地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。 / by Jun Nakajima

最近の「宇宙」にまつわることがらの盛り上がりを見ながら、「宇宙開拓」という方向性が、たとえば地球の環境容量の限界性(環境・資源問題)を解決するための、ひとつの方向性であることは確かである。資源採掘も、移住先としての地球外惑星も、さらには観光資源(宇宙旅行!)としても、その方向に沿った仕方で追求されている。

ブルーオリジン社の月着陸船「Blue Moon」が発表されたところだが、すでにその方向にビジネスを構築してゆくことを想定したうえでの発表である。


ところで、この方向に地球の環境・資源問題を解決してゆくことは「正しい」ように見える。

グローバル化のプロセスは、ある側面において、環境・資源問題を地球内の「他の地域」に外部化することで解決してきたプロセスであるけれど、グローバル化の完成は、そこにどこまで行っても「地球」という球体であることをいっそう目に見える仕方で見せることになった。

その地点から見ると「外部」は「宇宙」となる。環境・資源問題を解決してゆく方向性として、こうして「宇宙」は必然的に現れることになる。

なお、「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性としては、多くの識者たちが語っているように、この外部の方向性に加え、人間の内側(遺伝子など)に向かっていく方向性もあるのだけれど、ここではそこには立ち入らない。


環境・資源問題を解決してゆく方向性として「宇宙」へと目が向けられる。だから、その方向性は「正しい」ように見える。

でも、そこで「正しい」としてしまうと、思考が止まってしまう。そのことを、ぼくは、見田宗介先生(社会学者)のことばに学んだ。


…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)


ここで「もしそのようなものであるならば」として指摘されているのは、「経済成長を無限につづける」という強迫観念、あるいは「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念のことである。「環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念」は、これらの強迫観念や固定観念から来ていると、見田宗介先生は書いている。

この指摘は、宇宙開拓の方向性の「正しさ」に対して、もう一段深い合理性の視点を加えている。

つまり、現代人の「考え方の前提」を明るみに出してしまうのである。どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。


宇宙に向かうのが「悪い」ということではない。ただし、「環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念」に支えられた、あるいは「経済成長を無限につづけるという強迫観念」に支えられた行動は、どこまでつづけたとしても、人間は幸福を見出すことはないのだということである。

宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」が求められている。ぼくも、今ではそう思う。そして、それは「人間自身の欲望の構造について明晰に知ること」で可能なのだということを、人は知る。