この時代に「ジグソーパズル」をやる楽しみ。- 楽しさと学びのプロセスとしてのジグソーパズル。 / by Jun Nakajima

家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。

「パズル系」のゲームは、今ではスマートフォンを手にとれば、いつ、どこにいても、プレーすることができる。

だから、「ジグソーパズル」を販売する店舗などは、これからかなり縮小していくだろう(あるいはすでに、かなり縮小しているだろう。店舗を持てずオンライン店舗になるかもしれない)と漠然と考えていたのだけれど、実際には、ここ香港では、実店舗がのこっている。のこっている、というだけでなく、ある店舗はそれなりの広さを確保し、平日のお昼などでも人が入っている。

ここ香港はオフィス/店舗賃貸料がおどろくほど高いから、実店舗でやっていけるだけでもすごい。すごいと思いながら、このような趣味・遊びが今も好まれていることに、ほっとするところもある。

もちろん、これまでにもさまざまな形態が考案されてきている「ジグソーパズル」が、これからどのような運命をたどってゆくのかはわからないけれど(テクノロジーは想像をこえる仕方で道をひらいている)、このような遊びのすべてがデジタルにおきかわるわけではないと、ぼくは思う。CDが出ても、ストリーミング音楽が出ても、「レコード」がなくならないのと同じように。


そんなこんなで、いろいろと考えるところはあるのだけれど、ジグソーパズルは、遊ばれることでその使命をまっとうするものであるし、なによりも、ジグソーパズルをやってみたくなったので、小さな箱に納められたパズルを机の上にひろげ、とりかかることにした。

なによりも、画面のクリックではなく、じぶんの「指」を使って組み合わせてゆくことが心地よい。たぶん、10年ぶりくらいのことだから、組み合わせてみながら、じぶんの「組み合わせ方」を思い出していく。

あまり意識することなく、じぶんの身体に「組み合わせ方」がしみこんでいるようにも感じる。他の人と一緒にパズルをすると、「組み合わせ方」(ぜんたいの戦略とこまかい戦術)が、違っていることもわかる。そんな気づきがある。

300ピースの小さいパズルだから、2時間と見込んでいたのだけれど、途中で失速してしまい、結局、4時間ほど完成するまでにかかった(楽しさは完成ということ以上にプロセスにあるのだけれど、それでも時間の速さを気にしてしまうのである)。でも、途中むずかしくなってきてから、あきらめることなく、完成させることができた。

プロセスも楽しく、気づきがさまざまで、なおかつ、完成したときの嬉しさがある。


完成したジグソーパズルは、チベット仏教の「砂曼荼羅」のように、できあがってすぐに「解体」しようと思っていた。できあがりのものに固執・執着するのではなく、<手放す>のだ。

ここ数年、ぼくは<手放す>ことを、日々のなかで、実践してきた。だから、そうすることに、とくに抵抗もない。けれども、ジグソーパズルの「花」がきれいであったので、数日だけ、部屋を照らしだしてもらうことにした。

昔であれば「せっかくつくったんだから」などという気持ちからくる執着がのこって、なかなか壊すことができなかったと思う。今回は、そのような執着としてではなく、あくまでも、美を楽しむこととして、数日おいておいたのだ。

楽しさと学びのプロセスとして「ジグソーパズル」(あるいは同様の遊び)を体験することができる。そんなことを思う。