香港で「食事」が運ばれるのを待っていたら。- 「しきり越し」のトレイと笑顔。 / by Jun Nakajima

ここ香港で、ファーストフード店で、数字の書かれた立て札をテーブルにおいて、注文した食事が運ばれるのを席について待っている。午前の時間ということもあって、食事時であれば人でいっぱいになるであろう店内も、人はまばらである。

やがて、カウンターごしに、食事が準備されたのが見え、店員さんがトレイをもってきてくれる。けれども、トレイには注文したすべての品がのせられているのではなく、残りの注文のものは待ってくれとのことである。

なにごともとてつもなく「速い」香港であるけれど、残りの注文のものは少し時間がかかっているようだ。

すると、少し距離をおいて、店員のおばさんがトレイを手に、声をかけてくる。どうやら、しきりを超えてこちらに来てくれるのではなく、しきり越しにトレイを手渡ししたいようで、ぼくはトレイに手を伸ばして、残りの注文のものを受け取る。おばさんは満面の笑顔である。トレイを受け取りながら、「ありがとうございます」の言葉が自然に出てくる。


なんでもないようなやりとりだけれど、以前であれば、「こちらのテーブルにまでやってくるのが面倒くさくて、しきり越しに渡してくるとはなんぞや」と、絶対にあってはならないという気持ちが、どこかでわいてきていた。日本であれば「失礼」と思われるかもしれないことである。

ところが、香港の環境のなかに身をおき、観察し、そこのシステムを駆動する「原理」のようなものを<理解する>なかで、「これはこれ」というように見るようになり、また「おっ、そうきたか」と、面白さを感じるようになった。

「これはこれ」という見方では、しきり越しのほうが、速いし、効率的である。また、社会的視点でみれば、エネルギー使用量は少ない。そんなふうにぼくには見える。また、今回は予期していなかったけれど、「おっ、そうきたか」と、ぼくはトレイを受け取ったのであった。


そんな出来事があった翌日。今度は、香港の食堂的なレストランで、少し遅めの時間のお昼ご飯を注文したら、やはり、「しきり越し」に、注文が運ばれてきた。

この店では、以前も、「しきり越し」に注文がやってきたのだけれど、そんなことは忘れていて、注文が来るだろう通路側に近いテーブルのうえを広めに空けておいたから、「しきり越し」に料理がテーブルにやってきたときは不意をうたれてしまった。また、注文してから5分もしない高速でやってきたから、さらにびっくりしてしまった。

注文した二品目も、「しきり越し」にやってきたときは、心の準備はできていたのだけれど、やはり通路側に近いテーブルのうえを空けておいたから、その逆から料理がやってきたときは、店員のおばさんがテーブルにのせるスペースがなくて、とっさにぼくは手をのばし、麺類を受け取ることになった。

やはり、一連の動作のなかで、速さと効率は抜群であった。「待った」という感覚が残らないのだ。


そんなわけで、二日連続で「しきり越し」の出来事があって印象に残っていたから(一回の単発であれば、その場だけで忘れてしまっていたかもしれない)、ブログに書いたわけである。

それぞれの文化、それぞれの場所には、それぞれの社会システムを駆動するコアなものがある。じぶんのデフォルトの文化の視点だけで見ると、「ありえない」こともあるかもしれないけれども、そこにはそこなりの「原理」があって、いろいろなことやものが動いている。そこには「論理」がある。

だから、一歩立ち止まって、目をこらし、耳をすましてみる。あるとき、「あっ」と、<風景>が見えてくる。