「捨てる時に、大切な本に出会える」(中谷彰宏)。- 「本」との関係をみなおすこと。 / by Jun Nakajima

片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法が、2019年、Netflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』によって、再度脚光を浴びている。

脚光を浴びることで(脚光を浴びれば浴びるほどに)、もちろん「批判」的なコメントも寄せられる。そのなかに「本」の片づけをめぐる意見も錯綜していた。メディアの記事やSNSの投稿がいりまじり、ちょっとした言葉の捉え方や「解釈」(言っていないことを読みかえてしまうことを含め)はさまざまであることを感じる。

でもなにはともあれ、最後は「自分」がどうしたいかである。ぼくはそう思う。


ぼくは、かつて「本を捨てるなんて…」と思っていたこともあるし、「Book Lover」であるけれども、紙の本は長い時間をかけて減らしてきた。「KonMari Method」のように「一気に」ではないけれど、じぶんなりの仕方で、何年もかけて、徐々に、徐々に。

その代わりに電子書籍を増やしている。紙の本で残っているのは、ぼくにとってのバイブル的な本たち(多くは電子書籍にもなっていない本たち)である。それらのほとんどが、社会学者である見田宗介=真木悠介の著作である。

この20年ほどを共にしてきた本たちである。


「本を片づける(捨てる)」ということをすすめてゆくうえで、「柱」としてきた考え方・見方のひとつに、「断捨離」で知られる、やましたひでこの考え方・見方があった。


 男性にも、女性にも、それぞれ、ため込みがちがちなモノがあります。
 特に、男性は、プライドを大事にする生き物。「自己重要感」を満たしてくれるモノ、「自分はすごい!」とアピールできるモノを抱え込みがちです。

やましたひでこ『大人の断捨離手帖』


やましたひでこが挙げる例は、「コレクター商品」「ネクタイ」「本」。このうちの「本」を抱え込む背景には、「知識コンプレックスが潜んでいる可能性がある」と、やましたひでこは書いている。「知識があるオレ」とか「デキる男」とか「かしこい自分」等々。

じぶんを振り返ったとき、そのような一面はあると思いつつ、また、この「世界」に対峙してゆくための武器のような安心感も感じたのである。

でも、蔵書として残す必要はなく、学んだことはこの心身に残してゆけばよいと、さらには紙の本というもの(知識の「かたち」)に「執着」しないようにと、ぼくは徐々にだけれど、紙の本を手放してきたわけである。無理をせず「自炊」もしながらだけれども。


それから、作家の中谷彰宏の著作『なぜランチタイムに本を読む人は、成功するのか。』(PHP研究所、2016年)には、64項目にわたる「人生が変わる読書術」が書かれている。そのひとつに「捨てる時に、大切な本に出会える」という方法が共有されている。

「蔵書」を限りなくゼロに近づけ、「思い出の本」(=メモリアル)だけを残す。


蔵書を持つのは発展途上の時代です。
捨てる時に、大切な本に出会います。
とっておくと、埋もれていきます。
とっておきたい本は、大学生ぐらいの時に買った本です。
そのあとも、面白い本には出会いますが、とっておくほどではないのです。
これがメモリアルとの違いです。

中谷彰宏『なぜランチタイムに本を読む人は、成功するのか。』(PHP研究所、2016年)



トータルにして100冊にも満たず、ボロボロになったメモリアルの本だという。

それにしても、「捨てる時に、大切な本に出会える」という仕方に、ぼくはひかれるのである。「捨てる時に、大切な本に出会える」。とてもすてきな言葉だ。「捨てる」という時に本を捨てるのだけれども、ほんとうはなにを<捨てる>のだろうと、じぶんに問うてみることもできる。

この本に書かれている、その他の「工夫」にも触発されながら、ぼくは、本を徐々に減らしてきたのである。

いまのこっている本、見田宗介=真木悠介の本は、確かに大学生ぐらいの時に買った本であり、「メモリアル」でもある。日々、読んでいる本である。これらの本を含めトータルでは60冊くらいのところに、ぼくはいる。

電子書籍の本棚はいっぱいにあるけれども、ぼくは、とても自由な気持ちを感じている。


それにしても、本の書き手たち、著者たちはどう思うだろうか、とも思う。いろいろな本があるし、なかには本を大切にしてほしいとも思う人たちもいるかもしれないけれども、それ以上に、読み手の人たちの生の明かりをいっそう明るく灯し、読み手の人たちが行動するための、あるいは生きてゆくためのインスピレーションとなってくれることを望んでいるのだと思ったりする。

本が「とっておかれる」ことではなく、ことばをとおして、人や世界が「変わってゆく」ことを。