「自分の問題」の延長線上に。- 上原隆著『友がみな我よりえらく見える日は』。 / by Jun Nakajima

「友がみな我よりえらく見えるとき」というのが、誰にとってもあるかもしれない。いつもそう思ってしまう人もいれば、あるときにふと、そう感じてしまう。自分の人生は誰のものでもなく、自分のものだとわかりながら、それでも、ときに、「友がみな我よりえらく見えるとき」が日常に差し込んでくるかもしれない。

著作『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)のタイトルを目にしたときにそんなことを思ったのだけれど、ぼくがこの本を手にしたのは、このタイトルからではなく、「上原隆」によって書かれた本だからである。

上原隆を知ったのは、鶴見俊輔を補助線として吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』を読み解く、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)を知ったときであった。

そして実直な視点と文体に惹かれて、ぼくは上原隆の他の著作を読んでみたくなったのだ。こうして、『友がみな我よりえらく見える日は』のページをひらくことになる。

その扉の詞には、石川啄木の『一握の砂』からの言葉が置かれている。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」(石川啄木)。本のタイトルはここから来ているようだ。

上原隆は、インタビューを通して、市井の人びとの人生をきりとって、それぞれ短い文章にまとめている。目次を見るだけでも、さまざまな人びとが取り上げられているのがわかる。友よ、容貌、ホームレス、登校拒否、芥川賞作家、職人気質、父子家庭、女優志願、等々。


ここではそれぞれの詳細ではなく、この本のモチーフについて、上原隆の別の著書の文章をあげておきたい。


 あるとき、鶴見さんがこういった。
「マルクスがすごいのは資本論を書いたからじゃない。餓えという問題を見つけたからなんだ。問題を解決することよりも、自分の問題を見つけることが重要なんだ。
 私にとって「自分の問題」は何だろうと考えた。映画監督になることが高校生の頃からの夢で、映画会社に入ったのに、自分の映画は作れなかった。…自分には才能がないのだと認めざるを得なかった。私は落ち込み、部屋にひきこもり、毎日、鶴見さんの本だけを読んで過ごした。そんなふうだった三十代の十年間を思い出した。あのとき、鶴見さんの本を読むことで自尊心をささえていたなと。そして、これは「自分の問題」ではないかと気づいた。
「困難に陥り、自尊心が傷つき、自分を道端に転がっている小石のように感じるとき、人はどうやって自分を支えるのか」

上原隆『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)


上原隆は、この「自分の問題」を手がかりに、人に会い、話を聴き、本を書いた。その本が、『友がみな我よりえらく見える日は』(1996年)である。

この本ができたとき、はじめて、鶴見俊輔がほめたのだという。「市井の人々の生き方を記録」と紹介されたりするなか、鶴見俊輔があるとき、上原隆に言ったのだという。「あなたの書いているものは文学ですね」、と。

『友がみな我よりえらく見える日は』を読みながらぼくが感じていたのは、それぞれの人びとの「物語」が語られているのだということ。「文学」だという鶴見俊輔と共振するところだと思う。


ところで、「自分の問題」を見つけるときというのは、ある意味で、「他者との比較」(…よりえらく見える、など)から離れてゆくときでもある。

ぼくたちは日々、直面する問題を解決していくけれども、もっと根源的な次元において「自分の問題」を見つけてゆくこと。「他者との比較」から離れ、いわば<自分との比較>がはじまる。今日の自分は昨日の自分と比較してどうか。「自分の問題」が、どう生きられているか。

こうして、<自己実現>ということが、根源的な「自分の問題」と共に、歩みはじめるのである。