深海の底の「記憶」。- 高校サッカー選手権の映像で「記憶」が立ち上がる。 / by Jun Nakajima

 「記憶」ということをかんがえる。ぼくは小さいころの記憶があまりない。とは言っても、どのくらい記憶があれば「ある」と言えるのかぼくはよくわからないのだけれど、いろいろなひとたちが小さいころのことを語るのを聞いていると、それに相当する記憶を、ぼくは憶い出すことができない。

 けれども、憶い出すことができないということは、「記憶にない」ということと必ずしも同じではない。意識と意識下をつなぐ系がほつれていて、系をひっぱることができないことだってある。またそもそも記憶につながるような意識を現時点で意識していないこともある。でも、ふとしたときに、意識下にうもれていた記憶があがってくることがある。

 高校サッカー選手権の決勝戦の映像、それも20年以上まえもの映像をYouTubeで見ていたときに、そんな鮮烈な経験をぼくはした。

 2020年の全国高校サッカー選手権は静岡学園が見事なかたちで優勝を果たした。その映像を見たことで、YouTubeのアルゴリズムが他の「高校サッカー選手権」の映像をひっぱりだしてきたようだ。

 決勝戦のハイライト版。なつかしい映像、なつかしい選手たち(のちにプロになった人たちが多数存在する)を見る。映像は「ハイライト」を映し出し、選手たちが果敢にゴールを目指すところをとりあげる。

 ぼくは静岡県(浜松)に住んでいたから、当然のごとく「静岡代表」を応援していて、そのときは東海第一高校が決勝戦を戦っていた。フォワードのサントス選手がフリーキックを蹴ろうとする映像が映し出される。

 ぼくは「あっ」と思う。このコーナーキックで「ゴールが決まる」と思ったのだ。「あっ」というのは予測ではなく、記憶であった。

 サントス選手がフリーキックを蹴る。ボールは見事な仕方でゴールにすいこまれていった。

 ゴールを決めたサントス選手の喜ぶ映像を見ながら、ぼくはこの場面を確かに覚えているのだと思った。この20年ほど、この場面を憶い出したことなんて一度もなかった。けれども、この「場面」はぼくの記憶のなかに、たしかにあったのである。

 もちろんこの場面は、記憶に残るようなシーンであった。ぼくのそのときの「喜びの感情」が記憶を助けたのかもしれない。また、じっさいにテレビで観戦していたときだけでなく、そのあとに観たニュースでのシーンなども重なって、記憶に残るシーンとなったのかもしれない。それでも、記憶というものの奥深さとすごさを、ぼくは感じてやまない。

 そんな体験もあってか、ぼくの意識下のさまざまな仕方で堆積しているであろう「記憶」を発掘するため、小さいときのことを文章で書き始めている。書き始めて思ったのは、当初思っていた以上に、ぼくの記憶の深海の底に記憶がただよっていることだ。もちろん、「記憶」は大人になるにつれ、さまざまな新しい解釈や変更や削除の光があてられているのではあろうけれど、それでも、深海の暗闇の底にただよっている。