「自分」をバージョンアップさせてゆく。- たとえば、海外で暮らしてゆくなかで。 / by Jun Nakajima

「自分」であること。一貫性をもった振る舞いかたで、どこにいっても、どんなときも「自分」をもっていること。確固とした「自分」であること。そのような、不動で、確固とした、強い個人像のようなものが有効であり、また強く信じられることがある。

その有効性も感じながら、海外でそれなりにながく暮らしてきて思うのは、むしろ、これと逆のありかた、柔軟で、一見すると個がないように見える振る舞いの有効性である。


ぼくたちは、ある文化のなかで生まれ、育てられるなかで、その文化や環境に適合性のある仕方で教育され、そのように振る舞うことが期待され、ときには反感をもちながらも、期待に応えるように振る舞い、生きてゆく。

でも、国際化やグローバル化のなかに身を投じることでより明確にわかってくるのは、そのようなある文化のコードは、ぼく(たち)の人間性の一面にすぎないということである。ある文化で高く評価される一面が、他の文化にいけば、まったく評価されないということがある。「謙虚さ」などは、わかりやすい例かもしれない。日本で大事にされるある種の謙虚さが、異文化のなかで負の側面となって現れることにもなるのだ。

そんな状況にでくわすときは、自分の振る舞いの「自明性」に疑問がなげかけられるときでもある。これまで「A」と教えられ、Aの振る舞いを身体にきざんできたのが、あるときそれと反対の「Z」も大切で、環境や状況によっては有効なんだということを体験していく。

自分にとってデフォルト「A」の振る舞いに対して、反対の振る舞いかた「Z」を学んでゆく。Aを捨ててしまうのではなく、Aも残したままでZもとりこんでいく。AもZも自分の振る舞いかたとして、そのいわば人間の特質の<全体性>を獲得していく。

<全体性>を獲得した個人は、環境や状況に応じて、どちらにも柔軟に振る舞うことができる。そんなふうにして「自分」をつくっていく。そして、それは反対の振る舞いを排除しないという仕方で、<多様性>にひらかれていく仕方でもある。


柔軟に主体を変えてゆく構えは、あたかも、日本的な「主体」であるようにも見える。日本では、「主語」は置かれる立場などによって変わるし、また「主語」がその<場>に投じられて消えてしまうこともある。

けれども、ぼくが経験から思うのは、一度、その日本的な主体から<出ること>が大切なのだということである。つまり、確固とした「主体」を、いつも変わらない「主語」(I)で生きてみることである。

そのうえで、どちらも自由に行き来できるようなところに、バージョンアップさせてゆくことである。