しあわせのかたちを他者におしつけない。- 他者に強いられるしあわせのかたちを否定する。 / by Jun Nakajima

しあわせのかたちをおしつけない。

このことは「わかっている」ようでいて、実はそれほどすんなりとできているわけではなかったりする。

他者(たとえば子ども)がしたいことを好きなようにやらせる。このことは「したいこと」(しあわせ)をおしつけていない、とも言えるけれど、「したいこと」が日々のなんでもないことならまだしも、それが社会的に見て大それたことなどであると、「ちょっと待った」の言葉や視線やプレッシャーを放ってしまうことがある。

つまり、生きかたの「大枠」のかたち(こう生きてゆけば「しあわせ」になる)をおしつけてしまっているわけだ。その大枠のなかであれば、言動は「自由」でいられるのだけれども、この大枠それ自体にふれるような、べつのしあわせのかたちがあらわれると、つい、「(それはよくないと)言いたくなる」のである。

この「言いたくなる」は、他者にたいするアドバイスのときにも、気をつけなければならない。ひとに「人生相談」をもちかけられたときなど、ついつい「言いたくなる」ことがあるものである。

他者の生きかたの「大枠」のかたちを理解しないままにアドバイスをするとき、じぶんがよしとする「しあわせのかたち」を(知らないままに)前提としてしまうのだ。


また、逆に、じぶんにとってのしあわせのかたちを生きることも、すんなりとできるものではなかったりする。そうしたいと思いつつ、一歩足を引いてしまうこともあるものである。

ニーチェの生涯を「ある困難な稜線を踏み渡ろうとする孤独な試み」であったとしながら、見田宗介(社会学者)は名著『社会学入門』(岩波新書、2006年)のなかで、ニーチェのこの困難な「二正面闘争」についてのバタイユの思考(バタイユ『至高性』)にふれている。

「二正面闘争」とは、第一に<失われた至高性を回復すること>、それから第二に<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>である。バタイユはそのように、ニーチェを捉える。

この二つ目の闘争、<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>が、しあわせ(至高のものごと)のかたちをおしつけられたときの戦線である。


じぶんのしあわせ(ほんとうのしあわせ)のかたちを生きながら、また、他者にたいしてそれを強いないこと、おしつけないこと。

「標準」の時代から、「多様性」の時代への移りかわりということは、このような生きかたやありかたと整合しやすいということである。

整合しやすいところでありながら、しかし、まだ「標準」の時代、生きかたやありかたの標準、さらには「人生という物語」の標準が強い引力をもっていた時代の思考や感覚や価値観がひきつづき「尾」をひいている。