万次郎(ジョン万次郎)が無人島とアメリカで学んだこと。- 鶴見俊輔がみてとる、成長としての「思想」。 / by Jun Nakajima

思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作『旅と移動』黒川創編(河出文庫)の最初に、黒川創の編集により、中浜万次郎(ジョン・マン、ジョン万次郎)を描いた文章「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」がおかれている。

<成長的な見方>(ある人が生き、失敗し、その体験をもとに成長していく、その過程を思想としてつかむこと)によって、万次郎の生涯と生きかたにせまる、心揺さぶる(いわば)「物語」だ。

読んだあとも、鶴見俊輔のまなざしを浴びた万次郎の残像が、ぼくのなかに残っている。


19世紀半ば、万次郎(14歳)は土佐出身の他の四名(漁師たち。筆之丞など)と共に離島に漂流し、そこで143日を生きのびたところで、アメリカの捕鯨船(ハラウンド号)に救出される。当時の日本は鎖国の時代であり、日本に行くことはできず、ハワイを経由し、万次郎はアメリカ(マサチューセッツ州フェアヘイヴン)に到達する。

救出から船旅、そしてアメリカ滞在を支えたのは、ハラウンド号のホイットフィールド船長であった。

鶴見俊輔は、ホイットフィールド船長宛てに書かれた万次郎の手紙(英文)をいくつか引用していて、命の恩人であり、保護者であり、主人でもあったホイットフィールド船長にたいしても、「おお友よ(Oh my friend)」と呼びかけた万次郎に光をあてながら、つぎのように書いている。


…万次郎が無人島とアメリカで学んだのは、人間の対等性ということだった。ホイットフィールドは、万次郎が白人にたいして卑屈にならなくてよいという信念をもつ上で、たいせつな役割をつとめた。
 万次郎をフェアヘイヴンにつれてきた時、ホイットフィールドは、かれを自分の所属している教会につれていった。万次郎を、その教会の日曜学校にかよわせるためである。ところがその教会は、有色人種の少年を白人の子といっしょに教育するわけにはゆかぬと断った。するとホイットフィールドは、すぐさまこの教会に行くのをやめてしまった。
 そして、万次郎を迎えることに同意したユニテリアン派の教会に新しく入会して、次の週から万次郎をつれて通いはじめた。

鶴見俊輔「中浜万次郎ー行動力にみちた海の男」、『旅と移動』黒川創編(河出文庫)所収


「無人島」での学びとしてふれられているのは、無人島ですごしていたとき、ひとり中ノ浜出身で最年少でもある万次郎は、宇佐出身の他の四人から軽んじられるという体験をしていたからである。

さらに同様な出来事をアメリカでも経験しつつも、しかし、人間の対等性を学ぶうえで、ホイットフィールドの存在が大きかったのだ。万次郎もすごいけれど、ホイットフィールドもすごい。このような人たちが世界で、「たいせつなこと」を行動で伝えつづけている。そんなことを思う。

ちなみに、新しく入会した教会で、万次郎は、ハラウンド号の所有者のひとりであったウォレン・デラノという船主の家の人びとと共に説教をきくことになる。デラノ家では、代々、万次郎のことが伝説の一部としてつたえられ、この話はウォレン・デラノの孫、フランクリン・デラノ・ローズヴェルトにも語られたのだという。後年、アメリカ大統領になったフランクリン・デラノ・ローズヴェルトは「万次郎は、私の少年時代の夢だった」と語ったのだという。


万次郎がフェアヘイヴンについたのが、1843年5月7日。そのときから、176年が経過しようとしている。

万次郎が無人島とアメリカで学んだ「人間の対等性」は、その後の世界でどのように生きられ、あるいは生きられてこなかったか/生きられていないのか、ということを思う。