙幣と硬貨である。

初めての香港の旅は1995年で、24年まえのことである。ぼくはそのとき、大学2年生であった。

1995年の旅で使われなかった紙幣と硬貨は、それからそのとき住んでいた日本(東京)へと行き、そこでだいぶ長い時間を過ごしたあと、2007年以降、ぼくが香港に移り住むようになってから、ここ香港に戻ってきたことになる。

ずいぶんと、長い時間と広い空間をこえて、ふたたびその生地に戻ってきたわけだ。そのあいだに、時代も、香港も、ずいぶんと変わったものだ。


それにしても、そんなふうに「旅」してきた紙幣と硬貨を手にしてみると、なんだか不思議な感じがするものだ(でも、こんなことを不思議に感じるのは人間だけだろう)。思い出のモノに触れるとタイムスリップしてしまうような話を映画やドラマで観ることがあるけれど、そのような話を創ってきた人たちが「素材」としたであろう体験と同じような体験であるかもしれない。

自分の体験の記憶はときにあやふやに感じられる。思い出のモノは、そんな記憶に対して確証を与える(かのようだ)。使われなかった香港の紙幣と硬貨は、ぼくが確かに、ここ香港に来たことを確証してくれる。でも、そんな確証はなんのために、とも思う。大切なことは、「今」をどのように生きているのか、ということ。

使われなかった紙幣と硬貨は、当初、「いつかまたきたい」という希望や予測のもとに残されていたものだろう。その場所を去るまで、もしかしたら必要になるかもしれない、と思って、少し残されていたものだろう。でも、その「いつか」や「万が一」はやってこない。それらがやってきたときは、そのときはそのときでやりくりすればいい、ということ。

モノへの執着を減らしてゆくこと(他方でモノを大切にしてゆくこと)をこの数年で試みてきて、うまくいった部分もあれば、うまくいかない部分もまだある。けれども、大切なのは「今」をどう生きるかということ。このことに光をあてながら、少しずつだけれど、シフトしてきている。「過去」を大切にしないわけではない。「今」を大切にすることで、「過去」に光があてられるということ。


こんなことを思っていると、ぼくのなかで、「何か」の流れをストップさせていたのかもしれない、という想念が浮かぶ。「お金」は社会の血液のようなもので、流れをとめてはいけない。「お金」がその役割を十分に果たせるようにしてあげなければいけない。

すぐさま、ぼくは、これらの紙幣と硬貨を財布に入れて、使うことにした。そして、そのうちのいくらかは、翌日、実際に使われたのであった。

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「自分」をバージョンアップさせてゆく。- たとえば、海外で暮らしてゆくなかで。

「自分」であること。一貫性をもった振る舞いかたで、どこにいっても、どんなときも「自分」をもっていること。確固とした「自分」であること。そのような、不動で、確固とした、強い個人像のようなものが有効であり、また強く信じられることがある。

「自分」であること。一貫性をもった振る舞いかたで、どこにいっても、どんなときも「自分」をもっていること。確固とした「自分」であること。そのような、不動で、確固とした、強い個人像のようなものが有効であり、また強く信じられることがある。

その有効性も感じながら、海外でそれなりにながく暮らしてきて思うのは、むしろ、これと逆のありかた、柔軟で、一見すると個がないように見える振る舞いの有効性である。


ぼくたちは、ある文化のなかで生まれ、育てられるなかで、その文化や環境に適合性のある仕方で教育され、そのように振る舞うことが期待され、ときには反感をもちながらも、期待に応えるように振る舞い、生きてゆく。

でも、国際化やグローバル化のなかに身を投じることでより明確にわかってくるのは、そのようなある文化のコードは、ぼく(たち)の人間性の一面にすぎないということである。ある文化で高く評価される一面が、他の文化にいけば、まったく評価されないということがある。「謙虚さ」などは、わかりやすい例かもしれない。日本で大事にされるある種の謙虚さが、異文化のなかで負の側面となって現れることにもなるのだ。

そんな状況にでくわすときは、自分の振る舞いの「自明性」に疑問がなげかけられるときでもある。これまで「A」と教えられ、Aの振る舞いを身体にきざんできたのが、あるときそれと反対の「Z」も大切で、環境や状況によっては有効なんだということを体験していく。

自分にとってデフォルト「A」の振る舞いに対して、反対の振る舞いかた「Z」を学んでゆく。Aを捨ててしまうのではなく、Aも残したままでZもとりこんでいく。AもZも自分の振る舞いかたとして、そのいわば人間の特質の<全体性>を獲得していく。

<全体性>を獲得した個人は、環境や状況に応じて、どちらにも柔軟に振る舞うことができる。そんなふうにして「自分」をつくっていく。そして、それは反対の振る舞いを排除しないという仕方で、<多様性>にひらかれていく仕方でもある。


柔軟に主体を変えてゆく構えは、あたかも、日本的な「主体」であるようにも見える。日本では、「主語」は置かれる立場などによって変わるし、また「主語」がその<場>に投じられて消えてしまうこともある。

けれども、ぼくが経験から思うのは、一度、その日本的な主体から<出ること>が大切なのだということである。つまり、確固とした「主体」を、いつも変わらない「主語」(I)で生きてみることである。

そのうえで、どちらも自由に行き来できるようなところに、バージョンアップさせてゆくことである。

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機能集団と共同体の「二重構造」としての日本の会社。- 『日本資本主義の精神』(山本七平)の視点のひとつ。

山本七平(1921-1991)による鮮烈な「視点の提供」である、著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)。日本の外(海外)で働きながら、異文化のはざまで「働く」ということを見つめつづけてきたぼくの実感と思考から照らしたとき、この本は刺激的であり、指摘はきわめてするどく、そして40年を経過した「いま」でも(また「いま」だからこそ)有益な視点を提供してくれている。

山本七平(1921-1991)による鮮烈な「視点の提供」である、著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)。日本の外(海外)で働きながら、異文化のはざまで「働く」ということを見つめつづけてきたぼくの実感と思考から照らしたとき、この本は刺激的であり、指摘はきわめてするどく、そして40年を経過した「いま」でも(また「いま」だからこそ)有益な視点を提供してくれている。

「いま」だからこそ、ということの理由は、「日本に発展をもたらした要因はそのまま日本を破綻させる要因」であると山本七平が見ていたように、「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展の仕方は、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」というところへつながってしまう可能性があるのであり、この「何だかわからないが、こうなってしまった」と感じられてしまう現象を、たとえば、海外の日系企業の人事マネジメントにぼくは見ることがあったからである。


海外における日系企業の人事マネジメントは、異文化間の差異が顕著にあらわれるところである。山本七平が取り上げているように、「契約」にかんする考え方と実践は、40年まえも、そして今も異文化間の差異が見られるところだ。

「差異」自体は仕方がないことであるし、よりよいマネジメントへの源泉とすることもできるものである。問題は、日本の仕方を自明(「あたりまえ」)のものとしながら、この差異から発生することがらを「正しくない」「悪い」ものとして考えてしまうことである。「うちは日本の会社だから…」という見方もひとつだけれど、「ここは日本ではない…」という見方もできるのであり、なによりも、視野を大きくすれば、海外の日系企業は、その場所から切り離された存在ではなく、その場所の「社会構造ー精神構造」のなかで活動するのであるから、少なくともマネジメントの「方法」については、オープンであるべきと、ぼくは考える。

ただし、オープンになることのためには、そこの文化や相手を知ることのほかに、じぶん(たち)の日本的特質を「あたりまえ」のものとしてではなく、<あたりまえのものではない>ものとして明確に自覚してゆくことが肝要である。山本七平が、「自己がそれによって行動している基準」を自覚していないということは「伝統に無自覚に呪縛されている状態」であることと語っているように、無自覚は「呪縛」のうちに人を放りこむのであり、オープンになることを阻害してしまうのである。

もちろん、自覚することに完全性を求めるのではないし、また一気に自覚するものでもない。「自覚してゆく」ということ自体が、成長・成熟の旅だということもできるからである。


『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』の第一章「日本の伝統と日本の資本主義」では、「日本の会社は、機能集団と共同体の二重構造」であることが書かれている。

日本の中小企業で見られた「神棚」や、それに代表されるようなある種の宗教性というべきものを「企業神」と山本七平は呼んでいる(ちなみに、山本七平は長年にわたり出版社を独自に経営してきた中小企業の社長でもある)。そのような「企業神」は世界的な日本の大企業でも見られることにふれながら、日本の会社が「機能集団と共同体の二重構造」になっていることを指摘している。。ここで「企業神」は、利潤追求の機能集団としての会社の中心にではなく、会社共同体の中心に置かれることになる。

こうして、山本七平はつぎのように書く。


…日本の資本主義は、おそらく「企業神倫理と日本資本主義の精神」という形で解明されるべきもので、その基本は前記の二重構造にあるだろう。これが、日本の社会構造により支えられ、さらに、各人の精神構造は、その社会構造に対応して機能している。これを無視すれば、企業は存立しえない。
 この対応を簡単に記せば、機能集団が同時に共同体であり、機能集団における「功」が共同体における序列へ転化するという形である。
 そして、全体的に見れば、機能集団は共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化することを意味しているのであろう。…

山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)


このつぎに、山本七平は「血縁社会と地縁社会」という枠組み(日本は血縁社会ではなく「擬制の血縁社会」と位置づける枠組み)を活用して、さらに日本的特質へとわけいってゆく。

また、上記二重構造の「共同体」ということにおいて、アメリカやヨーロッパの共同体を見渡しながら、その違いを「機能集団と共同体の分化」に見ている。たとえば、イギリスの村共同体を述べながら、人びとはその共同体から社会(会社)に出稼ぎにいっている(つまり、機能集団と共同体が分化している)のに対し、日本の場合は、機能集団が共同体に転化している(いわば「団地共同体」から会社に出稼ぎにいく、というのではない)のだと指摘している。

このことを、ぼくが今いる「香港」の事情にあてはめるのであれば、機能集団と共同体が分化していて、そこでいう「共同体」は「家族共同体」ということになろうか。もちろん、現実はいっそう、曖昧さを残していることは言うまでもない。

いずれにしても、ここ香港で『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』を読みながら感じるのは、上述「二重構造」を基礎とした分析枠組みは、状況を把握するのに有効なツール(視点)のひとつであるということである。

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「平成」の半分ほどを海外ですごしてきて。- 「日本」との<距離>のなかで。

「昭和の終わり」の記憶を、ぼくはかすかに自分のなかに残している。中学生だったぼくは、その日、体育館に集められ(ここは記憶が定かではないのだけれど、もしかしたら、体育館に集まっているときに)、天皇崩御が伝えられた。それから「平成」がはじまった。

「昭和の終わり」の記憶を、ぼくはかすかに自分のなかに残している。中学生だったぼくは、その日、体育館に集められ(ここは記憶が定かではないのだけれど、もしかしたら、体育館に集まっているときに)、天皇崩御が伝えられた。それから「平成」がはじまった。

そののち、ぼくは平成の時代の半分ほどを、日本の外(海外)で過ごすことになった。海外で暮らすようになって、ときおり、今が「平成」の何年なのかわからなくなったものだ。だからといって、「平成の時代」から無縁であったわけではない。海外に出てからも、さまざまな回路をつうじて、ぼくはやはり「平成」を生きたのだとも言える。

海外で暮らすようになって、ぼくは、物理的に「日本」と距離をとることになった。物理的に距離をとりながら、精神的にも「距離」をおくことができたのだけれど、他方で、ある種の距離をおくことが、むしろ、ぼくを「日本」や「日本人」という対象に近づけることにもなったのだと、振りかえりながらぼくは思う。

日本や日本人という対象に近づくということは、いわば、ぼくの心身に刻印された「日本なるもの」へ近づくということでもある。物理的な「日本」から距離をおくときに、内面の「日本なるもの」がより鮮明になってくる。これまで「あたりまえ」だと思っていたことが<あたりまえではないもの>として現れてくるのである。

そのプロセスにおいては、心身に刻印されている「あたりまえ」がある意味で「正しい」ものだとして感じられたり、考えられたりすることもあるのだけれど、「何か」をきっかけに、あるいはオープンマインドによって、その「正しさ」の窓に穴がうがたれてゆくことがある。あたりまえに「~すべきである」だと思っていたことが、「~することもできる」というような選択肢のひとつになる。

たとえばそんなふうにして、より客観的に「日本なるもの」を視ることができるのである。


「元号」のこともそうだけれども、「天皇制」にしてもそうである。

以前は正面から見ようとしてこなかったことがらを、正面から見てみようと思ったりする。ある程度の「距離感」が、ぼくにそんな気持ちをおこさせるのである。これまでにいろいろな国に住んだり、旅したりするなかで、それぞれの土地における共同体として暮らしていく「感覚」のようなものをほんの少しは感覚してきて、「比較」するための拠点がぼくの内面にできたということもある。さらには、異文化の人たちに尋ねられることもあるから、自分なりの説明ができるようにしておこう、という気持ちもある。

そんなふうにいろいろな状況や条件がかさなり、自分の気持ちがあって、これまで見てこなかったことがらに分けいってみたくなったのだ。

そんなときに、その思想と感覚を信頼する内田樹の著書『街場の天皇論』を読みはじめて、教えられ、また考えさせられた。ぼくの静かな「対話相手」にもなってくれた。


2016年の天皇の「おことば」に触れながら、内田樹はつぎのように語っている。


 日本国憲法下における立憲民主制と天皇制の併存という制度が将来的にどういうかたちのものになるのか、1947年時点では想像もつかなかった。その制度が今こうしてはっきりとした輪郭を持ち、日本の社会的な安定の土台になるに至ったのには、皇室のご努力が与って大きかったと私は思います。天皇制がどうあるべきかについての踏み込んだ議論をわれわれ国民は怠ってきたわけですから。
 しかし、国民が議論を怠っている間も、陛下は天皇制がどういうものであるべきかについて熟考されてきた。「おことば」にある「即位以来、私は国事行為を行うとともに、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」というのは、陛下の偽らざる実感だと思います。そして、その模索の結論が「象徴的行為を果たすのが象徴天皇である」という新しい天皇制解釈でした。…

内田樹『街場の天皇論』(東洋経済新報社、2017年)


「象徴的行為」と言われるのは鎮魂慰霊の旅で、これが最重要の仕事だと言外に宣明したのだと、内田樹は語っている。そのうえで、高齢によりその最重要の務めが十分に果たせないことが退位の理由だということである。

この他にも、さまざまなポイントと論点が提示されている。

もうひとつだけふれておくと、「立憲民主制と天皇制の併存・両立」ということについて、昔はこの二つが「両立しない」と思っていた内田樹は、今は「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が政体として安定しており、暮らしやすいのだ」と考えているという。一枚岩よりは、中心が二つある「楕円的」な仕組みの方が生命力も復元力も強く、天皇制はその焦点のひとつだというのだ。

興味深い指摘であるし、いろいろな他の国などを経験してみると、感覚としてわかるような気もする。


こんなふうにして得た「視点」で、海外のメディアがどのように報じているのかを、ここ香港でニュース記事を読んだりしながら、平成から令和への「とき」をすごしている。

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成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima 成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima

万次郎(ジョン万次郎)が無人島とアメリカで学んだこと。- 鶴見俊輔がみてとる、成長としての「思想」。

思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作『旅と移動』黒川創編(河出文庫)の最初に、黒川創の編集により、中浜万次郎(ジョン・マン、ジョン万次郎)を描いた文章「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」がおかれている。

思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作『旅と移動』黒川創編(河出文庫)の最初に、黒川創の編集により、中浜万次郎(ジョン・マン、ジョン万次郎)を描いた文章「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」がおかれている。

<成長的な見方>(ある人が生き、失敗し、その体験をもとに成長していく、その過程を思想としてつかむこと)によって、万次郎の生涯と生きかたにせまる、心揺さぶる(いわば)「物語」だ。

読んだあとも、鶴見俊輔のまなざしを浴びた万次郎の残像が、ぼくのなかに残っている。


19世紀半ば、万次郎(14歳)は土佐出身の他の四名(漁師たち。筆之丞など)と共に離島に漂流し、そこで143日を生きのびたところで、アメリカの捕鯨船(ハラウンド号)に救出される。当時の日本は鎖国の時代であり、日本に行くことはできず、ハワイを経由し、万次郎はアメリカ(マサチューセッツ州フェアヘイヴン)に到達する。

救出から船旅、そしてアメリカ滞在を支えたのは、ハラウンド号のホイットフィールド船長であった。

鶴見俊輔は、ホイットフィールド船長宛てに書かれた万次郎の手紙(英文)をいくつか引用していて、命の恩人であり、保護者であり、主人でもあったホイットフィールド船長にたいしても、「おお友よ(Oh my friend)」と呼びかけた万次郎に光をあてながら、つぎのように書いている。


…万次郎が無人島とアメリカで学んだのは、人間の対等性ということだった。ホイットフィールドは、万次郎が白人にたいして卑屈にならなくてよいという信念をもつ上で、たいせつな役割をつとめた。
 万次郎をフェアヘイヴンにつれてきた時、ホイットフィールドは、かれを自分の所属している教会につれていった。万次郎を、その教会の日曜学校にかよわせるためである。ところがその教会は、有色人種の少年を白人の子といっしょに教育するわけにはゆかぬと断った。するとホイットフィールドは、すぐさまこの教会に行くのをやめてしまった。
 そして、万次郎を迎えることに同意したユニテリアン派の教会に新しく入会して、次の週から万次郎をつれて通いはじめた。

鶴見俊輔「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」、『旅と移動』黒川創編(河出文庫)所収


「無人島」での学びとしてふれられているのは、無人島ですごしていたとき、ひとり中ノ浜出身で最年少でもある万次郎は、宇佐出身の他の四人から軽んじられるという体験をしていたからである。

さらに同様な出来事をアメリカでも経験しつつも、しかし、人間の対等性を学ぶうえで、ホイットフィールドの存在が大きかったのだ。万次郎もすごいけれど、ホイットフィールドもすごい。このような人たちが世界で、「たいせつなこと」を行動で伝えつづけている。そんなことを思う。

ちなみに、新しく入会した教会で、万次郎は、ハラウンド号の所有者のひとりであったウォレン・デラノという船主の家の人びとと共に説教をきくことになる。デラノ家では、代々、万次郎のことが伝説の一部としてつたえられ、この話はウォレン・デラノの孫、フランクリン・デラノ・ローズヴェルトにも語られたのだという。後年、アメリカ大統領になったフランクリン・デラノ・ローズヴェルトは「万次郎は、私の少年時代の夢だった」と語ったのだという。


万次郎がフェアヘイヴンについたのが、1843年5月7日。そのときから、176年が経過しようとしている。

万次郎が無人島とアメリカで学んだ「人間の対等性」は、その後の世界でどのように生きられ、あるいは生きられてこなかったか/生きられていないのか、ということを思う。

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「外国人になったこと」の体験から。- イチローの引退記者会見より《その3》。

イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちのいくつかに共鳴し、それらにふれながら、ブログで、《その1》《その2》と、少しのことを書いた。《その1》では、イチローの<喜び>、とりわけ「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」ということへの変遷、また、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれてきた。

イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちのいくつかに共鳴し、それらにふれながら、ブログで、《その1》《その2》と、少しのことを書いた。《その1》では、イチローの<喜び>、とりわけ「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」ということへの変遷、また、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれてきた。

引退記者会見は「質疑応答」形式ですすめられ、イチローの「応答」は、すみずみまで、インスピレーションに充ちているように、ぼくは思う。

ふれたいポイントはたくさんあるのだけれど、《その3》としてもうひとつだけとりあげて、ひとまず「区切り」としたい(また後日ブログでとりあげるかもしれないし、別の機会に書いたり話したりするかもしれない)。

《その3》としてとりあげたいのは、「外国人であること」である(このことをとりあげたのには、ぼくのブログ「世界で生ききる知恵」に直接にかかわることであるし、また、最近ちょうど読んでいた文章、「わたしが外人だったころ」という鶴見俊輔の文章もぼくのなかに印象深くのこっているからでもある)。

1時間30分ほどにわたって行われた引退記者会見の、最後の「質問」に応答するイチローが、「外国人であること」について語っている。雄弁に語るのではなく、ときどき、言葉と言葉のあいだに「沈黙」(沈思)をはさみながら。

質問は「孤独感」についてであった。だいぶ前に、何度か「孤独を感じながらプレーしている」という発言があったことに記者が言及しながら、「孤独感をずっと感じながらプレーしてきたのか」と、イチローに尋ねたのであった。

イチローは、「現在それはまったくない」と応答したあと、「それとは少し違うかもしれないですけど…」と前置きしながら、つぎのように語った。

…アメリカに来て、メジャーリーグに来て、、、、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、、、、、外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みをこう想像したり、今までなかった自分が、あらわれたんですよね。この体験というのは、、、、、ま、本を読んだり情報をとることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。

イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)

「外国人になったこと」という体験。イチローが語るように、「体験」からでしか感じることのできない側面がある。

この体験において、自分の中から生まれるものは人それぞれであるだろうけれど、イチローにとっては、「人の心を慮ったり、人の痛みを想像する」自分があらわれることになったのだという。

自分の「どの部分」があらわれることになるかは異なっても、外国人であることによって、「今までなかった自分」があらわれてくる。おなじことが、ぼくの「体験」からも言えると思う。

今までの「自分」がまったく変わってしまったり、なくなってしまうというのではないけれど、「今までなかった自分」、あるいは、今まで隠れていた自分があらわれてくる。「外国人であること」を、自分の<幅>をひろげてゆくための契機とすることができる。

もちろん、「外国人であること」で「大変なこと」もある。じっさいにその「大変ななか」にいるときは、やはり大変なことだ。でもそんなことをひっくるめて見てみても、自分の糧となってゆく。

上記の発言につづいて、イチローはつぎのように語る。

孤独を感じて、苦しんだこと、ま、多々ありました。ありましたけど、、、その体験は、未来の自分にとって、大きな支えになるんだろうと、今は、思います。だから、ま、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときに、それに立ち向かっていく、そのことは、すごく、人として重要なことなんではないかなというように、感じています。

イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)

この発言のあと、「締まったね、最後」と、イチローが笑みをうかべながら言うように、この「締め」のあとに、(ぼくが)どんな言葉を付け加える必要があろうか。

でも、あえて一言だけ加えておけば、ぜひ、映像で、この「語り」を聴いてみてほしい。「文字」では視えないものがそこには視え、聴こえてくる(だろう)から。

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<生きることのリアリティ>について。- 海外を旅し、海外で暮らしながら、思い、考えること。

日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。

日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。

海外ですごす時間が徐々に長くなってきたころ(それがいつだったか正確には思い出せないけれど)、「海外」で暮らす時間が、人生のうちの「半分」を超えると、どんな「感覚」を覚え、どんなことを考え、どんなふうにじぶんをかえてゆくことができるのだろうかと、思ったことがあった。

今は、その「地点」にさしかかったところである。でも、じっさいにその「地点」に近づいていくと、そんなことはあまり考えなくなった。それでも、ときおり、日本で暮らした時間と海外で暮らした時間を数えて、比べてみることがあるのである。


なにはともあれ、人生の5分の2以上を海外で暮らしてきたところで、「海外で暮らす」ことによってより鮮明に記憶にやきつけられたことについて、ブログ(「人生の5分の2以上を「海外」で暮らしてきて感覚すること。- 身体にきざまれる<日常の風景>。」)を書いた。

ブログのタイトルに書いたように、より鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>が、ときおり、ぼくのなかで<再生>されるのである。まるで、「今、現在」、その日常をこの眼で見ているかのように、である。

このことはぼくにとってとても大切なことなのだけれど、<日常の風景>は、「知識」としてではなく、身体的な記憶として、ぼくにリアリティを与えてくれる。動画や記事などで「知る」のではなく、この身体にきざまれるように、<リアリティの感覚>が生きている。


海外で暮らすようになるまえ、ぼくは、アジアを旅していた。

「旅」で獲得したものは、ありきたりの言葉かもしれないけれど、<生きることのリアリティ>ともよぶべき感覚であった。そのことは、旅をしている最中も感じるところであったけれど、旅のあとにふりかえりながら、より明確にことばにすることができたことでもあった。

「海外に暮らす」ことにおいても、いくぶん異なる仕方で、まただいぶ時間が経過してゆくなかにおいて、これまで暮らしてきた場所の<日常の風景>が、ぼくに「リアリティ」の感覚を与えてくれていることに、ぼくは気づいたのである。


それは、ぼくに、見田宗介(社会学者)の「生きるリアリティの崩壊と再生」にかんする見解を思い起こさせる。

見田宗介は、講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」(2010年8月、福岡ユネスコ協会)で、次のように語っている。


…ボランティアに限らなくてもいいですけれども、実際に自分が役に立つようなことならばやりたいと思っている青年と、リストカットをする、あるいは無差別殺人をする青年というのは同じものを求めているわけです。つまり、それは生きることのリアリティを求めている。そこが大事だと思います。今の日本の若い人たちはいわば同じものを求めているわけですが、求め方が違っているのです。日本の若い人たちが自分の体を傷つける、あるいは人を傷つける、あるいは人を殺そうとする、そういうものとは違った仕方で、生きるリアリティを求める方法を見つけ出すことができれば、そこでもう一つ新しい時代が開けてくる可能性があるだろうと、そういうふうに思うわけです。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』(弦書房、2012年)


「生きることのリアリティ」。

そう書くのはむずかしくないけれど、それは、頭で「知る」ことでなく、全身で生きてゆくなかで<知られていく>ことである。

それなりの時間を海外で暮らしてきたなかで、そんなことを、ぼくは思い、考えている。

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海外・異文化, 身体性 Jun Nakajima 海外・異文化, 身体性 Jun Nakajima

人生の5分の2以上を「海外」で暮らしてきて感覚すること。- 身体にきざまれる<日常の風景>。

ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、それから、ここ香港。日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間がつみかさなり、あわせて17年ほどになる。つまり、人生の5分の2ほどの時間を、海外ですごしてきたことになる。

ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、それから、ここ香港。日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間がつみかさなり、あわせて17年ほどになる。つまり、人生の5分の2ほどの時間を、海外ですごしてきたことになる。

時間の「量」が重要であるわけではないけれど、かといって、「量」がまったく意味がないということもない。

海外の旅もいろいろと印象に残っているけれど、それなりの時間をすごしてきたところは、どこか少し異なった仕方で、ぼくのイメージのなかに居場所をみつけているようである。


「海外で暮らす」ということによってより鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。

「暮らす」ということは、旅における非日常的なかかわりとは異なり、その場における「日常」を生きることである。

気候はどんな感じで、どんな空気感があり、どんなふうに時間がながれ、どんな人たちがどんなふうに歩き、会話しているか。そんな<日常の風景>が、ぼくの記憶のなかに、より鮮明にやきつけられている。

ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>。そのような<日常の風景>が、たとえば、ここ香港の街を歩いているときにも、ときおり、ぼくのなかで<再生>される。

記憶にやきつけられた<日常の風景>が、あたかも、現在進行形で動いているように<再生>される。

そんなとき、今も、ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常>がつづいていることを、ぼくはたしかに感じるのである。

そこに、日本の<日常の風景>が加わり、ぼくのなかで、いろいろな<日常>が同時に動いてゆく。


それは、ぼくにとっては、すてきな感覚だ。この世界には、あたりまえのことだけれど、いろいろな場所があって、そこに住む人たちによって、それぞれに<日常>が営まれている。

じぶんが今生きている、この「日常」だけが「世界」ではない。

今こうしているあいだにも、この世界のいろいろなところで、いろいろな仕方で、<日常>が生きられている。

このような感覚が、ぼくの「知識」としてではなく、身体という記憶にきざまれている。この身体的な記憶が、ぼくにたしかなリアリティを与えてくれているようだ。

ぼくにとっては、このことは、とても大切なことである。

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海外・異文化 Jun Nakajima 海外・異文化 Jun Nakajima

日本的な「異文化」接触の問題点にかんする仮説。- 「私」という経験をめぐって。

日本で生まれ育った人たち(日本的な思考や振る舞いを言動の「コード」としている人たち)が、旅であれ、滞在であれ、海外において「異文化」に接触していくうえで、いろいろな「問題」に直面してゆく。

日本で生まれ育った人たち(日本的な思考や振る舞いを言動の「コード」としている人たち)が、旅であれ、滞在であれ、海外において「異文化」に接触していくうえで、いろいろな「問題」に直面してゆく。

とりわけ、仕事において、「異文化」接触から生まれ、現象してくる「問題」は、先鋭化することがある。たとえば旅のときのように、ただ立ち去るという態度をとることができない。できる状況もあるだろうけれど、仕事としていったんコミットしてからは一緒に目標に向かうことになる。その過程に、「問題」が現象してくる。

それらの現象する「問題」、たとえば、仕事の仕方の違いであったり、コミュニケーションの行き違いであったりは、仕事の結果が出てうまくすすんでいるときは、それほど「問題」とは捉えられないかもしれない。仕事の「結果」が、問題群をおおいかくしてくれるからである。

でも、仕事の結果が出なかったり、うまく仕事がすすまないとき、現象する「問題」は先鋭化する。

べつに、海外でなくても、うまくいっていないときは、「問題」ばかりが見えてしまったりするから、当然といえば当然である。問題の発生源を「異文化」だけにおしつけるのはまったくおかしいし、もっと根源的といえる問題の発生源を見つけることもある。

そんなふうにして異文化との接点ではなくても「問題」はさまざまに起きてくるけれど、仕事における異文化との接触においては、それなりに特色的な「問題」を見てとることができる。海外に展開する日系企業の多くに、ある程度共通する「問題」を指摘することができるである。

ひとつだけ挙げておくとすると、「コミュニケーションの曖昧さ」がある。ここでの「コミュニケーション」は、「言語」だけのことではなく、話し方であったり、言葉の選び方であったりと、その全体を指している。

会議や会話において、その全体であれ、一部であれ、「何を言っているのかわからない」という状況が発生したりする。

ここでは「問題」の詳細にははいっていかないけれど、「コミュニケーションの曖昧さ」ということのほかにも、いろいろな「問題」が現象してくる。日々の仕事のなかで、「現象する問題」の問題解決ということは大切だし、それはそれで適切にしていかなければならないことである。

けれども、「現象面」からさらに階段をおりていって、現象する問題群の発生源や根本的な「課題」をつきつめようとしてゆくことも大切である。そのときに、発生源や根本的課題について一様にとらえるというよりは、いくつかの「階層・次元」があると考える。

そんな「次元」をずっと降りていったときに、あることがらが大きな発生源であると、ぼくは「仮説」を立てる。

それは、「私」という経験のありかたの違いである。英語で「I」(私)を主語とするような「私」のありかたと、日本語のように主語はさまざまに変化・変幻する「私」のありかたの違いである。

これまでにも、この「主語」の使われかたや個人主義か否かなどはよく語られてきたけれども、この「私」という経験のありかたにじっくりと腰をすえて、仕事の場面で起こる異文化との接触の問題点を語っているものは、ぼくの知るかぎり、それほどない。(ぼくが知らないだけかもしれない。)

ぼくの「仮説」は、「問題群」の多くが、この違いに行き着くのではないかということである。あくまでも「仮説」である。まだ、「仮説」である。

この視点でだいぶ網羅できるのではないか、ということを感じながら、しかし、まだ言語化できていない。でも、ここに「仮説」として書いておきたいと思う。

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「異文化の力」について。- 香港の通りを歩きながら、ふと、そんなことを考える。

異文化の力。陽射しをうける香港の通りを歩きながら、「異文化」について考える。

異文化の力。

陽射しをうける香港の通りを歩きながら、「異文化」について考える。

なお、これほどに使われる「文化」という言葉には、だれもが了解する共通の定義はなく、その位置づけもそれほど自明のことではない。ここではその詳細についてふれるのではなく、言葉も社会システムも異なる「異文化」という経験のことを書いている。

日本に生まれ、日本で育てられ、日本で教育を受けてきたぼくが、日本の外に出てきた経験を土台にしながら書いている。最近は、生まれや育ちや教育の場所や形態が「多様化」していて、そのことを認識しつつも、ぼくはやはりぼくの経験を土台にして書いている。


異文化の力。

異文化との「出逢い」によって影響をうけてきたぼくは、「異文化に接しつづけてきたことは、ぼくにとって、ほんとうに大切なことだったし、とてもよかったことだった」ということを思う。3月だけれど初夏さえ感じさせる陽射しがふりそそぐなか、香港の、なんでもない通りを歩きながら。

そうして、ふと、「異文化の力」という言葉がわいてくる。

でも、正確には、「異文化の力」という言い方はおかしい。「異文化」という言葉自体が、「ある文化」(またその文化コードを内面化した人)と「ある文化」(またその文化コードを内面化した人)の接触を前提にしている。

つまり、「異文化」そのものに「力」が内在しているというよりも、文化と文化との接触の界面に力が宿ることになる。

そのことを書いたうえで、「ぼく」のほうから見ると、「異文化の力」があるように見えるのである。


「異文化の力」は、ぼくにとって(そしておそらくそれなりに多くの人たちにとって)、とてもとても大きなものである。

「日本」という文化コードのなかで、それにしたがう方向にじぶんの心身を「成形」してきたところ、「異文化」に接触する。じっさいに接する「異文化」は、「じぶんの心身」という<文化>のなかに、<異文化>を見つけてゆくことでもある。

人は社会で生きていくうえで、「ある文化のコード」を身に引き受けていく。それは避けることはできないし、必要なことでもある。

でも、「異文化」に接してゆくなかで、そして、その経験がじぶんの心身の深くに生じれば生じるほどに、<じぶんの心身という文化>は、絶対的なものではないことを自ら知ることで相対化され、じぶんの心身のなかにある<異文化>を開花させ、<じぶん>という経験の全体性を獲得してゆくことになる。

このプロセスのなかで「異文化の力」を感じる。

「異文化」は、日本の外の「異文化」である必要は必ずしもないけれども、ぼくは、たとえば、中国本土、ベトナム、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、シンガポール、それからこれまでに暮らしてきたニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、そして香港という「異文化たち」に深いところで影響されながら、<じぶんの心身という文化>をいくぶんなりとも変容させてきた。

これらの「異文化たち」と出逢わなければ今のぼくはないし、そして、ぼくの経験のなかでは、このほかに、このような/これほどの「力」をもっているものごとは、(ほとんど)見つけることができない。

異文化の力。ぼくは、香港で、そのことを思う。

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香港で「食事」が運ばれるのを待っていたら。- 「しきり越し」のトレイと笑顔。

ここ香港で、ファーストフード店で、数字の書かれた立て札をテーブルにおいて、注文した食事が運ばれるのを席について待っている。午前の時間ということもあって、食事時であれば人でいっぱいになるであろう店内も、人はまばらである。

ここ香港で、ファーストフード店で、数字の書かれた立て札をテーブルにおいて、注文した食事が運ばれるのを席について待っている。午前の時間ということもあって、食事時であれば人でいっぱいになるであろう店内も、人はまばらである。

やがて、カウンターごしに、食事が準備されたのが見え、店員さんがトレイをもってきてくれる。けれども、トレイには注文したすべての品がのせられているのではなく、残りの注文のものは待ってくれとのことである。

なにごともとてつもなく「速い」香港であるけれど、残りの注文のものは少し時間がかかっているようだ。

すると、少し距離をおいて、店員のおばさんがトレイを手に、声をかけてくる。どうやら、しきりを超えてこちらに来てくれるのではなく、しきり越しにトレイを手渡ししたいようで、ぼくはトレイに手を伸ばして、残りの注文のものを受け取る。おばさんは満面の笑顔である。トレイを受け取りながら、「ありがとうございます」の言葉が自然に出てくる。


なんでもないようなやりとりだけれど、以前であれば、「こちらのテーブルにまでやってくるのが面倒くさくて、しきり越しに渡してくるとはなんぞや」と、絶対にあってはならないという気持ちが、どこかでわいてきていた。日本であれば「失礼」と思われるかもしれないことである。

ところが、香港の環境のなかに身をおき、観察し、そこのシステムを駆動する「原理」のようなものを<理解する>なかで、「これはこれ」というように見るようになり、また「おっ、そうきたか」と、面白さを感じるようになった。

「これはこれ」という見方では、しきり越しのほうが、速いし、効率的である。また、社会的視点でみれば、エネルギー使用量は少ない。そんなふうにぼくには見える。また、今回は予期していなかったけれど、「おっ、そうきたか」と、ぼくはトレイを受け取ったのであった。


そんな出来事があった翌日。今度は、香港の食堂的なレストランで、少し遅めの時間のお昼ご飯を注文したら、やはり、「しきり越し」に、注文が運ばれてきた。

この店では、以前も、「しきり越し」に注文がやってきたのだけれど、そんなことは忘れていて、注文が来るだろう通路側に近いテーブルのうえを広めに空けておいたから、「しきり越し」に料理がテーブルにやってきたときは不意をうたれてしまった。また、注文してから5分もしない高速でやってきたから、さらにびっくりしてしまった。

注文した二品目も、「しきり越し」にやってきたときは、心の準備はできていたのだけれど、やはり通路側に近いテーブルのうえを空けておいたから、その逆から料理がやってきたときは、店員のおばさんがテーブルにのせるスペースがなくて、とっさにぼくは手をのばし、麺類を受け取ることになった。

やはり、一連の動作のなかで、速さと効率は抜群であった。「待った」という感覚が残らないのだ。


そんなわけで、二日連続で「しきり越し」の出来事があって印象に残っていたから(一回の単発であれば、その場だけで忘れてしまっていたかもしれない)、ブログに書いたわけである。

それぞれの文化、それぞれの場所には、それぞれの社会システムを駆動するコアなものがある。じぶんのデフォルトの文化の視点だけで見ると、「ありえない」こともあるかもしれないけれども、そこにはそこなりの「原理」があって、いろいろなことやものが動いている。そこには「論理」がある。

だから、一歩立ち止まって、目をこらし、耳をすましてみる。あるとき、「あっ」と、<風景>が見えてくる。

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海外にいると、人びとの「生き方」が気になる。- 河合隼雄のエッセイ「幸福の条件」を読みながら。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、1990年代の新聞の連載のなかで、つぎのように書いている。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、1990年代の新聞の連載のなかで、つぎのように書いている。


…外国に行くと、そこの国の人びとの生き方が気になる。私の職業が人間の生きることに密接に関連しているので、他の文化の人がどんな生き方をしているか知りたくなる。…

河合隼雄『河合隼雄の幸福論』(PHP研究所、2014年)※『しあわせ眼鏡』(海鳴社、1998年)の復刊


ちょうど中国に行ってきたという時期に、当時の中国の人たちの生き方にふれながら、この文章が書かれている。

1990年代半ばに、ぼくもはじめて中国を旅した。大学に入学してから迎えるはじめての夏休みに、ぼくは中国を旅したのであった。はじめての外国でもあった。

ぼくの「海外」は、ここからはじまった。

フェリー(鑑真号)で横浜を発ち、三泊四日かけて上海にはいった旅は、今から振り返れば、その後のぼくの人生をあきらかに変えるものであった。

河合隼雄のように心理学を学んでいたわけではなく、大学では中国語・中国文化を学んでいたぼくであったのだけれど、ぼくも、訪れた国の人たちの「生き方」が気になった。ぼくは、当時から、「人間が生きる」ということに、深い関心をもっていた。

生き方を見つめるということにおいて、短い旅のなかでは限度があるにはあるのだけれど、旅だからこそ見えるところもある。ぼくはそう思っていたし、いまでもそう思う。

それから、旅にかぎらず、ニュージーランドに住み、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港で暮らしながら、やはり、人びとの「生き方」に、ぼくは関心をもってきた。

だから、ときにしげしげと人を観察してしまうこともあるし、また、友人や知り合いについダイレクトに聞いてしまうこともある。


生き方ということと関連して気になるのは、「しあわせ」ということである。

もちろん、国や場所にかかわらず、人間としてのしあわせということであるのだけれど、それが、じっさいに、具体的に、どのように生きられているのか、そんなことに、ぼくの関心は向けられてきた。

より正確には、普遍的なしあわせがどのように生きられているかということとともに、その逆に、じっさいにじぶんの眼でいろいろな生き方を見つめながら、普遍的なしあわせを確かめることでもあった。


ところで、河合隼雄は冒頭の文章のまえに、つぎのように、この短いエッセイを書き始めている。エッセイは「幸福の条件」と題されている。


 人間が幸福であると感じるための条件としてはいろいろあるだろうが、私は最近、▷将来に対して希望がもてる ▷自分を超える存在とつながっている、あるいは支えられていると感じることができるーーという二点が実に重要であると思うようになった。
 物がないとか、親しい人を亡くしたとか、いろいろと不幸なことがあっても、前記の二点が充たされていると幸福と言えるし、この逆に物がたくさんあったり、地位があったりしても、前述の幸福の条件がそろっていないときは、幸福と言えないようである。

河合隼雄『河合隼雄の幸福論』(PHP研究所、2014年)


「最近」というのは前述のように1990年代のことであり、この本のエッセイが連載されていた時期は、1995年の阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こった時期でもあった。ぼくのなかにもたくさんの「疑問・問い」が生まれていた時期であった。河合隼雄はそんな時期に、この「幸福の条件」を書いた。

この時期から20年以上が過ぎたが、「幸福の条件」というトピックは色あせるどころか、いっそう問われるべき時代にいるように、ぼくは思う。

そんな時代に、「幸福の条件」として挙げられた二点をひきうけながら、じぶんなりに考えてみるのもひとつだと思う。


● 将来に対して希望がもてること 
● 自分を超える存在とつながっている、あるいは支えられていると感じること



これら二点を見つていると、ぼくのなかにも、いろいろと「考え」が浮かんでくるのである。

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海外・異文化, 書籍 Jun Nakajima 海外・異文化, 書籍 Jun Nakajima

「アメリカ」について知り、考える。- じぶんのなかの「アメリカ」を見つめるためにも。

「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。

「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。

「アメリカ」とは、だれもが知りながら、実はあまりよくわかっていないところだと、ぼくは思う。日々、ドラマや映画やニュースなどでアメリカに触れて、いろいろなトピックに渡って「知っている」けれど、でも「わかっていない」。

ぼくも「アメリカ」を知りながら、その本質について、やはりあまりわかっていないのだと思う。もちろん、なにをもって「アメリカがわかった」と言えるのか、という問題もあるけれど、その深みにたどりつくところまでに、ぼくはまだいっていない。

そんなふうに感じながら、「アメリカ」について、また「アメリカなるもの」について、学ぶ。


「アメリカ」に正面からぶつかってゆく本で、ぼくの手元(手元と言っても電子書籍)にある本(日本語の書籍)を刊行年月日の新しい順で挙げると、つぎのとおりである。


● 橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)

● 吉見俊哉『トランプのアメリカに住む』(岩波新書、2018年)

● 西谷修『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ、2016年)

● 内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫、2010年)※単行本は2005年


いずれの著者も、「アメリカの専門家」ではない。でも、それぞれの切り口において、アメリカをきりとっていて、さまざまな視点を得ることができる。


最初に挙げた本、橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)。

社会学者の大澤真幸は、その「まえがき」で、アメリカというものの「極端な両義性」に触れることから、「アメリカ」について語り始めている。



 アメリカというものには、極端な両義性がある。
 まず、アメリカは、圧倒的な世界標準である。世界中の人が、…少なくとも、アメリカ的な価値観がデフォルトの標準であるという前提を、受け入れている。仮に自分は賛同できないとしても、アメリカに代表される価値観の方が標準とされていることを、すべての人が知っているのだ。…
 ならば、アメリカ社会は、地球上のさまざまな国や社会の平均値に近いのか、というと、そうではない。逆である。アメリカは、他に似た社会を見出せないまったくの例外なのだ。…
 標準なのに例外。その二重性によって、アメリカは「現代」を代表している。

橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)


「現代」という時代を理解するためには、「アメリカ」を理解すること。<標準なのに例外の二重性>によって特徴づけられる「アメリカ」をである。

このことに加えて、大澤真幸は、日本のアメリカにたいする関係性から見て、「日本人ほどアメリカを理解できていない国民はほかにない」と書いている。「アメリカへの愛着の大きさとアメリカへの無理解の程度の落差」(前掲書)が見られる、と。


こうして、「アメリカを知ること」は、第一に、現代社会の全般を理解することであり、そして第二に、現代日本を知ることである、と位置づけている。

この二つは、冒頭に書いた「アメリカを知っているけれどわかっていない」というぼくの感覚と交差してくる。

そして、「現代」と「(現代)日本」を知ることで、それは、ぼくのなかの「世界観」、あるいはぼくが理解できない「世界観」に光を射してくれるように直感するのである。

「アメリカを知ること」はまた、この世界で生きる、ということを考えてゆくときにも、避けて通ることはできないようにも感じる。

だから、先に読んだ内田樹『街場のアメリカ論』を筆頭にして、この四冊をほぼ同時並行的に読みながら、「アメリカ」あるいは「アメリカなるもの」を、ぼくは理解しようとしている。

それにしても、世界のいろいろな「扉」をひらいてゆくような気持ちにもなり、これまた、とてもスリリングである。

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成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima 成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima

観点・視点/思考の奥ゆきの生成。- 思えば、ぼくは、いろいろな「世界」にいた。

思えば、これまで、いろいろな「世界」のなかにいたことを思う。

思えば、これまで、いろいろな「世界」のなかにいたことを思う。

とてもあたりまえのことだけれど、たとえば、どこに住み、どのような生活をし、どのような仕事をし、どのような人たちと日々をおくるかで、世界観とか人生観が異なってくる。まったくといっていいほどに違うこともある。


住む場所でいえば、ぼくは、生まれ故郷の静岡県浜松市、東京・埼玉、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、ここ香港で暮らしてきた。また、住むまでではないけれどマレーシアにも総計で長く滞在してきたし、旅という形で、中国本土、ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー、インドネシア、台湾などにも滞在した。

場所だけで世界観と人生観がつくられるわけではないが、たとえば、東京とシエラレオネでは、まったく「世界」が異なる。そこまで極端にせず、もっと生活水準が近いところを並べてみても、やはり、場所による差異は、世界観や人生観に大きく作用するものだ。そこで生活をともにする人たち、文化、社会システムなどのいろいろが、作用してくる。


仕事でいえば、たとえば、東京ではレストランバーでパートタイムの仕事をし、三重県で短期間のあいだ自動車工場でも働いた。ニュージーランドにいたときは3ヶ月ほど日本食レストランで働き、また、大学を出てからは、NPO職員として(東京、シエラレオネと東ティモールで)勤務、さらには香港で、人事労務コンサルタントとして企業で働いた。

パートタイムからフルタイム、サービス業から工場労働、非営利から営利など、いろいろな「世界」のなかで働いてきた。

仕事の本質的なところにおいては共通するもの・ことを感じながら、しかしそれぞれの役割のなかで、それぞれに感覚し、かんがえることがある。


上に書いた「場所」や「仕事」は、ぼくが<直接的に身を投じる>ところであった。ある場所に、ある役割で身を投じているとき、それぞれに、かかわる人たちや組織やシステムがある。じぶんが直接的にその人たちの仕事をするわけではないし、その組織に所属するのではないけれど、一緒に仕事をしたりするなかで、ぼくたちは<間接的にかかわる>。

ぼくは、NPO職員として国際協力・国際支援にたずさわっているときは、いろいろな立場の方々とお会いし、あるいは一緒に仕事をさせていただいた。NPO/NGOで一緒に働く方々、寄付してくださる方々、ボランティアの方々、国際機関で勤務している方々、日本や他国の政府・政府系組織の方々、専門家の方々、ジャーナリストや写真家の方々、企業のCSR担当の方々、政治家の方々、学校の方々など、挙げていったらきりがない。

支援の受け手側(「受動的」ということではない)に視界をひろげれば、難民の方々、村々の人たち(大人も子供も)、村のリーダーの方々などの姿と表情が思い浮かぶ。

そのあとに、ここ香港では人事労務コンサルタントとして、主に、香港の日系企業で働く駐在員の方々やマネジメントにたずさわっている方々と、日々かかわってきた。「企業の業種」はいろいろで、業種の窓枠がかわると、そこにひろがる「世界」も変容する。

「他者」は、向かい合う他者であるだけでなく、じぶんの「眼」ともなる他者ともなりうる。かかわる人たちや組織やシステムの観点・視点から、ぼくたちは「世界」を見ることができる。

そうであるから、かかわる人たちや組織やシステムも、いろいろな濃度はありながらも、ぼくたちの世界観や人生観に影響してくることになる。

これらの場所や仕事の経験のおかげで、あるいは、出逢った方々のおかげで、ぼくの世界観や人生観はゆたかになってきたのだと思う。

「ゆたか」になることは、それによってすぐさま「利益」をもたらすようなものではない。そうではなく、たとえば、ぼくの観点・視点がそれなりの奥ゆきをもつことである。でも、奥ゆきをもつことは、楽になることでもない。そうではなく、ぼくの思考が、たくさんの<他者たち>を内にもつことである。そのような思考のなかで、矛盾にひたされることもある。

でも、それらをすべてふくめて、「生きる」ということの深さや充実を感じさせてくれるものである。

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海外・異文化, 身体性 Jun Nakajima 海外・異文化, 身体性 Jun Nakajima

海外に住みながら「季節」のことをかんがえる。- 「雨季と乾季」あるいは「四季」を生きながら。

「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。

「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。

紀年法などは、人間の「頭脳」に働きかけるのに対し、季節などは、人間の「身体」に直接に働きかけるものだと、ふと思ったのだ。

西暦の「2000年」や日本の元号の変更などが人びとの意識(そして行動)を変容させて時代をつくってゆくのに対し、一年そして季節のうつりかわりは、人びとの「身体」に直接に作用してくる。


2002年から海外に住んできたなかで、「季節」ということを、ぼくはときおりかんがえる。

2002年の半ばから2003年の半ばにかけて住んでいた西アフリカのシエラレオネ、それから2003年の半ばから2007年初頭まで住んでいた東ティモールで、ときおり、「季節」のことをかんがえたりしたことを思い起こす。

シエラレオネも東ティモールも赤道に近く、熱帯性の気候で、雨季と乾季のうつりかわりがある。それまで日本とニュージーランドに住んできたぼくの身体にとっては、この「雨季と乾季」の季節のうつりかわりは、新しさがあるいっぽうで、どこかなじまないようなところがのこる感覚があったことを覚えている。

もちろん「雨季」的な気候は初めてではないし、また「乾季」的な気候も初めてというわけではない。でも「四季」にすっかり慣れてきた身体にとって、最初の一年・二年のころは、そのような新しさによる興味、それからなんとなくの違和感を感じたのである。

熱帯性の「雨季と乾季」では、日本のような寒い「冬」は訪れないから、それはそれでとても過ごしやすいところでもあるのだけれど、「四季」に慣れ親しんできた身体だからだろうか、最初のころは「四季がない」というふうにかんがえてしまう。四季という季節のうつりかわりの「いいところ」が、ちらほら、ぼくの脳裡にうかんできたりするのであった。

あるいは、いい・わるいということよりも手前のところで、四季ではない季節をすごしてゆくことで、「季節」というものが、じぶんの身体に及ぼす影響のようなものをよりいっそう感じ、ぼくはときおり季節のことをかんがえていたのだ。


東ティモールですっかり「雨季と乾季」の気候に慣れたあと、ぼくは、ここ香港に移り住むことになる。

亜熱帯性の気候の香港。日本と比べると、相対的に、冬はそれほど寒くはない。日本のような秋の紅葉があるわけでもなく、冬に雪はふらない。それでも、そこにはやはり「四季」が、香港の「四季」がある。

東ティモールの「雨季と乾季」を経験している身体であったから、よりいっそう、「四季」に敏感であったのかもしれないと、今では思う。日本から直接に香港に来たのであれば、香港に、四季の「欠如」を見ていたかもしれないし、あるいは「香港の四季」に気づくのに、もっと時間を要したのかもしれない。

でも、やはり、香港には香港なりの季節のうつりかわりがあるし、さらには、「雨季と乾季」のシエラレオネや東ティモールにだって、シエラレオネなりの、また東ティモールなりの季節のうつりかわりがある。

それら季節のうつりかわりのなかで、季節の影響を受けながら、あるいは季節を楽しみ享受しながら、人びとはそれぞれの仕方で、それぞれに生きている。

都市/「脳化社会」(@養老孟司)は季節をできるかぎり脱色してゆくようなところがあるけれど(そうすることで人間社会を自然的制約から離陸させてきたけれど)、そうでありながら、しかし、あたりまえだけれど季節はなくなることはないし、いろいろな仕方で、生きるということと共振している。

「異文化」だけでなく、<異気候/異季節>ともいうべき視点も、海外に住みながら、ぼくはいっそう、この身体に感じてきたし、これからも感じてゆくことを思う。

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