ときおり、カザルスを聴く。- 心身を整え、「完成度」にじぶんを照らす。 / by Jun Nakajima

ときおり、カザルスの音楽を聴く。カザルスの奏でるバッハの組曲を、である。

だいぶまえに、ブログ「あらゆる「技術」に共通するものを追って。- 野口晴哉の整体とカザルスの音楽。」で触れたように、カザルスの音楽の「完成度」にじぶんを照らしてみたくなるのがひとつの理由である。

また、そのことともかかわっているのだと思うのだけれど、ぼくに(著書を通じて)カザルスの音楽を教えてくれた野口晴哉(1911-1976)の「整体」のように、心身が<整えられる>ようにも感じることがあるのである。

野口晴哉とカザルスについて触れた、上述のブログをここに再掲しておきたい。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

整体の創始者といわれる野口晴哉。野口晴哉の存在を知ったのは、いつだったか。すでに20年以上前になると思う。「自分を変える道ゆき」を探し求めていたときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。

野口晴哉は1976年に逝去したから、もちろん、著書等を通じての出会いである。当時は、ちくま文庫の『風邪の効用』などにふれたことを、記憶している。

2007年に、ぼくは香港に来て、人事労務のコンサルティングをしていくことになる。「コンサルティング」という領域は、学びと経験を深く積んでいけばいくほど、質が高まっていくようなところがある。

自分のコンサルティングを磨いていくなかで香港で、ふとしたことから、野口晴哉の書籍に「相談」したくなったことがあった。野口晴哉の『治療の書』である。野口晴哉が「治療」を捨てた書である。人間を丈夫にするためには「治療」では駄目だと、野口が「転回」して独自の道をつくっていくことの、画期的な書である。ぼくは、この書籍を日本から取り寄せた。

ぼくも、コンサルタントとして、問題が起きてからの「対処」よりも、「予防」により力を投じはじめていたときであったから、この書は、ぼくの心に響いた。

『治療の書』と共に、日本から取り寄せた野口晴哉の書の中に、『大絋小絋』がある。この書が、ぼくの心をつかんだ。この書は野口晴哉の草稿から取り出されたエッセイ集である。

このエッセイ集の最後に、「カザルスの音楽に”この道”をみがいて」というエッセイが添えられている。野口晴哉はクラシック音楽を愛していて、特に「カザルスのバッハ組曲のレコード」は、空襲による火事のときも持ち出すほどであったという。

野口は、整体指導にもクラシックのレコードを使用していた。理由の一つは、「自分の技術に時として迷いがでるから」と、野口は書いている。カザルスは、野口にとって「本物」であった。自分自身の技術を、この「本物」に負けないように磨いていくことを心がけていたという。

野口晴哉はこのように書いている。


人間の体癖を修正したり、個人に適った体の使い方を指導している私と音楽とは関係なさそうだが、技術というものには、どんな技術にも共通しているものがある。カザルスは完成している。私は未完成である。懸命に技術を磨いたが、五年たっても十年たってもカザルスが私にのしかかる。

野口晴哉『大絋小絋』(全生社)


当時、さっそく、ぼくはカザルスのバッハの組曲を手にいれて、聴いた。

海外に出るようになって、ぼくはクラシック音楽を聴くようになっていたが、カザルスのバッハの組曲の「完成度」はぼくにも大きくのしかかってきた。

それからというもの、ぼくは、このカザルスの音色に、何度も何度も戻っては、自分の「技術」の未完成に直面していた。

野口晴哉は、それから、カザルスを聴くことの中に、自分の「変化」を聴きとる。


…夢の中でも、カザルスは大きく、私は小さかった。それが始めてカザルスの音楽を聴いて以来、二十四年半で、カザルスが私にのしかからなくなった。

野口晴哉『大絋小絋』(全生社)


この文章を書きながら、久しぶりに、ぼくは、カザルスのバッハの組曲を聴いている。ぼくの中で「変化」はあるだろうかと。カザルスは依然として、ぼくに、大きくのしかかってくる。カザルスの「完成度」が、ぼくの「未完成度」を照らしている。

そして、それと同時に、ぼくの前に、野口晴哉という「巨人」が立っている。野口晴哉の文章が、ぼくにのしかかってきている。

野口晴哉は、カザルスが自分にのしかからなくなってからの感想として、「うれしいが張り合いがなくなった」と、綴っている。

ぼくは、野口晴哉とカザルス、そして野口晴哉の存在を教えてくれた見田宗介という「巨人たち」を前に、「張り合い」を、自身にめぐらしている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


いまでも、カザルスも、野口晴哉も、ぼくに「大きくのしかかってくる」のであるけれど、カザルスの音楽の「完成度」にじぶんを照らしてみると、完成度に向かっているのを感じるというよりも、この「完成度」自体のぼくの理解が変わってきたように感じる。

こうして、ぼくは、ときおりカザルスを聴く。