「私」という存在。- 池上六郎がリスペクトする「最新ヴァージョン」としての「私」。 / by Jun Nakajima

思想家・武道家の内田樹と施術の池上六郎の著書『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年)。お二人の対話をもとにつくられ、2005年に刊行、それから、14年の歳月を経て文庫版が出された。

大学の頃から興味をもちつづけてきた「身体論」、さらには内田樹先生の「文庫版まえがき」に触発されて、この本を手にとった。ページをひらいたら止まらなくなって、一気に読んでしまった。

「一気に読んだ」からといって、すべてを理解したわけでもないし、あるいは内容が薄かったわけでもない(まったく逆である)。むしろ、「身体」を通して共感し、一気に読んだ、というのが、より正確だろう。


とにかく、この電子書籍のいろいろな箇所に、ハイライトをいれた。

いろいろとハイライトした箇所のひとつに、池上六郎先生がいくどか繰り返したことがある。それは、「私という存在」は祖先が創り出した「最新ヴァージョン」である、ということだ。

池上六郎はつぎのように書いている。


 私たちは両親から生れ、その両親もふた親から生れと、一代、二代と遡って行くと膨大な数の祖先が現れて来ます。例えば自分の両親にも両親が居て……と遡れば十代で1024人、二十代遡れば、52万4288人。わずか二十代遡っただけで50万人を超え、二十一代では100万人をはるかにこえる祖先が居たことになります。昔の一代の間隔は現代のそれより、かなり短いはずですから、二十代と言ってもわずか400年にも満たない程の間に私たちの祖先は100万人も居たことになります。…それ程の多くの祖先が居て今の私が存在しているのです。まさしく私たちは数えることすら出来ない祖先が創り出した最新ヴァージョンなわけです。…

内田樹・池上六郎『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年)


一代も途切れることなく、今の「私」につながっている。このすごさをリスペクトすることを、池上六郎はすすめている。ぼくもそう思う。

この「事実」はしかし、「頭」で考えれば誰もがわかることであるし、別に新しい発見ではない(でも、ほんとうに、ほんとうに「驚くべき」ことである)。学校などで、同じような思考実験をやってみたりして、この「事実」を知っている人も結構いるかもしれない。

けれども、「最新ヴァージョン」なんだと池上六郎が語るとき、そこには、生命体としての「私」へのゆるぎない信頼がよこたわっている。頭で知り、語っているだけではない。その信頼のなかで、池上六郎の施術がおこなわれ、なによりも、池上六郎自身の生が生きられている。

机上の「事実」だけでなく、あるいは思考実験による「事実」だけでなく、現実に、今この文章を書いている「ぼく」も、この文章を読んでくださっている「あなた」も、数えることすら出来ないほどの祖先が創り出した<最新ヴァージョンとしての存在>なのだ。

池上六郎の、このような「踏み込みの仕方」に、ぼくはひかれるのである。


ところで、現代社会において、ぼくたちは「個人」として生きている。「個」として、空間的にまた時間的に、(祖先を含めた)他者から切り離されている。それは、ひとつの「解放」でありながら、ときとして、存在の不安をひきおこすことがある。

<最新ヴァージョンの存在>であるということ自体は「個人」としての生きかたを妨げるものではないし、また、むしろ、「私」という存在を支えるものである。

<最新ヴァージョン>としての「私」という存在は、数えることすら出来ないほどの祖先たちと、想像すらおよばないほどの「縁」が重ねられてきた、生命のギフトである。

経験と年齢を重ねれば重なるほどに、ぼくは、そのようにしてここにいる「自分」という存在の奇跡を感じるようになってきている。