「新しさ」ということ。- 香港の「新しい」店舗に日々出会いながら。 / by Jun Nakajima

ここ香港では、店舗の移り変わりが圧倒的に速い。新しい店舗がオープンする。店の前に花がならび、「新しさ」の爽快さと開放性が人びとの足をとめる。

同じ場所に長く店をかまえていることももちろんあるけれど、その場合はその場合で、ある程度の期間ののちに「改装」され、心機一転のオープンとなる。新店舗や改装の回転速度が圧倒的なのである。この速さは、これまで住んできた東京、ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモールでは見ることも、感じることもなかったものである。この「速さ」のなかに、香港の経済社会の本質がある。

それにしても、新しい店舗を至るところに目にし、やはり気になって立ち寄ったりしながら、「新しさ」ということを考えさせられる。

新しい店舗には、上述したように爽快さと開放性があり、お店の人たちも行き交う人たちも、どこかエネルギーに満ちているように感じる。エキサイトメントがある。でも、「新しさ」ということのなかに、「新しさ」の経験のなかに、ぼくたちは、ほんとうは何を求めているのだろうか。


見田宗介(社会学者)は、1980年代の日本の「現代社会」に身をおきながら、つぎのように書いていた。


…前近代の文明の洗練されたゆきづまりである封建社会が、「古さ」の神話で共同体の人びとを窒息させてきたこととおなじに、近代文明の洗練されたゆきづまりである現代社会は、「新しさ」の神話によって市民社会の人びとを窒息させる。…

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫


「新しさ」の神話につかれてきた社会ということは、よくわかる。1980年代から1990年代にかけて日本の社会に生きながら、そのときのことを振りかえってみると、確かに「新しさ」への衝動につかれているように感じるのである。

見田宗介は、この文章、「「新しさ」からの解放」と題された論壇時評を、つぎのように書き終えている。


 <伝統>という名の衣装を脱ぎすてたときに人間は、ひとつの解放を手に入れたはずだ。<前衛>という名のモード、つねにより「新しいもの」でありつづけなければならぬという強迫観念を脱ぎすてるときに、わたしたちは、もうひとつの巨大な自由を手にいれるだろう。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫


「新しさ」が良い・悪いということではない。それは「ひとつの解放」である(あった)のだけれど、「つねにより「新しいもの」でありつづけなければならぬという強迫観念」は、逆に人を不自由にさせる。ぼくもそう思う。

時代はその時間の針をすすめながら、<伝統>からも、また<新しいもの>への強迫観念からも自由であろうとする動きが起きはじめている。


冒頭に挙げた香港の店舗の「新しさ」については、別の観点も含めて見てゆく必要があると思うけれど、日々いろいろなところで「新しさ」に出会いながら、ぼくは考えてしまうのである。「新しさ」に何を、ぼく(たち)はほんとうに求めているのだろうか、と。