「〜しておけばよかった」と思うときに。- <現在>を照らすことば。 / by Jun Nakajima

ひとはときに、「~しておけばよかった」と思うことがある。英語をもっと学んでおけばよかった、本をもっと読んでおけばよかった、勉強をもっとしておけばよかった、投資していればよかった、等々。それらをせずに失われた時間をみつめながら、後悔の念を抱いたりする。「もし~しておけば」今のじぶんは今とは全然ちがっていただろうにと思いながら。

その「もし」は、抽象化された時間の長さと抽象化された行動だけをとりだしてみれば、そのとおりかもしれない。けれども、具体的な現実においては「もし」のあとにやってくるであろう結果・成果はだれもわからないから、その正しさを証明することはできない。

でも、現代人は、この「抽象化された時間」を自明のことであるように生き、「~しておけばよかった」というように「時間」を「他の時間」と取りかえ可能のように考える。


 かせいだり、たくわえたり、節約したりすることの可能な「時間」、ーそこではたとえば、夜明けの時と午後の時、恋愛の時と別れの時、わたしの時とあのひとの時、そのような時それぞれの固有性、絶対性は捨象され、たとえば夜明けの30分を「浪費する」ことをやめたり恋愛の三時間を「節約」したりすることの可能な対象へと還元される。時間が他の時間のうちにたがいに等価をもちうるという実践的還元のうえに、一般化された商品交換のシステムとしての市民社会の総体は存立している。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)


真木悠介(社会学者)は、このように書いている。

「他の時間」とたがいに等価をみる思考によって、つまり「昔のあの現実の時間」を「他の(有効な)時間」に取ってかえることのできる思考によって、「~しておけばよかった」というように思い、「浪費する」ことなどに対して後悔の念をひとは抱く。

「時間」(または/あるいは「貨幣」)を見る特定の仕方のうえに、このような思考や感覚があらわれる。もちろん、そうでなくても、純粋に、過去の言動に対して後悔することは存在するだろうけれど、はるか昔の人たちは、あの「浪費した」時間に英語をもっと学んでおけばよかった、というようには思わなかっただろう。


「~しておけばよかった」という思考と感覚が必ずしも普遍のものではないことをふまえたうえで、「~しておけばよかった」と思うときは、「~」を<はじめるとき>である。ぼくはそう思う。

後悔するときではなく、今こそ<はじめるとき>である。むしろ、機が熟したのだと見ることができる。はじめるのが「遅いこと」はあっても、「遅すぎること」はない。

じぶんが生きる「物語」のなかでスポットライトがあたる「~」である。それは、学ぶことであるかもしれない、健康にかんすることであるかもしれない、人間関係のことであるかもしれない。あるいは、生きかたを変えてゆくときであるかもしれない。

「~しておけばよかった」は、過去に向かうことばではなく、現在を照らすことば、そして未来に向けられたことばである。