「生くる力をのみ見る也」(野口晴哉)。- あらゆる分野・領域における「治療する者」の心得として。 / by Jun Nakajima

整体を通じて体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)が、「治療する者」の心得のようなものとして、つぎのように書いている。


 治療するの人 相手に不幸を見ず 悲しみを見ず 病を見ず。たゞ健康なる生くる力をのみ見る也。…

野口晴哉『治療の書』(全生社、1966年)


「治療生活三十年の私の信念の書」であると、野口晴哉自身が位置づける『治療の書』。そののちに野口晴哉は「治療」を捨てることになるのだが、それまでの治療生活のなかで「変わらなかったこと」を、売るつもりも、誰に理解されようともせず、ただただ、じぶん自身のために書き綴った文章のなかに、この、「治療する者」の章が書かれている。

ここでの「治療」ということは、整体という領域に限定されるものでなく、おおよそ、この世界で「治療」、つまり問題解決・課題解決にたずさわる人たち(と言えば、ありとあらゆる仕事に就く人たち、日々の問題に向かう人たち)にまでいたる射程をもちえている。少なくとも、ぼくはそのようにこの名著を「読んで」いる。

それは、たとえば、コンサルティングなどの仕事にも通じるところがある。

「相手」、つまり相談にこられる方々の「問題・課題」を、論理的な仕方で理解することに加えて、しかし、それらをのりこえてゆくうえで、不幸や悲しみや病などに焦点をあてるのではなく、ただ、「生くる力をのみ」見る。

どこに<生くる力>が宿り、どのように<生くる力>がひらかれ、どんな仕方で<生くる力>が発揮されてゆくのか。「問題をなくす」というよりも、<生くる力>によって問題の土台さえも解体し、課題をのりこえてゆく<肯定の力>である。

けれども、<生くる力をのみ見る>ことは、実際にはむつかしい。問題に直面するとき、はじめの関心は「不幸をとりのぞく」、「悲しみをとりのぞく」、それから「病をとりのぞく」ことへと焦点が向けられるからである。いわば、「否定の否定」という仕方である。

「否定の否定」という仕方は、どこまでいっても「否定」ということになりかねない。

そのように問われる土台自体をくずしてゆく力として、<生くる力をのみ見る也>と野口晴哉が書いた、肯定の力はある。